第二章

2-1

「かなで、お前に飛脚」

「え、私に? 何だろう」

 六月の蒸暑い夕方だった。仕事から帰宅した千裕が、ポストに入っていたかなで宛ての茶封筒を持ってきたのである。かなではいつもの通り、アルバイトの後、図書館に三時間ほど滞在して帰って来たのだった。

 封筒という実物の郵便形態は、二二世紀となった今でも健在である――それまでの郵便とは少し異なっているが。先の震災によって道路、鉄道が寸断され、多くの空港もまた損害を被った。それに際して活躍を見せたのが「飛脚」だった。始めは東海道の一地域で有志によって始まった、遊び半分、ボランティア半分の活動だった。人の脚は、車になると越え難くなる小さな亀裂を軽々と越えることができる。GPSはどうにか息をしていたので、モバイルバッテリーとスマートフォンを片手に、彼等は手頃な竹竿の先に文箱を括り付け、軽装で脚絆を巻いたいわゆる「飛脚」姿で、三重から静岡の間を縦横無尽に走り回った。その活動と範囲は徐々に人から人へと伝わり、五年もしないうちに、宅配便は運送会社が担っていた一方で、飛脚が郵便の一翼を担うようになった。

 こうして有志によって始まった飛脚は事業となり、「新郵便」或いは「飛脚」として、それまでの郵便事業に併存するかたちで定着することになったのである。それに加えて、人々がやり取りの手段として郵便を活用するようになったことも大きい。電話回線とインターネットの損害は予想以上に大きく、「(ほぼ)確実に届けてくれる」という安心感から、やり取りの手段は手紙・葉書が主流となっていった。こうした趨勢を受けて二二世紀現在、流通している郵便の総量は、二一世紀当時のそれよりも大きいとさえ言われている。

 今しがたかなでの下に(正確に言えば千裕の下に)届いた茶封筒も、福岡市を拠点とする西日本新聞社から街飛脚を通じて届けられたものである。「本郷かなで様」とだけ几帳面な字で書かれた縦長の封筒を裏返すと、左下に「西日本新聞文学賞 新人賞係」というゴム印が捺してある。それを見て、なるほどとかなでは中身を理解した。三月末に投稿した長編小説の選考結果が届いたのである。

「どこからだった?」と、スーツのジャケットをクローゼットに仕舞いながら千裕が尋ねた。

「西日本新聞社。小説の選考結果みたい」

「ああ、三月にあの分厚い封筒で出してたやつか」

「そうそう。審査員の人、読み疲れただろうなあ……なんせ七万字も書いてたし」

 我ながらどうやってあんな超大作を書き上げたのだろうか、と過去の自分のバイタリティを訝りながら、かなでは糊付けされた封筒を親指でざくざく開いた。まあどうせ今回も落選だろう、いい加減大人しく雑誌連載の原稿出さなくちゃな……と思いながら三つ巻きにされた紙を開くと、いつものように簡潔な文言が記されていた。


「本郷かなで様


 拝啓


 この度は弊社文学賞にご応募いただきありがとうございます。厳選な選考の結果、貴殿の作品『アトリエ』を大賞とする運びとなりました。

 授賞式ならびに単行本化に関する打合せの詳細については、追ってご連絡致します。


                                    敬具


 嘉祥一三年 六月十五日

 西日本新聞社文学賞 新人賞係」


「……んんん?」

「どうした」

「ねえこれ……」とかなでは文書を千裕に差し出した。千裕はざっと文書に目を通すと、かなでの方を見降ろした。かなではベッドに座って、千裕を見上げている。

「マジ?」と沈黙を破ったのは千裕だった。かなでは依然として、茫然と千裕を見上げている。

「夢じゃないよね、これ」

「現実だな」

「いやまさか、もしかしたら詐欺郵便の可能性だって」

「封筒の表に認定印があるから本物だな。ていうかこんなことでいちいち詐欺ってどうすんだよ」

 それはそうだけど、と言いつつも、かなでは自分の置かれた状況が信じられなかった。難産も難産の末に提出した作品が章を取るのはやはり嬉しい事なのだが、同時にそれは何とも実感の湧かない、不思議な感覚だった。

「そういえばお前、この後の生活はどうするんだ?」

「え、この後って?」

「いやいや忘れたのかよ、最初に俺んち来た時に言ってたこと……」と千裕はネクタイをクローゼットに戻しながら言った。

 言われてかなでは思い出した。この家に居候する条件として、『小説家としてメジャーデビューするときまで』という期間を設けていたことを。今回の受賞で作品が単行本となり、小説家として世に名を表す機会を得た以上、かなでは千裕の家を出ていくことになる。

「そうだった、忘れてた。私、いっぱしの小説家になるまでって言ってたんだった」

「……別に、いてもいいんだぞ」

「それは……それはどうして今になって?」

「いや、なんかさ。もうこんな生活が当たり前になっちゃったからさ。別に今更……変える必要もないかなって」と、千裕は背を向けたまま、振り返らなかった。

「そりゃ、お前の荷物は多いから小さい部屋が更に狭くなってるし、ベッドも交替で使ってるし、色々と面倒なことはあるさ。でも別に……今は苦にならないと思ってるから」

「それは、」それはずるいよ、とかなでは言いかけた。突然居候を申し出た自分も悪いのだが、迷惑そうにそれを受け入れ、かなでが住むようになってからもある程度ドライな関係を保ってきた今になって、今更「このまま住んでてもいい」だなんて。千裕にも割り切れないところがあるのは容易に想像できたし、かなでも実際に、割り切れない部分がある。だが『本郷かなで』が小説家となった今、約束は約束として守らないといけないし、それに――

「やっぱり私、ここは出ていく。約束は約束だし、それに、独りでちゃんと生きていきたいから」

「……そうか。そうだよな。大人になったな」

 そういってに笑う千裕の顔はどことなく寂しげだった。決意を固めたものの、かなではやはりどこか胸が痛かった。ひんやりと涼しい風が、ひぐらしの鳴き声と街の雑踏を、網戸越しに部屋へ運び込んだ。西の空が朱く染まっているのが見えた。一週間以内に、新居を探して引っ越してしまおう。心が変わらないうちに。かなでは立ち上がって窓とカーテンを閉めながら、自分にそう言い聞かせた。

 ――ここに居られるのも、あとわずかだ。心地いいぬるま湯は、自らの手によってやがて許されなくなる。長い長いモラトリアムのトンネルを抜けると、後ろを振り返ることはもうできないだろう。

 かなでは千裕を呼ぶと、紺色のジャージを静かに下ろした。

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