傘をさしたら
るな
傘をさしたら
雨が降る。傘をさす。
それは誰もが小さい頃からしてきた、ごく当たり前のことだ。
それじゃあ、もし雨の中傘をささずにびしょ濡れになっている人がいたら、
あなたならどうする?
大学からの帰り道、僕はいつもの帰り道を紺色の傘をさして歩いていた。シンプルな傘だが、柄に変わった模様が彫ってあって、気に入っている。
ふと、前方に同じ大学に通う男子学生の姿が見えた。何度か授業で一緒になったことがある。名前は確か…なんだっただろうか、思い出せない。まだ大学を出て少ししか歩いていないので、同じ大学の学生がいることは珍しいことではなかった。
けれど僕が気になったのは、彼が傘をさしていなかったことだ。雨はざぁざぁと強く地面を叩いていて、もし僕がこんな日に傘を忘れたのなら、大学の購買で迷わずビニール傘を買って帰るだろう。そんな雨だった。
後ろから見た彼は心なしか震えているように見えたので、僕はそっと近づいて、彼が一緒に入れるように紺色の傘を差し出した。
「風邪ひくぞ。ほら、入れよ」
だが、彼は僕が傘を差し出した途端、目にも止まらぬ早さで僕の方を振り向いた。その顔は驚きと混乱に満ちていて、思わず僕はびくりと身体を震わせてしまった。
「な、なんだよ」
「あ、傘、かさ、あ、あぁぁ、あああぁぁぁっっ!!」
彼は僕を見ているうちにがたがたと震え出し、僕を突き飛ばすようにして一目散に走り出した。足元はかなりふらついていて危なっかしい。それに、がむしゃらに走っているがその向こうは…。
「おい、危ないぞ、止まれって…おい!」
僕が必死で呼びかけるも彼は止まることなく、赤信号を無視して道路へと飛び出した。
次の瞬間、大型トラックが聞くに耐えない悲鳴のようなブレーキ音を響かせながら目の前を横切って行った。ごん、と何かがぶつかる鈍い音がした後、トラックはやっと完全に停止した。
一瞬の沈黙。
そして沈黙は周りにいた人たちの悲鳴に変わる。ざぁざぁと雨が降り続ける中、道路が血に染まっていくのを、僕はただ呆然と眺めていることしかできなかった。
直前に話をしたことと事故を目撃したこともあり、僕は警察から簡単な事情聴取を受けていた。僕の他にも、彼と仲の良かった数名の大学生が話を聞かれているようだった。
僕は確かに直前に声をかけたが、それは傘に入れてあげようとしていただけだし、名前もはっきりと覚えていなかったほどだ。警察も僕から聞き出せる情報はほとんどなく、僕は早々に警察から解放された。
警察署を出た時も、まだ雨はざぁざぁと降り続いていた。先程より少しだけ雨足は弱まったらしい。それでも傘が必要なことに変わりはなく、僕は紺色の傘をさす。
そういえば、先程の彼は傘を差し出した途端、何かに怯えているように見えた。僕に急に声をかけられたから怯えたのかと思ったが、よく思い返せばそうではない気がしてくる。
彼は僕越しに何かを見ていたような気がする。まるで僕の後ろに何か立っているような視線だった。
そんなことを考えながら、足を踏み出そうとした時だった。
傘で視界が狭まっている中で、ふと視線の先、遠くの方に、赤いハイヒールの足が見えた。その足はまっすぐにこちらに向かって立っているようだった。視線を上げてみたが、だいぶ遠くに立っていて、合間を人が通り過ぎるので、あまりよく姿が見えなかった。
雨の日にハイヒールを履いていると足元が汚れて大変そうだな。そんなことを考えながら、僕は雨の中、帰路に着くのだった。
夏の空は移ろいやすい。
それからも、雨は気まぐれに僕たちを困らせた。時にぱらぱらと小雨が降ったり、そうかと思えばゲリラ豪雨で傘をさす暇もなくびしょ濡れになったりした。
初めの頃、僕は雨が降る度に亡くなった彼のことを思い出して胸が痛んだ。けれど大学生活は忙しく、たびたび雨が降るうちに、彼のことは思い出さなくなっていた。
そして、今日も講義を終えて外へ出ると、音もなくしとしとと雨が降っていた。今日は天気予報で雨が降ると言っていたので、僕は持ってきていた紺色の傘をさして雨の中へと足を踏み出す。お気に入りの傘をさすだけで、沈んでしまいそうな雨の日も、いくらか気持ちが上を向く。
