2-3
ひさめがかなでを自宅に誘ったのは、沖縄地方で例年より若干遅く梅雨が明けた、7月初頭のことである。それまではかなでの方が比較的仕事のスケジュールの融通が利いた――既に新聞に連載を持っていたからだ――ので、ひさめの休日に合わせて、二人で出かけることが通例となっており、一方がもう一方を自宅に招くということは、かなでにとっては考えても考えつかないことだった。たしかにひさめと仲良くなってはいたのだが、そうするほどの、あるいはそうしてよいほどの関係性に到達したと考えることはなかったし、おそらくひさめも同じように考えているだろう、と予想していたのである。それに、急に自宅に誘ってみたところで挙動不審に陥り、後々気まずい雰囲気になることも目に見えていた。そもそもかなでにとって、ひさめは憧憬とか崇敬に近い感情の対象であって、現在のように友人関係にある方がおかしいのだ――と思っていたからこそ、ひさめから誘われたことは、かなでを驚かせるには十分な力を持っていた。
ひさめが「土曜の午後六時に野芥駅に来て。タオルと布団はこちらで用意するから」と短い文言を送って切り上げてしまったので、かなでは取り敢えず指定された場所に指定の時間に行くしかなくなってしまった。
かなでは書きかけの原稿を眺めながら、相変わらずひさめちゃんって少し強引よね、と呟いた。とはいえ、自分が普段のオフィスで見るような理知的で流麗な「藤原司書」からは創造もつかないような、感情豊かで不器用な「ひさめちゃん」像を知っている数少ない人間なのだと思うと、どことなく優越感というか、自慢したいような(自慢するような相手は特に思い当たらないが)、逆に誰にも教えたくない秘密のようなものを感じた。えー、私って呼んでもらえるくらいの立ち位置なんだ。おうちデートって感じじゃん、何着て行こっかな、と舞い上がっていた……のだが。
「……ってこれ、私泊まるの!? 初回で!? 藤原家に!?」
「武家屋敷」という家屋の形態は、「鷹狩」の時期に日本各地で二つの形態で再び数を見るようになった。
一つは観光地化されていた明治時代以前の武家屋敷を、暗黙の貴族たちがその資産に物を言わせて購入したものである。ここ福岡の地であれば、久留米市のさらに南、有明海を目前に臨む柳川市に建てられている旧柳川藩主立花家の別邸――所謂「御花邸」――がそれに該当する。第二次世界大戦後、明治時代に建てられた御花邸を料亭旅館として営んでいた立花家は、震災の動乱による不況の煽りを受けてその一部を売却。前近代文化に高い関心を寄せていた「貴族」たちの競争入札の結果、二五〇億円で落札された。
もう一つはかねて少子化・首都一極化によって売却された土地や手つかずになっていた林野を貴族たちが購入し、そこに大邸宅を建てたもの。後継者不足による山林と農地の放棄、自治体への寄付は前世紀半ば以前より増加傾向にあったが、そもそも財政が逼迫している状況で、買い取り手が見つからない土地を保有し続けるのは、地方自治体にとっては自傷に等しかった。だが「鷹狩」潮流が始まり、「貴族」たちが都会から離れた山林や農地に関心を向けると、自治体はここぞとばかりに広大な土地を格安で売却。郊外の山中や麓に、大規模な農地を構える屋敷が点在するという、千年前に見られていたであろう景色が広がることになった。
そして、ひさめが生まれ育った藤原邸は後者に当たる。
この種の屋敷は所有者が誰もいない土地を贅沢に開発した結果形成されているため、その敷地といえばそれはもう息をのむほど広い。南北に長い福岡市早良区の中間に位置する藤原邸の前に車から降り立ったかなでは、既に帰りたい気で一杯だった。
「……ひさめちゃん」
「なに?」
「ここ、旅館?」
「まさか。私の生家だよ。もっとも、私の部屋は離れなんだけど」
