絵画の神様

夢藤 楠之助

本編

 僕たちは、もしかしたら絵画の神様の奴隷なのかもしれない。時々スケッチブックに向かっていると、そんな気持ちに苛まれる。

スズヤはただひたすらに三菱のB鉛筆でアタリを追いかけていた。目の前にはお世辞にも容姿端麗ようしたんれいとは言えないアカリが、妖艶ようえんなポーズでモデル台の上に横たわっている。

彼女の豪奢ごうしゃなうすピンクの生理用パンツからはみ出る、白色のナプキンと前腿まえももの肉。重力に重みを与えられた、まだ育ちきっていないながらも豊かな乳房の流れ。なだらかな丘陵きゅうりょうを二つに分かったような、女性らしさを象徴する臀部でんぶの妖美な脂肪。美術室の大きな窓から差し込む夕陽のためか、彼女の陶器のような肌には、橙色のグロー効果がかかっていた。

はっきり言って、顔がどうでも良くなるくらい、豊潤で抜ける体だった。

それをスズヤはおどおどしながら、丁寧にスケッチブックの上に再現していく。

――なるべく、モデルの持つポテンシャルを落としてはいけない。それが美術を志す者としての最低限のしきたりである――

なぜかスズヤの全身からは汗が噴き出していた。

何時間が経っただろうか。無我夢中になって鉛筆を滑らせていたら突然、歯の間に何かが挟まったかのような違和感を感じた。

――またか――

スズヤは鉛筆を右耳に挟むと、顔を両手で覆うようにして唸った。

すでにアタリは終わり、細かな面を追う段階まで来ていたが、ここで妙な吐き気を覚えた。

「くそっ、画が瓦解している――」

スズヤはその覆った手で顔面の硬直した檜皮ひわだを蹂躙した。乾燥した皮膚からは、パリパリと圧に耐えられずに割れる音が聞こえた気がした。

胸はつちで打たれたように、どんどん窮屈な痛みを訴えはじめる。スズヤは呼吸を荒らげながらスケッチブックの上に目を滑らせた。

「どこだ、ほつれは」

絵画の神様、スポーツの神様、映画の神様、豊作の神様――とにかく日本人は実体のない、抽象的なものにすら神を宿そうとするが、正直スズヤは、その神様たちとはこうして喧嘩ばかりしているから、嫌悪と憎悪を覚えている。

皆よく、こんな気分屋で勝手なやつに願掛けができるものだ。そんなのに惑わされるくらいなら、己の実力を磨いて掴み取れるもん全部掴み取ってやる、そうスズヤは思っていた。

スズヤの口から低い唸り声が漏れた。

「僕の勝手にさせておけば、お前も――」

スズヤは静かに怒り、顔を上げて絵画の神に言った。

「いいか、お前がお前のために描くんじゃない。僕が、僕のために描くんだ。

だから、お前は僕のことを見守るだけでいい。子育ての基本は子供を導くことじゃない、見守ることだ。そうだろう?