そうして街中を歩いていて、スクランブル交差点で信号待ちをしている時だった。
ふと、向こう側に赤いハイヒールの足が見えた。まただ、確かこの間も雨の日だった。それに、その日は確か彼が亡くなった日…。
そんなことを考えていると、背筋にぞわぞわと虫が這いずるような悪寒を感じた。
考えないようにしよう、きっと最近は赤いハイヒールが流行っているんだ、それだけだ。
そう思っているうちに、信号が青へと変わって周りの人たちと一緒に自分も横断歩道を渡り始める。
その時、異変に気づいた。
赤いハイヒールは一歩も踏み出さなかった。人の波など気にもしないで、ただそこに突っ立っていた。まるでこちらをずっと見ているようだった。
人が多いので、周りの傘に隠れてやはり上半身はあまり見えなかった。というより、見たくなかった。何故だか、それは見てはいけないもののような気がした。
僕は赤いハイヒールを視界から外すように大きく迂回しながら横断歩道を渡り切ると、そのまま振り返ることなく走って家へと帰った。
一度意識してしまうとだめだ。
それからは雨が降る度に、見たくないと思いつつもあの赤いハイヒールの足を無意識のうちに探してしまっていた。
けれど赤いハイヒールはどういうわけか雨の日でも見える日と見えない日があった。例えば友人達と帰っている時でも自分にだけは見えていた。逆に一人で家にいる時に窓の外からこっそり外を覗いても、雨の中に赤いハイヒールを見つけることはできなかった。
どういう時に見えるのか、ずっとずっと考えていた。そうしてある日、雨の中お気に入りの傘をさして帰っている時、またあの赤いハイヒールの足が前方に見えて、唐突に理解した。
傘をさしている日だ。雨が降っている、というのは絶対条件じゃない。だって、この間ゲリラ豪雨にあって傘をささずに濡れて帰った日にはあの赤いハイヒールは見なかった。前提が間違っていたのだ。
そうしてふと、目の前に見えるいつもの足が視界に入った時、自分が更に大きな間違いをしていたことに気づく。
あの足は、赤いハイヒールを履いているんじゃない。
血塗れなのだ。
綺麗なハイヒールなどではなく、裸足の足がべっとりと血で汚れて赤いハイヒールを履いているように見えただけなのだ。よく見れば、血に塗れた足は形も歪でどこか歪んでいるようにも見えた。
どうしてだ。どうして今まで気がつかなかった。
違う。
気づけなかったんだ。
距離がありすぎて。
そう気が付いた瞬間、さぁっと全身から血の気が引いた。
それはつまり、距離が近くなったから分かったこと。
あいつは間違いなく近づいてきているのだ。自分が傘をさす度に。
その事実に気づいて、僕は一歩もそこから動くことができなくなった。頭は早く逃げろ、今すぐ傘をたためと信号を送っているのに、身体はまるで凍ったように指ひとつ動かすことができなかった。
どれくらいの間、あいつと対峙していただろうか。実際はほんの数分なのだろうが、自分の中では一日中そこに立っていたかのように時間が長く感じられた。つぅっと頬を伝って脂汗が顎からぽとりと地面に落ちる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
そう思っていた、その時だった。
ずぅ、と目の前のあいつの足が一歩自分の方へと踏み出された。それを見た瞬間、僕の身体は弾かれたように後ろへと駆け出していた。走りながら傘をたたんで、ただひたすらに走った。後ろを振り返ることはできなかった。
今まであいつは少しずつ近づいていても、僕が見ている時は動いたりしなかった。けれど今日、あいつは動いた。あの血塗れの足がまた一歩自分へ近づいた。
僕は恐怖でパニックを起こしそうになりながら、雨の中遠回りして自分の家へと逃げ帰った。
それから、僕は傘をさすのをやめた。
ネットで高性能のカッパを買った。雨が降っている時は大学に居残ったり家に閉じこもったり、なるべく外へ出ないようにした。カッパを持っていなくても、雨に濡れながら走って帰った。
そうすると、あいつは僕の視界に現れることはなくなった。
やっぱり傘だ。傘がいけないんだ。
だから傘をささなければいい。
でも、いつまで?
