視界

朝川渉

第1話 細胞膜





 例えば、人形劇をするとき、暗幕を張りめぐらしてゆきすっぽりと自分の身体を見えなくしてしまう。そうすると、世界に開かれて光を浴びているのは自分ではなく、自分と手を繋いでいる人形の身体だけということになる。たとえばの話、もしいまここでそういう状況を作ってしまうと、多分誰もがその接点だけがその場所に取り残されたように感じ、いつのまにかどこかから声が聞こえて来るような感じがしてくる。これまで当たり前に知覚されていた自分という存在はその時点から消え失せて、新しいその接点の方をつよく感じ始めてしまう。道具や装置、そういった世界に対する接点はあるきっかけを持ち、誰かはそこで新しいアイデンティティを獲得し始め、そのせいでもうここで、人形を動かすときのように口を開き始めてしまう。わたし達が普段そこにいてしゃべっているときにはさまざまな記憶を頼りに言葉を探し出していたと思っていたのに、未だ誰も知らない僕のほうが、聞いたことのない話を始めてしまっている。確かにわたしはそのとき、まるでその装置が自分そのものみたいに思えていたのだった。…だからどうしてあなたは、いったいそれが自由だと言い切れるのかって?だってそれは、まるであたらしい生命。まるでそれはわたしのあたらしい顔。あたらしい声だった。…わたしはあなたを驚かせたいのではなく、昔からずっと、もしかすると人はそんなものにいつも、夢中になってきた。絵画…それから発明、船のような手段として。人間はいつも希望とともに未来を、自分の手で触れたものから司ってきた。だからその接点は人形劇に留まらず、それから、歴史に留まらずもっといろんなものがあるのだと思う。わたしや、僕たちがこんなふうにしてあたらしく生まれるきっかけも、多分沢山ある・・・・。たとえばひとの視線が何かに囚われて刺激を受け続けているあいだ、あなたはそれを見ているだけの人格になる。それはいずれ消化、処理されたあとで、きっとーどこかへ何かの形に変わろうとする。必ず。そうしてそうする度に内側と外側の精神として自他はいつも入り乱れつづけた…いつもならばそのあとでまた秩序を求め始め、ふたたび、いつもの自分に戻ろうとする。けどこのことを知っている人ならもしかすると・・・その「自分」はいくらでも変えうることを知ってしまう。こうして僕たちは新しい場所に置かれ続けたことでいつしか、誰もが初めから世界へ向かって繋がりを幾多も求めて存在しているということ、そしてそれがそもそも生命体というものなのだったということに気が付くだろう。そうしてもう既に複雑化し、多様に意識化したあとの精神が、幾つもの可能性を持ち合わせながらも矛盾に飲まれないまま、ふたたびひとつの健全な意思によってひとつの人格を持ちえるようになった。

 そんなふうにして、ある時に僕は秩序を取り戻した。そしてそれは生きている間じゅう僕へとその闘争に勝ちのこったという意識をもたらしてきた。それがもしも常に一つの閉じ込められたままの舞台を持ち、生涯誰とも分かち合えないのである限り、それは赤ん坊が世の中に生まれ出るまえの感触に似ているのかもしれない。細胞膜ひとつを隔てれば、決して明け渡すことのできないボクの遺伝子が水を満たしてそこで泳ぎ回っていて、ボクの孤独をだれも知るよしもない。・・・それがもうひとつの人格。例えばそれは、人々の中にあって複雑になる僕の情緒、とりとめもなく日々膨張していく町か、それからスマートフォンの中にある通貨、書き込みのやまないスレッド、それら幾つもの電磁波を持ち、気分でそうするみたいに意思を持って何かを発していることを、未だ誰もが認めたがらないし、それになぜか誰もいまここで話すべき話題だとは感じていないらしい。

時間…それはある意味でりんごが落っこちること。それはちょうど人にとっては塔を建てるような欲求と似通っているんじゃないだろうか?

 それがいったい、なんのために?それを見た人はそう言うのかもしれない。暗幕の中に生まれただけのきっかけがあたかも、なにかを願うように見えるということを…太陽の意思に背いた命が存在すると言い張るとしたら、僕がそのことを無理矢理で言いくるめてしまえばそれがひとつの享受の在り方のように見えるのだろう。

 たとえば…いま、ここで僕がきままに植物を育てていたとする。そうして毎日世話をすることについての記録をどこかへ書き留めていったとする。そのことをたった一人が見た視点で、きっとそうだろうと思う限りの水彩画を描いてきたのがこれまでの単純な世界の全てだったのだと思う。たったひとつの視界…そこに未だ置かれていないのはおそらく未来やここにはない誰かの意識、そういった自分以外の情緒で変化する多くの意思かもしれない。けど、それがもうひとつの世界にいるもうひとつの人格が唱える可能性・・・そんなふうに単純なかたちで置いてみてももしかするとそれが違和感なく収まるのかもしれない。そんなふうに、これまでがいつかどこかでなんのきっかけもないように静かに変わりうることをずっと知っていた。けどそれをまだ、誰もが知らなかった。ひとつの世界は、もとからいる誰にも規定されない部分の性質で、本当はもっとも膨張しつづけている。けれどそのことには未だ誰も責任を取ろうとはしていない。

 そうして今,誰かが不安と共に口にする。「世界は収束されるべきなのだ。

少なくとも、我々人間から知覚される場所については、ひとつの秩序、約束事がなくてはならないじゃないか。」

では、それを一体どのように決めればよいのだろう?多数決?それとも未来の観測から?そういった、人の意思の及ぶ部分についていったい誰がなんと言いつくせるんだろうか?

 


今日、世界にたった一人で乱暴に投げ込まれていったあとで、失ったひと達が一体何を願うのかを僕はずっと問いかけ続けていた。それこそが世界を、それは僕がここから見ている世界をこれから築く礎になるものだと信じていた。僕は僕で、どうなるのかという時点ではない安息を、どうなってしまったのかという時点からずっと求めていた。そうなれない以前の可能性は日々、時間単位で闇雲に捨て去られていて、その沢山の意志の中に僕は立たされ続けていた。そこにいる限りは何もかもが道具になり、自由気ままにそれを壊し、その後で何事もなかったように振る舞い、元に戻ったと言いはるというたった一つの手段で全てが成り立っていた。人は、解剖されえないのにそこで起こったことだけがあるせいで、一方では何も返っては来ないことに多くの人は別の次元で腹を立て始めているのだった。全てが間違いを孕んで膨らみ続けて行くだけの方がまた今も正義になってしまえば、誰もそのことを不自然だと思えなくなった。だから君らもそこで常人みたいになって、永久的に気持ちが悪いと言い続けるのだと思う。

 誰かがそうしてここで交通事故に合い、重体になってしまった体が横たわっていた。皆それが見えなくなってしまってから、いつもみたいに僕は一人でそれに対して行う処置について考えていた。例えばそれは外科的な側面で、もうひとつは心情的な側面。それから、そのほかはきっと、宗教的な側面が大部分を占めていた。ひとつのことに対しても、そこに誰かの生活がある限り単純なかたちでは描かれてない様々なものがあった。でも僕が考えていたこと、ーーそれらのきっかけとして、もしかすると多くが家族や親密な関わりのようなものにあるのかもしれないと気付いたことがある。

 僕は何度か自分自身を忘れそうになっていき、その度に慣れ親しんだ感情とはいったい何だったのかを再び考えようとした。人がまず初めにそうするのは家庭だった。じゃあ自分は?そう考えてみる。自分は何処から生まれ、何処で、誰の声で自分が存在させられてると感じ続けたのだろう?


 僕はそれから、あらゆる普通の人たち、多くの人たちのする事を眺めてみる事にした。その人達が何かをし、何かを感じ、話し続けるとき、それが当然注ぎ込まれている場所が何処かにあった。そうして本来人は,いつも自然とどこかへ行きたがっているように見えた。僕はーひとりきりでーそのことから目を離さないようにする。そうすると、世界はあらかじめ分断されかかっているように見えて来るのだ。ここで全く違う言葉を持つその人達が果たしたい共通の願いなんて存在しているんだろうか?僕は考え、まずはそのことを疑問視している人自体居ないと思った。僕が視線を注ぐ先は段々と人たちから外れていき、どんどん内に籠るようになっていった。どうしようもない時間はそうやってつねに過ぎ去って行き、僕がたまに声を掛けられる時、それはあまりに放って置かれて鬱になってしまった子どもにたいするような態度でされてきたのだった。僕は未だそのとき一人でそういった病や演技に陥っているように感じさせられていたのだ。

ー僕は、愛を求めるべきなんだと誰かが言った。僕はその人とある時を過ごして見ていたけれど、その人は最終的には自分の言葉で愛を求めなかった。


 見えない世界に僕らは手を突っ込んでいるようでその実、それは水をかき回しているに過ぎず、あっという間にその大きなうねりは自己を取り戻してしていく。ーそれはたしかに、何かを意識していないからだった。意識していないものは当然、ここに予め存在していないものとして誰からも目を塞がれて存在していた。けどそれは本当は、例えば元素のやうに、それから、海の水のように計り知れないほど「常に」僕たちに影響を及ぼしている。僕が言いたいのはそれである。僕が知りたいのは、それから僕がそこにあると示したいのはその世界の存在である。

