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 昨日から降り続いていた雨は昼前に上がった。とはいえ空がどんよりと重い鈍色の雲に覆われていて、いつまた降りだすかわからないので、道行く人は皆傘を携えている。もちろんそれはかなでも同様だった。いつものように午前中はアルバイトに入り、お昼過ぎにシフトを終えた。ただ一ついつもと異なるのは、かなでが現在図書館ではなくカフェにいること、そして目の前の席に、藤原司書がいることだった。

 藤原は相変わらず静かである。通りを眺めている藤原の、銀色の眼鏡のフレームが光り、普段の業務中はコンタクト着けてるんだな、などと要らぬ考えを巡らせていた。

「どうかしましたか?」と、藤原がやや困った顔で言った。長いこと無言で見つめていたのを感じ取ったのかもしれない。いやいやいや全然そんなことは、とかなでは慌てて両手を振って答えた。顔が熱いのと、舌が全然回っていない――その割に大きな声を出したので何人かが二人の方を見ていた――のもあって、動揺していることは誰の目にも明らかだった。紙コップのラテを口にして誤魔化しながら、なんでこんなことになったんだっけ、とかなでは急いで今日の出来事を回想した。

 バイトの後、昨日の今日で向かった図書館は休館日だった。今日こそは一歩踏み出すぞ、と意気込んでいたかなではどことなく肩透かしをくらった気分だった。午前のバイトにいつも以上に気合いを入れたのに、肝心の図書館が開いていないのでは意味がない。朝五時に起きて、千裕が起きる頃にはすべての支度を終えていたという、今朝の自分の頑張りはいったいどこへ行ってしまったのか。このまま帰っても何がということもないが何となく報われないので――それと休館のことを言ったら千裕に笑われそうだったので――大濠公園の中に在るカフェに寄ることにしたのだった。ホットのラテを注文し、意外と暖かいからテラス席でも使おうかしら、と思って外に出た時、三台向こうのテーブルに藤原の姿を認めた。

 こんなところでバッタリ会うなんてラッキー、と思いつつ、でもやっぱり藤原さんにしてみれば仕事以外の場所で見られたくないかもな、と考え直したかなでは、気づかぬフリをしてさらに奥の席を取ることにした。遠くから眺める分にはいいだろうと結論付けたのである。が、そばを通り過ぎる時に、藤原の方もかなでの姿に気づいた。藤原は、あら、といってかなでを見上げ、次いで手招きした。向かいにどうです、と暗に示唆されたかなでは、それをわざわざ断る理由もなかったのである。

 そりゃ確かに憧れの存在? というか推し? ではあるけど私的にはちょっと遠くから眺めていたいといいますか――まあ勢い余ってお友達に成ろうなんてことを思ったりもしましたし今も思ってますけど――偶然とはいってもいきなり相席するとかじゃなくてもうちょっと会話の機会が必要なんじゃないの!? と、かなでは自分の経験の少なさを棚に上げつつ、藤原の突然のお誘いに困惑していた。昨晩千裕に自身のウブさを指摘されたばかりなのだが、そんな自分でも解る程の突然さといい、誘っておいて向こうから口を開かないことといい、実は藤原司書も恋愛経験に乏しいのではないか。まあ彼女のお招きにあやかった私も私でチョロいんだろうな。蓋の飲み口に付いた泡を眺めていると――

「……あの?」と、掠れた高い声がして顔を上げると、藤原が怪訝そうにかなでを見やっていた。

「やっぱり、突然誘ってしまってご迷惑でしたか?」

「いやいやいやいや、全然そんなことないですよ。寧ろ覚えててもらってうれしいと言うか……」

「本当ですか? それならよかったです……見たことのあるお顔だったので、もしかしたらと思って。でも、たまたま会ったからといって急にお呼び止めするのはやっぱりご迷惑だったかなと思っていたんです」

「いやいや全然、本当にそんなことないですよ。こちらこそ、この間急に連絡先なんか聞いちゃってすみませんでした。司書さんって今や国家公務員ですし、気軽に友達になるのも難しいですよね」

「そうですね……私たちは、配属先の図書館が決まった時に厳しく指導されます。特に交友関係は」

 そう言って藤原は、アイスコーヒーを一口飲んだ。ざあっと生温い風が二人の間を抜け、藤原の長い髪と、かなでの短い髪を揺らした。次いで雲の切れ間から光が射し、池の水面に反射して明滅している。そのせいで、福岡市街は逆にやたらと暗く見えた。何組かのレジャー客がボートを漕いでいて、池の周りの道を陸上部が走っている。テラス席には今や二人以外誰もいない。静かな午後である。

「藤原さんは、どうして綜合司書になろうと思ったんですか?」

「それは、ここで言うのはなしにしましょう。いずれまたお話します」

 我々は「秘匿の職業」ですから、と藤原が言ったので、かなではあっと口に手を当てた。これまでの会話の軽率さに気づいたのである。

「仕事の話は、仕事の時に。今は勤務時間ではありませんから。そういう本郷さんは、熱心に図書館に通っていらっしゃるんですね。それもオフィスの方に。学生さん?」

「いえ、そういうわけじゃなくて……小説家なんです、駆け出しですけど」

「もしかして、『本郷かなで』さん?」と、藤原が丸い眼を更に丸くして聞いた。かなでがそうです、と言うと、信じられないといった表情をした。

「今時、本名で活動される小説家の方っていらっしゃるんですね……」

「たはは……何と言うか、ペンネームから本人を特定されたときの方がなんとなくいやだなと思って」

「たしかに、それもそうですね。私も昔は――といっても十年くらい前ですが――小説を書いてネットに掲載していたので、理解できます。ちょっとくすぐったい気持ちもしますね」

 

 その時、藤原の腕時計からピピッと短いアラームが鳴った。どうやら電話の呼び出しがあったらしい。慌ただしくアイスコーヒーを飲み干し、バッグをまとめている様子からすると、この後用事があるのだろう。

「ごめんなさい、本郷さん。私、これから行かないといけない用事があって。そうだ、連絡先、交換しましょう。本郷さんとは、楽しくお話できそうですから」

「はい、構いませ――えっ?」

 呆気にとられているかなでを余所に、藤原はさっさとチャットアプリを開いてかなでを友だちに追加すると、また今度オフィスかどこかでお会いしましょう、と普段の物静かな雰囲気からは想像もできない疾風怒濤の勢いで立ち去っていった。

「これは意外と――」意外と不器用なタイプだな、とは、かなでは口に出せなかった。

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