4-5 秋の夜空に、その時どうすると問いかける

 ビール瓶片手にしばらく黙っていたジンは、ふと視線を上げた。

 夜空では、星がちらちらと瞬いている。夏ほど満天の星空と言えない少し寂し気なものだが、静かに語らう時を過ごすには丁度いい美しさだ。


「なぁ、モーリス。天体観測やったことあるか?」

「親父に北極星の位置を確認しろって、ガキの頃に教わったくらいか」

「北極星か。そういや、士官学校でも言われたな。計器が壊れることもある。方角を知る方法は身につけろって」

「俺は十にも満たない頃から言われ続けたんだよ」

「そういや、お前の親父さんも教官だったな……て、そうじゃねぇって」


 懐かしむように笑うモーリスから視線を外し、ジンは夜空を見上げたまま静かに息を吐いた。

 冷たい夜風が吹き抜ける静けさの中で、秋虫の鳴き声だけが響いた。

 顔を上げたモーリスがジンを見て、物珍しそうに「へぇ」と呟くと、彼は夜空から視線を外した。少しばかり、その表情は物憂げだ。


「お前でも、感傷に浸ることがあるんだな」

「前線を経験した奴らで、傷のねぇ奴なんていないだろう」


 苦笑で返しながら、ジンは瓶の中身を飲み干した。


「……この前の遠征でな、同期が一人った」


 欠片も重苦しさを含まず、彼はそう言った。まるで、友人が買い物に出かけたと告げる様に。


「そうか」

「星が好きな奴でな。あれとそれを繋ぐと星座になるって、よく言っててよ」


 太い指が夜空を示したが、それは一ミリも動かなかった。


「何度見ても、どれが何だかさっぱりだ」

「悪いが俺もだぞ。あー、北極星は──」

「おいおい、さすがにそれは俺でも分かるって」


 力なく笑ったジンの手が、ゆっくりと降りた。


「……もう、メイの話は聞けねぇんだな」


 もっと話せばよかった。そう後悔を口にしながら、ジンはモーリスを見る。


「惚れてたのか?」

「そんなんじゃ……いや、そうだな。強い女だったぜ。一発ヤらせろって言ったら、顔が腫れ上がるほど殴られたな」

「それは、口説き方に問題があると思うぞ?」

「あー、同じこと言われた」


 可笑しそうに口元を緩め、ジンは三本目の瓶に手を伸ばす。

 その様子から視線を外したモーリスは、磨き上げた回転式拳銃リボルバーのシリンダーに弾薬を込め始めた。

 しばらく沈黙が続いた。


「なぁ、ジン。それが、しばらく教官室勤務になった理由か?」


 最後の弾薬をシリンダーに納めたモーリスは顔を上げると、そう尋ねた。

 喪に服すという古い習慣もあるが、その申請をする軍人は少ない。身内の死ですら、悲しんでいる暇がないことすらある。しかし、当の本人が思っている以上に、人の死が心に傷を負わせることで自暴自棄になっている時もある。そういった場合、上官の判断で前線から下げることもある。ジンの状況が、まさにそれなのだろう。

 自嘲気味な笑みを浮かべたジンは、そういうことだろうなと小さくぼやいた。


「比企中佐には、前線に出させてくれって言ってるんだけどなぁ」

「少し、頭冷やせってことだろ?」

「別に血は上っちゃいないぜ。つうか、俺が熱いのは通常運転だろ」


 むしろ前線で戦っていた方が落ち着くんだと言わんばかりに、ジンは破顔した。その笑みがあまりにも空々しく、回転式拳銃をホルスターに戻したモーリスは、前髪をわさわさとかき乱しながら口を開いた。


「そういって、死んだ軍人を何人か知ってる」

「……俺もだ」

「分かってんなら、大人しくしてろ」

「けどな……前線に立てば、あいつに会える気がするんだ」

「だから、そう言うのを、中佐は心配してんだろうが!」


 堪らずに声を荒げたモーリスは勢いよく顔を上げ、嗚呼ああと心の中でため息をこぼす。

 視線を向けた先で、ジンが目頭を押さえて手のひらで顔を覆っていた。彼は、分かっているのだ。自分がどれほど危ういところにいるのか。そして、それに抗おうとしている。


「分かってる。分かってるが……情けねぇよな。惚れた女一人守れなくて」

「軍人やってたくらいだ。守って欲しいなんて思ってなかったかもしれないぞ」


 そう言ったモーリスは、瓶の底に残っていた温いビールを飲み干した。

 再び訪れた沈黙の中、ランタンのともしびが静かに揺らめいた。それを眺め、モーリスはサリーの後ろ姿を思い出し、自問自答する。もしも、自分がジンと同じ状況に立たされたらどうか、と。


(あいつがそう簡単にやられるとは思っちゃいないが……)


 戦場に絶対などありはしない。

 何度も仲間の死を見てきたモーリスも、そんなことは分かりきっていた。それでも、サリーの肌が血塗られるのを考えるだけでも、息が止まりそうになる。

 じっとりとにじんだ汗が首筋をつたい落ちた。

 おそらくジンとて同じなのだろう。愛したものを失う覚悟なんて欠片もなかったのだ。失って初めて痛感したのだ。守ろうなんて考えは烏滸おこがましいことなのだと。

 失って初めて知る悲しみと、絶望と、己の非力さ。


(そんなの、知りたくもないな)

 

 膝の上で組んだ両手を睨み、モーリスは静かに息を吐いた。そして思い出すのは、必ず守ると誓った幼いサリーの姿だった。


「なぁ、サリーが同じ目に合っても、そう言えるか?」

 

 沈黙を破ったジンが問いかける。

 心を読まれたような気がし、モーリスは堪らず苦笑いをこぼした。それが答えだと察したのだろう、ジンも笑って夜空を見上げる。

 言葉もなく野郎二人で眺める夜空は、あまりにも静かだった。

 ややあって、一筋、星が流れた。


「ありがとな、モーリス」


 そう言って立ち上がったジンは、テントを見回ってくると言って背を向けた。

 大きな後ろ姿が暗闇に消え、モーリスは深く息を吐き捨てた。


「守られたいなんて、思っちゃいねぇ……か」


 自分の言った言葉を思い出し、もう一度、ため息をつくと、心の中にいる幼い自分の背中に問いかけた。守れなかった時、お前はどうする、と。

 吸い込んだ夜風が、冷たく肺に広がった。

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