私と同じくらいの年で離れなんて持ってるのーーーーーー!? と全力で突っ込みたいかなでだったが、そこはぐっと堪える。
思えば、藤原ひさめの生家が普通の一軒家であるはずがないのだ。事前に「七隈線の野芥駅から車で十五分くらいかな。当日は駅に迎えが行くから」という連絡があった時も、何か違和感を覚えていた。「迎えが行く」という言い方は、「送迎の人がいてその車が来る」という意味だったのだ。駅にはひさめが出迎えに来ていたが、実際に駅前に停まっていた車では濃紺のスーツを着た、初老の紳士が乗っていた。かなでは始め、父親の車でひさめが迎えに来たのだと思っていたが、実際はそうではなかった。彼はひさめが「じゃあお願い」と言うと、その紳士は「はい」と一言だけ口にし、滑るように車を走らせた。ひさめは道中、主にかなでとだけ話していたが、それはあの紳士とひさめの仲が悪いことによるのではない。あの運転士は、ひさめと話す身分ではなかったのだ。
ひさめは正真正銘、名家お抱えのお嬢なのである。
落ち着け私、これから大事なお泊りなんだから。大丈夫、ただ友達の家に泊まるだけ……そう……何もここには武士が住んでいるわけじゃないから……。と自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をすると、ひさめの後に続いて重々しく聳え立つ樫の木の門扉を潜った。
ひさめが暮らしている離れは、敷地の南端にあり、母屋からは渡り廊下を三分ほど歩いたところにひっそりと建っていた。離れは二階建てで、中庭に面した二階の窓からは、屋敷全体を一望できるようになっていた。縁側の目の前に立っている羽振りの良い楓は青々と葉を茂らせており、ヒグラシが涼しくなった空に鳴き声を響かせている。
ガラリと音を立ててひさめが引き戸を開け、かなでを中に招き入れた。離れであるため玄関こそ質素であり大きくないものの、やはりそもそもが富豪の建てた大屋敷ということもあって、中は広々としていた。靴棚もまた引き戸式になっており、その上には鮮やかな青色の、豪華な花鉢が置いてあった。花弁は牡丹のように多かったが、牡丹ではなかった。知らない花だな、とかなでが眺めていると、クレマチスという花の一種だとひさめが教えてくれた。これもさっきの人が? とかなでが聞くと、ひさめは首を横に振った。
「離れの方には、使用人はいないの。父や叔父は私の安全を考慮するとか言って使用人を置こうとしたんだけど、流石に私だってプライベートはあるし、押し切って一人で住むようにしたわ。母は私に賛成してくれてたし」
「離れにはいつから住んでたの?」
「高校に上がる時にね」
「じゃ、その時から実質一人暮らしみたいなもんなんだ」
道理で大人っぽいわけだ、とかなでは独りごちた。板張りの廊下が軋み、歩く度に音を立てた。
「ううん。高校の時は、ご飯だけ母屋で食べてた。だから完全に一人暮らしになったのは、大学に入ってからだね」
「ふうん。そういえば離れって、それまでは誰が住んでたの?」
「使用人が住んでたよ。もともとこの離れは祖父の書斎だったから、その時の名残だね。私が一人で住むことになってからは、母屋の空き部屋を使用人には充ててるけど」
角度のきつい階段を上がると、欄間に葡萄と栗鼠の彫刻が施された部屋があった。硝子障子を開けると、十畳ほどある部屋の一面が畳張りで、その隅に、和室には似つかわしくない白いデスクが置いてあった。障子を開けた丸窓からは西日が射し込み、部屋の中に明暗のコントラストができている。床の間は一段暗くなっており、神仙を描いた掛け軸がおどろおどろしく見えた。
「かなでちゃんの荷物はここに置いて。布団は一階の客間の押し入れに入ってるのを持って来ましょう」
「え、私もここで寝るの?」とかなでは口を開けた。
「あら、いけなかった?」
「いや、別に……」
別に嫌というわけではない、というより寧ろ嬉しいのではあるけど、どっちかというと一緒の部屋でよかったんだ、というのがかなでの正直な感想だった。なんとなく、空いている部屋とか別室をあてがわれるものだと思っていた。とはいっても友人を招くのだから、確かに同じ部屋で寝泊まりする方が道理ではあるな、とかなでは一旦納得することにした。
「じゃ、決まりね。布団を持ってきたら、夕飯にしましょう。昨日から仕込んでおいたんだ」と、ひさめはわざとらしく片目を閉じて見せた。この数か月で仲が深まってきたとはいえ、そんな表情を見せたのがかなでには意外に思われた。
台所は離れの玄関の反対側に置かれている。石床の土間を採用してはいるが、石製のシンクには配管がむき出しになった蛇口が取り付けられ、その隣に冷蔵庫が置いてあり、それに向かい合う竈門の上にはガスコンロが置いてあるという、なんともちぐはぐした設えをしている。
「母屋の方は竈門をそのまま使ってるんだけど、流石に面倒くさいでしょう」とひさめは説明した。確かに、使用人がいるならともかくとして、一人暮らしで食事の旅に竈門を使う生活は面倒そうに見えた。
「そういえば、昨日から仕込んでたって言ってたけど、今日は何を作るの?」
「ふふん、それはね……」とひさめは勿体ぶって、冷蔵庫からビニール袋を取り出した。
「唐揚げを作ります! 工程はそこまで多くないのに何気に作らないから」
「あっでも確かに私唐揚げっていったらコンビニで買うか、定食屋さんで食べるくらいしかしないな」
「でしょう? かなでちゃん、料理はできる?」
「私? うんまあ、それなりに」
「オーケー。それじゃ、そっちの鍋つかってお味噌汁を作ってくれない? 私、その間に唐揚げと、付け合わせにポテサラ作るから」
ひさめは滑らかな仕草で長い髪を頭の後で留めた。それに呼応するように、「よっしゃー」とかなではない袖を捲ってみせた。
夏の昼は長い。藤原邸は周囲を山に囲まれているため早くに陽が当たらなくなるのだが、午後六時半を回ってなお辺りには夕焼けの色が残っている。離れの裏にある弓道場では稽古がまだ続いているらしく、時折、カラリという弦音、それに続いて矢の的に中(あた)るパンと高い音が、台所に入ってくる。
「ひさめちゃんの家、弓道場まであるんだね」
「うん。他のお屋敷もこんな感じみたいよ」
「え、他のところに行ったことあるの?」
「そりゃあ、まあうちの会社の関係でね……一応、今は社長令嬢ってことになってるし。行かないわけにはいかないのよ」
「うわあ、大変そうだなあ……。他の家でも皆弓道やってるの?」
「ううん。ウチがたまたま祖父の趣味で弓道場を置いてるだけ。剣道とか柔道やってるところが殆ど。あとたまに空手かな」
「ひさめちゃんも弓引けるの?」
「私はできないよ」と、ジャガイモの皮をするすると剝きながらひさめが言う。
「私はピアノを習ってた。一般に、こういう家の箱入り娘は、お琴か、ピアノか、ヴァイオリンか、あとは茶道、華道、和歌ってところかしら」
「最後だけ急に古風なのね」
「『鷹狩』って言葉は知っているでしょ?」とひさめは肩を竦めた。時間と資産を持て余した、暗黙の貴族たちの金のかかる趣味――社会の授業で聞いた単語を、当の本人から聞くとは思っておらず、かなでは不意に言葉に詰まった。
「別に気を使わせるつもりはないよ。あの時の社会の事を考えれば『鷹狩』だなんて揶揄されても文句は言えないから。まあとにかく、私の祖父みたいに事業で大成功したお金持ちの人たちは、ものすごく『教養』って単語に憧れてたんだよ。それで、武道場を自宅に構えたり、娘には習い事代表の楽器とか茶道に華道、あとは教養としてレベルが高いと思われていた和歌を習わせたりしたってわけ」
「私なら絶対できないわ……」
「薄々思ってたんだけど、かなでちゃんって表面というか、心こそ文学的だけど性根は体育会系でしょう」