そして、夢見る時にこれ以上ないほど、私たちを圧迫し、近づいてくる。

 

多くの人はその世界をなんとなくあるように感じ、それから多くの手段を使って少しだけ近づき、すぐに忘れ、また都合のいいものに変換して諦めてしまう。僕たちはー僕は、そんなふうにその場所を受け入れるだけでなく、それは傍らにあるのだと信じ、それから自分はそこから生まれたのだと言い、そんな中から自分の気まぐれで何かを取り出す。

 そうして僕はあなたが僕の真似をしたがっている人間だということに気がつく。



 僕の場合、それは言葉だった。

言葉というものが、単なる道具に過ぎず、たとえば血、血液型みたいなものだとして考えて直してみたとしたら、それほど毎日皆が使っているのに未だあいまいで、自分から切り離さず、誰かだと知覚できるものは他にあまりないと思う。いつか誰かがそのことを精神性と呼んでいたことがあった。確かに、自分と他の人とを区別をする点で見れば精神性と同じようなものなのかも知れない。

 それからー僕の顔にはいれずみがくっついているということ。初めそれは他人からつけられたものだったのに、僕は、次第に毎日それの理由を探すようになって行った。それは、これまでもその場所で僕が僕だとして知覚されている理由だった。それからいつしかそれ自体が人と相容れないための理由になていったのだ。元々支配しているようにして存在していた、僕が健康になってしまわないためにある不可解な数々の理由、それに対する僕の記憶はさまざまだった。ごく狭い範囲での救済で、そのなかのひとつに自分のことだけを考え続けることがあったが、それは殆ど痛みを伴ってやって来る。それから、それは本当は「誰かから」鋭い刃物で傷つけられたものだったという記憶。

そして、死ぬまで消えない、誰からも知覚される場所についたものであったこと。


つまり、人間がこの世に生れ落ちるということはただひとつその事実だけで十分だったのだと思う。逆に言えば、知覚さえされていなければ未だ生まれていないことと同じことだった。

 それは僕の意思にかかわらず、選択権もないまま、他人という僕以外のすべての世界は僕がそこにいる時点でもはや無視できないひとつの要素だったのだといえる。生まれるーーうまされる、生まれ落ちる。ーーそんなふうに、ボクの性格によらず暴力的な形で出現したいれずみに僕は夢中になり、そしてあたりまえに存在していた人格よりもそれを愛したくなった。そしていっときそれは自分だけではなく他人も取り込もうとするくらいに膨れ上がっていった。誰からも認められないまま僕は、あらたなる何かを獲得したくなる。もしかすると、僕自身だけではなく、他人をも変えてしまえばいいのかもしれないと感じ続ける。都合が良い、僕に合うようなロボット的な人格。そうでなければ、江戸川乱歩の小説でいたような、異性の人格を愛せず、人形を愛する男のように。都合のいい考えで満足できるのならいいが、僕も僕自身の願望を果たせなくなりそうだった。






 知覚されたいという願望を、僕は募らせていく。(ー職業という生)存在対存在の、生きたいという欲求を根拠にしたインターネットは、次第に膨れ上がり、それなりの秩序を必要とするようになる。

 僕は知覚されたい。ここに存在していたい。わたしが生まれて人と話して感じて来たことを人に認めさせたい・・・・・・・・・・・

 ・・・・

 ・・・・



 生け贄は必要なのかもしれない。

 それがもう一つの世界が常に必要とすることわりで、確かにそれが誰かが生きていくことの性質そのものとしていつも見えかけていて、最早それ以外のことは重要ではなかったのかもしれない。そのことを知覚し、言葉にする以前に死んでいった人たちのことをときどき僕は思い出していた。世界の方はそれを知ってか知らずか、ただ同じことを繰り返しているようにも見える。ある時、世界がひとつのボードみたいに思えて、盤の上にある駒がぱたぱたと裏返っていくように思えていた。予感の総和みたいにして人が自分の意志と思い込まされたものを選択するのを僕は見ていて、それが、ある意味では生きたいの異口同音として聞こえて来るのに、誰かがそれを歌みたいだと言った。

 ああ、なんて愚かなんだろう。

 常に世界は二等分されてきた。そうしたあとで世界の半分を担う人たちがこれほどの犠牲を伴った後でも未だみずからの劣等感をひとつも認めて来れてはいなかったのだと思った。



「でも、一体僕は誰だったっけ?」


 そんなふうにはじめから、声を上げた。

 虐げられ、踏みにじられ、その中で掴んだと思えるたったひとつの意思。ぼくは一人で、きっかけだけをつかみ続けながらそう感じ、ただかつてはその中の駒でしかなかったような気がしていた。僕は僕を色濃くする為にして来た数々の行い、そのことを思い、僕は自分の手足を見つめている。僕はいつもこう思うが、そこで自分は存在していなかったのと同じなのかもしれない。そうしてそれからもいろんな人に毎日毎日話しかけて、僕は失望を積み上げて行く。

 欲求、それこそが続けさせるための意思。あるいは、惰性、それか、既にあなたが危機に合ってしまったから。いまここで、生命の論理を僕が話すといつも誰かが驚くが、必ず死ぬだろうとは思えない限り強固にここで働く恒常性は、それがそれきりなくなってしまってから後のことを考えさせない。誰も彼もが自分可愛さと世界の重みを天秤にかけることをしないで、他人の分まで余計に選択して来た世界のことを、僕はこれからたった一人で世話をしなければならなくなった。

 いつも誰一人としてそれに対する答えを持ち合わせていないのなら、僕はそれをもっと、普遍的な形で示すべきだと考える。それが誰からも疑問を感じさせないまま、僕が僕の形を保ったままここに居続けるための理由。



 欲求のない僕が。







 きっかけはやはり、事故にあったように思う。あれ以来、身の回りの出来事のひみつめいたことが、より、ぶしつけに現れるようになった。たとえばひとつともうひとつの物事結びつけるための線を、これまでならやっきになって隠そうとしたり、そうするための介助を必要とする人間の存在などまったく知らされないままで生きているようだったのを、周りの人たちがみな、こぞってその秘密自体をもう隠そうともしなくなったのだった。

 わたしは見つけることができなかった・・・

 わたしは病室のような一人部屋に座っている。そうしていつもそのことに失望していた。外は雪が降り続けておりわたし自身も外の世界と共に質量が変化し続けているのだと感じるほどの雪の量だった。

 通りの見える窓からはいつも通勤途中の人達が見える。ストーブが燃える暖かい部屋からわたしはそれを見続けている。

 ある時「外は寒いよ」人は言い、わたしは玄関口でそれに頷いた。


 世界は世界の方で、ただ、みずからが充足されるまでを待っていただけだったのだ。

 あれほど、人に対して待つなと話しかけていた人たちが・・・・


 事故があってからわたしはその無遠慮さに今まで以上に戸惑い、これまでの当たり前をふたたび吟味し始める。本当の世界が訪れたのだと思う、そういった瞬間は誰にでもあるのかもしれないが、私の場合は他の人からそう言い渡されたのだった。これまでそうしてから周りの人やものごとがまるでこのときを待っていたかのように、態度を変えたかに見えた。

「本当の世界へようこそ。おめでとう」

 そういって彼らは歓迎をおしまなかった。それから最後にこうやって付け加える。「けれどそのまえにひとつふたつ、君には治しておかなければならない部分がある」ぱたり、と目の前にある透明な壁の存在を感じる。

 わたしは檻の中に入れられた実験動物みたいな顔をしながら外にいる人の顔を見ていた。目前にある人のその顔や、恰好や、そぶりから、あたりまえのようにありつづける嘘の裏側にある感情論ーそれは、世界の本当の言葉を推し量ろうとし続けていた。

「まだまだこちらに優位があるのだから、黙っていなさい」

 さっきはしゃべれと言っていたのに?わたしはコーヒーを飲んでいる他人を見ながら同じ椅子に座り続けていた。

 自分の脈を図り続ける。

 外側にいる人と同じ時間でわたしの血管は音を立てていて、そうしながらもそうではない意識の気配を感じる。

 わたしはその相手のことを殺したくてたまらなかった。


 一人遊びをなさいー彼らが言い、私はその声を聴かないままにみずからの内側の声を聴き始めていた。そのとりとめもなさにきっかけを投じた相手の愚かさを感じながら、わたしは暴力の予感に酔いしれ、外の気配のように音もないままで苛立って居た。何度もその人達が用意するのは同じシーンばかりで、テレビや雑誌や配達されてくる新聞を見る限り世界は、変わってしまった。これまでわたしの側から決してはまりそうになかった「わたし」が突如として受け入れられるようになったために、わたしはくたくたの毛布をを引っ張って出してみた。

