ことばのスープ
文月八千代
ことばのスープ
結婚生活は鈍色だった。
最初からテレビドラマみたいにキラキラした生活は望んでいなかった。けれど家族と明るく、穏やかな家庭を作り、平穏で満ち足りた日々……そんな暮らしを夢見ていた。いまでもときどき思い描く。
でも、現実はどうだろう。
ボウルの縁で殻を割った卵を、油を引いたフライパンに落とす。小気味よい音が立った。そこにスプーン一杯の水を流し入れて蓋をすると、軽やかだった音がこもって耳障りなものに変わる。
隣のコンロに新しいフライパンをセットしながら「あっちと一緒」と思った私は、キッチンカウンターの向こうに視線を向けてため息をついた。
「ねえ。ハムとウィンナー、どっちにするの?」
視線の向こう……ダイニングテーブルにあるふたつの姿に訊ねるのは二回目だ。でも、返事はない。
姿のひとつはスマホの動画に夢中で、再生音量がでかい。もうひとつはというと、テレビに映る着ぐるみのダンスに釘付け。こちらも大音量なのに加えて、朝に似つかわしくないはしゃぎ声や飛び跳ねる音が耳につく。
毎朝のことで慣れっことはいえ、毎日こうだと腹も立つというものだ。だから私は声を荒らげて、また尋ねた。
「ちょっと! ハムとウィンナー、どっちがいいって聞いてるの!」
空のフライパンは体に熱を蓄えながら、なにかが投入されるのを待っている。私だってそうだ。
でもダイニングテーブルから届く「んー……?」という間延びした夫の声。ああ、もう限界。
熱い血液がどんどん頭に上っていくのを感じながら、冷蔵庫の扉をガチャリと開けた。そしてポリ袋を乱暴に掴んで、中身のウィンナーを同じように掴み取り、フライパンに投げ入れた。勢い余ってフライパンから飛び出してしまうほど、やっぱり乱暴に。
ウィンナーはパチパチと爆ぜ、白い煙をあげながらフライパンうえを転がっている。正しくは私が転がしている、なんだけれど。
トースターがチンと鳴って朝食の準備はできたというのに、ダイニングテーブルのふたりはまだそれぞれのことに夢中。
これがわが家の朝の日常だ。そして、私がいちばん嫌いな時間でもあった。
どうにか朝食を済ませて夫を送り出し、家のまえから幼稚園バスに乗った子どもを見送る。短い時間のなかでせわしないため、いつも朝から疲れてしまう。
いつもならさらにパートへ行く支度をする……という作業が続くものの、今日は嬉しい休日だ。片付けもろくにしていないキッチンに立ち、お気に入りの茶葉でミルクティーを作った。それを「息子に割られたら嫌だから」と普段あまり使えない外国製のカップに注いで、手に持ったままソファに寝転んだ。
「おっと、っと……」
反動でミルクティーの水面に波ができ、カップの縁からこぼれそうになる。私はおちょこに口をつけるおじさんよろしく、ズズッと音を立ててすすり上げた。
するとなぜか口元から笑いが漏れて、さっきまでの苛立ちが吹き飛んでいくのがわかった。
「いつもこうやって穏やかならいいんだけどなぁ……」
さっきまで騒がしかったリビングダイニングには、静寂が訪れていた。
真っ暗なテレビは沈黙を保っていて、にぎやかな音の欠片もない。聞こえてくるのは冷蔵庫の静かな機械音と、チクタクと時間を刻む針の音だけ。
ソファに横たわったまま、ゆっくりと目を閉じて思った。こんな時間は久しぶりだ、と。
ホッとしているいっぽうで物足りなさを感じながら、私は眠りの世界に沈んでいった。
ピン、ポン。
玄関のチャイムが鳴ってハッとする。慌てて壁にかけた時計に目をやると、いつもならパートを終えて慌ただしく帰宅している時間だった。ずいぶん長く眠っていたようだ。
「いっけない!」
ソファから跳ね起きて、玄関のドアを開けて外に飛び出す。「まるで漫画みたい」なんて思ったけれど、この状況じゃ笑えない。
