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かなでの携帯に、遅くなってごめん、綜合司書資格の更新のことで色々立て込んでて、というメッセージが届いたのは、八月の初旬のことだった。かなでは全然構わないよ、寧ろ忙しいときにごめんと返信した。更にひさめから、九月半ばくらいまで忙しいからお出かけもいけないかも、というメッセージが届き、かなではどうしようもないので、休日は半分を執筆に、残り半分を買い物や映画鑑賞に費やしていた。
その間に、かなでのキャリアはかなりのものになった。まず、新聞の連載が捗らない時に並行して執筆していた小説がネット上で相当な評価を受け、単行本化。電脳世界で人工知能に恋をした少年の悲劇という在り来りな内容だったが、散りばめた伏線の鮮やかな回収に驚嘆を、少年の細やかな心情に共感を覚えるという宣伝文句によって、アクセスが殺到したらしい。基本的にネット上の小説は投げっぱなしのスタンスを取っているかなでだったので、出版社から出版のオファーが来た時に総アクセスとコメントの数を見て思わず笑ってしまったほどだった。
元来長編を得意としているかなでだったが、その作品だけはそこで終わらせるのが最適だと判断したので、ネット上での連載はしないことにした。多くの作品が長期連載をする中、連載はせず作品を終わらせる形を取ったということも相俟って、異色の新人小説家として『本郷かなで』は注目を浴びるようになった。
それもあったのだろう、頻繁に中高の同期を名乗る人物から連絡があった。知らない人間が大半だったが、中には見覚えのある名前もあった。ランチとかディナー程度の誘いには付き合い、そのまま誘いに乗って何人かの男と寝ることもあった。
そうやって忙しいような、気ままなような日々をかなでは送っていたのだが、どことなく満たされないものがあった。仕事は充実している筈だった。知名度も上げたし、書いている作品は間違いなく良いものだ。だが何かが足りなかった。始めかなでは、千裕の家に居候していた時に比べて確実に少なくなったものがその原因と考えて、元同期の男と何回か寝ていた。しかし、いくら情動に任せた欲がその場しのぎで解消されたところで、正体不明の空白は埋められなかった。
そうした感情の迷路の中に、ある出口が見える瞬間が時折あった。もしかして、という可能性はあったが、かなではそれが「そうだ」と断定できなかった。大雑把で大概のことを楽観視し、何か問題が生じてもノリと勢いとちょっとの策略で乗り越えてきたかなでだったが、人の感情とか琴線とかいった問題には人より数倍の時間と労力を割かねばならなかった。ひさめが評したように、元来内省的で繊細なものを核心に抱いている割に表面的にはざっくばらんとしているため、勘違いされやすく、そのため友人といえる関係性の人間もかなり少ないのだった。そのため、今かなでが自身の内部にその萌芽を認めつつある感情に判断を下すことは尚早に思われたし、その判断を下すことに畏れすら抱いていた。
以前、千裕はこの感情を「執着」と言った。それは正しい……正しいのだが、なぜ自分がこれほど執着しているのか――「ひさめに対する」執着を抱いているのか――答えはすぐ手の届くところにある気がしているが、それを前に自身の性質という壁が圧倒的な存在感を放っているのだった。
意外にもひさめから誘いを受けて――普段は忙しいひさめの代わりにかなでが行き先を提案していた――かなでとひさめは休みの日を火曜日に合わせて、一か月半ぶりに外出することになった。ひさめの提案で福岡市美術館をメインに置くことになったが、火曜日で来館者も少なく、週末に訪れるよりは余裕を持って回れるだろうとの判断だった。
待ち合わせ時間の十五分ほど前に地下鉄の改札の先で待っていると、人混みをかき分けるようにひさめが駆けてきた。淡い色の服を着ていることが多いひさめが、目の醒めるような群青色のサマードレスにクリーム色のカーディガンを羽織っているのが新鮮に思われた。
「ひさめちゃん、珍しい色の服着てるね」とかなでは素直な感想を口にした。
「そう? 結構こういう色持ってるけど」と言いながら、ひさめは自分の装いを改めて見下ろしてみせた。
「いいなあ、濃い色の服も似合うなんて……私は勇気出ないや」
「たしかにかなでちゃん、大体はベージュで統一してるもんね」
「まあ、楽だからね。考えても分かんないから無難に納めてるんだ」とかなでは苦笑した。今日のかなでは半袖のブラウスにアンクル丈のデニムという、「無難」という言葉そのものを体現したような恰好をしていた。
「じゃあ、行こうか」とひさめが先導する。駅構内の人はだいぶ少なくなっていた。
「今日は美術館メインなんだっけ?」とかなでが半歩後ろから聞いた。そうだよ、とひさめが長い髪を棚引かせて言う。