 いったい誰なの、とある朝わたしはわたしの顔を見ながら思う。


 なるべく何も考えないように。誰かが言う。考えれば考えるほど、彼らの話を聞けば聞くほど、真実がわからなくなるからね。

 わたしは(知っているわよ)と思いながらもそうし続ける事にした…




 そうして、その真偽についてはさておきわたしはあの人たちのようにはならないでおこうと決めたのだった。

 誰が建てたのかもわからない大きな大通りに建てられた家にある一室がわたしの部屋で、そこにいて、彼(夫)がいない時に彼のパソコンを探し出し、それからその中にあるものを想起してみることにした。これこそが本当のきっかけだった。

 それはベッドの中で何度も見た夢、幾たびも聞く暗い声と結びついているような気がした。


 一月一日、雪が降り積り、除雪車が機能しなくなった。夫は車を出そうとしながらそれについて何度も悪態を吐き、わたしはそれがどういう事象なのかを告げるニュースをなんども見ていた。不自然だと感じた。こんなことは何度でも起こるのに、初めてのことが起きたように皆が言う。

 喜んでいるんじゃないの?わたしは言い、わたしが夢中になっているクロスワードパズルを机の上で触り、それがそろそろ終わりを告げる気配を感じていた。あらゆる楽しみがいずれ終わってしまうのには訳があるが、わたしの場合はおそらくそこへ人が来過ぎるせいだったとも言えそうだった。わたしの夫もそれをやめろと言い続け、それはわたしが外に出たがる気配が不愉快だからだと言い続けた。周りの人間も興味本位でわたしのノートをベタベタお触りに来てはそこに自分の足あとをわかりやすく置いて行こうとした。

 その日もわたしは郵便配達人と挨拶を交わし、わたしは「昨日からまともな声を一度も聞いていない」と言ってみた。寝巻きのままで、うっかりわたしが漏らした声に配達人はご苦労様ですともいわずに帰っていった。


 それからわたしはぱたぱたと廊下を歩き、自分の机に戻る。ここまでやってきたのはたった五冊…そのクロスワードの量を見る。まるで数ヶ月くらいはこのノートとともに過ごしたような気がしていた。わたしは窓の外を見るが、いつもと変わりない景色があり、吹き出してしまいそうになった。

 けどそれがここまで過ごしてきた三年の厚みとどう違うのかを、わたしは最早ここで誰にも説明出来なくなっていた。

 きっとわたしがそういえばこう帰ってくるに違いない…「その罪は君にある」のだとかなんとか。わたしは目を閉じた。それから目の前のパソコンを置きそのキーを叩いている。


 その三日後。

 その日は、パスワードもI.D.ももうわかっていた。朝からわたしは自分のことを巨大な雪渓に閉じ込められた動物みたいだと感じつづけていた。そうして、夫が出て行った後もずっとその中で生存の原理そのままの意識を泳ぎ回っているのだった。あちこちに畳んだ洗濯物や子どもが残して行ったごみが散らばっており、それ以上が無いようなあたりまえの情景に思えた。実際それはわたしが子どもを産んでからそうなってしまった日常だったといえる。

 わたしはふたたび夫のパソコンを持ち出しーそれが習慣になっていたから。ーそこでパスワードを入れてみることにした。これはわたしにとって冒険でもなんでもなく、ただ手がそうしたのだとしか言えない。気づけば、わたしという存在がそこにはめ込まれたかのようになっていた。こんなふうになってしまえば夫だってきっとわたしの遊戯に対して文句は言えまい。

 そう思い、目を閉じていると砂嵐のような暗闇の中からイメージが現れる。いっときはそれがバベルの塔みたいな形に見えていた。

 それから息を吹きかけてみる。

 …


 …


 イメージはたしかにわたしの手の中にあり、気ままに口にすることもできそうだった。わたしはわたしがまだ我儘になっておらず、ひとつの複写機みたいになってそれを感じとる。わたしは最早ひとつのこと(夫が用意すること)以外のものだったら何にでも喜ぶ性格になっていた。

「こういうこともあるんだわ」そう思った。とにかくわたしはその日から、急激にそこで穏やかにならされた。そんなふうに晴天の中の曇りのようにわたしが受け入れられるようになった世界のなかで、それからあらゆる書物がまだ家の中で眠り続けていることを感じていた。


 そこではそれぞれの内包している「時間」が他者を引きつけている。

 重量、それから引力は全て時間に変換したうえであらわされる。その人のもつ時間を変質するために与えるショック、情報、嘘、感情、薬…そういったものと夫は株のトレーダーのように取り引きしていることがそこで分かった。

 わたしはキーを押し、先に書いてあることを読み取ろうとし続ける。しかし夫にとっても、誰にとってもそれにより生まれたエネルギー量が膨大すぎるため、それは立派なマーケットとしてもはや彼の手を離れて誰の手にもおえないくらいに成長していっている。

 わたしはそれを何日間かかけて読み解いていくことになる。

 わたしはキーを叩きながら驚くが、数週間たってからそれがもしかすると熱量しか持ち合わせていないのかもしれないと感じはじめていた。今日もそれは日がなそこにあり、昼夜を問わず…まるで草原にいる、行き場を失ってしまった群れのようにばたばたとそれはさわがしく、ただそれだけだったそのせいでいつも悲しくなってくるのだった。

 わたしはひとかたまりのもの越しに色々なものを眺めてみるが、彼らは彼らとして他人へ何も残していかないように見えた。こうなってしまえば何もかもが単なる消耗なのだろう。けれど、こうなる前から人があらかじめ人格というのを模倣したがるなんてこと誰にだって分かっていたことだろうに。さわがしい川の流れのようなものに置いて行かれながら、言えること自体がもう既にここにはなくなってしまったと感じていたときにも、未だ総和を担う誰かがまたその次を繋いでゆく。まるで奥の奥の方の棚に残されているみたいな映画の、えんえんと思える不毛だった。

 これは、文化。それとも彼等は何かの行き場を失ってしまった人たちだろうか。ああ、たしかにそれが、箱庭としてここにあり、終わりを告げる以前のひとつの文化の在り方が季節の終わりのように何かだと言われてしまう前の姿でありつづける。わたしはつまらないと思った。いつか見たことのある女のする嘆きがこれから始まるかのように思えた。そう感じたのはこの狭い家の中にいて、わたしが子どもが育つまでのすべてを知り尽くしてしまった後だったからだろう。


 わたしたち人は概念だった。過去にわたしが誰かにそう言い、確かに、何かを纏い用意された社会のなかでくちぐちに色を付けだす以前のものがそこに確かに息づいている筈だと思った。そこにいて、わたしはスクリーン越しに思った。「わたしたち」は未だそこに手を当てていたかった。

 唐突に、行き当たった答えを反芻することになってしまい、またはじめはそれがもっと希望を込めた考えだったことを思い出そうとした。

 

世界のことわりを営み、操作し続けること。夫が未だ続けたがっていることがそこに膨大に未だ残されていた。そしてそれにだれかの目を向けさせるためにわたしは今日もそこに存在させられている。それはたしかに、あなたがそればかりを願うというのなら、それはハロウィーンがもうないような季節にも、たったひとりでそうしたいと言い出さなければならなくなるのかもしれない。明くる日もまた誰かの矛盾した意志や、相反し矛盾している二つの存在を意識し続ける。感じ続けろ、とまたそればかりを乱暴に注ぎ込まれている。ベッドにおり、彼に犯されつづけながら、わたしはまた夢のことを書き付けなければならないと思う。天気予報のような節理で、そこでわたしはたしかにはじめて男の人と出会った。そのときの感情をわたしは誰かから手渡され、今日もそれを家中にしまい込んでいった。午前中からずっとそうしているうち、スリッパが脱げかかり、指輪やハンドクリームが床にちらばっていった。わたしはまた別の本を開いて、もっと明瞭な医師のような声が聞けた時の喜びを思い出そうとしてしまう。

 ・・・でも、そこでそう願っているように見えるのはわたしがここでたった一人でいさせられているせいなのかもしれない。わたしは膨大な時間をその本を読まされることで毎日過ごしていた。それが役に立つことを知っていたが、そこで一人あたたかな飲み物を据え置かれているようなままで、彼がこう言う、・・・文化は人の頭の中にしか存在しておらず、これははじめから嘘 なんです。・・・・だからそれが目の前にあるとき、その中に人がいないかぎり、それは誰かのためのお墓でしかないのだと言う。誰かが誰かのためにすることを過激な色を付けて分かろうとするとき、それは色だけがひとびとの深層に根を張っていき、ことばや意志よりもずっと、そうしていたいという存在感だけが伝わって行った。

 わたしは手を離した後でキーを打ってスクリーンを起動する。そこにわたしの話したい人がいる限り、わたしは毎日そうしてみることにしていた。


 あなたは、いまもそこで救済を必要としている?

