第3話

 吉継からの着信が携帯を揺らしたのは、木曜日の昼前だった。仕事中の通話は喫緊の用件のみでそれ以外はメッセージと決めているから、余程のことがあったのだろう。ただ、すぐには出られないこともある。

 課長との打ち合わせを終えて席に戻ると、メッセージが溜まっていた。電話に出られなかったから、メッセージにしたのだろう。

 『岸川さんが亡くなった』

 『通夜と葬式に行ってくる』

 『香典って百万でいいのかな』

 訃報への驚きが、最後のメッセージに上書きされる。慌てて腰を上げ、階段へ向かいながら通話を選んだ。会社勤めの経験がない吉継は、自分で香典を払ったことがない。

 すぐに途切れた呼び出し音のあと、吉継は久し振りに情けない声を出した。

「どうしよう、岸川さんが亡くなったって」

「大丈夫、落ち着いて。ご病気? 事故なの?」

 宥めつつ、階段の踊り場で足を止める。邪魔にならないよう、壁際に寄った。

「事故だって。昨日の夜、高速でスピード出しすぎてカーブを曲がりきれずに擁壁に激突したみたい。ネットニュースでもトップに上がってた」

 交通事故、か。岸川は元レーサーだと聞いている。投資の目的と夢は「未来のレーサーを育てる塾を作りたい」だったはずだ。腕を過信してしまったのか。妻も、確か幼い子供もいたはずなのに。胸を占めていく重苦しい痛みに、息を吐く。

「奥さんから連絡があって、今日の六時半から通夜で明日葬式だって。向こうで一泊して、両方出るよ」

「分かった。それで、香典は三万でいいからね。香典袋と筆ペンはクローゼットの、袱紗や数珠の引き出しに入れてあるから。喪服一式はクローゼットで黒いカバーを掛けてある」

 不幸を想定して準備しておくのは快くなかったが、結果としては助かった。書道の腕は確かだから、表書きは問題ないだろう。

「少なくて失礼だと思われないかな」

「香典の返礼は半返しが基本で、高額でも三分の一程度を返すのがマナーなの。百万も出したら三十万くらいのものを返さなきゃいけなくなるでしょ。親族でもないのに高額な香典を出せば、ご遺族に余計な負担を掛けてしまうの。金額が気になるなら、『お返しはいりません』って言っておけば十分だよ」

 予想どおり不安そうな吉継に、市井の常識を説いて聞かせる。付き合いの期間で言えば一万円でも良さそうなところを、関係性から三万に引き上げたくらいだ。これでも、もしかしたら負担だと思われるかもしれない。香典や祝儀は難しい。

 ありがとう、と素直な礼で終えた通話に視線を伏せる。私を頼るのは、もうこんな時だけか。湧いた一抹の寂しさを抑えて、長い息を吐いた。

 吉継が仮想通貨で巨額の富を手にしたのは、三年前の今頃だった。工学部の博士課程を終えポスドクになった一年目で、私は第三セクターの鉄道会社へ出向して三年目、次年度に本庁へ戻れたら結婚する予定で婚約していた。

 吉継は大学時代から、夢である「人が鳥のように翼を羽ばたかせて飛ぶ道具」の研究を続けていた。しかしポスドクになってからは雑務に追われて自分の研究に没頭できない焦燥と、教授と学生の板挟みで身動きが取れない窮屈さに悩んでいた。私は話を聞くことくらいしかできなかったが、研究にしがみつく姿を好ましく思い応援していた。

 それまでの吉継は、何かに必死になった経験がなかった。それなりに成績は良く運動もできたが、そこ止まりだった。何がなくとも満たされているから、勝つ意義や上を目指す理由を見出だせなかったのだろう。今あるもの、与えられたものだけで十分に満足できる人だった。

 私はそこが好きで一緒にいたが、まるで歯痒さを感じないわけではなかった。少し努力をすれば手に入るかもしれないものでも、吉継は簡単に諦めて手放してしまう。書道もピアノも、クレー射撃はワールドカップへ出るほどの腕前だったのに、「次に期待」されるや否や競技から引退して、趣味と害獣駆除へとシフト変更してしまった。

 そんな状況だったから、「どうしても研究を続けたい」と初めて気を吐く吉継が、本当に嬉しかったのだ。才能だけでは手に入れられないものを得ようともがく姿は、これまでになく格好良かった。付き合うどころか結婚すら予定調和として扱われる関係の中で、初めてはっきりと好意を実感した瞬間でもあった。

 でも喜びは、長くは続かなかった。

――僕、大学を辞めるよ。僕の歩むべき道は研究なんかじゃない。投資だ。

 売り抜けた翌年の十月、結婚から二週間も経たないうちに吉継は大学を辞めた。昔からの夢を諦めようとしていること以外なんの問題もない退職に、反対したのは私だけだった。

 でも退職した吉継は、以前の吉継と同じではなかった。飛び抜けた投資の成功と退職による夢の挫折の落差が多分、性質に歪を生じさせてしまったのだ。

 以来まるで自分探しをするかのように自己啓発本やビジネス書を読み漁り、怪しげなセミナーや勉強会に足を運び続けた。宇宙だの波動だの潜在意識だのと疑似科学にまで足を突っ込んで、もはや何者になりたいのか妻の私にも分からない。

 今年に入ってからは市内で整骨院を営む寺本てらもとの教えに心酔していて、セミナーの日にはメンバーを引き連れて向かうほどになっていた。

 ブレイン……何プログラムだったか。吉継はBRPと呼んでいる。脳に刷り込まれている成功を阻む思考回路を成功に繋がるものに書き換えてくれるメソッド、らしい。私も吉継にCDを勧められているが、恐ろしくて一度も聴いたことはない。

 不意の声に視線を上げると、上の階から作業服の上着を羽織った男性が二人、大きな声で愚痴りながら下りて来るのが見えた。

 なんで残渣ざんさ爆発させてんだよバカだろ、まあ優良じゃないですし、と交わされる会話を聞きつつ踊り場を出る。環境部の人達らしいが、あんな相手と働くのは大変だろう。仕事のしやすさは、組む人間でかなり変わってしまう。私は今のところ、恵まれていた。

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