第14話

 『警官ふりきり逃走 はねられて死亡 リオ五輪強化指定選手』

 今朝、新聞の地方版に記事が大きく載った。惣田ひかると印字された氏名は、間違いなく惣田のものだった。

 惣田は数日前、知人女性の部屋に押し入りわいせつ行為を行う事件を起こしていた。その捜査で部屋を訪れた警察官達の隙を突いて逃走、道路へ飛び出したところをトラックにはねられたらしい。

 一般人だったら名前まで出なかったかもしれないが、惣田はその枠には入れなかったのだろう。元オリンピック強化指定選手の凋落を、マスコミが見逃すわけがない。

――昨日の提案を先生にしてみるから、警察に連絡するのだけは待って。

 新聞を受け取った吉継は青ざめた顔で記事を確かめたあと、朝食に手をつけないまま自室へ消えた。

 寺本は対処療法を約束したらしいが、やはり惣田は間に合わなかったのだろう。スマートスピーカーが音声を拾ったあの時点でもう、死んでいたのだ。まあ常識的に考えたら、僧侶でも神主でもない寺本に何かできたとは思えない。

 現実的な対処として、昼休憩に公的機関へ相談の電話をかけた。「サブリミナルCDを聞き始めてから幻覚がある」と訴えた私へのアドバイスは「CDを聴かない」「精神科に相談してみる」と、至極まっとうで納得のいくものだった。このところ斜め上の対応ばかりされていたから、当たり前のありがたさを噛み締めてしまった。

 ただ早速当たってみた市内の精神科は、土曜の空きがほとんどなかった。ご時世か、繁盛しているのだろう。急患として診てもらうべきかと電話口で症状を相談したが、緊急性はないと判断されて通常受診となった。どうにか取れた予約は二十六日、今年最後の土曜日だ。二十日も聴かなければ回復しそうな気はするが、楽観的すぎるかもしれない。二十日で全てが片付くなんて、今はとても思えなかった。


「大丈夫ですか」

 差し込まれた声に、顔を上げる。座卓の向かいで心配そうに窺う朝岡に、ごめん、と小さく詫びた。

「問題が問題だから、現実的な手段がどこまで通じるのかと思って。これからどんなに手を尽くしたところで、岸川さんと惣田さんは戻ってこないしね。セミナーにBRPを導入するって言った時に、もっと本気で止めれば良かった。いやな予感はしてたのに」

「先輩のせいじゃないですよ。俺達が成功を貪欲に求めるあまり、『違う行動』『新しい考え』に固執しすぎたんです。先生に『これまでと一緒じゃ成功しない、常識的な考えや反応は捨てなさい』って言われたのを、ろくに考えもせず鵜呑みにしてました。一方的な洗脳なら腹が立ちますけど、俺達もそれを望んだんです」

 吉継は約束を守って、現在の状況を朝岡に伝えていた。セミナーは一時中断、再開の目処が立ったら連絡すると詫びたらしい。ようやく誠意のある対応をしてくれたが、元凶はBRPではなく私が伝播した呪いで確定していた。

「先輩がCDを聴いたのは不可抗力ですけど、俺は積極的に聴いてました。彼らも、多分。ポジティブな状態を保つことに必死で、疑いが湧いたらポジティブな言葉でひたすら打ち消してました。ネガティブな感情を持つのが、怖くなってて」

 朝岡は自嘲交じりに零して視線を伏せる。張り出した眉骨が、目元に影を落とした。スーツ姿も熟れて、着られている風ではない。昔は爽やかな剣道少年だったが、今は精悍な顔つきになった。吉継は髭と髪以外はほぼ変わらないから、目に見える成長が少し羨ましい。

「それを是と教えられてたんだから、当然だよ。真面目で必死なところに漬け込んだ先生と、それを勧めた吉継と止められなかった私に責任があるの。本当は、夫婦揃って彼らのご遺族に土下座しに行くべきなんだけど」

 しかしそれも吉継が「父さん達に迷惑が」と許さない。確かに、杼機の名で詫びてしまえばややこしいことにはなるだろう。でも、それを含めての誠意ではないのか。

「本当に、ごめんね。朝岡くんは絶対に守るから」

「俺はこのとおり元気ですから、大丈夫ですよ」

 朝岡は手元の徳利を私へ向けつつ、救われる言葉を与えた。今の私には、何より沁みる言葉だ。昨日は心配したが、今日は言葉どおり元気に見える。無事で本当に良かった。

「先生に思うところはありますけど、杼機先輩が警察に言えない事情は理解できますしね」

「本当は、通報すべきだと思うんだけど」

 苦笑しつつ、残った酒を飲み干して猪口を差し出す。

 本当は警察に検査でも鑑定でもなんでもして、BRPやあのCDと彼らの死の因果関係を徹底的に洗い出してもらいたい。呪殺なら不能犯だが、サブリミナル効果が幻覚を引き起こすことを科学的に証明できさえすれば、そっちは立件できるのではないだろうか。

