第三章

3-1

 その日はうだるような暑さだったが、木々に囲まれた藤原邸ではそれも幾分か和らいだ。ひさめは長い髪を入念に梳かすと、白いブラウスの上に淡い紫色のジャケットを羽織り、同じ色のタイトスカートを身に着けて自室を出た。軋む階段を下りると、階下には使用人を控えさせた父が黒いスーツを着て立っていた。白髪の増えた短髪がいつも以上に丁寧にまとめられ、豊かな口ひげが切り揃えられている。ひさめは何も言わぬまま、父の後に続いて母屋に続く渡り廊下を歩いた。古い板張りの廊下の空気ははひんやりとしており、随分と心地が良かった。遠くで鳴いている蝉の声が周囲の森林に深く反響し、今日もいつものように弓道場からカラリ、パンという音が響いてきた。

「今日はある出版社から御次男がいらっしゃっている」と、父が短く言った。

「年はお前の二つ下だ。政治学部を出ているらしい。頭の切れる一家だよ。長男が会社を継いだもので今は市役所職員をしているが、後の市議会議員、国会議員候補とも言われている」

「はい」と、ひさめは細い声で答えた。そこに意識はなかった。

「お前の見合いはこれが四人目だ。お前もいい年齢になったし、そろそろ身を固めた方がいい。今回は事前によく調べてお前に見合う人を選んだつもりだ」

 父の言葉はいつになく硬い。これは実質、今回の相手と結婚せよという無言の圧力である。ひさめはそれまでに三度、見合いの相手との結婚を断ってきた。

 勿論、相手が気に入らなかったということも大きい。一人目はひさめが二十歳の時で、何某とかいうIT企業の、三つ年上の三男坊だった。背が高く清潔感があり、ひさめの目にも良く見えていた。知的で話も良く弾む相手だったが、庭園の隅で犯されかけた。下着姿で何とか母屋に逃げ込み、多額の示談金と引き換えに相手を追い出して以降、見合いに慎重になった。二人目は大学院の夏休みに見合いをした、ある銀行の一つ年下の長男だった。家柄もあってひさめが図書館大学院に在籍していることに興味を示し、尚且つ温和な性格であったため、ひさめも警戒心を徐々に解いたのだが、それにつれて相手の性格の難点が目につくようになった。何かにつけて「君は知らないかもしれないけれど」という枕詞を用いて話し始めるという侮蔑的な態度に我慢ならず、縁談を打ち切った。

 そうした事情について父は一応理解を示してはいたものの、縁談相手の候補を選ぶ際、仕舞いには決まって「多少は二人で価値観をそろえるものだ」と言った。その意味は理解できるが、だからと言って性欲や抑圧の対象となることは容認しえない。ひさめは縁談の全てが面倒になり、昨年から相手選びは父に委任することにした。その方が自分のために使える時間が増えるし、そうすれば国立国会図書館や一条記念館にポストを得る確率が上がる。実家から離れた東京で、家柄だとか土地だとかいったしがらみに囚われず、自己実現のために邁進できるのだ。そのうち父も諦めて養子をとるだろう、とひさめは考えていた。そのような意図があったので、三度目の見合いでは気難しいエリート気質の女を演じ、男の方から諦めさせた。

 母屋の裏側にある応接間は二十畳の広さを誇るため、廊下と部屋を仕切る襖を六枚必要としている。開け放たれた二枚の間から廊下に光が射し込んでいる。ひさめは、適当に話を合わせて終わらせよう、と思った。きっと、これまでと同じようにぼろが出てくるはずだから。

「大変お待たせしました」と、父が慇懃に言った。それに続いてひさめが、視線を下げたまま相手親子の視界に入る。いやはや随分待たされたものですな、と陽気な嗄れ声がして、見合い相手の父親らしき人物が鷹揚に応えた。父が座布団に胡坐をかき、ひさめが正座した。そっと視線を上げると、座卓の向こうに、若さと勢いと緊張とがにじみ出た青年が、鉛色のスーツに薄紫色のネクタイを締め、膝を正しているのが見えた。

 四十ほどになる、二人の女の使用人が襖を開け、座卓に御膳を並べ、徳利を置いたところで、静かに見合いが始まった。

 

