3-3
これから家に行ってもいいかとひさめが聞いたのは、美術館を出た直後のことだった。あまりに急な提案だったので、片付けてないから、と月並みな理由で――実際に本やら書類やら色々と散乱していたのだが――断ろうとしたが、ひさめは全然気にしないと言った。なんやかんやで断ることもできただろうが、ひさめから家に行きたいと言い出すことは太陽が西から昇るくらいあり得ないことだ。もしかしてさっきのアナベルのことかも、と察したかなでは、スーパーで夕食と酒を買うことを提案した。日は既に傾き始めているとはいえ、八月の夕暮れはまだまだ明るい。大濠公園のランニングコースを、野球部と思わしきユニフォームを着た少年の集団が、隊列をなして走ってすれ違って行った。
玄関で靴を脱いで部屋の明かりを点けるなり、ひさめが「うわあ……」と思わず声を漏らしたので、だから言ったでしょーに、とかなでは口を尖らせた。持っていたバッグを仕事机の上に放ると、かなでは部屋の中央に置いてあるテーブルに積んである辞書、図鑑、文庫といった図書を本棚に戻した。どうにか間に合わせでスペースを作ると、レジ袋からスーパーで買った惣菜と二リットルのペットボトル、それからワインを次々にテーブルに並べ始めた。その間、ひさめはベッドに腰掛け、物珍しそうにかなでの部屋を眺めていた。仕事机の上の壁にはコルクボードがかかっており、新人賞の通知書、新人賞を報じる新聞の切り抜き、それから海辺の景色の写真が画鋲で留められている。それから、二十人くらいの男女の集合写真も留めてあった。
「あの集合写真は何?」とひさめが聞いた。
「あれね。新人賞とったからって、高校の同じクラスだった人たちが祝賀会開いてくれたんだ。三分の二くらいは話したことないんだけどね」
「ちょっと分かるかも、その感覚。私が綜合司書になったときもそんな感じだった。有名人になったってことだね」
「こんな形で知りたくはなかったなあ。有名になると関係の薄い人が沢山増えるって事実を。お惣菜開けるの手伝ってくれない?」
いいよ、とひさめが腰を上げた時、ひさめの携帯が鳴った。ひさめは鬱陶しそうにポケットから携帯を取り出すと、通知を切ってバッグに戻した。
「……出なくてよかったの? 今の電話」
「うん。どうせ親からだろうし。この年になっても――まあいっか、食べようよ」
「……そうだね」、いつになく表情の硬いひさめを横目に、かなでは割り箸を取り出した。
かなでは三本目の缶チューハイのプルタブを開けながら、美術館でしていた話のことを詳しく聞きたいと言った。ひさめはワインの入ったグラスを揺らしながら、額が触れ合いそうなほどわざとらしく身を乗り出して「訊きたいの?」と言った。惣菜のパックがいくらかひっくり返ったが、枝豆意外全て空けていたので、気に留めなかった。頬と首元が上気してひどく艶かしいひさめにかなでは固まったが、細かくコクコクと頷いた。
「あれね。ちょっと最近のことを振り返って、ああ私ってこんな感じだなあって思ったんだよ」
「最近って――綜合司書のことで忙しいって言ってたけど、それ?」
「ううん」とひさめはグラスを呷り、カンと音を立ててテーブルに置いた。両手をテーブルに置いて一息つくと、ひさめは俯いたまま言った。
「結婚するんだ、私」
えっ――とかなでは絶句した。取り上げた枝豆を落としたことにも気づいていなかった。
「す……すごいじゃん。よかったじゃん。おめでとう」
「うん――そうだね。かなでちゃんはやっぱり優しいね」とひさめが笑った。どことなく寂しげに笑うひさめを見るのは初めてだった。もしかして――
「もしかして――嫌なの? 結婚」とかなでは恐る恐る聞いた。
「うーん。嫌と言うわけではないよ。相手もいい人だし。私、あまり男の人に良いイメージ持ってなかったんだけど、彼はそれを理解しようとしてくれるし、私にも興味を持ってくれてるし。それに、この先の目標も応援してくれてるから、仕事は続けられるし。でも何だか……」
ひさめは天井を見上げた。部屋の明かりを反射して光る黒髪が、まとまって一直線に下りている。背を反らせて、首を向けたひさめは、やはり困ったように笑っていた。