目の前にはブルブルと音を立てて停まっている黄色いバスと、園服を着た息子。そして今日の送迎当番であるアヤノ先生がいるからだ。
「すっ、すみませんでした……。ちょっと、寝ちゃってて……ハハッ」
そこまで言う必要はないのに、お迎えできなかった理由を言いながら苦笑い。アヤノ先生は笑っているものの目が怖くて……うん、笑えない。
そんな私の気持ちなど知らない息子は、「おやつー! おっやつ!」と歌いながら家のなかに飛び込んでいってしまった。
「もう、しょうがないんだから……。アヤノ先生、どうもありがとうございました」
深々とお辞儀をして、走り去っていく幼稚園バスを見送った。
「そうだ、お夕飯はなにがいい?」
まだ時計は早い時間を指しているけれど、キッチンの片付けや洗濯物の取り込みなど、細々とした家事が残っている。献立は早めに決めておいたほうがよさそうだと思って、おやつのプリンに夢中な息子に尋ねた。すると朝とは一転、答えはすぐに返ってきた。
「ことばのスープ!」
「ええ、また? 一昨日も食べたじゃない」
「だってぇ……すきなんだもん!」
不器用にスプーンを握った手を軽くテーブルに打ち付け、頬を膨らませる息子。そんな姿を見ながら私は「しょうがないなぁ」と呟いて、
「ちゃんと残さず食べること」
と言った。
すると「うん!」と元気に答えた息子は、リビングの片隅にあるおもちゃ箱のほうへ駆けていった。
ひととおりの家事を済ませて、夕飯の支度に移る。
ことばのスープは、特別難しい料理じゃない。使っている材料はにんじん、たまねぎ、キャベツ、ピーマン、それにトマト……いたって普通のミネストローネスープだ。
でも野菜嫌い――特にピーマン、な息子に楽しんで食べてもらおうと、具材を細かく刻んだり、ABCマカロニを使う工夫をした。その結果、息子はスープのなかからABC……とアルファベットを順に探しながら、邪魔な野菜をパクパク頬張ってくれるのだ。
冷蔵庫から材料を取り出し、まな板にズラリと並べてみる。いつもはそれぞれ包丁で刻んでいくけれど、今日はそうする気力がない。
「そうだ、アレがあったっけ……」
ふと思い出して、戸棚を開ける。そしてめったに使うことのないフードプロセッサーを取り出して、動くかどうか確認してみた。
スイッチを入れるとガガガガガ、とけたたましい音が部屋中に響く。
ブロック遊びをしていた息子はすくっと立ち上がり、負けないような音量で
「わーっ! うーるーさーいー!」
と叫んだ。
その瞬間、私のなかのスイッチが入ったのがわかった。
「ねえ?」
フードプロセッサーのスイッチを切って、息子に向かって続ける。
「ママこれからまた『ガーッ』ってするから、ちょっとお耳塞いでてもらえるかな?」
「はやくー! はやくガーしちゃってー!」
息子はじたばたとしてからソファに飛び乗り、両耳を塞いだまま背中を丸めた。
そんな姿を見ながら、野菜を入れたフードプロセッサーのスイッチをオンにする。続いて、口を開く。
「いつもいつも――」
さっき入った私のなかのスイッチは、日頃の不満を吐き出すものだった。時間にすれば一分ほどの罵詈雑言。
毎朝このキッチンで感じている苛立ちを、小声だけれど好き勝手に吐き出したのだ。
轟音とともに砕かれていく野菜たちと私の言葉。鍋に空けたそれはいつもより鮮やかに見えて、鈍色だった心模様を少しだけ明るく染める。
そんななか、ふと思った。
息子が好きなことばのスープ。私はこれを作る時間が好きになってしまいそうだ、と。
ことばのスープ 文月八千代 @yumeiro_candy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます