第2話 除霊

第四章

 テーブルの上に置かれた食器類がかちかちと音を鳴らしていた。水の入ったコップが振動のまま横滑りするので、慌ててすくいとる。

「達瀬!」

 母は泣き顔のまま両手で頭を抱えていた。

「地震だね……最近多いね」

 皿が不意に回転して飛び、顔を倒してかわす。

「地震の時、こういう高所は揺れて食器が飛ぶらしいよ」

 母は怯えた目で、家の中をきょろきょろと窺う。

「この家、どうしちゃったの? こないだまではこんなこと無かったのに!」

 どうかなったのはアパートの一室ではない、花梨だ。倉罫夜如と名乗る少女と出会ってから、様子が変わっていた。

 苦しそうに顔を歪め、歯を食いしばり自分の肩を抱いている。

「どうしたの?」と誰もいないところで心配しても、「ごめんっ、今話しかけないで!」と荒い呼吸が帰ってくるだけだ。

「なんか調子が悪いの!」

 花梨は叫ぶように弁解するが、実はそれは達瀬も同じだった。

 どうしてか食欲が出なかった。ここ数日の異常がそうさせるのか、どんな好物も口の中で持てあまし、嚥下出来ないようになっていた。

 さらに眠るとしくしくと誰かが泣いている悪夢を見て、疲れも取れない。

「ああもう……」

 母は嘆いて、どこからか入手したお守りを取り出してぶつぶつとお経を呟き出す。ゆらゆらと浮かぶ花梨が、それに熾烈な視線を向けた。

「あ! もうこんな時間だ!」

 不穏を感じた達瀬はいつもよりも一〇分は早いのに、鞄をひっ掴む。

「……ごめんね」

 外に出てしばらくすると、花梨がしょんぼりと謝ってくる。

 達瀬は重い頭を振り、今日やるべき事を考えた。

 まずは折り紙だ、今田にその行方と作り方を知っている者について尋ねる。彼の折る少女はネットにも引っかからなかった珍しい物だ。そして西野、安藤は言葉を濁したが彼女が理由もなく人を疑うはずがない。恐らく何かしら花梨と結ぶ線があるはずだ。それを確かめる。

 達瀬は固くなった己の肩に首筋を乗せた。どうしてか肉体が重く感じる。いつからそうなったのか定かではないが、ここ数日不調の中にいた。

 現在も自然に呼吸が苦しくなり、結局、いろいろとやることが山積しているというのに、学校に到着し自分の席にたどり着くと、力無く突っ伏してしまった。

「日比木君……日比木君!」

 何者かに揺すられ顔を上げると、談笑しているクラスメイト達の姿があった。緩やかでなま暖かい空気が滞留している。

「やっと起きた!」

 呆れたような声の先に、困ったような笑顔の育美がいた。

「どうしたの? 朝からずっとだよ? 夜更かしも体に悪いよ」

「あ! 次は現国だったね?」

 慌てて机に手を突っ込むと、育美はふんわり微笑した。

「もう三時限目終わったよ、次は英語だから寝てると怒られるわ、宗近先生怖いぞー」

 育美の赤らんだ生気ある頬を見ながら焦燥する。

 まだ何もしていない、今日はやるべき事があるのに、ただ寝てしまった。

 思わず見上げると、本来なら一番文句を言うはずの花梨は、心ここにあらずといった風で遠くを見ている。

 達瀬は涎を拭きながら今田の席を探した。

 いつも一人で黙々とノートを取っている姿が、今日はない。

 巡り合わせの悪さに嘆くが、その耳にサイレンのように喧しい哄笑が入ってくる。廊下からだった。

 教室を飛び出た彼の目に飛び込んだのは、今田が苦しめられている姿だった。床に力無く蹲っている。表情はよく判らないが苦しそうだ。

 その前にふんぞり返った松葉が聳えている。

「こいつ、さっきクソしてたぜ! 汚ねえやつ!」

 醜く嗤笑する松葉は、まるで子供のような理屈を作り上げていた。

「ったく、毎日毎日本当にウザい野郎だ、あれほどもう学校に来るな、と忠告してやっているのに」

 斑の金髪を手で撫でつけた松葉は今田に唾を吐くと、勝手に上履きにしている革靴で彼の手を踏みつけた。

「……これで明日からは来たくなくなったろ?」

 無抵抗な今田の手を踏みにじる松葉に、達瀬の心は冷たく燃え上がった。

 松葉が何をしているのか、何を言っているのか理解できない。

 何の権利があって今田を罵倒するのか、どういう意味があって今田を傷つけるのか。

 達瀬は薄い息を吸って辺りを見た。

 生徒達は無言で非道を見ているだけだった。中には松葉に同調し今田を嘲笑っている者もいるが、顔をしかめて者もいた。

 だが皆共通している。

『何もしていない』 

 達瀬は一歩踏み出した。その足は地球の全ての重力が掛かっているかのように重い。

 竹本という男だった。

『キョーシ』という、彼が言うには特別な資格が与えられた人種だそうだ。

 達瀬がかつて短距離走者だった時、それを見守る役目だったキョーシは、むしろ妨害をして来た。

 気分次第で練習のプログラムを変え、出来ない者を皆の前で平気で嘲った。

 竹本は若い青年でもない四〇過ぎの男だ。なのに行動は子供じみて、言動はヒステリックだった。

 達瀬が同じように一歩踏み出したのは、その偉そうなキョーシが一人の少女を特に目の敵にしていたからだ。

 実はそんなに記憶にない彼女は、頭が良く可愛らしかった。

 竹本は最初、彼女に露骨な好意を見せ、生徒達が眉を顰めるのにも構わず理由を付けてべたべたと幼い体を触った。

 少女は耐えられなくなったのだろう、それを担任に相談した。

 竹本の扱いは変わった。

 他の生徒と変わらないというのに彼女だけたるんでいる、手を抜いていると喚き、時には暴力を行使することもあった。

 部活に熱心なだけの少女は、毎日泣かされる日々を送る。

 陰で竹本の悪口を言うだけだった仲間達の中、達瀬はある日ついに竹本に正面から尋ねた。

「どうして彼女をイジメるんですか? 先生の行動は教育ではないです」

 唖然とした竹本の顔は、次の瞬間笑みに歪んだ。

 そして目標は達瀬に移った。

 意味もなく何キロも走らされ、どんなに真剣に取り組もうとふざけていると殴られた。マネージャーがするはずの雑用も押しつけられ、いつも意味の分からない罵声を浴びせられた。

 彼を救う者はいなかった。

 仲が良かった友人達も、竹本の類が及ぶことを察知して離れ、必死に揺り動かした勇気で助けた少女も、その他大勢の後ろで沈黙した。

 結局達瀬は部活を辞めた。それなりの展望も目指す所はあったのだが、屈辱に震えながら諦めた。

 退部届を受け取った竹本の顔、優越感に満ちた勝者の顔は今でも忘れられない。

 それからだ、人との関わり合いを避けるようになったのは。否、恐れていたのだ。 

 どんなに親しくなっても、肝心なときに背を向ける。

 もう人に裏切られるのは真っ平なのだ。

 だが、しかし、それでも、達瀬は松葉に向かって一歩踏み出した。

 いつも脳裏にちらついていた竹本の中年男性特有のいやらしい姿が、その瞬間千々にちぎれた。

 実は達瀬の誰よりも熾烈な魂は、醜い行為を前にもう止められなかった。

「おい!」 

 松葉へ向けた声と視線は、自然と暴力的な物となっていた。

「いいかげんにしろ! そんなことをして何が面白いんだ?」

 松葉洋一の顔は嗤ったまま硬直した。

 押し殺した達瀬の声は鋭く、松葉の声帯を一時的に切り取る威力があった。しかしすぐに彼は態勢を整え、荒れた唇を捲り進み出た達瀬を睥睨した。

「何だお前?」

 確かに松葉はある意味で手練れだった。明らかな怒気に青ざめる達瀬を前に、一歩も退く素振りはない。

「何マジになってんだ? カッコつけたいのか?」

 松葉の口辺がまた歪むのを見て、もう達瀬のブレーキははじけ飛んだ。

「何が楽しい? 何がそんなにバカみたいに嬉しい?」

「ムカつく野郎をぶっとばすのは楽しいだろうが! って、てめえも何かムカつくな!」

 それは死刑宣告だ。松葉はそう言いながら獲物を変えてきた。

 だが達瀬はもう怯まなかった。こちらを威嚇しようとしているのか指の骨を一本ずつ鳴らす松葉に、軽侮の眼差しを注いだ。

「少しばかりの暴力自慢が、他人の尊敬されるとでも思っているのか? あんた他に何かできること無いのか? 全くないだろ?」

 松葉の顔から少しずつ笑いの成分が消えていく。達瀬がもはやタダでは引かないと見て取ったのだ。

「大した度胸もないくせに、何一人で不良気取って尖っているんだ?」

「何だと!」

 達瀬が敢えて嘲ると、松葉はすぐそれに流され胸ぐらを掴んできた。

「俺に度胸がない? お前バカか?」

 長身の松葉に吊られている形だが、声を出して笑う。

「何だよ? そのみっともない髪、学校の校則に文句があるなら無理して来るなよ! 見え見えだよ、高校くらい卒業しないと将来が大変……もうその時点であんたは卑怯者で惰弱な負け犬だ」

「達瀬君! バカ! あんまり刺激しないの!」

 ずっと一人で思い悩んでいた花梨がこの状況に気付いたらしく、鋭く制してきた。

 だがその声でも彼は止まらない。

「今田がムカつく? 違うだろ? 今田君が弱そうで丁度良い、俺は弱い者ばかりイジめています、だろ?」

「達瀬君!」

 花梨は何か言いかけたが無意味だった。その前に凄まじい勢いで殴られた。横頬の痛みと勢いに倒れた達瀬だが、松葉への非難を止めなかった。

「大体、あんたはずっと大多数を装っていたが、みんなお前に何かと迎合すると思ったのか? みんなは思っているさ、またバカが無意味に暴れている」

 達瀬は酸素を断たれてしばし喘いだ。松葉の靴がみぞおちに突き刺さっていた。

「てめえ……てめえ」

「……何だよ、反論も出来ないほど図星なんだな」

 床に蹲りまだ続ける達瀬だが、そこまでだった。

 松葉が彼のYシャツののど元を掴み、滅茶苦茶に拳を振り下ろしてきたのだ。

「やめて! やめなさい! ちょっとやめてよ!」

 花梨は悲鳴を上げたが、その声は誰にも届かず、振り上げた手も松葉を空しくすり抜けた。

 松葉の拳は達瀬の鼻やら唇を激しく傷つけ血飛沫が飛んだが、彼は至って冷静に散る血を観察する。

「だ、誰か!」

 花梨は己の無力を悟り呼びかけるが、生徒達は唖然と見つめているだけだ。

 ―基本的に声も聞こえないって。

 どうしてか、達瀬はこんな時に花梨の行為の致命的な部分を、面白おかしく指摘した。

 再び砲弾のような勢いで頬に拳が入り、そのまま倒れ込んだ。

 松葉がシャツから手を離したのだ。だが彼は陰険で執念深い、そんな程度で許すはずがなかった。

「思い知ったか……俺がその気になれば……お前なんて」

 切れ切れに呟きながら、横腹を思い切り蹴り出した。

「……ちょっと!」

 苦痛をかみ殺していたが、顔を上げてしまう。花梨の声に尋常ではない揺れを感じたのだ。

 見上げると彼女は一方的に蹴っている松葉をじっと睨んでいる。

 ―花梨?

 内臓に響く鋭い痛みを忘れる。

 彼女は再び変わっていた。昨日、訳の分からない少女と遭遇したときのように、顔から生気の彩りが消え、黒髪が生きているかのように逆立っていた。

「……いい加減にしなさいよ……自分が何しているのか分かっているの?」

「こいつ、今頃怯えてやがる、簡単には許さねーぞ!」

 首を竦めた達瀬に、勘違いをした松葉の侮蔑が降ってきた。

 達瀬が怯えたのは、何重にも引き裂かれた花梨の声だ。

 突然近くの水道から一斉に水が噴出し出した。窓ガラスが誰かに叩かれているようにばんばん鳴り、午前中故に消えていた蛍光灯がちかちかと点滅する。

「これ以上……達瀬君をイジメるのなら……」 

 花梨は細い腕を気付かぬ松葉に伸ばす。

「うら!」と松葉に蹴られながら、焦った。

 肉体は悲鳴を上げていたが、それ以上に花梨の変貌が、その意味するところが恐ろしい。何故皆、異変に気付かないのか。  

 生徒達はただ、怯えた目で蹴られている達瀬を見つめている。

「もう……ゆるさない……」

 花梨の声に危険な響きがあった、達瀬は掌をかざして制止しようとした。

「やめなさい!」

 冷静な声が響いた。

 あまりにも冷ややかな声に皆、興奮していた松葉まで動きを止められる。

 生徒達の間を大きく割り、女生徒が立っていた。楠真希だった。彼女はこの状況に全く動じず腕を組んで胸を張っていた。

 彼女の背後にいた野々村潤が微かにうんざりした様子を見せながら、松葉に駆け寄る。

「洋一! もうさすがにヤバイよ、このままだと学校辞めさせられるよ」

「だけど……こいつがよう……」

「このバカなら思い知ってたって! あんたのスゴさ」

 潤に囁かれている内に松葉の顔から怒気と鋭利さが消え、どこか惚けたような表情を浮かべる。

「そ……そうだな、そうだ、思い知ったか!」 

 松葉はそう頷くと、潤に引かれるまま去っていく。

 事態の急変にほうけている達瀬の血まみれの鼻に、かぐわしい香りが揺れた。

「バカね……本当バカ」  

 言葉とは裏腹に、楠真希は穏やかな微笑を浮かべている。

「あんなうすのろ、相手にするだけ無駄なのに」

 彼女はスカートのポケットからブランド物らしいハンカチを出すと、そっと唇に当てる。

 鋭い痛みが走り、顔を顰める。

「じっとしていなさい、あれだけやられたんだから、保健室へ行きましょう」

「……でも」

「松葉なら大丈夫、あいつは潤のカレシだから、何とか言いつくろっているわ」

 真希に手を貸され何とか立ち上がる。

「あんた!」

 真希は不意に厳しい語調になった。それは今までじっと見ていた今田に向けられたものだ。

「何ぼけっとしているの? 助けられたんだからお礼くらい言いなさいよ!」

 今田ははっとして顔を伏せ、もぐもぐと口の中で「ありがとう」と言った。 

「何であんな奴助けたのよ? こんな目に遭って!」

「あんな奴、じゃない、今田君はクラスメイトだ」

「やられる奴にもそれなりの理由があるのよ」

「そんな馬鹿な話しあるか!」

 真希に支えられている達瀬だが、彼女の端正な横顔を睨む。

「……イジめられている奴にもそれなりに悪いところがある、なんてのは詭弁だ! 卑怯者の言い訳だ!」

「わかったわかった」

 真希は軽く流し、達瀬に肩を貸し保健室へと歩き出した。

 無言で生徒達が左右に分かれ、彼等に道を作った。ふと気付く、その中に怯えた目を見開き、憂色漂わせる育美もいた。

「なんだこれ!」

 突然、一人の生徒が高い声を上げた。ようやく激しく震えながら水を放出し続けている水道に気付いたのだ。 

「ちょっと……」

 何かに叩かれているように揺れている窓の様子に女子生徒が、不安そうに呟いた。

 達瀬は首を巡らして花梨を探した。

 彼女は未だ鬼気迫る表情で、廊下のずっと先にある松葉の背中を睨んでいた。

『後悔するわ』

 夜如の言葉がどこからか蘇り、達瀬は激しくかぶりを振った。

 

 柊真希により連れてこられた保健室には、養護教諭の飛田章子がいる。彼女は氷賀子高校の教師らしく不自然な怪我について一言も追求せず、ただ消毒液を塗り包帯を巻いた。

「しばらくここで安静にしていなさい」と飛田は何か書き込みながら背中越しに言い、白いカーテンで区切られているベッドへと移動させられた。

「無謀と勇敢は違うのよ」

 ずっと背後で黙っていた真希が、ベッドに座る彼に嘆息を当てる。

「松葉と私は同じ中学だから分かるけど、あいつはただの下らない暴力施行者に過ぎないから、ほっとけば良かったのよ」

 熱く甘い香りにくらくらしながら、達瀬は何とか反論する。

「でも、今田君が……あんまりにも可哀相だ」

 真希は表情を緩めた。きついイメージのあった彼女だが、そうすると遙かに可愛らしくなる。

「……そうね、しかし驚いた、あのバカに刃向かう奴がいるなんてね」

「今までがおかしかった、どうして俺は何も知らなかったんだ? そう言うフリをしていたんだ……」

 それは達瀬の本心だった。竹本というトラウマにより世の中に関わらず、ただ眺めているだけだったのだ。

 教室から世界から皆から背を向けていた。だから大切な花梨が失われたのに何も感じなかったのだ。

「でもね、世の中にはほっといた方が良い事もあるのよ、わかるでしょ?」

 真希は唇を強く結び、きかん坊をなだめる口調に改まった。

「松葉はこのまま行けば間違いなく学校から消える、あいつの成績は散々なのよ、だから他人に意味無くあたりちらす、ここに入れたのだって前にイジめていた子のカンニングしたんだから、案の定ついて行けなくなってドロップアウト、まあちょっとでも真面目なフリ出来たのが進歩ね」

「だけど、だからそれまで見て見ぬふりなんて……」

「だったら今田って奴が真っ先に刃向かわないとダメでしょ? あいつは誰かに助けて貰おうとずっと考えていたのよ、そんな情けない奴助けたって無意味よ、私はあいつのこと信用できない、だから手を貸さないの」

「誰だって松葉みたいな奴は怖いんだよ! 一人なんてムリだ!」

「あなたは一人だったよね? その今田も加勢してくれないのに、一人であいつに刃向かった」

「違う」と言いかけた。達瀬は一人ではないのだ、今はじっと浮いているだけだが、花梨がいた。

 達瀬には分かっていた、花梨が助力してくれることを。現実には何も出来ない、声も手も誰かに届かないのだから。

 だが、花梨が一緒にいてくれるというだけで、世の中の恐怖も孤独も和らぐ。怒りに燃えた松葉など恐ろしくなかった、その拳は痛かったが肉体しか傷つかなかった。達瀬の心はむしろ強くなっている。花梨がいてくれるなら、何度でも松葉と、どんな苦境とも戦える気がした。

「真希、遅くなったネ」

 すっとカーテンが引かれ、潤が顔を出す。

「どう?」

 真希に問われた潤は二人にウインクをしてみせる。

「ダイジョーブ、洋一なら『もうあいつはいい』とか言ってた、あれは単純だから扱いやすい」

 真希はふっと息をついた。

「あんたの勇気に免じて今回だけは助けてあげる、次は自分で何とかしなさい」

 と華奢な指をくるくる回して、茶色の巻き毛をなぞる。

「あ、ありがとう」

「お礼をしたければ形あるモノで、具体的に言うと果物のタップリ入ったアイスクリーム」

 そう要求すると、真希はにっこりと笑って潤を連れて保健室を出て行った。 

「女の子はみんな食べ物が欲しいんだね」

「……そうよ、女の子は食べるの大好きなのよ」

 今まで一言もなかった花梨が、ぶすっと答える。

「え、ええっと……花梨さん」

「何よ?」

「……何か気に障る事しました?」

「随分と柊さんと親しいのね? 彼女優しくてヨかったね」

「うん、何か意外だった、助けられるとは……て、何で睨むのさ」

「別に」

 花梨はぷいとふくれた横顔を見せる。

「でも……柊さん、あんなにいい人だったなら、もしかして仲良くなれたのかも……」

 花梨は雲のようにふわふわと漂っていた。

「で!」

「うわっ!」と達瀬が飛び上がりかけたのは、呑気に浮かんでいた彼女が突然、襲いかかるように肩を掴んできたのだ。

「どうしてあんな無茶をしたのよ! このバカ! こんなに傷だらけになって!」

 間近で傷を調べる花梨の瞳には、涙が盛り上がっている。

「イヤだったんだ……」

「何が? 私に事細かく言ってみなさい! 柊さんに答えたのよりも詳しくよ」

「俺は何も知らなかった……君にヘンな事が起こっていても、そして君は消えてしまった、考えたんだよ、今田君が同じように消えてしまったらって、何も知らないうちに近い人が消えて行くのはイヤだ、そう考えたらもう止まらなかった」

「達瀬君」

「知らないでいるのはもうイヤだ、それにダメなんだ、何よりも自分のために目を逸らしたくない、もう二度と」

 花梨は唇をほころばせ、またゆったり上昇していく。

「仕方ないわね、今回だけは許すわ、でも次は無茶な事しないでね、あなたの身が危険になるなら意味ないんだから」 

 達瀬は花梨に笑顔を向けて体を倒し、無味乾燥な白い枕に頭を押しつけた。

 錘でも入っているかのように、頭の中に冷たく重い疲労がある。だがそれが意識できるのにどうしても眠れなかった。

 結局まんじりともできず、一時間後の昼休みには教室に帰ることにした。

「あーあ、酷くやられたな」

 教室に戻ると育美と向かい合って弁当を食べていた安藤が、心得顔で感心する。

「日比木君……あ、あの」

「いやいや見直したよ、今田の為に体を張るとは、お前何か変わったな? 前までは他人に関心を示さない暗い奴だと思っていたけど」

 育美が何か言いかけたが、安藤が大げさに肩を叩いた。

 はあ、と達瀬は自分の椅子に座った。無理に帰ってきたからか体が妙にだるい。

「大丈夫?」と育美は心配そうに問うて来るが、煌めく瞳に弱々しく頷くのが精一杯だった。

「まあ弁当でも食べろよ、腹が減っているから元気も出ないのさ、それともなんか身体に違和感でもあるのか? ……頭のどこかが酷く痛いとか」

 安藤の詮索は遠くから切り込む。どうやらさらっと体の調子を聞いているらしい。達瀬は思わず微笑していた。彼女に心配されるのは新鮮だ。

「言っておくが、私の弁当はやらないぞ、頭を下げたら考えても良いが」

「ありがとう」とはっきり礼を述べて、曖昧に頷いた。

 安藤の今日の弁当はスポーツ少女に似合うカツサンドだった。かつてカツサンド、トンカツが大好きだった。恐らく今も好物なのだろう。

 だが胃は痙攣したようにそれらを拒否している。思い出すとここ最近ずっとそうだった。

「何だよ?」

 安藤が細い唇を尖らせた。遠回しにカツサンドの提供を申し出ていたのだ、達瀬は気付いた。

「違うんだ、何か食欲が無くて」

「ええ!」と育美が大げさに驚く。

「それって松葉君に殴られたから? だったら」 

「いや、その前からなんだ」

 育美の瞳に水分が溜まり出したので、出来るだけ明るく暴力との関連を否定した。

「大丈夫かよ」

 安藤は口元に手を置きしばし思考すると、机の上にあるタッパーを開ける。

「これならどうだ? 食欲無いときはいいぞ」

 安藤が差し出したのはフルーツだった。

 リンゴやキウイ、バナナなどが均等にカットされてタッパーに収まっている。

 達瀬の胃が反応する。不意に穴が開いたような痛みを腹に感じ、次にそれは食欲、強い飢えとなっていた。

「遠慮するな、私とお前の仲だ」

「どんな仲よ!」

 と花梨と育美が同時に叫ぶが、安藤に甘えることにした。

 精一杯手を伸ばしてリンゴを一切れつまむ。

 そっと口に入れると、懐かしい甘さと新鮮な感触が口腔内に広がった。

「どうだ?」

「うん、おいしい!」

 安藤は嬉しそうに目を細める。

「そっかー、いやーうれしいなー、剥いただけだけど……ほら、バナナもいけよ」

 達瀬は顔をしかめた。

「バナナ嫌いなんだ、昔、バナナと牛乳で飲み物作って、それ飲んだら吐いたんだ、バナナシェイクって奴、あれはマズい」

「なんだその理由、お前は小学生か!」

 安藤は笑いだし、育美もつられ手で口を覆い肩を震わせている。

「笑うことないのに」と花梨だけは味方になってくれるが、達瀬は沈思していた。

 何か今の遣り取りに齟齬があるように思えたのだ。重大な何か、しかし思考は霧が掛かったように不鮮明で答えが出なかった。

 和やかな空気に浸っている彼の耳に、不意に高い笑い声が入ってきた。

 視線を上げると西野由岐雄がいた。

 とっくに昼食を終えているのか弁当を広げるでもなく、女子生徒達を得意の話術で湧かせている。

 一切れのリンゴで活力を回復させた達瀬は、まだ何か言いたげな育美と安藤から離れて、躊躇無くその背中に向かった。

「西野君」

だが男の達瀬の声など耳に入らなかったように、前屈みになって三人の女子生徒と最近のミュージックシーンについて語っている。

「西野君! 話しがあるんだ!」

「ああ?」と西野はようやく顔を向けた。体はまだ鬱陶しそうに、こちらを見上げる女子生徒の方向にある。

「か……沢城さんについて聞きたいこことがある」 

「なんだそれ? お前スベってるぞ、つまんねーよ!」

 西野が笑うと女子生徒達も笑う。

 達瀬は悪感情を押し殺し、もう一言かけようとするが、西野は興味を失ったように女の子との会話を再開させていた。

「うーん……」

 唇を噛む達瀬に、花梨が首を傾げている。

「どうした?」

「……なんか思い出すのよ、西野君……何かあったような……」

「何かって……」

 胸騒ぎを覚え低い声で尋ねると、花梨は難しい顔でしばし固まった。

「あっ!」と不意に目を輝かせ、指を鳴らす。

「西野君、私に告白したよ! 好きだ、付き合おうって! そりゃあもう自信タップリに」

「いつ?」

「確か私が死ぬ前の日か、その前の日……断ったけど」

「……西野君、君が沢城さんに告白した件なんだけど」

 効果は覿面だった。西野は肩をびくっとさせて、体ごと振り向く。

「……何の話し……だ?」

「沢城さんが死ぬ前、君に告白された時のこと」

「ちょっとこい!」

 女子生徒達の視線を気にしたのか、西野は立ち上がると達瀬の手を掴み、強く引っ張って教室から出た。

「何で知っているんだ? 何を嗅ぎ回っている?」

 人気のない階段で、西野は気色ばむ。

「沢城さんの……事故について知っている事を話して欲しいんだ」

「知らねーよ! 今更なんだよ! もうみんな忘れた過去だろ」

 達瀬はむっとした。

「俺は忘れていない」

「そーかよ!」

 ぞんざいな言い方に、カマをかけてみることにした。

「事故の日、沢城さんに何か用があったの?」

 それは安藤が『勘』として教えてくれた情報だ。正確なモノなのか今ひとつ分からなかったが、ハッキリした。

 西野が動揺したのだ。目玉が左右に大きくぶれて、問いを横顔でガードする。 

「何のことだ? どこの妄想だよ」

「とぼけるな! 知っている人がいるんだ」

 西野はしばしそっぽ向いていたが、ややあって達瀬に向き直った。唇を歪ませた、小悪党の笑みになっている。

「知っている? そんなの言いがかりだね、俺は関係ない、証拠があるのかよ?」

 達瀬は言葉に詰まった。

「ウソつくんじゃねーよ! 俺は沢城の事故なんて知らないね、勝手に妄想してろ、言っておくけど余計な事を触れ回っても誰も信じないからな、証人でもいるのかよ!」

 言い捨てると西野は踵を返した。

 悔しいが見送るしかない達瀬に、彼はふと足を止め振り返った。うって変わって夢を見ているように、頬を赤くしている。

「……そんなことより、お前、あの子知っているか?」

「あの子?」

「黒い制服の女の子だよ! お前こそとぼけるな! 中学生くらいの子だ!」

 ぎょっとした。西野が挙げているのは倉罫夜如だろう。

「今朝すげー美人に会った、完璧な美少女って奴だ、話しかけてみるとお前の事をいろいろ聞いてきたぞ」

 動転する。いつの間にか夜如に調べられているらしい。

「紹介しろよ! あの子はお前には勿体ない、その代わりこの学校の女子生徒なら誰でもお前にやるから」

「知らないよそんな子!」

 首を振ると西野はしばらく粘つく視線で睨んできたが、舌打ちして教室へと戻っていく。

 もう一歩問いつめるつもりだったがのだが、夜如の事を聞かされ心が折れてしまった。脳裏に可憐だが恐ろしい少女の姿が浮かぶ。花梨も無言だ 

「聞いて言い?」

 達瀬はついと持ち上がった疑問を口にした。

「なに?」

「……どうして西野君の告白、断ったんだ? ホラ、あいつ人気者だし」

「何言ってんの? あなたと付き合っていたからじゃない! それとも何? 浮気しろってこと? 自分は柊さんとも付き合って、私を西野君に渡す……そんなふしだらな自由恋愛は日本では出来ないのよ! まず私が許さない」

 花梨は語気荒く宣言した後「それに」と不機嫌そうに付け加えた。

「西野君は女の子に酷いことをするんだ、て育美が言ってたのよ、好きだっていう気持ちを利用して欲しい物を買わせたり、恥ずかしいことさせたり、少しばかりモテるからって図に乗る男ってサイテー!」

 何故か花梨は横目で鋭く突いてくる。 居心地の悪さを感じて視線を転じるが、そこに花梨が回り込む。

「ヤらしい男って、サイテー」

「どうして念を押すのさ? 俺は何もしていないじゃないか」

「そうかしらー?」

 花梨が頬を膨らませ険しい目で見つめてくるから、応じて見つめ返した。

「むむ、こいつやる気か! 達瀬君の分際でにらめっこに勝てると?」

 と意気込む花梨に達瀬は正面から挑戦しようとしたのだが、人の気配を感じ黙る。花梨の燃える視線を感じながら振り向くと、今田がしょんぼり立っていた。

「あ、あの……」

「どうしたんだい? また何かあった?」

 優しい口調で尋ねると、じっと廊下の端を見ながらもごもごと唇を動かす。

「……お礼、をしたかったんだ……さっきは助けてくれてありがとう……それと、助けられなくて、ごめん」

「そんなこといいよ」

「こ、怖かったんだ、松葉君が、だから何も」

「そうだね」

 今田が色味の悪い唇を噛むのを見て、大きく同意した。

「松葉は怖い、みんなそうだよ、そうなんだ」

「え?」

「だから、みんな君から離れていただけなんだ、教室中全てが敵だと思わないでくれ、みんな君が嫌いなんじゃない、松葉が怖いんだよ」

 今田ははっと顔を上げ「ああ」とぎこちない微笑を口辺に漂わせる。

「本当は、もっと格好良く助けたかったけど、松葉は強いからなあ」

「ああ、そうだ! あいつは意味無く怖いんだ! そして強い!」

 ようやく鮮やかな色彩が今田の顔に戻ってくる。

「そうか……僕だけじゃないんだ、あいつ怖いよ、そうだよ」

 達瀬は泣き笑いの今田を黙って見ていたが、彼が安心したように息をつくのを契機に質問した。

「ところで、聞きたいことがあるんだ」

「何だい?」と心なしか今田は力強く頷く。

「折り紙のことだ……君の折っていた」

「折り紙?」

 首を捻る今田に、ポケットから花梨の部屋から持ち出したそれを出す。

「これだ」

「ああ」と今田は何でもないように答える。

「僕は昔から折り紙が好きで、大抵のモノは折れるようになってる、それはオリジナルなんだ、本に描かれている奴を改造した」

 心臓がびくりと跳ねたように感じた。

 つまり、この折り紙は今田じゃないと折れないのだ。ならば花梨の机に入れていたのは彼と言うことになる。

「で、これがどうかした?」

 しかし今田はむしろ明るく、達瀬の手の中の折り紙を見つめている。動揺も怯えもなく、後ろ暗いことに関与しているようには見えなかった。

「これ、誰かに折ってあげなかったかい?」

「ああ、あげたよ」

 あまりにもあっさりと今田は認めた。

「だ、誰に? その、差し支えなければ教えてくれ」

 今田は「はあ」と不思議そうな表情になる。

「金川先生だよ、なんだか会うたびに折ってくれと頼まれる」

 傍らで聞いていた花梨が息を飲んだが、聞こえなかった。頭の中で凄まじい勢いで図式が完成しようとしていた。

「僕の趣味はあんまり褒めてくれる人いないんだ、けど金川先生はこの折り紙、すごい褒めてくれて、欲しいっていうから折ったよ」

 今田は微かに痩せた胸を張った。

「よ、良くできているよね」

「ありがとう」とあまりにも屈託もなく今田は喜んだ。

 今田が自作折り紙の解説を始めたが、それどころではない。金川のつり上がった目が、脳裏にちらちらと点滅ていた。

 

 次の時間、午後の最初の授業を達瀬はさぼった。

 目ざとい同級生達に会わぬよう影のような足取りで、学校の廊下を進む。

 目的地として挙げられるのは二つだ。

 まず職員室……もしこれならば達瀬の出番はない。授業中でも必ず教職員の誰かが残っているからだ。

 その時は誰にも見えぬ花梨に、全権を託す。

 そして教員用ロッカー室……これならば何とか調べられそうだった。ご都合的な運が必要だが。

 教師が何かを隠せる、自らのプライベートを隠せるのはこのどちらかしかない。

 達瀬は最初ロッカー室を選んだ。

 職員室であるなら、もしかして金川がいないうちに不慮の事故やらで机が開けられてしまう場合があるのだ。妙な折り紙など隠していられないはずだった。

『教員用』とのプレートを確認し、達瀬はロッカー室の前に立ち、施錠されているかどうか確かめようと戸に手を伸ばす。

「待った!」

 花梨がするりと前に出てくる。

「な、なに?」

「気付かない? 人の気配」

「え?」と達瀬は耳を澄ました。確かにロッカー室から何やら音が聞こえてきた。

「うそ」と消沈した。

 意気込んでここまで来たのに、早くも捜索不可能な事態に陥ったのだ。

「ちょっと待ってて」

 言い残すと花梨はすうっと、扉を通過して入っていく。 

 数秒で前触れもなく帰ってきた。

「宇津先生よ、一人だった」

「また偉くやっかいな、国語の授業はどこもやっていないのか」 

 達瀬は掌で顔を覆った。ヒステリックな中年女性が網膜に蘇る。

「大丈夫よ、むしろラッキー!」

「どうして?」

「一人だからよ」と花梨は扉を指した。

「開けて、もう大丈夫だから」

「ええ、だって……」

「早く! そんなに効果ないんだから!」

 意味は分からないが花梨が怖いので、恐る恐る戸を開いた。ロッカー室はひんやりとしていて、途端に達瀬の汗が引く。

「さ、行こ」

 花梨は何でもない風に入っていくが、『生徒入室厳禁』の張り紙を壁に見つけ前傾姿勢になるほど躊躇する。

 大人の背丈ほどある、棺のような暗い灰色の鉄製ロッカーが幾つも直立しており、その全てが一生徒でしかない達瀬を恫喝しているように見えた。

「宇津先生は?」

「達瀬君みたいなサボり魔が多くて、気苦労が絶えないのよ、疲れてるみたい」

「あのねえ、君の為に今はサボったんだけど」

 そろそろと足を踏み入れると、まず床に転がっている足を見つけぎょっとする。近づくと宇津先生がロッカーに寄りかかって倒れている。

「な、何をしたの?」

「おまじない、大丈夫、記憶にも残らないし、しばらくしたら気持ちよく起きるわ、これが幽霊の超絶パワー!」

「自慢することか?」

 達瀬は宇津先生の白髪交じりの髪を見ていたが、すぐに目的を思い出す。

「金川先生のロッカーは?」

「探しているわ、て、何もかも人に任さないでよ! 男でしょ! 率先して女の子をエスコートしないとダメなのよ!」

 慌てて目線の高さにあるロッカーの名札を調べていくと、簡単に見つかった。

『金川京大』という白い紙で持ち主が示されたロッカー、その他は何一つ異常な部分はない。

 試しに少し引いてみると当たり前だが鍵が掛かっており、ロッカーの重さに腕が逆に引っ張られる。

「中見られる?」

 花梨に尋ねると、彼女は答える間に頭を入れる。

「ダメ……暗くて何も分からない」

 すぐに頭を引き抜き、残念そうに肩をすくめる。

 この能力があるなら、花梨に探索の全権を任せて自分は授業に出てれば良かった、と考え始めていたのだが、そうも行かないようだ。

「ロッカー開けないと」

「鍵ないじゃん」

「分かっているわよ、なんとかして」

 無茶な要求だが、達瀬はロッカーの戸袋に手を突っ込んで、思いっきり引いた。

 ロッカーが少し傾いだだけだ。

「この役立たず!」

「なに! 自分こそ幽霊の超絶パワーはどうした? あれ? 意外と無力?」

「むー! こいつ幽霊舐めているな、ようし」

 花梨はロッカーに向き直り、ぎゅっと目をつぶった。

「なむなむ」

「……何してんの?」

「うるさい! 黙ってて! なむなむ……」

 彼女の剣幕に押されて見ていると、まずロッカー室の至る所から、木が真二つに折れるような音が鳴り出した。

 ラップ音が続くと、全てのロッカーが静かに揺れだし、その上に詰まれているダンボール群がバラバラの方向に飛んでいく。

「……ポルターガイスト現象は煩すぎてバレないかな?」

 控えめに口を挟むが、彼女の耳に入らなかったようだ。

 ロッカーの揺れが大きくなり、書類やらファイルやらが宙を舞った。ロッカー室も微震を始める。

 異常な事態に達瀬の胸中が騒ぎ出すと、花梨は不意に目を開き金川のロッカーを指した。

「これ!」

 バタン、と金川ロッカーの扉が開いた。

「すげー」

 感心すると、はあはあと肩で息をしている花梨が自慢げに反り返った。

「どうだ、これが幽霊だ! あがめよ、供え物よこせ」

「はいはい」

「メロンだ! 今の念力でしましまの高級メロン一つ分の力を失った、補充せねば!」

 花梨の催促を聞き流し、金川のロッカーを調べた。

 いつも着ている趣味の悪い色のジャージが幾つか掛けられている、下にはそのズボンがだらしなく積まれていた。

「何もな……」

 そう言いかけて口ごもる、ジャージのズボンはフェイクだ。何枚かどかすとダンボールが隠れていた。

「ええ!」

 花梨が悲鳴を上げた。

 ダンボールの中には今田の作った折り紙が、ぎっしりと詰まっていたのだ。

 色々な色の紙で少女の姿が折られている。

「おかしいね」

「あ、当たり前でしょ! あんな事してたの金川先生だったんだ」

 花梨は身震いするが、達瀬の着眼はそこではない。

「違うよ、……まあ、きっとそうなんだろうけど、こんなに沢山の折り紙、今田君が折ったのかな?」

 視線の先にある折り紙は一〇〇はある。それだけの数の発注を受ければ、今田も奇妙に思うだろう。中から一つ取り出し、凝視してみる。微妙に雑な造りで、今田の折ったそれとは明らかに違う。 

「覚えたのよ……」

 花梨は両腕を抱いている。

「今田君から貰った物を開いて、折り方をマネたの」

 震える声に達瀬も戦慄する。

 金川がそうする姿はひどく滑稽で執念深く、不気味だった。

「しかし、こんなに……」

 達瀬は再び沈黙する。折り紙の入ったダンボールに突っ込んだ手の指先に、明らかに硬質な何かが触れたのだ。固い紙の紙片のようだ、一枚取り出す。

「きゃあ!」

 と今度こそ花梨は大きな悲鳴を上げ、達瀬は唖然とただ立ちつくす。

 指に挟まれた写真に裸の野々村潤がいる。

 胸の膨らみも下半身の陰りも恥ずかしげもなく隠さず、ピースサインをしている。

「このすけべ! どすけべ! どどすけべ! どどどすけべ! どどどど……」

 花梨の手が伸びて、さっと達瀬の目を後ろから覆った。

「な、何? 先生何してたの?」

 花梨は空気のように感触のない手で彼の目を隠しつつ、喚いた。

「……つまり、こういうことを……」

 花梨の手前だから野々村潤の写真を裏返し、再びダンボールを探る。

「あ! また探している! こいつ、いい度胸ね!」

 興奮する彼女を背に、複数の写真を探し出した。花梨はもう叫ばなかった。ただ喉に空気が引っかかったように小さく息を鳴らす。全て違う少女のもの、この学校の生徒で、達瀬すら顔を知っている娘もいた。

 皆、下着も着けずこちらに何やらポーズをしている。

「芸術……」

 達瀬は呟き、自分で否定した。

 例え金川が裸婦画のモデルを頼んでいたとしても、教師がこんな物を隠しているのは問題だった。

「あ!」と熱血教師の正体をかいま見た後に、また喫驚した。中の一枚が明らかに違うのだ。写っている被写体が少女ではなく中年女だった。

「宇津先生……」

 花梨の呟きには侮蔑と嫌悪が込められていた。

 写真の中の宇津美香子はいつもの神経質な姿ではなく、頬を赤らめ少女のようにはにかんでいる。

「……ちょっと!」

 花梨が歯をきりきりと食いしばる音が聞こえた。

「金川先生は、つまりこういう人だったんだ」

「そうじゃなくて!」

 花梨は瞳に炎を宿している。

「……どさくさに紛れていろんなコの……見たよね?」

「俺?」

「そう、あなた」

「そ、それはだって……捜査の一環としての、不可抗力?」

「うそよ! じっと裸を見つめてたもの、がっかりだわ! 達瀬君はこんな奴だったか、このケダモノ! ナマケモノ! 葉っぱでも食べてろ!」

「だって、どう考えても見ないと」

「そんなに見たいの? これだから男は!」

 達瀬は苛々してくる。どうしてこんなにも花梨は分からず屋なのか。

「ああ、見たいさ! 誰かさんが見せてくれないからね!」

 花梨の瞳が大きくなる、気のせいか髪も少し逆立つ。

「見せてあげるわよ! そのかわり他のコの見たらその場でトり殺す!」

 花梨が漂う冬服のスカートの縁をむずっと掴んだから、達瀬は慌てた。

「い、いや! 嘘! ジョーダンです、ごめんなさい花梨さん! 少し興奮してしまいました、反省してます」

 彼女は動きをとめ、研がれた視線でじっと見つめてきた。

「こ、これ以外、何も出ないかな……いや! もちろん他の女のコの写真じゃなくて、その違う証拠だけど」

 誤魔化して形式上ダンボールの底に入れた手に、また違う物が当たった。

「何だろう」と取り出すと、小さな円筒形のものだ。

「あ! これ!」

 花梨は怒りを忘れて声を上げた。

「私の、だ……私のリップクリーム!」

 掌で転がすと、確かに側面に「かりんの」とひらがなで入っている。

「子供みたいだね」

「仕方ないでしょ! 何度も何度も盗まれたんだから! て、犯人は……」

 達瀬の脳裏に花梨に起きた不審の一つ、所持品が盗まれていたという話が蘇る。

「金川先生なんだな」

 恐らくは持ち物検査だ。

 全生徒に頻繁に実施しているのは、生徒達の不良化を防ぐための物ではないのだ。あの時、めぼしい女子生徒のクラスを探り、趣味として持ち物を盗む。

「趣味と実益って、一致するんだね」

「何感心してんのよ! これって犯罪よ! スッゴい犯罪! 超大罪! 地獄へゴー!」

「うーん」達瀬は怒りでぐわっと一回り大きくなる花梨に唸った。

 確かに公には許し難い犯罪ではある、だが、逆から見ると花梨殺害との因果関係が切れた、とも見られるのだ。

 いくら金川でも、こんな危ない橋を渡っているのに、さらに殺人などするとは思えない。大体、まだ花梨に接触すらしていない。

 だとすると、折り紙の件は彼女の死とは無関係。また振り出しにもどるのだ。

「あんた! 何しているの!」

 金切り声が上がり、どきりして顔を上げた。髪を振り乱した宇津先生が、ロッカーに寄りかかり立っていた。

「あちゃー、まじない解けたか」

 花梨が片手で顔を覆うが、誰にも見えない彼女と違い、達瀬はばっちり宇津先生の目に入っている。 

「言いなさい! ここは教職員用です、一般生徒は入室してははいけないと知っていますね? ロッカーも開けて……何をしていたの?」

 針金のように硬い声に、思わず達瀬の背筋がぴんと伸びる。だが、神経過敏の宇津先生の真白い顔を正面からは見られなかった。

 彼女を見てしまうと、イヤでも手の中のヌード写真を思い出し、気持ち悪くなる。

「事によると、重い処分を下します」

 いきり立つ宇津先生の言葉に、ようやく事の重大性に思い至った。

 先生は泥棒として見ているのだ。

「ち、違います! こ、これを!」

 焦った達瀬は手にある写真を彼女にかざした。金川の犯罪を立証し、捜査の理由を説明づけようとしたのだ。

 だが、宇津先生はそれを見ても眉一つ動かさなかった。むしろ能面のような無表情になる。

「あら、知ってしまったのね?」

 達瀬は悪寒に痺れた。宇津先生の口調から感情らしきものが丸々抜けていた。

「京大ちゃんの趣味なの、秘密なのよ、京大ちゃんは私だけが好きなクセに、遊びで他の小娘を相手にしているの」

 それは彼の知る国語教師・宇津美香子ではなかった。まるで幼児のような舌っ足らずな口調で話す、異様な女だ。

「知っちゃったの? メンメね、メンメだわ」

 いつの間にか宇津先生の手には、ロッカーの中にあったのだろう鉄の骨の傘が握られている。

 達瀬は口を開けたまま、傘の金属部分が鈍色に輝くのを見ていた。

「やばい! 逃げて達瀬君!」

 花梨に言われ反射的に身をかわすと、顔を歪めた宇津先生の一撃が傍らを落ちていった。 重い金属音が床から飛び散る。

「わあ!」と達瀬は無様な声を上げると、ぎくしゃくとした操り人形のような足取りで後退した。

「メンメよ、メンメ!」

 宇津先生は目をぎらぎらと光らせ。追ってくる。

「達瀬君! 何ぼけっとしているのよ!」

 花梨が鋭く指摘するが、足が何故か小刻みに揺れて使い物にならなかった。

「メンメなのよ……」

 傘が振り上げられた。黒い布が天井を覆うかのように達瀬には写った。

「仕方ない!」

 電灯を反射する鉄の先が振り下ろされる寸前、花梨は達瀬と宇津先生の間に入った。宇津先生には見えていないだろうが、花梨の目が彼女のそれと重なる。

「……なむなむ、今のは全て夢、ここには誰もいない、達瀬君は……すけべだけど泥棒はしていない」

 宇津先生の表情が夢を見ているような、あやふやな物となった。

「……すけべだけど泥棒はしていない……ここには誰もいない……」と花梨の言葉そのままをぶつぶつと口の中で繰り返す。

「今よ! 逃げよう!」

 宇津先生がそのまま蹲ると花梨は叫ぶ。無言で従うしかない。

 ロッカー室から出ると全力で走り、まだ皆が授業を受けている静かな教室の前でようやく止まる。

「しかし……ばっちり見られてしまったけど……」

 切れ切れの息を整えながら言うと、花梨はウインクした。

「ダイジョーブ! 死して手に入れた超絶パワーで先生の記憶、書き換えたから! 宇津先生は達瀬君のコト覚えていないよ、一安心」

 ずきり、と胸が痛んだ。

 確信を持ったのだ、そうでないか、とずっと考えていたことだ。

「それにしても……」

 花梨は目元を赤らめ、小さな拳を振り上げた。

「金川センセーて、何してんのよ! 宇津先生もあの異常な様子は何! ああ腹立たしい」

 びたんびたんと窓が鳴り出し、きいきいと蛍光灯が軋む。

「……どうする? どうしたらいいかな?」

 困惑の極みにいたから、弱々しく問うだけしかできない。

 金川は少し異常だが教育熱心な教師と思っていた、宇津先生もヒステリーだが毅然とした大人だった。しかしそれら達瀬の認識は数分で砕け散り、二人の教師が穢れた、思考も麻痺した存在だと知ってしまった。

 金川を庇う宇津先生の奇矯な言動を思い出し恐慌に襲われるが、花梨は数段逞しかった。

「当たり前でしょ! みんなにバラして公開処刑! 市中引き回しの上打ち首獄門!」

「でもさ、そしたら関係あった女子達もバレちゃうよね? 写真のコ達可哀相だけど?」

 達瀬は証拠写真をずっと握りしめていた事に気付く。この中には顔見知りの娘、潤もいるのだ。

「あ! それ!」

 隠そうとしたが、目ざとい花梨は気付いた。

「……何持って来ているの? 何? 酷い目に遭いたいの?」

 冷たく笑う彼女に、泡を食う。

「ち、違う! 置く時間が無かったんだ! さっきの見ていたろう?」

 しかし花梨は、両手を揉むようにして指の骨をぱきぱきと鳴らした。

「……こりゃあもう、お供えじゃあ許さないな」

「花梨さん! 誤解だって!」

 物騒な雰囲気に危機感を覚え、一歩後退した。

 彼女がずいっと一歩前進する。

「あれっ! 日比木、サボリ?」

 泣きそうなっていた達瀬だが、ラッキーなことに誰かが背後から話しかけてきた。花梨から逃げるように視線を転じると、野々村潤が小首を傾げている。

「あんたさぁ、その独り言のクセ、やめな、ヘン奴に思われるヨ」

「の、野々村さん」

 思わず生唾を飲み込む。彼女の裸体が目の前にちらついた。

「野々村さん、どうしたの?」

 背後を気にして上ずった達瀬の声に、潤は微かに口を開く。

「サボリ、何かさー、洋一の奴が宗近に呼ばれたんだって、ドーでもいいケド、何が起こるか知りたいジャン」

 達瀬は眉根を寄せる。英語教師の宗近は生徒指導もやっている、松葉が呼ばれるような何かをしたのだろうか。

 くすくすと潤は笑った。

「他人事だネ! あんたを痛めつけたのがバレたんだよ」

 納得した。今田を庇ったとき、皆に見捨てられたと思っていたが、やはり心ある生徒がいて宗近に相談したのだ。

 咳を一つする。彼女に尋ねたいことがあるのだ。それは写真の形で、非常にデリケートなことだと思われる。

「あ、あの野々村さん?」

「他人ギョーギ、ジュンでいいよ」

「潤ちゃん」

「ちゃんて……馴れ馴れしいな! あんた何様?」

 目眩に襲われる。どうして女の子はこんなにワケが分からないのか。

「……聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「何? 付き合いたいってイうなら、あんた、まずいくら持っている? バイトしてる?」

「じゃなくて、その金川先生の事なんだけど」

「ああ」と潤は軽く肩をすくめた。

「私が金川とシタってこと?」

 衝撃に傾いだ。臆面もなく認めたのだ。

「それがどうしたの? いいジャン、私が誰と寝ようと、この体はワタシのよ」

 潤は横目で彼を見て、豊かな胸を強調するかのように胸を張った。

「ちょっと! それでなくても誘惑に弱いバカな達瀬君を誘わないでよ! バカだからホイホイついて行っちゃうでしょ! バカだから」

 花梨の非難は潤に届かない。

「で、でも……その、いいのかい? ほら松葉とかカレシだし」

「あんた何時代の人? いいのよ、どうせ洋一には分からないだろうし、それにね、金川はスッゴク金払いいいんだヨ、一回一〇万くれるの……知らない?」

 勢いよく首を振ると、潤はちらりと唇を舐める。

「ふーん、なら教えたゲル、金川は気に入った生徒に密かにアプローチするんだ、お金を渡すからってね」

「アプローチ……もしかして折り紙で?」

「なんだ……知ってるの、そう、ヘンな折り紙にイロイロ書いて、生徒の様子を見て接触してくる、趣味なのかナ?」

 達瀬はがっかりした。やはり花梨の机に折り紙ラブレターを入れたのは金川なのだろう、しかしそれと彼女の死は結びつかないのだ。

 ただ金川は花梨を気に入って近づこうとしていただけだ。

「裏では有名だよ! ウリしているコはみんな知っているし、利用している、何てったって、この不況時に一〇万だかんネ、一回!」 

「で、でも君……は、松葉と付き合っているよね? その……」

「ああ、それはいいの、洋一なんかどーでもいい、ガッコー辞めさせられても構わない、アイツ有名だから付き合ってやったんだケド、もー束縛きつくてうんざり! バカだし」

 彼女の目には怒りどころか嫌悪の光があり、本音だと分かる。

「はあ」彼の息は小さく細い。何だか松葉も哀れな存在だ。

「言っておくけど……女のコがみんな野々村さんと同じだとは思わないで、彼女は特殊なのよ」

 達瀬のショックに気付いた花梨が全女性を代表し、フォローを入れる。 

「私は一途! 思い立ったら墓場まで」

「はあ」と返事の変わりに再び吐息するが、視線を感じて目を上げた。

 ぶっ倒れそうにたじろぐ。潤の化粧で強調された目にじっと捉えられていた。

「そんなコトより、今度ホテル行かない?」

「ええ!」 

 突然の誘いに息を飲んだ達瀬だが、花梨は素早く灼熱した。

「何言ってんのよ! このバカ女! いけしゃあしゃあと他人の男誘惑すんな!」

「な、何で?」

 花梨の声が届かないと分かっているから、達瀬自身が尋ねる。

「真希がね、あんたに興味持っている見たいなノ」

「ひ、柊さ、ん」

「そう、今田を助けたあんたはヨかった」

「そ、かな?」

「うん、真希は外見ばかり口ばかりの男ってキライなの、で、このガッコーそう言うのバカリ、西野とかサ」

 ふと心づく。

「て、柊さんも……その金川先生と……」

 潤は怒ったように顔をしかめた。

「違うヨ! 真希は実はスッゴく真面目でいいコなの……実はまだ処女だし」

「はあ」

「で、あんたも童貞でショ? だから行こうヨ」

 何が「ダカラ」なのかは分からなかった。ただ潤の誘惑は冗談やからかい半分ではないようだ。

「だったら、何であなたとホテルなのよ!」

「ええっと、じゃあどうして君と……ホ、テル行くの?」

 突然の誘いに思考が麻痺しかけている達瀬は、花梨の喚きをそのまま伝えた。

「分からない?」

 潤が首を傾げると、茶髪が揺れ白い首筋が露わになる。

「処女と童貞がいきなりホテル行っても困るダケなんだって! これは私の経験から言っているんだケド、だからまず私でそれなりに出来るようになってから、真希を優しくしてあげて、女のコは最初とてもデリケートなんだヨ」

 危うく頷きかけたが、窓が鳴り出した。

「こ! このバカ女……いい加減にしないと、ホントっに許さない、許さない! ゆるっさない!」

 花梨はもう達瀬の背後にはいなかった。前まで出てきて、見えていない潤を睨み付けている。

「特別に授業料は安くしとくから、ネ」

 知らぬ潤は、濡れた瞳を強調するためにか近づき、甘ったるい吐息がかかる。

「てめえら! なにしてんだ!」

 怒声は潤の背後から上がった。

 不運に頭を抱えたかった。だがその前に両肩を隆起させ荒い息をつく男子生徒を、見てしまう。

 松葉洋一が廊下の端に突き立っていた。事実、あまりにも力の入った両足から本当にコンパスのように床に刺さっているように見えた。

 だが、その想像をいとも簡単に破壊し、松葉はずんずんと近づいてきた。 

 達瀬は言葉もなく、喉を引きつらせながら近づく松葉を見ているだけだった。

 顔は怒りにどす黒く染まり、唇の端に短いタバコが揺れている。胸と肩は大きな呼吸により膨らんでいて、足取りは何もかも潰しているかのように乱暴だった。

「潤! そのクソ野郎と何話している? 何楽しそうにしている?」

 誤解だ、潤はともかく達瀬は困っていただけで楽しくはなかった。

「言えよ!」

 松葉の声が激情にうねり、金縛りにでも遭っていたのか動かなかった潤がひらりと、近づく松葉に重なった。

「ち、違うのヨ、洋一、コイツにチューコクしていただけ、生意気だって」

「嘘付け! ホテルがどーとか言っていたじゃねえか!」

 松葉は意外に地獄耳なんだなと達瀬は呑気に思ったが、潤が悲鳴を上げたので現実の危機を直視した。

 松葉が首もとを掴んで彼女を引き寄せ、潤のYシャツが破れそうに引っ張られていた。

「このヤリマンくそ女が! この野郎とも寝たのか?」

 憎悪の視線を受け、潤は怯え首をゆるゆる振っている。

「やめろ! 彼女とは本当に何もない」

 見てられなくなり達瀬は一歩近づいた。

「うるせえ!」

 と松葉が腕を横に払い、まともに受け達瀬はその場に倒れた。

 ハラリ、と何かが滑り落ちる。

 宙を舞った物を見て、達瀬は猛烈に悔やんだ。

 金川のロッカーから不可抗力で持ち出した写真だ。しかも間の悪いことに最初にあるのは野々村潤だ。

 達瀬は床に尻を付きながら、必死にそれを隠そうとした。

 世界は悪意に満ちている、よりにもよってその一枚がするりと松葉の足元に滑った。

「なんだ? こ!」

 かがんで確かめた松葉が声を失った。

「て、てめえ……」

 松葉の額に血管が走った。目が赤く充血し、下唇が突き出ていく。

「こんな、モノ、こんな物撮られて嬉しがっているのか? てめえら……」

 松葉の手に全裸の潤を収めた写真がある。

 金川の趣味だ、とか、俺の物じゃない、とか真実に即した言い訳など、もう誰にも通用しないだろう。

 松葉は掴んでいた潤を乱暴に揺さぶった。

「嗤っていたんだろ! 俺を! こいつと一緒に! お前に夢中な俺を、二人で嗤っていたんだ!」

「チョット! やめてよそんなことシテないって!」

「黙れ!」

 びしりと激しく、潤の頬に松葉の平手が入る。

「イたっ! 何すんのよ! このバカ野郎!」

「殺してやる!」

 再び潤の頬が鳴り、達瀬は勢いを付けて立ち上がり、松葉の腕を押さえる。

「いい加減にしろ!」

「ああ?」

 背に冷たい汗が流れる。

 松葉の目は黄色く淀み、墓場から蘇った死者のような虚ろな瞳をしている。

 無言で潤が突き飛ばされ、彼女は「きゃっ」と床に落ちる。

「てめえ……てめえはよう」

 松葉は激情を堪えるようにタバコを吸い込んだ、すぐに大量の黒い煙を吐く。

「オレのことチクったろ?」

 赤鬼のような形相の松葉に首を捻った。言っている事の意味が分からない。

 そんな彼のみぞおちに松葉の拳がめり込んだ。

「ぐうっ」と喉を鳴らし、達瀬は身を折る。

「な、何すんのよ! この野蛮人!」

 花梨の声も姿も達瀬以外には聞こえないし見えない。

「てめえがチクったから、オレはもうこの学校から出てけってよ……嬉しいだろ? これでオレは中卒だ、未来も何もない……てめえが」

 どうやら彼は宗近から退学を言い渡されたようだ。確かにそれを決定づけたのは達瀬への暴力だろうが、元々の素行が悪かったから累計した結果、とも言える。松葉はそうとは考えていないらしい。

