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「新人賞? かなでちゃん、すごいじゃない」

「うん、ありがとう、ひさめちゃん」

 かなでは、藤原と二人で、例の大濠公園のカフェにいた。かなでが居を移した直後の六月下旬の休日は、前の日に降った雨のせいでとても蒸暑かった。

「ひさめ」とは藤原のあざな――わかりやすく言えばミドルネーム――である。字という概念はかなでにとっては聞き慣れた概念だが、それは実は先の震災前後頃から、古代の人々の文化を取り入れようとする、所謂『ルネサンス』的な観点の下、一部の人々の間で流行り出した習慣である。

 ルネサンスという文化潮流は、古今東西多種多様な地域で発生した。人口に膾炙している「イタリア・ルネサンス」は十四世紀から十六世紀にかけて生じた文化運動を指すが、文化的に「ルネサンス」という言葉が含まれる出来事は、八世紀から九世紀ヨーロッパのフランク王国における「カロリング・ルネサンス」、九世紀から十一世紀の東ローマ帝国で生じた「マケドニア・ルネサンス」、シチリアやスペインにおける「十二世紀ルネサンス」など複数ある。だがいずれの潮流も「古典時代への回帰」という根底を共通して有している。フランク王国ではカール大帝の下でローマ帝国文化復興と宮廷学校が設置され、東ローマ帝国では詩人ホメロス文学復興を中心とする古代ギリシャ文化の研究が進められ、十二世紀のシチリアとスペインでは古代ギリシャ・ローマ地方からイスラム教地域やギリシャといった東方地域オリエントへと伝播していた文化が逆輸入された。十四世紀イタリアの文芸復興は、諸説があるものの、イスラム勢力の拡大によりギリシャ地域――すなわち東ローマ帝国――の知識人たちがイタリアへと逃れ、古代の文化が共有されるなかで生じたとされる。

 さて、似たような文化現象が二一世紀半ばの日本でも生じた。誰が主導したわけでもなく、そういった潮流があったのである。文化と教育の格差拡大に歯止めが利かないなか、いつしか「暗黙の貴族」と呼ばれるようになった、情報網と資本に富む一部のエリートたちは、通常の学校教育に飽き足らず、古典文化に憧れを抱くようになった。平安文学に親しみ、当時の規範に則った和歌や漢詩を詠じ、弓馬の道を実践し、書画を嗜んだ。もっとも、こうした現象は一般市民というよりは時間と資産を持て余した暗黙の貴族の間でのみ流行った現象だったので、「ルネサンス」と積極的に彼らが喧伝した名称は殆ど定着せず、そうした彼らを皮肉って、同じく多大な時間と資金を要した「鷹狩」という名で呼ぶ人々が多かったようである。

 暗黙の貴族の関心は、名前にまで及んだ。その結果生まれたのが、「字」という慣習である。かつて人名は、「姓」「字」「いみな」の三要素で構成されていた。字は元々中国の習慣であり、成人した人間に通称として付されていた。一方、諱というのはその人の本名だが、古代において貴人や死者を本名で呼ぶの「忌む」つまり避ける習慣から転じて生じた、親、主君といった親しい者のみが呼ぶことを許される名前である。例えば三国時代の有名な武将「劉備」において、劉は姓、備は諱にあたる。彼の字は「玄徳」と言い、このため当時の人々はこの武将を「劉玄徳」と呼んでいた、ということになる。

 ところ変わって、この時代の日本における字と諱の使い分けは、もう少し俗的な背景があったということができるだろう。諱は「一部の者のみに呼ぶことを許されるもの」であり、故にさらに意味が転じて、誰かに開示することで、その二人の間に相応の特別で親密な関係性があることを意味するものとなった。字は命名に際して贈られ、それは大抵季語から引用されている。なお後に学者たちが挙って、字が再興した理由、多くが季語から引用された理由、そして必ず平仮名が用いられた理由を考察したが、誰一人として明確な決断を出せていない。「誰かがやり始めたのがインターネットを介して広まるというある種の流行みたいなものだろう」という意見が通説になっているのだが、そもそもインターネットに蓄積された情報が厖大過ぎるということもあって、それは学問的な見方ではないとする反論が多いようだ。

 藤原ひさめの「ひさめ」もまた字であり、これは夏の季語「氷雨」からとられたものである――実際ひさめもまた、暗黙の貴族の一家を出身としている。以前かなでが「もしかして『ひさめ』って字?」と聞いた時、ひさめはそうだと言った。字を使う程の富裕層。震災直後に立ちあがり、大成功を収めたフジ食品流通会社の創業者の孫がひさめにあたるのだという。つまりひさめは大したお嬢様かつ、綜合司書資格を取得した特権的エリートなのである。