分かったら引っ込んでろ、クソ野郎」

そうだ、引っ込んでろ。自分好みじゃない絵が出来上がってしまった途端、お前はそうやって逃げ出すんだ。神め、自分で描いたくせに。

悪口が言い足りなかったのか、スズヤは握りこぶしをスケッチブックに打ち付け、さらに吠える。

「もうお前の奴隷はこりごりなんだよ――いい加減自分に、好きなように描かせてくれよ――」

その覇気に根気負けしたのか、神はスズヤと自分とを繋ぎとめていたらしい鎖を解放した。少し両目と右手のフットワークが軽くなった気がした。

――モデルは申し分ないんだ、もう少し集中すれば、今度こそ納得のいくものが――

いよいよ瓦解の原因になっていた“ほつれ”を見つけたスズヤは、練り消しで薄く消し、それを参考にして、面から陰影へと再び描き込んでいった。

――周辺の脂肪のたれ具合も観察して、広い視野で、破綻がないように――

一層集中して、それこそ眼球が痙攣けいれんして視界が小刻みに揺れてしまうほどに、スズヤはモデル台にたたずむ彼女がつくる“リアル”を追随した。

ところがその結果は残念なものだった。先ほどよりも、ふくらはぎと、直したはずの腿の筋肉の接続に違和感がある。

――陰影が濃すぎるのだろうか――

またしても、手を止めなければならない状況に陥ってしまった。

ふと、スズヤは回想する。

ここまで来るのにどのくらい練り消しを手に持っただろうか、

どのくらいの黒鉛が紙の上で散っていっただろうか――

はっきり言ってもうたくさんだった。

スケッチブックの日焼けた色とそこに乗せていった黒鉛の粒子が、カオス模様を描きながら、スズヤの股下に出現した地獄へと吸い込まれていった。

それを見た絵画の神が、自分の頭上でキセルをふかしながら嘲笑っているような気がした。

ほら、お前一人だともっと酷いじゃないか。やっぱり私がいないと何もできないだろう。ざまあみろ。

そう、鼻につくような言葉の槍を、僕の手の及ばない所から反撃される心配もなく、一方的に差し向けてくる。

それに対して後ずさるしかない僕が、嘆いても嘆いても足りないほどに情けない。スズヤは自分のふがいなさに目を伏せ、少し目頭を熱くした。

「ねえ、スズヤくん」

ふとその声で我に返ったスズヤは、声の聞こえた方、モデル台の上へと視線を移す。

「へ?」

「さっきから、顔怖いよ。そんなに気に食わない?私のかたち」

スズヤは、犬が眉根を寄せたような間抜けな顔を晒しながら、思考を整理した。

僕は取り繕うように言った。

「あっ、そうじゃないよ。アカリさん。全部僕のせいなんだ」

「――そう――」

「いや、どうしてもね、さっきからモデルみたいに魅力的に描けないんだ」

「ねえ、スズヤくん。正直私のこと、恨んでるでしょ」

「え?なんで?」

唐突な問いに、スズヤは動揺した。

「ほら、前に私、スズヤくんに、自分の絵に自信がないとか、魅力がないとか散々抜かしてたじゃない。今、スズヤくんは私の影に囚われてる気がするの。私が全国で賞を取って、国際コンクールへ行ってしまったから――」

「そんなことないよ」

「世間体のために自分を卑下するのは美徳じゃない。そんなの、自分で自分の作品を貶しているようなものよ」

「――」

アカリはモデル台から立ち上がり、真っすぐにスズヤの方に歩いてきた。

「スズヤくんははっきり言って子供なのよ。だから、少しは私の体でもさわって、鼻血でも垂らしなさいよ。そうすれば、美術だって真面目に追いかけようって気にもなるし、そこからの守破離しゅはりだって容易くなるんじゃない?」

――いつもの彼女だ。

スズヤは認めたくなかった。

口先だけは一丁前の人間が絵画の神様を毎日拝んでいる。僕よりももろい人間が。そして、彼女に力を与えている。そんな事実を認めたくなかった。

自分の上に、こんな子供がのさばっているのが許せなかった――


アカリはタケノコだ。周りが現代の沈鬱ちんうつ生活のために、ひねくれていようとなんだろうと固い土壌を突き破り、真っすぐに育ち、そのために周りの負の感情を育て、辟易へきえきさせる。

その一例がこれだ。

ある日、アカリは描いた二作品のうちどちらを賞に応募するか、顧問と相談していた。その時、ちょっとした事件が起こった。

アカリは、虫をモデルにした抽象画を出品したいと言ったが、顧問の方は、審査員ウケ的にと言って、幼女の麦わら帽を被った具象画にするよう、半ば強制した。理由は二つある。

一つ目は、顧問は高校の美術界で腕利きと知られていたが、近々定年退職してしまうので、最後の最後にその経歴に一発打ち上げようと思ったこと。

二つ目は、ここでアカリが賞を取れば彼女に箔が付き、退職後も美術家連盟にて彼女を売りさばき、甘い蜜を吸うことができると思ったことである。

しかし、彼女は断った。

――そんなの、私の勝手じゃない。アンタたちに口出しする権利は微塵もないわ。

アカリは、なかなか自分の気持ちを汲んでもらえない、そして自分の感性を信じてもらえないことに、やり場のない怒りを覚え、形相猛々ぎょうそうたけだけしく、顧問に長机を投げつけた。そしてその机は勢い余って美術室の壁に顧問を打ち付けた。