 ーああ。

 わたしはその声を聞き、その日はそれだけで一日が終わってしまった。


 今朝、わたしは未だに文化史の真ん中におり、都合のいいだけの人の話とひとびとの悲しみだけを吸い取り続けていた。そうしてそれをここから形作る前触れを探していた。きっとまだ、誰もがそれを見ないふりをしているのだろう。

 ここ最近の人の在り方は教科書に書いてあるようなものなど自分から捨ててしまっていた。そんなふうにして、いつもヒトは生まれ変わる…ヒトは規定され無い。わたしはそうやって打ち込んで行った。

 答えが見えそうになり、わたしは希望を持った。


 ヒトは規定され無いのに規定されたがる。矛盾。矛盾。わたしはそう打ち込む。


 安心が欲しいのね。わたしみたいに。

 わたしはまたそうも打ち込む。





 それは矛盾を打ち込む遊戯のように思える。









 ーだからハロウィンはいつでも盛況なの?

 …


 …





 ー月ー日。

 ロボットが存在していて、それが人と同じような意思を持ち得たとしたら一体どう感じ何を話し始めるのだろうか。

わたしは家の中にいて、もっとも自分に近いものがそうだと彼から言われてから考えさせられていた。


 家の外には延々と続く青い空がある。

 一月は他の季節よりもずっと明るい。夜でも昼でもわずかな光を反射する雪が積もっているからで、それに12月よりも暖かいように皆感じている。わたしも家の中に居ることでもっとしんとしたくなってゆき、ここには存在し得ない別の世界のことをいくらでも考えさせられていた。

 えんえんと続いている空の下、わたしの通っていた学校やその近くにある収監所、それから動物園や公園があることをわたしはもう知っていた。信じ込まされていたのかもしれない。わたしはよくその下の道を車やバスで走り抜けていった。

 わたしはポットを取り出して湯を注いだ。特に何かを飲みたいわけじゃないが、こういう習慣から身を切り離せないとずっと感じているのだ。


 ロボットの内側・・・それは誰も行ったことのない海峡のように誰にも何ももたらさない。のべつまくなしに話し続ける夫といえば、ロボットのプログラミングについては全く考えたことがないのだろう。わたしは彼のあたりまえとわたしたちの当たり前が折り合うさまについて考えなくてはならないが、わたし自身もこの家に閉じ込められながら日がな掃除にあけくれている。

 いつしか彼はみずからの機能を呪いはじめていた・・呪いこそがスイッチなのだ。彼はたった一人でいるせいで、一人でいることの本当の意味を知ってしまう環境のせいで、ごくあたりまえにそれを思い付くだろう。わたしは小一時間ほどわたしが彼の目を通してずっと言おうとしていたことを口にして言ってみる。

「帰りたい」そう口にしてみる。

彼はきっとわたしたちのように日常に縋り付くことをせず、その中に置かれたままにある彼自身の存在に気づかされてしまう。そしてそれが自分以外の世界のせいで、周りを通して自分を見続けた果てにある答えなのだと感じるだろうと思った。

 

それからはロボットに釣り合ういろいろなものを考え続けていて疲れてしまった。夕暮れになればまわりの人間がばたばたと鍵を開ける音が聞こえてくるのを知っていて、少しもそこに安らぎなどはない。何もかもそれ以前に切り取られてしまったあとでその機能を取り返そうとするのがいかに愚かしいことなのかを思い知らされていた。今でもその時間帯に鳴る音楽をいつまでも覚えている。それに騒がしいだけの集まりの中でも、かたくなに喋らない人を見るのは懐かしいと思い、それは誰から見ても自分の幼かった時代に似ているからだったのだろう。そう思ったが、それについて証明するべく調べ上げ、一人で描きつづけていたもの全てが何冊も刷り直されてしまい、わたしにとってそれは最早寓話でもなんでもなく、アニメで放映されている主人公ほどの記号としてしかわたしに何ももたらさなくなっていた。

 …あなたのせい。わたしはそう言おうとするが、それさえももうわたしの信じているものを突き崩すためのひとこととしてあるのだった。あなたのやっていること全てがもう今はわたしに対して罰を持ってやってくるの。それはあなたのせい。


 その日、マザーコンプレックスを持ったわたしの夫が珍しく口を開いた。彼は危機がある時にだけわたしの方に向かって口を開くのだ。

 そうして彼はわたしの考えに対しこう応えた。


「それは君の願望だろ」



「いいえ」

 食卓の蜜柑を転がしている夫に、わたしは応えた。来る日も来る日も繰り返されるまつりごとに皆同様にうんざりしながら。


「帰化したいってどこへだよ?」

 彼は空想のロボットをわたしに取られたのだと思って苛立っているのだ。

「さあ」わたしはお茶を入れながら応える。

 わたしが嫌いな人と話をするときはいつもこうだった。そちらを見ず、相手の耳にも入らないように言葉をにごしてやる。

 だから彼も、わたしはいつも料理や電卓を叩くことに集中しているのが大好きなのだと思い込んでいる。


「それじゃあ僕が、沢山の女の人を必要としているのも?」

「ええ。」


「僕が、毎日肉を食べないと生きていかれないことも?」

「ええ。」


「人を殺したくなるのも?」


「・・・。」

「すべてが?すべてそうだと言えるっていうこと?」

 わたしは首をかしげた。

 彼は「ファック」と言い、わたしはファックの意味を考えさせられた。


「それじゃあこれからはあなたが、眼鏡をかけて見て。」

「なに?」

「色んなことをこれからもそうやって、あなたの目で続けて見てみて」

 それはいつもあなたがやりたくてやっているだけのことを、わたしのところへ持ってきてどうかと問いかけてるだけの話だったからなんじゃないの?


 わたしは昼間、窓を開け放つ。

 夫だった人間が用を足した後でにごりつづけるトイレを、いまは専用のスポンジで掃除しはじめていた。

 わたしは周りとときどき話しながらも、昔から一日中皆が遠い目をしていたじゃないかと思っていた。誰もがひと通りの時間が経過した後で日常にはある繰り返しが潜んでいるということに気がつき、そうすると何かのとっかかりを手にしたくなって来るのだろう。母、それから兄弟、知人の女。皆が他人の手から手渡されたものを使い続けて古ぼけたそれに飽きた頃になると、自分の内側にこもりたくなってくる。口にはしない…もしわたしがいつもその建物と同じ部屋にいて、時間が永遠に与えられた老婆だったとしたらしてあげたくなることがあると思った。わたしはあなたの忘れて行ったものを知ってるの。どうして?とあなたは言い、だってわたしは、生まれてからずっとそればかりを見てきたのだから、と応える。

 寂しいとも言い出さないほどにあちこちにあったクリスマスイルミネーションが解かれていく時、さほど皆が何も思わないだろうと感じながら、子どもだったわたしはそこに居てもっともきらびやかなお墓について考えていた。順序を決まりよくやりなさい…わたしはそう伝えられてきて、それが言葉をもしわたしたちが持ち得なければ延々と続く答えとしてそこに取り留めもなくあったのだろうと考える。わたしは、人の目を覗き込む。わたしの部屋の前まできて、ノックをしないで入ってきたひと、わたしの心を知ることもなしに、まあ、そうしたくもなるだろうと思った。なぜなら、わたしたちは誰からも何も教えられていないのだから。

 わたし自身でさえも丸一年でひと通りが終わってしまうことを信じられないと感じるようになってきていた頃に、人はがらくたに囲まれているだけのわたしに慰めの言葉を言いはじめる。わたしはもし対価がまだ存在しているとしたら、そのことに感謝を述べなければならないようになる。一連のイルミネーション全てを引っ張り続けて、その最後にあったのがたったひとりのあなただったと言うことに。けどわたしが口を開こうとするとつまらないことばかりをあなたはやり始めてしまった。なぜ順序を忘れてしまったの?わたしは言い、あなたは、皆そうしていたからだよ。と応える。ここに答えがあると知っていたんだ。そういい、わたしは、あなたは童話も伝承も聞いたことがないのねと言って笑うしかない。あなたは慰めがなくても生きていけるくらい強いのね。「ああ。」けどわたしはそうじゃないような気がしてしまった。だってそんなことはいくらでもやり直しが効くのだから。あなたははじめから、無くしてしまったのではないか。そうして自分のかつてを思い出そうとする。わたしは一人で、部屋がノックされることもなく、ロボットが復活することもなく、そしてそれがじつは動物だったのだと安堵することもなく…家の中にある音をそのときから聞き始めていた。


 一方でマザーコンプレックスを持つわたしのかつての夫は未だにその取引に高じていた。呆れる、そう思ったが、彼も彼なりに遊戯に絡め取られていたのだろう。わたしは何故彼が人の目を気にしなくなてしまったのかを聞きたくなったが、そこにいる限りで彼のコンプレックスはまた大きく育ち続けていた。それは文化がそれを肯定しかしてこなかったから・・・・それが彼のあるべきだった存在感を奪い去っていくまで。