「かなでちゃん、なんだか今日はあまり元気ないみたい?」

「そうね、いつもに比べるとエネルギー足りていないかも」とかなでは肩を竦めた。

 ひさめの身分を聞かされたのはつい先日のことだった。もしかしたらもしかするかも、程度に思っていたのと、もし「ひさめ」が字でなかった場合どことなくきまりが悪いのもあって、なかなか聞きだせないでいたのだった。それがあっさり予想的中とあって、何やら肩透かしのような、或いはかなでとひさめの間に走る社会的かつ根本的な隔絶のような、判然としない霧のようなものを覚えていた。そりゃもう、私とひさめちゃんは較べちゃいけないくらいの差があるんだよね。だからヘンに落ち込む必要なんか全くないんだけれど、やっぱり考えちゃうよね。という身勝手な落胆もあるのだが、かなではそれに加えて自らの将来についての不安を感じていた。

 ついこの間まで千裕の家に居候していたときは、唯なんとなく、アルバイトをして、図書館で本を読んで、帰ったら小説を書いて時々千裕と戯れる、位の生活を送っていた。それが殆ど当たり前だったので、殊更に将来のこととか、自分が小説家デビューしたらとかいうことは考えることもなかった。しかし本格的に独立した今となっては、かなではまさに、自分の足で立たねばならない。それまでは、編集部から担当を付けてもらっていただけで、プロフェッショナルとしてはそこまで期待されていなかっただろう。だが今回の受賞を機に、自分は「小説家」という肩書を得る。それによって得る未来と、己の個人としての独立に対し、かなでは正直なところ、全く持って実感を持てていなかった――そして、実感を持てていない自分に焦っていた――のである。

「もう、せっかく新人賞取ったんでしょう、もうちょっと嬉しそうにしたら?」

「うん、それはそうなんだけどね……。なんていうか、全然実感湧かなくて。それに、これから私、どうなるのかなって考えてると、何か不安なんだよね」

「なるほど、人生の不安ってことだね」

「ひさめちゃんは、将来どうしたいとかっていう……ヴィジョンみたいなもの、あるの?」

 言いつつかなでは、嘗て就職活動で頻繁に口にしていた「ヴィジョン」と言う単語が零れたのに驚いた。ただ違うのは、あの頃よりもそのヴィジョンということばの足が地についていることである。ただひさめの方は、それとは気づかなかった。

「私は……そうだね、このまま司書を続けて、ゆくゆくは国立国会図書館、それか一条記念館で働きたいな」

「一条記念館って、あの一条総理の死後に建てられたやつ?」

「そう。あそこは大きな図書館だけど、同時に哲学研究所でもあって。そこで、言語哲学研究とかできたらいいなって思うんだ」

 へえ、とかなではゆっくりと同意した。グラスに注がれたアイスコーヒーの氷がからりと音を立てた。かなではコーヒーを一口飲むと、頬杖をついて、大きくため息をついた。

「やっぱり私と違って凄いよ、ひさめちゃんは」

「そんなことはないと思うけど……どういうこと?」

「なんていうか……将来はこういう風に働いて、最終的には自分がこういう位置にありたいっていうのを既に具体的に思い描けているところが、かな。私は全然だめだよ。デビューして小説家になった……っていうか、どこからがプロの小説家なのかわからないけど、まあ小説家になったはいいとして、先が全然見通せないんだよね」

「うーん、でも、獲りたい賞とか、メディアミックスの目標とか、発行部数とかって考えたりしないの?」

「わかんない。昔はそういうことに目がいってたかも。でも今はもっと身近なことっていうか……何を考えて生きていけばいいんだろうとか、自分は何者なんだろうとか、そういうことを考えちゃうんだよね」と、かなではカフェの前に広がる池を眺めながら言った。

「月並みなこと言っちゃうけど」とひさめが言った。

「かなでちゃんって、つくづく小説家気質だよね。小説書くために生まれてきたみたいな」

「そんなこと初めて言われたんだけど?」

「己の存在そのものに目を向けて、その問題を問う。文学ってそういうことじゃない。多かれ少なかれ、小説家たちは自分の内を見つめて、世界とのギャップを擦り合わせるなかでそれを暴露して……たまに行き悩んで自殺する人もいるけどね。かなでちゃんの考えていることは、そういうことだと思うよ」

「……私、根っからの小説家なんだね。ちょっと自信湧いてきたかも」

「それ、自分で言っちゃう?」

 向かいの席で、ひさめがくすりと笑った。不意に生温い風が吹き抜けて、ひさめの長い髪を揺らした。右手で髪をかき上げるひさめを見て、かなでは一瞬、自分の体温が上がるのを感じた。

「さて、そろそろ帰ろうか。あまり遅いと帰宅ラッシュに巻き込まれちゃう」

 マグカップを取り上げつつ、荷物が多いからね、とひさめは足下の紙袋を持ち上げた。時刻は四時半を回っていた。かなではグラスの底に残っていたアイスコーヒーを飲み干すと、若干の頭痛を感じながら、同じように紙袋をまとめた。次の休みの日にどこに行こうかという話題は、その日の夜になるまで思い浮かばなかった。

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