第35話 クィア研究のポイント
「自分が選んだのは『クィア研究入門』という本です。まあ、最初なのでやはりこれかな、と思いました。ただ、この本の場合、最初に基礎用語の解説があって、わかりやすい言葉で丁寧に説明されているってことはないです。むしろ最初から難しい概念の話が続くので、さっきの話を聞いてちょっとしくじったのかなと思いました」
朔空はそう前置きしつつ、ホワイトボードにペンを走らせ、『①対象範囲に留意する』と書いた。
「第一章はクィア研究とは何かってことでしたが、自分の理解としては三つのポイントに分けられると思います。この一つ目で言いたいのは、例えばゲイだけを調査して、『LGBTは○○だ』と言ってはいけない、ということです。先ほど愛生がLGBT以外のマイノリティについても言及していましたが、そういうのをごちゃ混ぜにして語ってはいけない、ということです」
朔空は続いて『②マイノリティ性を活かした批判的アプローチ』と書いた。
「以前、華恋からクィア研究の話を聞いたとき、『性の当たり前を疑う』ということを言っていました。それがまさにこの二つ目です。マイノリティの視点を持っているからこそ、マジョリティが当然としている価値観に疑問をもつことができ、それを批判的にとらえて概念を塗り替えることができる。そういう視点が大切ということです」
朔空は更に『③柔軟で流動的なアイデンティティ』と書いて、ペンを置いた。
「最後ですが、これはちょっと自分もこういう理解でいいのかわからないのです。が、要するに、アイデンティティは一貫しているべきという概念にとらわれないようにしよう、ということだと思います。むしろそこすら批判的に捉え直そう、ということです」
そこで朔空は一息つくと、まとめにかかる。
「序盤からして難しくてまとめるのに苦労しましたが、結構シンプルにできたかなと思います。その中で改めて思ったことは、これは研究に限らず大事な視点なのではないかということです」
「研究に限らず?」
愛生がそう言うと、朔空はコクリとうなずく。
「一人問題を起こした人がいたとして、その人が所属しているクラス自体が問題児を集めたクラス、みたいに評価されるのはおかしいじゃないですか。だけど、俺たちはついついそういうことをやってしまいがちです。『これだから男は』とか『これだから外国人は』とかってよく聞きますし。でも、そういう過度な一般化は良くないですよね、ということです」
それに愛生は納得したようにうなずいた。
「後、俺たちは多数決に慣れてるから、どうしても多数派の意見が正しいって思いこみがちなんじゃないかと。でも、少数派だからこそ『それ全然当たり前じゃないですよ』と指摘できる。クィアの視点で、というのはそう言うことだと思うのですが、それは日常生活でも役に立つと思いました。ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、以上です」
朔空はそう言って、席に着いた。
「朔空、どうもありがとう!」
先ほどと同様、ミライさんのその言葉を合図に私たちは拍手を送る。
「その本、いい本だけど、確かに難しいんだよね。私も薦められて読んだけど、最初はチンプンカンプンだったもん」
ミライさんの発言を受けて、朔空は苦笑いを浮かべる。
「あ、やっぱりそうですか? 研究だから仕方ないのかなと思ったんですけど、もっと初心者に優しい本を選べばよかったです」
すると愛生が手をあげて質問する。
「ちなみにさっきの朔空の発表はあれで正しいんですか?」
その愛生の質問によって、ミライさんに視線が集中する。
「うん、間違ってはいないと思うよ」
ミライさんはさらっとそう言った。
「あの、三つ目のやつもあってましたか?」
今度は朔空が質問した。
「うん。そうだなぁ、書いてあったかもしれないけど、マイノリティは一貫したアイデンティティを持つべきって考え方が昔はあったんだよね。でも、それによる弊害が出てきて、だったらそこはむしろ流動的と考えていいんじゃないかってなったんだよ」
するとそこで莉緒がおずおずと手をあげる。
「すいません、あの、クィアって、生まれつきのものだから変わらないっていうのを何かで見た気がするんですけど」
言われてみれば、そんな話を聞いたことがあるような、ないような。するとミライさんはにっこりと笑いかける。
「そうだね。それはクィアを守るために使われてきた言葉なんだよね」
「守るため?」
私が首を傾げつつ尋ねると、ミライさんは軽くうなずいてから言葉を続ける。
「昔はクィアって、病気だと考えれらていて、治療の対象だったの。つまり治さなければいけないと思われていたのね。そこで、これは生まれつきで治らないものだし、そもそも治すものでもないんだよ、と主張したわけ」
「それが守るってことなんですね」
今度は朔空が感心したようにそう言った。
「そう。だけど、実際のところは、異性愛者だと思っていたけれどバイセクシュアルだったとか、アセクシュアルだと思っていたけれど同性愛者だったとか、そうやってアイデンティティがゆらぐことってあるのよ。それもありのまま認めようっていう風に変わってきたの」
アイデンティティがゆらぐこともある。その言葉は私の胸に強烈に響いた。私は一度自分をクィアだと認めたら、それが烙印のようになってしまうと考えていた。けれども、それがゆらいでいくこともある、と。
「んー、でも、そんなにコロコロ変わるものなんでしょうか?」
愛生は眉間にしわを寄せながら質問する。するとミライさんはクスッと笑った。
「面白い表現をした友人がいてね。『自分にとって、アイデンティティは住所だ』って言うの。居心地が悪くなったら引っ越しして、そうやって、その時たまたま住んでる場所に書いてあることを伝えるだけなんだって。でもまあ、それくらいフランクに考えてもいいんじゃないかなって思う」
その話を聞いて、スッと胸が軽くなるのを感じた。結局私は、自分で自分を縛り付けていただけなのかもしれない。
「さて、じゃあ次はどうする?」
ミライさんがそう言うと、今度は莉緒がゆっくりと手をあげた。
「あ、あの、じゃあ、次は私がやります」
その瞬間、出遅れたと思ったけれど、もともと準備が出来ていないことは伝えてある。今更何番目になろうが関係ないな、と思い直し、莉緒の発表に集中することにした。
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