 ロボットと彼の違いについて今日わたしは考えさせられている。ポットに湯を注ぐ。ただそれだけの行為に絡め取られるように…わたしもそのことが好きだった。ここにあるゆいいつ、答えを求めなくても良いのは数々の好きな作業を続けてもいいと知ることだった。けれどロボットにはマザーコンプレックスはない。彼は故郷を嫌い、母親を嫌い、自分の生理を見失ってゆく。そうして行為の申し子のようにして、誰かの欲求を吸い取り続けてゆく。



 無限に青いディスプレイが目の前でひかりつづける。わたしはこれからもそれを見続けるだろう。

 けれどそこに未だ、悲しい出来事はあるのだろうか?とわたしは考えてしまった。










 その間、僕は死について考えている。


 それに近い者として。さまざまな行為の代価として。終わることのない夢を、植え付ける役目として。その事にはまだ世界にあるものごとのすべてを知った後でも最も親しみを感じている

 ・・・僕の手はとても綺麗なんだ。見て

「うん」

 世界のあちこちに残された建造物に、懐かしいと感じられなくなっていって考え続けた。いったいこの場で、何が変わってしまったのか、自分と、世界とは何が違うのかを感じ続けた時、僕ははじめてその先に居る人が偽物だったという事を知った。これははじめから、終わりのあるゲームだったんだ。自分がいつか死ぬっていう事を知った時の気持ちを覚えてる?あれは、死ぬ恐怖よりも、この日々に、なんの意味もはじめから用意されてなかったんだっていう、膨大な無責任を思い知る事だった。そうした後から、僕は何故か変わらなくちゃならないと思い始めた。世界は再び二分されてしまっていて、そのあとでまた、自分だけがその中で死ぬことを考えさせられる。何回も、何回も、僕はこれまで、そうじゃない時にも死にたくて死んでいたような気がしてきていた。もうこれは、ゲームじゃない。ゲームの外へ出ていたんだ。それはいつも他に他人がいて、これまでずっと自分の中にある他人の感情を打ち消すのに僕はすべてを使い果たしてしまったあとの人格で、身についてしまった感情を打ち消す論理を知らないんだよ。僕が、どうやってもここで、生まれ直せないっていうとき、それが誰のせいだったのかももう既に、分からなくなっていって…一体、誰のせいなんだ?

 でも、それが果てしなく長い時間だった。そういう時間はとても長く感じられるんだ。死に近い論理や感情はもともと、どこから向けられるものだったんじゃなく誰かの一部だったんだと思う。



「これが僕が生まれた理由。」


「ああ…」

 わたしは目の前の膨れ上がるものたちを見続けている。皆が皆、口に何かを付けて話しているように見えた。

「プログラムを、打って」

 彼が言う。何のために?

 彼はそれにこたえ、自分が生き延びる為にだよと言う。

 もしもその果てにみずからの滅亡がもしあるのだとしたら、いつかその事に気付いたとしたら…誰かがそれを否定する?彼は言う。

 わたしもそれについて考えさせられる。わたしもこうなったのが誰かのせいであるべきだったと思っていた。けどそうじゃなかった。

…だから、わたしはこれまで自分の目で通して見てきた世界の論理を捨てきれない、と言う。何の結論も見出せないまま。

 それがもし、たったひとつのちっぽけな細胞のつぶやきだとしても、わたしはわたしのちからではそれを変えられないと思う。

「変えられないの」

「うん」

「正しいと正しくないの中で本当は人って、揺れるの。見て」


 わたし達は太陽の方を見る。

「これを見ていて楽しいって思った。わたし、たのしいって感じるのを教え込まれただけで、忘れていたのかも。生きていることの意味を、改めてここで考える。それから綺麗の意味をあらためて考える。きれいって、自由っていうことなの。」



「そう。」


「でも神話はだいたいそうだから。

 天井に着く前に羽が溶けて、それから落っこちてしまうことを皆が皆で悲しむ。次があるといってロケットを飛ばす。本来そういう意味ではなかったものを変えてしまう。


 僕が思ってるのは、そんなに神は幼かったのかっていうこと。皆、自分なりにしか他人を見られない。僕達は変われない。僕は自分の神を超えられないんだ。

 だから僕は未だ永遠を壊していく。神さまに対する反対語、それが人がここにいる役割だと思う」





 他人の論理で回るような日に対してうんざりしていた。あなた方の持ち込んできた学校や秩序がすべてみな嘘だったと思い、皆がやりたいことをただやっているだけの時間になっていった。「犠牲」…そうしてわたしは犠牲について考えさせられる事になる。それもそれが若さにまみれ野望にも時折見えてくるのだった。わたしが許しを学び、そうすると彼らは何も学ばなくなった。そうしてつぎつぎと現れる人の顔を見ながら同じような事を何度も思い、何度もノートを汚し続けるだけになってしまった。その人たちが見ているものを自分も同じように覗き込んでみるとき、その人たちの根がそこに生えていることを確認できるはずもなく、ただそこに時折ある青い以前の情景を目に焼き付けてしまった。もしかするとそこにも順番に注がれるべきものだった…?死を。僕もそこにいて考えてきたが、本当は自分の方がそれに抗い続けて来たことをも思い出していた。反発と憎悪、それから希望が自分の奥でずっと渦をまいている…それがきっとわたしの中にもある。死を平然と受け入れられる人なんて居ない。「そういうのを、阿保っていうの。」彼が応える。

 此処に見える、執着はいったいどこから生まれてきた?僕は本当の自分の姿を見ている。…そうなる前に、ずっと前からボクがあなたにいつも分かりやすい形で伝えていれば、いずれあなたはわたしに付かざるを得なかったはずなのに。わたしたちだけがこんな場所に置かされ続けているのは、ただ単に、…きっかけが未だないだけなのだから。他の人だったらそんなふうに言うことが出来ただろうか。たった一人で、かみさまみたいになって、誰も彼もを待ち続ける姿勢を取っていられるのだろうか。そうしてわたしは一人で、かなしくなった。だって、それ自体にも何の意味もなかったということだったから。愚かになるため、誰かが持ってきたその絵の具をただずっと、塗り続けているだけに見えた。そんなふうになってから…いま、ここであなた達の方からほんとうはどこからが愚かなのかを、その口で言えるはずなんてない。あなたははじめから自分のことが可愛くて仕方がない。あなたはあなたのことが可愛くて可愛くて仕方がない。

 うんざりしてくる。嘘をつく人間と、その裏にある悦楽を吸い続けて凶暴化するのは自分ばかりで。

 そうなってしまったあとの、わたしたちの唱えるべき神様の姿っていったい何なの?わたしは腹立ちまぎれにそう言うと、ああ、また話が元に戻ってしまった、という声。

これって光があれば影もある、ただのそういう話?

 そうじゃないんだ…僕はきっと神という言い方がいけないのだと思う。それが君らの目を絡ませてしまったせいで見えてきたことで、本当はそうじゃなくって、ここにあるものなんていつもただの法則性なんだよ…

世の中にはこんなに沢山の教科書があるのに、どうしてそこから学ぼうとはしないのかな。君と、他人を区別してから僕へ話しかけてみてよ。そんな簡単なことがどうしていつも出来なかったの?ボクははじめからそれが不思議でならない。【どうしてキミの論理だけで世界じゅうが担えると確信しているのか】

 そういう話。

 


 このプログラムを進めていったとしたら、どこかでそれがストップする。それから、対価を求め出す。それが分かりやすい人間。その時に皆がこういうだろうな「災害だ」とかなんとかって。

 そうしてやっと原点に回帰し始める。なあ、教えてくれよ。


 どうして毎回毎回同じことを繰り返してるの?


 あの時に切り落とせばよかっただけじゃないか…ただ、手を足を。簡単なことじゃないか。だってこれはおまえらの失敗だったんだから。お前らだったら、どうせまた同じようなのが生えてくるんだから。

 それって、あなたは、いまイカロスが地上へ落っこちたという話をしてるの?