顧問は肋骨を数本折り、そのまま復帰することなく、ベッドの上で定年退職した。

その後アカリは、教師陣からも生徒からも恐れられていたためか、特に咎められることもなかった。

そして、顧問が学校にいないのをいいことに、自分で応募紙を書き、見事全国で最優秀賞を取ったのである。

結果オーライであればすべてよしというものではない。人間はその過程にも意味を見出し、評価することができる地上唯一の生物である。

アカリの首尾一貫とした我儘わがままな態度には、大勢の人間が困り果てていた。スズヤもその一人だった。

何よりも一番困ったのは、唐突に始まる、彼女の「礼拝」タイムである。

時々、スズヤやその後輩が作品制作に打ち込んでいると、彼女だけ急に作業をやめることがある。

その後アカリは自分のロッカーから「聖なる蝋燭」を取り出し、火をつけ、床に座り込み、上半身を伏せ「六信五行」を戒めにかかるのだ。

「絵画の神よ、どうか私を見守り給もう」

この単純なひとことを、低いうめき声のような伴奏とともに、五分程度繰り返し呟くのである。

本人曰く、これは美術室だけではなく、日常生活どこにいても決まった時間に行うという。

当然、周りの人間からすれば「騒音問題」ならびに「社会規範の欠如」である。

スズヤは副部長として、何度もやめるよう説得した。

しかし、彼女は、

「何をしようと私の勝手じゃない」

とお決まりのひとことを言って、取り付く島もなかった。

そして、現在三年生の秋、スズヤとアカリは心の距離三メートルを保ち、今日まで平行線というわけである。

スズヤはアカリと対照的に揉め事が嫌いであったから、高校生なりの拙い処世術でもって、彼女との口論は避けてきた。

だがアカリの“純粋”が放った危険な一矢は、今日ばかりは、スズヤの捻くれ曇ったガラスの心臓を打ち砕きにかかっていたことを、その鈍感さゆえに知らなかったのである。

「――――うるさい――」

「ん?」

一呼吸ののち、スズヤは静かに立ち上がり、こう言った。

「いいよね、アカリは。絵画の神様がちゃんとついててくれるから。僕にはこれっぽっちも力を貸してくれないや」

低い唸り声とともに、スズヤはアカリの目を睨む。暗澹あんたんとした空気が二人の間に流れた。

アカリは薄くぼやけた眉を上げて、さも退屈そうに言った。

「タイタニックって知ってるよね?そこで、ジャックがこう言うの。

『金も寝床もなくたって、必要なものは全部揃ってます。

健康な体とスケッチブック。

朝起きると新鮮な雰囲気に包まれている。橋の下で寝る時もあれば、世界一の豪華客船でシャンパン。

人生は神様の贈り物。決して無駄にしてはいけない。

今を大切に、乾杯――』

だから私はね、誰に拝むでもない、自分に拝むの。たまには橋の下とかで寝ることもあるけど、自分さえ大切にしていれば、また明日も絵が描けるじゃない。誰に助けてもらった覚えもないわよ。神様は自分そのものよ。まさか、スズヤくんはモーゼを目指してるわけ?」

「――そうじゃないよ――――」

スズヤは椅子にへたれ込んだ。攻勢も虚しく、彼女には攻撃ともとられないようだった。

スズヤは理解していたはずだった。自分とは違う世界の人間であることを。

彼女は、自分と同じかたちをしているだけであり、実際にはミューズそのものだったのだ。

しかし、スズヤはすでにその、暗雲垂れ込める波の中に陽光を感じ始めていた。

なぜだろうか、その波の中をどこまでも進んでいきたい、そんな気がする。

ゆらゆら、ゆらゆらと、スズヤはその一筋の陽光を頼りに、どこまでも進んでいった。

気が付いた時には、スズヤはデッサンを終えていた。そしてスケッチブックを立て、黒鉛の波を見渡す。

相変わらず平坦な海原ではあるが、所々に今まで感じることのなかった生の息吹を、潮のはじける様をその波に見た気がした。

「私はこんな不細工じゃないわよ」

スズヤの肩越しからアカリがスケッチブックを見ている。

「そうだな」

スズヤは鼻で笑い、無言のまま幾分か時が過ぎた。

スズヤはゆっくり彼女の背中に腕をまわし、そして後頭部を撫でた。

「えっ、なに」

「ありがとう」

アカリは怪訝けげんな顔をし、スズヤの腕を払った。

そしてそのままスズヤの腕からスルッと逃げ出し、美術室から出て行ってしまった。

しばらくしてスズヤは立ち上がり、アカリの描いた額縁へと歩いて行った。

そして、彼女の乗せた色彩豊かな油の盛り上がりを丁寧になぞった。先ほどのスケッチで感じた、彼女のかたちが、そこにはあった。

ひとつひとつの作品に彼女のすべてが籠っている。その作品たちはすべて、彼女の魂、器、知覚――そのものの分身なのだ。それになぜ今まで気づかなかったのだろう。

「僕のかたち、か」

スズヤはひとつ息を吐き、自分の腰から胸郭にかけてを撫で上げた。高校男子にしては、貧弱で頼りないかたちだ。

しばらくしてまた椅子へと戻っていった。

そしてイーゼルに製作途中の下書きを乗せ、丁寧に線をぬぐい始めた。

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