第2話
アウトドアラウンジのドアを開けた途端、肌に触れた空気に小さく震える。向こうでは、暖かそうな上着を着込んだ四人がバーベキューコンロに手をかざしていた。季節によっては家族で溢れるスペースも、見る限り彼らだけだ。まあ十一月も明日で終わるこの時期に、率先してバーベキューを楽しむ人達は少ないだろう。陽光は穏やかにラウンジを照らしているが、今朝の気温はマイナス三度、最高気温は八度だと言っていた。
「お待たせしました」
掛けた声に気づいた
「すみません。いつもありがとうございます」
最初に頭を下げたのは
朝岡は三十歳、私達の高校時代の後輩で市内の印刷会社に勤めている。岸川は確か三十六歳、隣県の陸運局で働く整備士だ。惣田は二十七歳、県西部のパーソナルジムでジムトレーナーとして働いているらしい。
年齢も職業も居住地もばらばらな彼らが集った理由は一つ、吉継が開いた投資サロンの第一期メンバーだからだ。
九月から始めて、今日で八回目か。五十人弱の応募者の中から書類選考とオンライン面接を経て選んだ彼らに、吉継は無料で投資を教えている。もちろん、この昼食もサービスだ。
「はい、これ。焼けばいいようにしてあるから」
「ありがとう、
黒いダウンジャケットに身を包んだ吉継が、笑顔で保冷バッグを受け取る。パーマの掛かった髪は私より長く、髭の生えた細い顎先で揺れた。似合わないわけではないが、正直なところ胡散臭く見えて好きではない。二年前までは、こざっぱりとしたショートヘアで髭もなかった。大学を退職して投資家の看板を掲げた時から、アーティストとインテリのイメージを足して二で割ったような見てくれを目指すようになってしまった。無彩色しか着なくなったのは、「服で悩む時間が無駄だから」らしい。誰かの受け売りだろうが、多分そんな話も彼らにはしているのだろう。
じゃあ、と頭を下げて踵を返す。ほんといい奥さんですよね、と聞こえた声に苦笑して、閑散としたラウンジをロビーへ向かった。
別にそんなものではない、街へ出ればその他大勢に埋没する一市民だ。ただ彼らは『妻は成功するまでの自分を支え続けてくれた最大の理解者』が刷り込まれている人達だから、特別に見えてしまうのだろう。いわば、「信者」だ。
ブログのプロフィールによると、現在の吉継の総資産額は約七十億円。大学時代から投資を始め、インデックス投資を軸に外貨や金、仮想通貨取引などで利益を築き上げてきたらしい。投資家としては、『仮想通貨の黎明期に価値を見出し、バブルの最盛期に売り抜けて巨額の富を手に入れた采配を評価されている』とあった。
ただ実際のところ、その資産額にはからくりがある。投資に天賦の才があることや資産を大きく増やしたことは事実だろうが、吉継が一円を七十億円にしたわけではないのだ。
私と吉継は市内から車で四十分程南下した先、県境近くにある
私の実家はそこで慎ましやかに暮らす公務員一家だが、吉継の実家である
また町政のみならず、県政にも多くの人材を輩出し続ける名門でもある。現沢瀉町長も、吉継の祖父だ。元県議会議員の義父は、次の知事選へ出馬するのがほぼ確定事項らしい。そして現在義父の秘書をしている義兄の
吉継はそこの次男で、一般企業への就職どころかアルバイトすらしたことのない「生粋のお坊ちゃん」だ。そんな人の初期投資額が、一年後の生活に不安を感じる市井の人々と同じわけがない。仮想通貨だって、確か最初から億単位で購入していたはずだ。資本金も金銭感覚も、まるで違う。
上品な音を鳴らして到着したエレベーターから、色鮮やかなダウンジャケットを着た子供達が勢いよく飛び出す。驚いた私に、ごめんなさい、と謝りながら玄関へと駆けて行った。兄妹か、友達か。
――あぶないから、てをつなごう。
脳裏に浮かぶ記憶は、二十数年は前のものだ。思わず漏れた苦笑を抑え、美しく磨かれた箱に乗り込み最上階のボタンを押した。
壁に凭れ、曇りのない鏡を眺める。本当は休みくらい素顔で過ごしたいが、人を迎える以上そういうわけにはいかない。爪の先でまつげのカールを軽く持ち上げ、溜め息をついた。
黒々とした一文字眉、幅のある二重、骨を感じる鼻筋。パーツの主張激しい男顔のせいで、少しのやりすぎが大惨事を招く。メイクは苦手だし、好きでもない。今は杼機の嫁として抜かりなく装っているが、本来の私は手入れが楽だからとショートヘアを選ぶ人間だ。
そろそろ髪を伸ばしたら、と吉継に言われたのは先月、三十一歳になった日だった。
ずっと、同じ速度で同じ向きへと歩いていた。幼い頃は親友として高校時代からは恋人として、助け合い支え合って生きてきたはずだった。でも今はもう、隣にすらいない気がする。
あの売り抜けが、吉継を変えてしまった。あれさえなければ、今もきっと。
――大きくなったら、人が鳥みたいに飛べる道具を発明したいんだ。
視線を落とし、冷たい壁に凭れる。吉継が決めた道なら支えると決めたはずなのに、サロンの日はどうしても揺れてしまう。タイルに落ちる薄い影を眺めて、溜め息をついた。
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