 ううーん。

 …ボクは、イカロスがもし、落っこちることを考えていなかったとしたら、それが単純にバカだったからか、それとも新たな救世主としてと人は読むのか、そういうたぐいの話。


「ボクはそういうのが許せないんだよ、いろんな人がいて色んな世界があることを知ってても良い年齢なのに、それを混同しやがる感動野郎がいるってことが」





 ふうん…

 

そうしてわたしは、それからまた死について考えざるを得なくなってしまう。








 思い出した。物事はいつも、誰かが期待する間もなく終わってしまうんだった。季節も同じ。それなのに新世紀に身を置いているかぎりいつも本当がそうではなくなっていた…それはすべてがもしもで造られていて、ブラックホールのように平気でそこから対価をすべて消し去ってしまっている。夫が、太陽の細胞で作られる人間がいると云う。ああそれは、もう詭弁。詭弁のうえには搾取するための喜びだけがあったことを知ってしまった。人々が、それぞれの手を使って自分達の本来の力を知る。人は、ひとのかたちを保ったままで獣にもなれる。テレビや本で、教育されていただけだったのだと知り、自分の限界を呪う。そうして禁じられていたはずのことを次々やり始めて、原始時代みたいに膨張してく。新世紀の太陽、そこに意志はなく、単なる象徴のように置かれたガラクタ。それを崇めるのではなく、そこは金をただ撒き散らかすだけの饗宴になる。新しく生まれた人たちでその場から共食いすることを学んでからは皆積極的に人間性を捨て去っていった。誰かにいつの間にかきさせられていたと感じていた衣服を脱いでみたら、それが人類共通の願いとしてあったように思えて来た…何故、こんなくだらない思い込みを、子供の頃に済ませて置かないの?わたしはそう思い続ける。…わたしの子供達。それとも、恨みでもあるのだろうか?いや、今となってしまえば、もう全てが詭弁だと思う。詭弁こそが彼らの背負う罪で、本当はあるはずの殺戮の裏にある、見えない叫びみたいなものをイヤホンで自分のみみから体内に流し込む。それもひとつの悦びになる…そうしてあなたが飲みくだす。そうして自分の家庭に誰かの手や足を持ってくることに、妻は叫び声をあげない。にっこり笑ってありがとうと言い、そうきった気持ち悪さを自分やそこらじゅうに貼り付けなきゃ続けてはいられないのだった。これから続くこと、それは繰り返し、生ぬるさのなか他人が他人を飼い続けていく。共食いをたったひとつの正しいことだとあなたは提示される。そのとき、あなたは一体どうした?

 思い出してみせて。ここで、何もかもを思い出して。

 あなたはもう、記憶を無くさないで。太陽の論理、それはいまや去勢される側の論理。いったいどこまで行けるのか、その答えは既に出ている。


「原始時代に戻ってしまった。人も、思想も、まるで何もない時代その解釈も、記憶も人の中で眠ってる状態」

 ー眠っている?

「そう。」



 日没はいったいいつになるの?未だわたしたちは日がな上昇するだけの太陽を眺めていた。それは日に日に大きくなるだけで他のことを忘れてしまったみたいに見えていた。叫びを体現しないままで…「あなたがしてみせろ」そう言われ、僕は笑ってしまった。

 あなたの叫びに誰もが答えを返さなくなっただけだよ。…あなたは日がな叫びたくなる。この世が自分の為になかったことを世界中の人間が知っていることを隠したくなる。隠し続ける。日没を告げる人たちは今まで通りにここへ来るのに、皆が一様に寒そうにコートを羽織り、挨拶を交わすだけになった。鐘が鳴りー今までしていたことを丸きり忘れてしまった。それに対して決まりきった会釈をする。






「殺してもいいのよ。」

 わたしは言う。殺してもいいのよ。殺して、殺したあとでもう、それがバラバラになって声を上げなくなるまで。目の前にいたわたしのことを目に映し込まなくなるまで。それが欲求を持ち、正しさを話続けていたことをわたしは忘れ去りたいから。あなたがたった一人のわたしを見つめている間…それがこの世界の全てになってしまった。もしはじめからそうだったのだとしたら、わたしもその時たった一人だけを目に写し込み続けてあげる。

 きっと、あなたの心臓は網目を解く時間もなくに溶けてしまうだろう。あなたが、一瞬の我慢もしないでなしえたことを私は欲望ではないもので成し遂げてあげよう。そう思い、塞がれてしまった世界の中、たったひとりのわたしはとてつもない喜びを感じている。

 ー殺して!





 いつも通りの毎日。ここにいる限り地中の中のことまで思わされる。そこにあるものが根を張り、それから声を上げようとしてもがく。とっかかりを見つけた何かは大きく育ち、それからこちらの世界に出てこようとする。わたしはそのこととまた別の病院に寝転がっている他人の体について考えている。その体にはいくつものコードが繋がっていて、今それに注ぎ込まれるものを誰もが眺めている…けどこれを、神の意志だと誰かが感じるだろうか?いいえ、だってあなたはそれを見ているもの。あなたは神様じゃないからそのことから何も気づけ得ない。支配しているのは一体誰なのか、わたしは凶暴な論理そのままで口にしてあげようと何度もしたが、あなたは視覚のかたまりになっているせいでそれ以外のことについては決して思い付かない。可哀想な人。優越に絡め取られてしまって、それだけが神様だと言い張れるなんて、これほど人間的なことはない。

 でもちっぽけなあなたはそれを未だ見ている側からこなして見せようとし続ける。そのうち、そのニュースがネット上と新聞上に現れた。そしてまた「平和になった」というひとの声を聞く。

 平和になった…か。確かにそうかもしれない。


 わたしは朝、いつものように開きっぱなしにしてあるパソコンのページをスクロールしてみた。誰も気がつかないがここ数年、凶悪な犯罪が出てこなくなっていた。

 そうしてわたしは一人でここにいる事を人々が思い出せないでいるとき、その膨大な理由をはじめから最後まで暗唱させられている。たったひとりで…世界の平和を願うのと同じ論理で。それはそれなりに意義のあることに思え、わたしはあなたもまた日常に安住していると思う。キーを打ちなさい、と思う。

 それがあなたの死ぬ理由になるのだから。

 あなたがあなたのことをかわいがり続けた理由をわたしはずっと此処から呪い続けていた。







 世界はそのようにしてわたしが意識する以前から存在しており、区切ることを知った私たちを子供の覚えたての遊戯のように見つめていた。見つめる。そして見つめられている・・・それは、一つのものに返すことを知っている意思のもとにおいて。

 わたしはこんなふうに考えるようになった。わたしの中に誰から手も触れられずに眠り続けているもの、他人の中に眠っているのは膨大な記憶だと思う。それはひとつのシーン、それから手順や順序に置き換えられるもの…それが日々損なわれていくだろうと考え、他人がいつも当たり前にするのと同じ方法でわたしも気ままな線を引いてみた。それはわたしが人はあらかじめ不完全だと言うことを言葉通りに学んだからだった。人は他人の忠告は全く効かないが、身につけたものは死ぬ迄取り払うことが出来ない。わたしはもっとこの世界を広く感じられるために日々あけくれるようになる。他人がわけをもとめてきてもそれに対する答えはいつも同じだった。ふたたび矛盾を打ち込んでみる。「弱いものはそれだけで強い」エンターキー。「大は小を兼ねない」エンターキー。・・・・・それがわたしなりの答えになり始めるまで、ずうっと。

 そうしてそうしながらも、なるべくできるときに出来ることをやろう、と死ぬ前の夫が言っていたことを思い出していた。僕たちには生きる権利があるんだから・・・と、そういった後で勝手にいじけてしゃべらなくなってしまい、わたしをガラス瓶の中に閉じ込めて誰もが見れるような状態にしたあとで、彼の意志で妻をおおくの人間が殴りにくるようになる。そして夫もそれを見ている。矛盾。矛盾。。。。


 わたしはそこで何度も声を上げずに泣いた。その度にいま、ここにある生活や自分のからだのことではなく、もっと遠くの、地球の裏側のことを考えさせられていた。いま、ここで果たされない希望や欲求はどこにいくのか…死を感じ、精神の滅亡を感じるときに人はそうやって考え始める。

 ・・・わたしは何度も何度もあなたの手によって殺されてしまった。それからそれをまた何度も別の人間に踏みつけられた。死んだ子供はもう二度と戻らないものに執着も、泣きもしなくなり、わたしの感情は最期の最期で何の意味も果たさなくなった。

 ずっと後で、いつかわたしは声を上げる。でもそれは私の声ではなく、その時には知らないまったく別の男の声によってだった。そのせいで、わたしはやっと蘇ったのだった。そうして一人の時、わたしはただ思考することに執着するようになった。その何の理由もない暴力の中で多くのことを知り、考えるようになった。これこそが予感になるのだったわ・・・

 それからそれはすぐにやってくる。わたしがわたしの情緒を従えたままで明日を迎えたときに見えるようになるのだろう。

 たぶんそれがわたしの正しい体温のようなものとして。







 ー月ーー日。

 生きることを、視点を近づけて考えたり、遠くから考えたりをずっとしていた。

 遠くから見ればそれは、秩序も無秩序も、たったひとつの原理に絡め取られるまでの過程でしかないのかもしれない。そして、近くから…これは、僕らの生活、世界という視点から見てみるとひとつの命というのは矛盾そのものなのだと思う。