「私はそこまで興味ある訳じゃないんだけど、何となく面白そうだったから」と、ひさめはバッグからチラシを取り出した。灰色を基調とした色彩の中心に、『モノクロームの画家展』という文字が大きく白色でプリントされている。
「モノクローム……ちょっと地味じゃない?」と眉を顰めつつかなでが聞いた。見た目のインパクトに欠ける上に、裏面に紹介されている画家の名前を見ても知らないものばかりだったので、自分からは確実に行かないタイプだ思った。
「私もちょっと思った」とひさめが言う。てっきり、しっかり興味を持っているものと思っていたので、ひさめがそう言うのは予想外だった。
「でも、自分一人だときっと行かないじゃない? だからかなでちゃんを誘おうと思ったの」と、ひさめが振り返って言った。地下鉄の出口付近には、表の道路を走る車の音が次々に流れ込んできていた。
ごめんね、殆ど私のわがままかも、とひさめが言うので、そんなことないよ、とかなでは笑った。私も同じこと考えてたから、と付け加えると、何が可笑しいと言う訳でもなく、二人は同時に噴き出した。
展示室に人は少なかった。展覧会はヴィルヘルム・ハマスホイ、ベルナール・ビュフェ、ジョルジョ・モランディという、十九世紀から二十世紀に活動した『モノクロームの画家たち』をメインに据えていたが、かなではどの画家の名前も聞いたことがなかった。ひさめは流石に綜合司書で多くの図書を扱っていることもあり、三人の名前は知っているらしかったが、作品を観るのは初めてということだった。
かなでは特にモランディが気に入った。若干静物がヨレていたり、空間と噛み合わなかったりするのに、絵画全体がきれいにまとまって見えるのが面白かった。それ以上に、使われている色が殆ど同系統なのに、微妙な色の差で陰影や輪郭を的確に表現しているところには舌を巻いた。確かにじっくり観てると面白いかも、とかなでは考えていたが、途中で隣にいた筈のひさめがいなくなっていることに気づいた。別にこのまま進んでも良かったのだが、折角ひさめが誘ってくれて、しかも二人で展覧会を見ているのだから、ひさめのいるところまで戻ることにした。
高さが自身の背丈以上はありそうな縦長の絵画の前で、ひさめは立ち止まっていた。食い入るように見つめている作品を見ると、茶色の絵具が荒々しく塗られた中に、半袖でひざ丈の黒いドレスを着た、短髪の女性の立ち姿が描かれている。髪型や服装こそ異なるものの、力強い双眸はどことなくひさめの知性に通じるものを思わせた。キャプションに目を移すと、《夜会服のアナベル》とあった。ベルナール・ビュフェによる一九五九年の作品だった。
「この人、画家の奥さんなんだって」とひさめが、近寄ってきたかなでを一瞥した後にぼそりと言った。キャプションの文章にざっと目を通すと、確かにベルナールの妻アナベルがモデルにされたと書かれていた。
「これは――この人は、私」と続けてひさめが言う。
「どういうこと?」
「わからない、でもアナベルは私なんだって直観的に思った。この服は夜会服って言ってね、夜の社交場に着るドレスなの。っていうか、それが礼儀。私も何度か出席したことあるけど、男はタキシードを、女はイブニングドレスを着るように厳しく言われて、それに反している人は遠くから白い眼で見られてた」と絵を見つめたままひさめが訥々と語る。かなでは依然、ひさめの言っていることが理解できていなかった。
「私はこのアナベルみたいな生き方以外にできない。礼儀に則って澄ました顔をして、それでも向かってくる皆の視線を受け流すしかできない。真っ黒な輪郭線に囚われた生き方。引き延ばされて窮屈な生き方。色彩が抑えられた生き方。環境なんて無意味で、私自身が見られている生き方……。私はそうでしかあり得ない」
「…………でも、ひさめちゃんはこれまで、自分の意志で生きてきたんだよね? 実家でも離れで実質一人暮らしをして、それから綜合司書になって。国立国会図書館とか一条記念館の話も、ひさめちゃんの意志でしょう」
「うん。そうだよ――それが私にできた、精一杯のポーズだった。私が目線を逸らしても、私以外は私に目線を向けてくる。だから、夜会服を着るしかないの。そうしないと、ただでさえ私は無色で――真っ白で、血が通っていない色のままで、生きてすらいないから」
「ひさめちゃん…………?」
「――ううん。何でもない。変なこと言っちゃったね」
ひさめは明らかに声を滲ませていた。両の目尻を指先で拭うと、かなでちゃんは私を置いて何を見てたの、と笑って見せた。取り繕っているようにしか見えなかったが、かなでは深く追及すべきではないと判断し、モランディの静物画が面白いんだよ、という話をした。その後は、どの作品が好きだとか面白いだとか言いながら、展示室を並んで歩いた。二人ともビュフェの《アナベル》の話題を避け、それに触れることはなかった。
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