 ひさめはそれなりに酒が強い方だったが、相手の男――名前は殆ど気にしていなかった――はだいぶ弱いらしく、会食が始まって三十分ほどですっかり赤面していた。もっとも、場の目的が目的であるためにかなり緊張してもいたのだろう。いずれにしてもその姿は視界の端に留めておくにはどことなくいたたまれず、また父親同士も「少し二人で話してきてはどうだ」などと言ったので、庭園をしばらく散歩することになった。

 随分と蒸暑い日だった。加えて酒をいくらか口にしていたので、更に熱気が感じられた。男は来ていたスーツのジャケットを腕に掛け、ネクタイも緩めている。公務員と聞いて何となく中肉中背の男を想像していたので、ジャケットを脱ぐと細い身体付きをしていたのが意外だった。ひさめは男の二、三歩ほど後ろについて歩いていた。辛うじて相手の手が直接届かない距離である。

「あの、」と切り出したのは男の方だった。

「あちらの池の方でお話しませんか。暑くてかないませんし、立ち話よりはいいでしょう」

「ええ」とひさめは短く答えた。

 小さな池に臨むベンチが、丁度木々の影に隠れていた。吹き抜けた冷たい風が、ひさめの汗ばんだ頬を撫でた。

「すみません、折角の機会を頂いたのにお見苦しい様を見せてしまいまして……」

「いえ。緊張されるのは分かりますから」

「そういうひさめさんは、あまり緊張されていないようですが」

「見合いもこれで三度目です。流石に慣れてきましたよ」

「三度目、ですか……」

 三度目、という言葉に、男は少々面食らったようだ。それもそのはず、世の「貴族」の娘たちは大半が最初の、そうでなくとも二度目の見合いの相手と結婚する。ひさめのように三度目の見合いをする――しかも前の二人との縁談をどちらもこちらから打ち切っている――女はこの国に片手で数えるくらいだろう。

「何かトラブルが……いえ、お話にならなくても結構です。確かに、親同士が勝手に決めた相手ですから、うまく行かないことの方が当然の筈です」

 おや、とひさめは予想外の返答に目を丸くした。そのようなものでしょうか、と返すと、男はそのようなものです、と語気を強めて言った。

「大体、『鷹狩』趣味に走るのは良いとしても、我々の人生までそこに合わせなければならないとは思いません。恋愛とか結婚とか、本来は自由なものでしょう」

「ええ……ですが、それならばなぜ、私との見合いに踏み切ったのですか」

「恥ずかしながら、写真を窺った時に、何と申しますか……」

 男は急に黙りこくった。ひさめには回答が粗方予想で来ていたが、それを言うのも面倒だったので、男に言わせることにした。

「美しい人だな、と…………もちろん、矛盾しているのは承知しています。親の提案した女性を見初めてしまうのは、私の信念とは真逆のものです。理解しているつもりですが、やはりどうしても抗えない部分が……」

「人はそもそも矛盾を抱えているものですよ。あまり自由とか大きなことは考えず、ご自身の矛盾もお気になさらない方がよいのでは?」と、相手の顔を横目に言った。予想通り、男は赤面した。こうした家柄のお坊ちゃまは元来、自尊心が高いものである。

「それは、勿論理解しています。ですが、やはり透徹した理念が私には必要なのです」

「理念に囚われていては、自由は達成できないでしょう」とひさめは呆れ顔で言った。男はまたしても唇を噛んで黙ってしまったので、ひさめはやれやれと立ち上がった。

「そろそろよしましょう。これでお解りの通り、私たち二人は根本から矛盾していますから。このまま続けても良いことはありませんよ。それに私は恋愛という事象に極めて無頓着な人間です。自由な恋愛と結婚がしたいのなら、より良い方をお探しになるのが身のためでしょう」

「待ってください。そんなことはありません」と、男はひさめを見上げて言った。

「確かに、あなたは恋愛に無頓着かもしれない。ですが今話してわかりました。やはり、どうしても私の眼には魅力的に映ります。私はこれまで、一貫した思想の軸があってこそ、自由が得られるもので、人間はそれを成し得ると思っていました。でも実際はそんなものではない……事実私自身、矛盾を抱えていますから。それを気づかせてくれたのはあなたです。あなたのような知性のある方と、一度ゆっくり話してみたかった…………結婚を、とまでは考えません。ですが、私を友人として見て頂けませんか」

「…………」友人という程度の関係を、わざわざ断る道理もない。意外と手強い相手だと思いつつ、ひさめは了承した。

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