そんな疑問が僕の脳裏をよぎったが、それでも僕は何ヶ月も傘をささない生活を続けた。
ある日、大学が終わって帰る時、ざぁざぁと雨が降っていた。今日は雨の予報ではなかったのに、これだから季節の変わり目は困る。
僕が仕方なく、雨の中走って帰ろうと玄関でジーパンの裾をまくっていた、その時だった。
「よぅ、傘忘れたのか?俺置き傘二本あるから貸してやるよ。途中まで一緒に帰ろうぜ」
ゼミの先輩がそう言って、傘を差し出してきた。
「い、いや。僕は大丈夫なんで。そんなに家も遠くないし、走って帰ります。他の人に貸してあげてください」
「嘘つけ。お前の家、走って帰っても二十分以上かかるだろ。遠慮すんなって」
先輩の誘いを断ったが、先輩はぐいぐいと傘を押し付けてきて、一向にひく気配がない。ゼミの先輩なのでこれ以上は断りづらい。それに、前回あいつを見てから数ヶ月は傘をさしていない。もうあいつは僕に興味がなくなって、現れないかもしれない。きっとそうだ。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「あ、ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて傘、借りますね」
「おぅ。なぁなぁこないだのゼミでさぁ…」
先輩から傘を受け取り、二人で大雨の中を帰路につく。先輩のどうでもいい話に相槌を打ちながら、僕は見たくないのに左右に視線を彷徨わせた。
大丈夫だ、あいつはいない。見えない。やっぱりもう僕に興味がなくなったんだ。
そう分かって、僕はようやく先輩の話にしっかりと耳を傾けることができるようになった。
「じゃあ俺ん家こっちだから。傘はいつでも大丈夫だから」
「はい、ありがとうございました。また明日」
そう言って先輩と別れる。
もうあいつは見えない。それだけで、心がぐっと軽くなった。これからはまた当たり前のように傘がさせる。もうあんな怖いものは見なくてすむ。大丈夫、絶対大丈夫。
そうして曲がり角を曲がった先で、僕はぴたりと立ち止まった。
曲がり角を曲がった先に、あいつが待っていた。
それも、近づいているなんてものではない。
目の前だ。
曲がった先、あと一歩踏み出せばあいつの足を踏んでしまう、そんな位置で、あいつは僕を待っていた。
顔をあげることができない。下を向いている僕の視線には、ぐちゃぐちゃに腐敗した、血塗れの足があった。肉が溶けている。鼻が異臭でひん曲がりそうだ。どろどろに汚れたワンピースの裾が見える。けれどそれ以上顔をあげることができない。
怖い、どうすればいい。息ができない。もう一歩も動けない。怖い。こわい。
傘を持つ手がかたかたと震える。いや、全身が壊れたおもちゃのように震えている。
もう無理だ。無理無理無理無理
にちゃ、と耳に気味の悪い音が聞こえて、僕は反射的に少し顔をあげてしまった。
傘の縁を、あいつの手が掴んでいた。
その手も腐ったかのようにどろりと肉が溶けていて、苔のような汚い色をしていた。爪があるはずの部分からはうぞうぞと蛆が湧き出している。溶けた肉の合間から骨が見えた。
その手にぐっと力がこめられて、傘をめくろうとした瞬間から、僕の記憶はぷつんと途切れた。
がばっと勢いよくベッドから飛び起きる。
ひどい夢を見た、と思ったが、全身がぐっしょりと濡れていて、あれが夢ではなかったことを思い出す。
あの後、確か僕は傘を投げ捨てて一目散に後ろへ逃げ出した。あいつが追いかけてきているかどうかなんて確認できなかった。
ひたすらに走って走って、息が続かなくなって転ぶまで走り続けた。転んだところでようやく後ろを振り返り、あいつがいなくなっていることを確認できてぼろぼろと涙が溢れた。
そうしてあいつがいないか確認しながら、雨の中遠回りを重ねてなんとか自分の家へ帰り着くと、服を脱ぐことも身体を拭くこともせずにベッドへと飛び込んだのだった。
雨で濡れた身体はひどく気持ちが悪かった。温かいシャワーを浴びて、ようやく大きく息をつくことができた。
先輩から貸してもらった傘はどこかへいってしまった。今度必ず弁償しよう。
そう思うと同時に、もう二度と傘はささないと自分に誓った。
それからは、たとえどれだけ雨が降ろうと、カッパを着てやり過ごした。カッパを忘れても、友人が傘を貸すと言っても、絶対に借りずに、どれだけひどい雨だろうと濡れて帰った。
あいつが現れないだけで、雨の中帰っても心が冷えることはなかった。
もういい、僕は一生傘なんてささない。
何度風邪をひこうと、どれだけ他人から変な奴だと白い目を向けられようと構わない。
あいつに会わないですむなら、僕は大丈夫だ。
大学からの帰り道、ぱらぱらと小雨が降っていた。
昨日も大雨で、カッパを着て帰り、迂闊にも家に干したまま忘れてきてしまった。けれど、これくらいの小雨ならカッパなんてなくても大丈夫だ。
僕は躊躇うことなく小雨の中、帰路へつく。
傘をささなくなって、もうあいつは現れなくなったが、雨が降っているとどうしてもあいつのことを考えてしまう。
先輩の傘をさした時の距離を考えると、次は間違いなくあいつは傘の中に入ってくる。
だから、もうだめだ。次はない。
次に傘をさせば、僕は傘の中に入ってきたあいつに間違いなく殺される。
そこまで考えて、僕はようやくずっと前に自分が傘をさしだした彼のことを思い出した。
そうだ、彼もあいつから逃げていたのだ。
…そうして、僕が彼に最後の傘をさしだしてしまったのだ。
彼は僕越しに傘に入ってきたあいつを見たのだろう。彼の恐怖に歪んだ顔が忘れられない。なんと申し訳ないことをしたのだろう。彼は僕が殺したも同然じゃないか。
そう思うと悲しくなって、僕はぶるりと肩を震わせた。
彼のことばかり考えていた僕は、周りへの注意を怠っていた。
僕の後ろからゆっくりと近づいてくるものに、僕は気づかなかったのだ。
それはゆっくりと僕の後ろへと回りこみ。
そして。
「風邪ひいちゃうよ?傘、一緒に入ろ?」
傘をさしたら るな @Runa21
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