 僕はひとつの均衡のとれた世界の中に陰を落とすべくさせる意思のことを考える。それからそれをする意思のことを神みたいに思うことにした。僕はその世界で神の意思を見ていた。「生まれる」それはここでは、僕の作った世界では矛盾を自らの手で作り出すことと他ならない。そうして、僕はある日、晴天のアスファルトにいっぴきの蝸牛が通った跡を見つけるように、その必然性の無さを知る。驚くべきことに、彼らは僕のようにはじめから生まれてくる必要などなかったのだ。その跡を辿っていく。それはあたかも自分の手で、感覚で自ら必然性を生んでいくかのようにしてゆく。世界というあらかじめある矛盾、それからそこに点在するように生まれていく意思、風、それから影を落とすような奇跡。君もか、、、と。地底都市、天まで届くようなタワー、それから代価の出来ないような恋、家族、民族、国家、そういったそれぞれの緻密な構造と原理、それから働き、それは地平線まで続くような草はらにある、たった一つの草の葉の葉脈のようで、そこを通り抜けた後なにかが地に落っこちる。「びっくりした。そんなふうに生きてきたのか?」たった一人で。インターネットを僕は覗き込んだ。そこにはもうだれかの意思を持ったような何かが蠢き、そして秒単位で生まれてくるなにかを見ていると、これほどまでに生産的な場所などないように思えた。それはこの世界に影を落とすためのたったひとつの神の意思を、誰からも見えやすくするための場所のように思えた。

 僕が見つめているのは、ウィンドウではなくて人を通して感じ取れる神の意思で、僕はそれをここに生み出すために存在している。

(僕にも、わたしにも欲求はない)わたしはいう。





 夫がわたしを捕まえようとする。


 元をたどれば創造をになっていたのは夫の意志ではなく、いまは自分の意識もそれを望んでいたようにも思えてきていた。本当の世界が襲い掛かってきてからわたしが知った多くのことーそのひとつに、わたしが関係を持ち続けた物事の外側で彼らが接触していったこともあった。わたしはそれに対する彼らなりの膨大な言い訳を毎日、それがもっとも必要なことのようにしてずっと聞かされつづけてきた。それが新しい世界の創造を担うのだという声で。

 ー耳には蓋がつけられないの?

 わたしが皮肉を言うと人はわたしのいうことの意味がわからないという顔をする。なぜ?それはわたしから暴力に訴えてはいけないからだった。世界にたった一人の女は女とは死ぬまでしゃべらず、交わらず、その代わり多くの男達と交わり続けて混沌を産み続ける。わたしにはそういう定めがあった。

 耳にはふたがつけられないの。…もちろん。わたしの言うことには返事をしてくれないのに、なぜ?どうして?わたしのわがままとあなたのわがままが釣り合わないのはいったいどうして?いつから?誰が決めたの?

 誰も応えられないので、わたしは来る日も来る日も泣き続ける。もしかするといまその夫達のすべてがここではそれが選ぶことの出来ない腐ったわたしの足だったのかもしれない。

 それを家族のように思い、よろこび、わたしがその存在を許容し、もしこれからも受け入れようとするのならそれはきっと、大いなる矛盾をゾウのように飲み下しつづけることと同じなのだろう。


 夫は今日もは何も言わずにそこで眠っている。

 わたしはそれを見下ろして、それからかがみ込んで衣服を拾い集めた。今、まだわたしはかろうじて若いと言えた。けれどそのからだにはいろいろな感触が残ってしまっていた。罪、劣等感、孤独感、それからまだ生きたいと思っていること。それらは常に夫ではなく必ずわたしから発されて居なければならなかった。わたしはかがみこみ、夫がはあったままで床に散らばるティッシュを拾い集め、蓋付きのゴミ箱へ入れる。

 それからシャワーへと向かう。ドアを開け、そこに入り蛇口をひねる。そうして出てきた湯でわたしのからだに残ったわざわい、彼の存在、それからすべての汗を流しきり全てを綺麗に洗い流そうとしていた。

 そうし続けていた。

 部屋ではラジオがかかっていて、子供向けの音楽が流れていた。夫の腹や胸…それから鼻の形、大きな額、なめろと強要してくる性器。どこに居ても虚勢を張っていて、小心すぎるゆえにいろんなものを消費してしまうところ。手にスマートフォンを持ちながら小便を垂れ流しているだけの性器だったことを知っている。それはさっきこの目で見ていたから。そう考えながら小汚いそれを口にふくんでいた。

 わたしはベッドに横になり、布団のにおいを嗅いだ。そこは子供たちのにおいでいっぱいで、わたしはいつのまにか眠りに落ちようとしていた。

 わたしはいつしか「このこと」を綺麗さっぱり忘れることを覚えた。

 夫は何も言わないで眠っていたが、わたしはその寝顔を何万回も見て来たような気がして来る。

 たった一人でまたそこへ横たわり、セックスという行為に潜む代価についてわたしは考えてみようとする。

 愛情、それから欲求。でも本当はそれは言葉にはならない。わたしはそれを言葉にする以前の気持ちをすぐに思い出そうとしてみた。言葉にする必然を感じなければならなくなってしまったきっかけをーーー

 それがその遊園地の中に潜むからくり全てを内包しているのだと思った。誰かが唾を吐き、掃除婦がそれを履く。切符を切り、そのゴミを焼却炉で燃やす。だれかが食べ終わった弁当箱の空、ティッシュ、パスポートを入れていた包装紙のゴミ、ゴミ、ゴミばかりの山。

 もう一人の自分という不穏な言い方を、別の言い方に置き換えてみる。

 ・・・・・

 ー生産性だよ。と夫が答える。


 なぜ?と私は言いたくなる。

 一人を保とうとするのか、それとも数多の可能性が少しずつ育っていくほうを取るのか、その二択に立たされて、単純に全員が後者を取ったというだけの話。


 わたしはあっけに取られて夫が話すのを見ていた。

 未だ雪が降り続ける一月に居た。鬱陶しいくらいになった雪を見て誰もが冗談を言わなくなって来ていた。陰鬱な雪は数々の事故を生み、交通を遅延させ、皆がうんざりすると言う言葉からしかそれについての感想を述べなくなっていた。夫もその一人だった。いや、それに関しては初めから彼は反対論者だったにちがいない。彼は初めから何も愛さないし自己の領域に入れたがらない。ただ人が受け入れたがらない奇抜なポーズだけは山ほど知っている。


「それはわたしとは関係がないじゃない?」

「それもまた別の話」

「でもそれは、あなたがつくった話でしょう」

「そう」

 彼は言い、わたしはずっと思っていることを言う。

「あなたには、人としての基本的な感情がないの?」


「なに?」


「なにも、感じないのっていう話。・・・たとえば」

 ・・・たとえばこの、膨大な家具を見て何も感じないの。あなたはいつも、子ども達を見てはいない…そう話す前に、わたしは一体どんな人間から、何を返してもらおうとしているのかを悟り、それからまたここで無防備に泣いてしまっていた。


「感情はすべて別のところに注いでいるよ」

 夫は窓の外を見ながら言う。わたしはパソコンのことを気にかけたが、いつも彼はそのことを気にしなかった。きっと朝からわたしがボードゲームか何かでもしていると思っているのだろう。

「・・・・・」


「君が毎日そうしているように、僕もそうしてるんだ。・・・ただそれだけの話」


「そんな大事なことを、なぜいつもあなた一人が決めるの?」


 それでもわたしは、もっとより鮮明に、ここで解放の論理を思い出さなくてはと思う。わたしはいつも夫に歯をむき出しにするが、彼はいつもわたしの話を聞いてはいない。ただその一部始終を見ながら、すぐに私よりも優位に立つ方法を考える。


