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「いやいやいや、そりゃ当たり前だろ」

 と園田千裕は目を丸くして、振り返って言った。彼はベッドに凭れるように胡坐をかいたまま、なおも咎めるように目線を送るかなでを、肩越しに呆れたように見返した。かなではベッドにうつ伏せになって、乱れたボブカットの髪の隙間から口を尖らせていた。千裕はテーブルに置いてあるすっかり温くなった缶コーヒーを開け、一口すすった。

「考えてもみろよ。向こうは綜合司書だぜ? 国がイチバン大事にしている知識と情報の管理者。素性は一切明かされない。本名で小説家やってるお前と違って、その『藤原』って苗字が偽名の可能性だって高いんだからさ」

「やっぱダメなのかなー、でもお友達になるくらい許してくれたっていいと思わない?」

「どこの馬の骨ともわからねえ奴とホイホイ連絡先交換するような人が綜合司書なんかに就けると思うのか?」

 千裕はピシャリと言った。それはそうだな、と思いつつもかなではどことなく腑に落ちないでいた。何も身に着けていないせいか寒気がして、くしゃみをひとつすると、足元でしわくちゃになっていたブランケットを胸元まで引き寄せた。日中から雨が降っていたので、五月とはいえ寒い夜だった。

「それに苗字が『藤原』なんだろ、ますます厳しいんじゃないか」

 どういうこと、と目を皿のようにしているかなでを見て、千裕はおいおいと驚き返した。一応文学部の出なんだからそれくらい知って置けよと言わんばかりである。それが不服だったので、明日図書館でばっちり調べてやる、ついでに藤原司書の御尊顔を拝んで、あわよくば明日こそ友達になるのだ……とかなでは勝手に妄想した。

「……でもどうしてあの司書にそこまで執着してるんだ?」

「えっ、やっぱこれって執着になるかなあ」と急にかなでは身を起こした。千裕は空になったコーヒーの缶を掌で弄んでいる。

「傍目から見る限りは執着してるよ。午前中はバイトして、午後に図書館に、しかも専門書の方が多くて利用者は大学に関係する人が殆どのオフィスの方に行ってんだろ」

「後は三日に一回くらい読書案内してもらってる」

「そこまでいったらもう執着でしょ」と、千裕は後ろを振り返ると大げさに肩を竦めてみせた。かなではやがて不服そうにまたベッドにうつ伏せになり、枕に顎を乗せた。その始終を見ていた千裕は、部屋の隅に置いてあったゴミ箱に空き缶を投げ込むと爆弾級の発言を投げた。

「なんというかまああれだよな、ウブい中学生が勘違いしてやっちゃうストーカー行為みたいなもんだよな」

「はああぁぁー!?!?!?!?」

「そんなに驚くことか? 言い得て妙だと思うだけど」

 茹でダコよろしく真っ赤になって噛みついて来るかなでに反して、千裕は何ともない顔である。

「ス、ストーカーって……そんな言い草はないでしょッ!?」

「いや立派なストーカーだろ。だいたいお前、ロクな恋愛経験ないじゃねーか」

「ロクな恋愛経験くらい私にも……」

 それくらいあるから、と言いかけ、かなでは口を噤んだ。思い返せば今の千裕との関係性ですらロクなものではない。大学一年の秋にできた、人生初の彼氏。関係は半年くらい続いたが、千裕が就職活動で忙しくなったこと、そもそもお互い別の大学に通っていたことなどから、翌年の六月くらいに別れ話がどちらからともなく切り出された。別れる直前とほとんど変わらない状況だったのに、かなでは何となく寂しかったので、その年の秋頃から、たまに会っては互いの性欲を解消する程度の仲になった。かなでにはそれくらいで丁度よかったし、千裕も新しい彼女ができるまでの退屈しのぎだという風に考えた。結局、その次の春に千裕が福岡に就職したので、三日三晩貪り合った三月中旬を以て、関係は途絶えたかに思われた。

 だが現に今、かなでは博多にある千裕の部屋にいる。かなではもともと東京で就職したが、小説を書くのは辞めなかった。そこで応募した短編が新人賞を受賞し、雑誌連載の話もついたので、入社後一年と一か月後、思い切って仕事を辞めた。これで執筆に専念できるとかなでも思っていたのだが、雑誌連載も振るわず半年で打ち切り、かといって新しい小説も書いてはみたものの満足がいかず、ノートパソコンのゴミ箱には書きかけのテキストファイルが溜まる一方だった。アルバイトをしながら燻った生活を続けていたかなでは、福岡で仕事決まったから、と嘘をつき、仕事と収入を心配する親の目から逃げるように千裕の家に転がり込んだ。初めの内は、新しい家が見つかるまで、一か月くらいのつなぎ程度に考えていた。だがそのつなぎも二か月になり、三か月になり、かなでもやがて自分で家を探すのが面倒になってきた。アルバイト先は福岡に移ってすぐに確保できていたので、なんとなく千裕の部屋を間借りして半ば同棲するような関係が、結局今の今まで続いていたのだった。

「……ないかもしれない」

「だろ? お近づきになるにしても色々もう少し考えたほうがいいんじゃないのか」

「色々って……千裕はその辺わかって言ってるんでしょ、例えばどんな?」

「例えば……例えばねえ」と、腕を組んで千裕が唸る。やがて意地悪い笑顔で振り返ってきたので、かなではちょっと嫌な予感がした。こういったときの予感は得てして当たるものである。

「お近づきになりたいならこそこそ後をつけ回すんじゃなくて素直に話しかけることだろうな。自明の理」

「うるせえ」

 それができてりゃ苦労しないわよ、とわかりやすく頬を膨らまして背中を向けたかなでを後目に、千裕はどこ吹く風とかなでの足元に脱ぎ捨ててあったカッターシャツに袖を通し始めた。

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