「私、やっぱり定められた道を歩くことでしか、生きていけない。もちろん、結局自分で選ぶんだから、それは自分の決めた道だと言われたらそうかもしない。でも、初めから用意されている道を歩くのと、自分で拓いた道を歩くのは違うでしょう?」かなでが頷いたのを見て、ひさめが続ける。
「かなでちゃんは、小説家って道を自分で選んで、拓いて生きている。この間言っていた、『何を思って生きていけばいいんだろう』っていう悩みは、自分しか選べなくて、誰も芯から共感してくれる人がいないから――でもそれは、裏を返せば独立した自己があるが故の悩みなんだと思う。あの時はかなでちゃんが文学的だからって言ったけど、今思い返すとそういうことなんだと思う」
「私は……私はそれでも、ひさめちゃんは自分から自分の道を拓いていると思う。それが初めから用意されていたものであっても。だって、用意されていても選ばなければ意味はないし、それを選んだってことは、他の道を捨てて、その道を拓くってことじゃない?」
「そうだね――そう見えるのは分かってる。でも、私はこの時代に生きて、私の意志で人生を選ぶものだと思ってた。だから、今の自分を振り返ると、結局ああやって夜会服を着せられたアナベルみたいだなって思ったんだ。相応の振舞をするものとして見られているんだってね。勿論、ビュフェはそんなこと思いながら描いてはいないのかもしれないけど。私は、私が誇りをもって生きている姿のままでありたかった。孤独でもいいから、理想が欲しかったのかもしれない」
孤独でもいい、理想が欲しいという言葉に、かなでは不図撃ち抜かれたような感覚がした。ひさめが口にした覚悟は、かなでが持ち合わせていなかったものだ。ひさめに対する執着は、自分が持っていない、彼女だけが持っている、その覚悟に対する憧れゆえのものだった。
だが――それだけではないことも、同時に確信していた。その感情を抱いていることを、認めねばならなかった。認めれば楽になるが、同時に認めることで崩れてしまうものがある事も、理解していたのかもしれない。
「私……気づいちゃった。今言うことじゃないけど。私、ひさめちゃんが好きなんだ。友達としてってことでもない。恋してた。ひさめちゃんの全てが欲しい」
「それは確かに、今言うことじゃないね。でも、どうして私を?」
「わからない。最初は憧れだったと思う。綺麗だし、頭は良いし、大人っぽいし、私が持ってないものを、全部持ってたから。手が届かないってわかってたら、多分好きにはなってなかったと思う。でも、すぐそこにひさめちゃんがいたから…………。ねえ、ひさめちゃんの諱、訊いてもいい?」
かなではひさめの視線を感じていたが、かなでは顔を上げられなかった。今目を合わせるのが確実にまずいことは、僅かに残った理性でも判断できた。
「
「やっぱり、私には見送ることしかできないや。結婚おめでとう、朱美ちゃん」
そう言うのが精一杯だった。涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うことすらできなかった。
ひさめを見送ったのは午後十時過ぎだった。駅まで送ろうかと言ったが、「その顔で着いて来られても困るよ」と指摘され、慌てて洗面台の鏡を見ると、目の周りが腫れ、化粧もすっかり崩れており、外に出るには余りに憚られる見た目をしていた。物言いたげに頬を膨らませて玄関に戻ると、ひさめが必死に笑いを堪えていた。
「じゃあ、帰るね。オフィスの仕事はまだ続くから、図書館にも来て。それから、結婚はしても友達と二人で出かけるくらいは許されると思う。いつでも誘って」
うん、と短くかなでが頷くと、ひさめはドアを開けて出て行った。重い金属の扉が閉まると、静寂がやけに五月蝿く聞こえた。堪らずかなでは、机に放っていた携帯を取り上げて電話をかけた。
「…………もしもし。千裕、今空いてる?」
氷雨 有明 榮 @hiroki980911
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