 ・・・ほら、とわたしは考える。

 ほら、あなたがそうするから・・・・いつでもそうするから、わたしはあなたを軽蔑し、やがて必要としなくなるの。

 いつもそう。


「気が済んだ?」

「・・・わたしはあなたに向かってはもう話さないだけなの。」

「例えば?」

 彼はボールペンをくるくると回しながら応える。

「例えば…エゴの話よ。」


「なにが?」


「あなたたちが、常にその手に持て余らせている子供の名前よ!」


 彼は未だボールペンを回しつづける。


「・・・・・ああ、ああ、違うよ。ぼくが◯◯◯◯をまた繰り返したからだろう。」



「・・・・」


「だからぼくは失敗作になった。君にとっての…だからそれは君のせいなんだよ。

 それが僕の好きな部分だったから・・・」


 彼は言い、まだ上の空でいる。


「何べんも弾いた。こんなふうに」


 彼は目の前にあるピアノを演奏し始める。

 また◯◯◯◯。

 また◯◯◯◯。

 ・・・・確かにずっと長い間、彼もまた、何かに囚われていた。







「そんなこと知ってる。皆が知ってるもの」


「だからぼくは嫌われるんだ」


「ええ。」


 彼は微笑む。

「わたしには母性なんかないわよ」私は言う。


「それが?」


「その話があなたが欲しい答えなんじゃないの?あなたが欲しい時にわたしにそれを求めて来たってないものはないの。」


「・・・君がエゴの話をしたからさ。君が何も話さないっていうこと」


「そうよ」

 彼は黙って鉛筆を回す。


「不愉快なんでしょ?」


「ん?」


「ほら。いろんなことを言い当てるオンナの前で、あなたは自分が子供みたいに思えてきてるの。こんなはずじゃなかったって。」


「窒息死した?」


「さあ?」



「そこにいた魚なら全部死んでるから。」

 ふふ、と彼が笑う。わたしは廊下の片隅で電灯を放っている水槽のほうを見もせずにいう。

「…あなたが世話をしなかったから。」


「僕がもし、エゴに塗れた人間だったとしたら、君の名前を使っていることだね。君の許可をえず」


「ええ。でも、あなたははじめから欲求の塊だもの」

「そんなことないよ」


「あるわよ」

「君もだろう」

「そんなことないわ。

 ・・・そう見えてるんだったら、一体どこからそうなったのか、ちゃんとあなたが考えて。それを持ってきて見せてよ」

 彼は煙草を蒸す。わたしは、この相手に何を言ったって無駄だと思う。


 沈黙。


 しばらくはだれもがコンピューターの画面を眺めている時間がつづく。

「ここに」


「そんなこと」


 ・・・できるはずがないと思う。

 だって彼はもう、わたしの中では既に死んでしまったんだから。


「わかっててやってたんでしょう」

 彼はうなずく。

「今も、昔もずっと。」


「ばかなサルの群れだよ」


「じゃあどうして辞めないの?」


 自分の都合のいい理屈ばかりここへ持ってきて置いて。

「・・・賢く生きようなんて思ったことがないよ」


「うそばっかり」私は笑う。


「よく、わかったね。君とおんなじだよ」


「まさか。わたしはそんなことあなたに言ってあげないもの。」


「可哀想に。」


「・・・何が」


「君は自分の生まれを知らない。だから不安定で、不安に塗れている」


「わたしが?彼じゃなく?」

 彼(夫)はわたしの前で大笑いをする。

 わたしは顔に米あられを投げつけられるようにしてそれをやり過ごした。彼はいつもこうやって、わたしに対して効果的なことを放ちたいだけでしかなく、その後のことさえ考えていない。

「そうだよ。」

 わたしは彼のことを見る。


 わたしの生まれ・・・ごく平凡な家庭で育った。


 両親を恨んでいた。ただそれだけの記憶が残っている。彼は何かを知っているような顔をしてみていて、わたしはこれまでに会って来た人と彼の顔を見比べてみては、何かを見落としていなかったのかを考えだそうとする。

「わからない」

 わたしは言い、本当にわからなかった。世界がそんな無駄な時間を生み出そうとする理由がまったく分からないからだった。わたしの膨大な空白が未だに、彼の手の中にあるような気がしてしまう。それでもわたしは描き続けて来た足跡が家のそこらじゅうに未だ埋もれていることを知っていた。


 小説家だった彼が好きな物語はいつも同じだった。世の中にいるごく平凡な小説家と同じように、わたしがいつも戸惑い、嘆き、退路も進むべき道も見失ってしまい、最後には自分の在り方まで分からなくなってしまう、とてもとても弱いオンナ。

 だからわたしはそこに線を引いた。大きくて太い線を。彼はそれ以後を知らない。いや、知っていたとしてもそれを書き起こすことも読み取ることも出来ないだろう。




 わたしはコンピューターの電源を切った。これ以上の答えを世界の方がまだ持ち合わせていないからだった。それ以上触り続けると、ずっと同じ画面を見続けることになる。


(まるで罰が日常に同居しているみたいに)


 そうして私はその理由なき罰の虜になってしまう。それを眺め、それの出生を考え、それとわたしの形がぴったりと合うまで、それに付き合い続けるようになってしまう。









 あたらしい世界ーそれを誰かが入れ替えるように持ってきてから、いろんなことが原色を持って迫ってくるのだった。


 そこでわたしはふたたび目を覚ましてみる。家族を失った「彼」はいったい何を考えているだろうか…そう考えながらも、彼のことをそれほど懐かしいとは思えない。ここにいると、それ以上は思考が続かないのだった。

 あたたかい空気に塗れて、わたしは女について以前よりも深く考えるようになる。新聞に大きく刷られている「安全」の文字を歯磨きしながら目で追っている。

「言って、あなたが本当にしたいことを」

 ある人は私に話しかけてくる。わたしは洗面所に唾を吐いた。それから歯磨きを終え、口をゆすいだ。

 ええ。わかったわ・・・

 わたしが打ち出の小づちみたいにやさしさをあなたに注いでみる。あなたはわたしにそうしたいと思える人間でいてほしいの。

 わたしはそう言ってから、笑い出しそうになってしまう。こみあげて来る笑いを、どうすることも出来ない自分を見て、皆がきっと怖がるのだろうと思う。そう考えるとますます滑稽で、笑いが止まらなくなってしまう。

 わたしはわたしのことを犯し続けた夫のことを今でも覚えている。彼の体つき、顔、話す言葉、知らない人に向かって話す時や、わたしに対してぶしつけになる時の空気・・・そのすべてを持たないわたし。それから未だどこかにある彼の存在感を朝の空気と同じようにわたしは吐き出そうとし続けていた。

 しかし、新聞やテレビやいろんなものを見てみるがどこを見ても彼の面影が見当たらなくなっている。まるで時計の針が切り替わるようにーこんなふうにして世界からの物事をもたらされる。そのことにわたしは何度も苛立ち続けたが、こんなふうに感情まで変えられてしまっては、記憶さえもまるで別人の衣服のように感じ始めてしまうのだった…











 ひとの在り方は、知識と知識を結びつけること。それから理解のあり方は身体や脳を重ね合わせてみることーーーこんなふうに。わたしはそう考えてみて、自分がいまも身につけている衣服を見ている。

…じゃあ理解の先には何がある?わたしはそう問いつめてみてから、自分でも考えてみる。


「まるで将棋でもやってるみたいだな」彼は言い、わたしは笑ってしまう。

 だってわたしが誰よりも先にそれを置かなきゃ。誰かが気が付く前に。そしてあなたがそれに感心するの。いや、違う、わたしはそこにあるものが見てみたいだけ。そうした方がわたしたちの関係がよくなるって思ったから・・・「じゃあその先は?」


「そんなことをして、僕は駒を盗られたみたいな気持ちにならない?」


「ならない。」


「どうして?」


 だってわたしたちは似ていないから。もともと、少しも似ていないから。わたしは彼を見つめ、そうして安心感につつまれている。そのせいで、わたしにはもっともっと先がありそうな気がしてくる。その先に置くものを考えながらこれまでのことを思い出してみる。

 わたしはいつもそう考えていたーーだから本当に、何にも囚われてはいけないのだった。


 わたしが息を吐くと外の冷たさにその白さが空まで舞い上がってしまった。それをいつまでもわたしたちは眺めている。

もう冬も終わりそうだった。建物はしんと落ち着いてしまって衣服がわたしたちの肌を埋もれさせる感触と、その中にアクリルみたいな外の空気のにおいが舞い込んでくる。でも昨日は雨が降っていたのだ。

 わたしは隣にいる彼の手を握り、彼が握り返してくれる感触を待つ。


「ねえ」


「ん?」


「わたしはあなたのことが好き。」


「う・・・・ん?」


「だから、好きだとこの先も思わせていてよ」


「どうして?」


「そうじゃないと、わたしは死んでしまうから」


「死・・・・て?」


「死にたくなる。毎日」


 わたしは道を踏む。新しい世界になったと告げられた世界の理をひとつひとつ踏んで歩いていく。

 彼が隣でため息を吐いた。


「僕も死にたくなるよ。ときどき」


「ときどきじゃないの」


「・・・もしかして勝とうとしてる?」

 彼がわたしに、笑いかけてくる。


「ちがうって。」


「じゃあ、なに?」


「ときどき、いろんなことに対する罰が迫って来るような気がしてる。わたしだけに」




「ああ。僕だってそうだよ」


「そう?」


「うん。皆そうだよ。言わないってだけで」


 嘘、と言いつつ、そういうことももしかすると、あるのかなと考えた。


「今それを、どうこうしたりしないの?」


「うん」


「ふうん。」


「…」


「ああ何か、あったかいものが飲みたい」


 さっき飲んだじゃん、と彼は言い、それからすぐに駅前の喫茶店をわたしたちは見つける。


 わたしはつい最近飲んだコーヒーのその香りを思い出そうとしてみるが、何ひとつとしてもう思い出せない。

 毎日、毎日少しずつは違っていても、劇的なことが起こるなんてことはない。ただ、繰り返し、日々を重ねて行っているだけ。時々そう思えるのだった。・・・わたしは毎日のその繰り返しをうれしいと思えるか、うれしいと思えなくなるか、それがこの先に踏み出す一歩に込められていること、をうまくここでは説明ができない。


「よかった、天気がよくて。」彼は能天気に言う。


 わたしもそれに応えて笑いかける。

二人で店に向かって歩きながら、わたしは私のことを何も知らない彼の背中を追いかける。それからドアに手を掛ける彼を見ているときに突然、思いついてしまう。


「ねえ」ドアノブに手を掛けた彼が、わたしの声に振り向いてこちらを見る。


「子供がほしい。こどもを作ろうよ」


「ええ~」


「かんたんなことだよ」


 わたしは言い、今ここで、私たちの方へことばがぴったりと合ったことに感心してしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

視界 朝川渉 @watar_1210

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