「それは、やめた方がいいです」

 引き止める声に、満たされた猪口から視線を上げた。

「杼機先輩は、先輩を守るつもりがないみたいですから。ただ、もし通報されるんなら俺に相談してください。俺が協力します」

 「そんなことはない」とは言い返せない現状に小さく頷き、徳利を受け取る。陶器の肌を温める熱が、指先に伝わっていく。

 差し出しされた猪口に酒を注ぎつつ、軽くなった胸の内に感謝する。言葉一つで、心境は大きく変わる。吉継の言葉なら、もっと救われていただろう。

「ありがとう。でも、その言葉だけで十分だよ」

「変わりませんね、先輩は」

「変わるよーもう三十一だよー」

「変わってませんよ、身を挺してでも守ってくれようとするところは」

 朝岡は少し目を細めたあと、ヒラメの刺身を肴に猪口を口へ運んだ。地産地消推進店として県の認定を受けた居酒屋には、おいしい料理と地酒が並ぶ。チェーン店より少し値は張るが、安心して食べられる店だ。

「先輩が後輩を守るのは当然でしょ」

「当然じゃないですよ。あいつらと飲む時は未だ話題に出ますし、正月に実家帰ると親父はその話ばっかしてます」

「もう忘れてよ、恥ずかしい」

 苦笑する背後で、女性の声がする。襖を引いたうら若い店員は、明るい声で挨拶しながら追加の料理を並べた。

 忘年会シーズンの居酒屋は賑わっていて、周りからは酔いの混じった笑い声が響く。頼んだメニューも、忘年会に乗っかった魚介鍋コースだ。一年中獣肉を食べている私には、貴重な海の幸でもある。

「あの時は本当に、人生詰んだと思いました。コンビニの店長も俺達だって言うし」

「あれはほんと、ひどかったよね」

 苦笑しつつ、鍋の具材に箸を向けた。

 もう十三年も前になるのか。高三の五月、当時二年生部員だった朝岡とほか二人がコンビニ脇で喫煙して店長に捕まった。

 といっても、結論から言えば本人達ではなかった。捕まった連中が、朝岡達の名前を騙っていたのだ。ただ三人の中に少しやんちゃな子がいたこともあって、学校側は彼らの訴えを退けた。コンビニの店長もいい加減で、顔を見せに行っても別人だとは言わなかったらしい。

 最初は彼らを信じていた部内も部活停止が言い渡された途端、荒れ始めた。部活停止期間は一ヶ月、総体への参加が不可能になったからだ。更に顧問が全国大会出場しか頭にない奴だったせいで、彼らは「罪を認めず反省もしない最低のクズ」の扱いを受けるようになってしまった。でも私は、無実を訴える彼らが嘘をついているとは思えなかった。特に警察官を志す朝岡が自ら道を危うくする道を選ぶとは、どうしても信じられなかったのだ。

 だから停学処分を受けた彼らや保護者と協力して当日の情報を集め、無実の証拠を整えて学校へ提出した。しかし証拠はろくに確かめられることなく、「コンビニ店長が彼らだと言っている」「もうすんだ話」と突き返された。予想できた対応に、彼らと共に交番へ向かった。

 警察は民事不介入が鉄則だが、犯人達はコンビニの店長に要求されて『自分達は店の横でタバコを吸いました。』の書面に朝岡達の名前で署名していた。動かすだけの理由はあった。

 ほどなくコンビニの防犯カメラ映像で事実が確認され、彼らはようやく無罪を勝ち取った。名前を騙ったのは他校の剣道部の奴らで、目的は部停止による総体不参加だった。

 ただ、この話はこれで終わりではない。

「俺、先輩のあの右ストレートは死ぬまで忘れないと思います。めちゃくちゃ格好良くて、マジでしびれました」

「一番忘れて欲しいとこなんだけど」

 鍋に入れた具材を整え、灰汁を掬う。今はすっかり元通りだが、あの時は箸すらうまく使えないほど腫れ上がった。

――どうせ、杼機の親に頼んで金と権力で捻じ曲げてもらったんだろ。

 突きつけた事実を前に、顧問は吐き捨てるように言った。一瞬頭の中が白くなって、気づいたら殴っていた。人を殴ったのは、後にも先にもあの一回きりだ。

 今度は私が処分を受ける番だったが、ネタが杼機なだけに学校が怯んだのだろう。最終的に、私が退部することで折り合いがついた。総体前の退部だったものの、悔いはなかった。顧問の方は翌年、遠方の学校事務室へ異動した。

「俺、心配なんです」

 切り出した朝岡に、残り少なくなった徳利を向ける。最後の一滴まで注ぎ終えて、傍らに置いた。

「杼機先輩も先生も、先輩に責任を押し付けてるじゃないですか。明らかな証拠がない以上は、何が真実なのか分からないのに」

 朝岡は表情を曇らせたあと、猪口を傾ける。

「一番味方をすべき人が疑ってるって、ちょっと理解できません」

「今は心の中でいろんなものと戦ってる最中だからね。でも、最後には戻ってきてくれるって信じてるよ」

 差し出されたメニューを受け取り、開く。次は梅酒ロックにしよう。

「好きなんですね」

「好きじゃないと、杼機の嫁なんてやってられないよ。息してるだけで妬まれるのに」

 メニューを返して梅酒ロックを所望し、一旦トイレに立った。

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