「うん……ってウソ!? そんな風に見えてたの?」
口元を軽く抑えてひさめが静かに笑った。かなではわかりやすく口を尖らせてみせたが、やがてそれすらもおかしくなって、耐え切れず噴き出した。そうして二人で、何が面白いのかわからないまま、しばらく笑いあった。
「あーあ。私ももうちょっと『普通の女の子』みたいな暮らしがしてみたかったな」
「え、今でも十分『普通の女の子』じゃない?」
「それはまあ、大学に入ってからは家の付き合いとか抜きにして友達作るようにしたし……。どっちかというと、大学で同期から聞いたような高校時代の友達付き合いにちょっと憧れるんだよね」
なるほど、家柄が良い人には良い人の苦労があるものなのね、とかなでは勝手に納得した。
「だから、かなでちゃんがお友達になってくれたのはとても嬉しいんだ。大学院は忙しかったし、働き始めてから新しい人間関係は作りにくかったから」
「うん、私も…………やっぱり、ひさめちゃんと仲良くなれて良かったなって思う。憧れの人に留めておくのもいいけど、そこで止まっちゃうとちょっと勿体ないっていうか、やっぱり仲良くなりたかったなって後から思うのはちょっと嫌だったから」
ありがとね、とかなでは短く言った。どういたしまして、という言葉が隣から聞こえた。
翌朝、ひさめは雨が屋根に打ち付ける音で目を覚ました。枕元の時計は午前六時前を指している。雨の降る梅雨明け直後の朝は、季節が一足秋に飛んだかのような錯覚を覚えさせた。どんよりとした鈍色の空模様が丸い窓の外に見え、そのまま視線を下に遣ると、かなではすうすうと寝息を立てている。
それまでのひさめは、常に朝が孤独だった。幼い頃は母の隣で眠っていた。だが早くに一人部屋を与えられ、そこで寝起きするようになると、ひさめにとって、朝とは孤独の時間だった。薄暗い大きな部屋の中心に、唯一人だけ自分が在る。中学生にもなると、その瞬間にどことなく感じていた気詰まりはなくなっていたが、小学生の頃は、その気詰まりな空気に耐え切れず、起きるとすぐに窓を開け、空気を解き放っていた。広い監獄から解放されたかった。
昨晩は、夕食を一緒に食べ、二人で風呂に入って、お酒も少し飲んだ。ひさめにとって、それは唯の他愛もない、過ぎていくだけの時間だと思っていた。だが朝が来ても、今のひさめは孤独ではなかった。かなでと共に迎えた朝の寝室から、気詰まりな空気を開放する必要など微塵もなかった。今日は、少しくらい寝過ごしてもいいかもしれない。ひさめは自分の寝ていた布団を抜け出し、起こさないように気を付けながら、かなでの布団に潜り込み、目を閉じた。
一時間ほど経って、かなでがおもむろに目を覚ました。かなでと対照的に朝には弱いらしく、覚醒するのに更に二十分ほど要していた。それが幸か不幸か、同じ布団でひさめが寝ていると気づく前に、ひさめの方が目を覚ました。かなでから午後にシフトが入っていると事前に知らされていたので、二人は朝食を食べた後、コーヒーを飲みながら一時間ほど談笑した。
かなでが帰る時、ひさめも別件の用事のための準備があったらしく、門の前まで見送りに来てくれた。藤原邸に来た時とは違う運転士の車に揺られて、かなではひさめの家を後にした。野芥駅に着くまでに、かなではに誘ってくれたお礼をチャットアプリに送ったのだが、そのメッセージは一週間ほど経っても返信がなかった。かなでは、ひさめちゃんのことだから確認の暇が取れないくらい忙しいのかな、程度に思っていたが、二週間、三週間経っても返信はなかった。八月になり、自分の仕事の忙しさと、蝉の声にかき消されるように、やがてかなでもそのことは忘れていった。
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