 見上げていた達瀬の視界がぶれた。松葉に顔を蹴られたのだ。

「潤まで盗りやがって……いいか、オレはもう退学だ、ここでてめえらに何をしようと変わらない、ドーセ少年法で犯罪もチャラだしな」

 何が可笑しいのか、松葉はくっくと笑い出した。

「ああそうだ、ここでてめえを殺しても、オレは無傷だ、どうせもう何もない、畜生! 殺してやる! オレの邪魔ばかりしやがって!」

 唖然とする達瀬の前で、猛る松葉の体が燃え上がった。本当にぼっと火がついたのだ。

「な、なんだ? ぎゃー!」

 突然の出来事に、松葉は絶叫し火を消そうと狂ったようにあちこちをたたき出した。

 火に包まれる人間という壮絶な光景の中、くすくす、と何者かの笑い声を聞いた。

 花梨だった。

「まるでダンスね」

「か、かりん……」

 それ以上何も言えなかった。彼女の目はもういつもの光に満ちていなかった。闇一色に塗りつぶされ、瞳孔が開いている。

「達瀬君をイジめるからよ……忠告したじゃない」

 松葉の炎は消えず、肌を焼く熱に圧倒されていた潤が、けたたましく悲鳴を上げた。

 聞きつけたのか、遠くから教師らが走ってくる。

 しかし燃える松葉はどっと倒れた。

 生きているかのような炎に舐められているが、もうぴくりとも動かない。

 ふふふふ、くくくく、と花梨の笑い声はずっと辺りにこだましていた。


 タバコの火の引火。

 松葉の発火の理由について、教師達が下した結論だった。

 一部始終目撃していた潤の証言から、そう結論づけるしかなかったのだ。

 達瀬には違う、もっと超自然的なパワーの介在という疑惑があったが、花梨がかつて石鹸を燃やしたように松葉に火を付けた、とは思えなかった。

 花梨はタンカで運ばれていく松葉を、はらはらと見送っている。

「松葉君、大丈夫かな?」

 ―やはりあれはただの事故……。

 そう納得しそうになる。だが、それにしてはあまりにも不自然だ。たかがタバコの引火で、あの熱量の炎が上がるとは考えられない。

「しっかし、どうしていきなり燃えたのかな?」

 花梨は顔をしかめて、指をこめかみに当てる。

「うー、何か頭痛い、なんでだろう? きっと達瀬君が浮気しようとしたからだな、て何でいきなり松葉君は燃えたの? 謎の快光線? 超自然現象? 子細に書いてその手の雑誌に投稿して! 賞金は私に供えるとして」

 いつもの花梨だった。

 悪い奴とは言え、同級生を焼くようには見えない。

 達瀬と潤は手当の名目で保健室へと連れて行かれた。

 勿論二人の仕業ではないので、疑う教師達の詰問やら持ち物検査にも何も出てこない。ふと達瀬は写真について思い出した。どさくさで忘れていたが、あれを見られたらまた違う意味で一大事になる。

「ダイジョーブ、私隠したから」

 不審顔にひそひそと潤が囁いてきた。

 こんな時なのに感心してしまう。

 怒りに駆られる松葉、焼かれて暴れ苦しむ松葉、そんな極限の状況のいつ、彼女は写真の事に気を回したのだろう。

「しっかし、ナンであんた持っているの?」

「か、金川のロッカーから盗った」

 ふーん、と横目で睨んできた。

 その間にも教師達は素早く事態の沈静化を図り、救急車の要請と二人へこの『事故』についての他言を禁止する通知を出した。

 人に火をつけられるような物を持ち合わせていないし、そうできる者達ではない、との事から二人への嫌疑は晴れ、授業に出なかったという罪は後回しにされ、とりあえず解放された。

「全く!」

 潤はグロスの唇をちょっこっと開いて毒づいた。

「洋一のバカ、妙な事故起こして! びっくりシたじゃない! それに」

 潤の瞳がじろりと向いた。

「あんた、意外にエロ! あんな時にあんな写真もっているなよ!」

「ご、ごめん」

「で、どうする気?」

「へ?」

「私たちの秘密知ったよネ? みんなに言いふらす?」

 慌てて潤の厳しい表情に否定する。

「そ、そんなことしないよ、誰にも言わない! ただ、あまり良い事じゃないような……」

 彼女はぱっと笑顔になる。

「あんたヤッパリいい奴! しかし私のハダカ見たよね? 何に使うつもりで持ってたの?」

 悪戯っ子のような口調で尋ねてくる。

「違うよ! あれは……その、事故のような物で……」

「自分一人で楽しもうとシテ?」

 くすくす笑う。

「達瀬君にそんな事させる訳ないでしょ! あなたのせいで大変な目に遭いそうだったのよ! あー苛々する」

 花梨が拳で潤の頭を数度突いている、意味はない。

「真希に言っちゃオーかな? 日比木にハダカ見られたって、鬼のように怒るよ」

「ちょっとそれは……困る……」

「なら交換条件、真希にコクって! 付き合っちゃいなさい」

「ええ! な、何で?」

 達瀬と花梨は同時に声を上げた。

「死んだカリンなんか忘れなさいよ、生きている真希の方がきっとイイよ」

 潤はうんうんと頷く。

 達瀬は花梨の反撃を予想したが、彼女は珍しく無言だ。

「写真より本物のほうが数倍はイイのよ」

 潤は嬉しそうだ。

「真希はあんたが好きだから、きっとオッケーだし、みんな幸せ」

 みんな幸せではない。蒼白な顔を伏せている花梨に、達瀬は唇をきつく結んだ。

 彼女が取り残されてしまう、広い世界に一人ぼっちだ。

「まだナニか探しているの? あの事件について」

「ああ」

 金川の、折り紙の線は消えたが、それを中断するわけにはいかない。

「ふーん」

 潤は描かれた眉を寄せてしばし何か考えた。

「シかたない! 教えちゃおう!」

 天井に呟いた彼女は、くるりと達瀬に向き直った。

「日比木、この情報は実は黙ってようと思った」

 潤の口元がきゅっと引き締まる。

「正直、もうカリンの事はうんざりだったから黙っていた、悪気があったワケじゃないし、隠していたんじゃない、それはワかって」

「ああ」

「……実はね、あの日私たちがカリンを最後に見た後、入れ違いで屋上に入って行った奴がいるんだ、真希は知らない、私らが行くのを待っていて階段の陰に隠れていた」

 潤の視線は何もない虚空を浮遊する。

「私は最初、真希に着いてくるストーカーかと思って、密かに探ったんだ」

「……それは、誰?」

 達瀬の鼓動は列車のように走り出していた。どくんどくんという心臓の悲鳴が、喉にまで響いている。

「西野だよ、西野由岐雄、あいつが私たちに気付かれないように屋上に上がっていった」

 雷鳴は不意に落ちた。唖然とする達瀬の脳裏に、西野の二枚目面が浮き上がる。

「あ、あいつ……」

「うん」

 潤の声は小さい。

「もしカリンが事故や自殺じゃないなら、やったの多分アイツ」

 達瀬の中で繋がる線があった。

 前日、西野は花梨に告白したがフられていた。

 西野由岐雄は体面を酷く気にしている、ふられた事を誰かが知ったら屈辱を味わうはずだ。

 安藤は、鋭い観察力でそれを見抜いていて告げてきたのだ。

 チャイムが轟いた。

 いつも聞いている電子音。だが今日のそれは籠もった奇怪な音階に思えた。

 達瀬はこちらをちらちら窺う潤に背を向けると、足を速めた。

「ワタシからの情報ってのはナイショ!」

 潤が声をかけてくるが、耳に入らない。

 いつしか彼は走っていた。全力で自分のクラスへと向かう。

「待ってよー! そんなに走ると転ぶよ! 危ないよ! 達瀬君ったらー」

 当人なのに遅れだした花梨が切迫した声を出すが、振り向かない。

 達瀬は嵐のような勢いで教室に突入した。

 休み時間故の緊張感のない光景があった。生徒達は個々に談笑し、次の授業の準備をしている。

 それらに構うことなく、女子生徒とバカ騒ぎしている西野に近づく。

 ぜえぜえと喉が鳴った。まだ息を整えていない。

「西野」

 達瀬の声は憤怒に燃え、重く地を這った。

「ああ?」

 西野由岐雄は少女達の笑い声の中から、こちらに振り向く。

「……ちょっと話しがある」

 辛うじて自制した。ここで追いつめても良かったが、皆の目を気にしたのだ。

「オレはない」

 再び後頭部を向ける西野に、達瀬は飛びかかっていた。胸ぐらを掴み引き寄せる。

「来いよ! 人殺し」

「なっ」

 囁きに西野は絶句した。

 慌てて周りを見回し、怯えたような女子生徒達の目に手を振る。

「い、いや、何でもない、チョットこいつと話してくる、すぐだから……」

 そう言うと、西野は達瀬について廊下に出た。

「それで、何だって? 名探偵君」

 だが、わざとらしい先制攻撃を鋭い目で弾いた。 

「何だよ? いったいどうした?」

「どうして花梨にあんな事をした? 恨みでもあったのか?」

「な、何のことだ?」

「とぼけるな! ……もう無駄だ、今度は完璧な証人がいる、お前が彼女の死んだ日、その時刻にどこにいたのか」

 西野の顔色が変わった。

「だ、誰に聞いた?」

「どうでもいいだろ?」

「誰かに言ったのか?」

 達瀬は再び西野の胸ぐらを掴んで、つり上げる。

「言っていたらどうする? 俺も殺すのか?」 

 西野は何か答えようとして断念した。達瀬につられたままぐったりと力をなくす。

「そうか……、バレたか」

「お前、自分が何をしたか分かっているのか?」

 達瀬の胸の中に火がついた。決して消えない赤々と燃える怒りだ。 

「わかっているって!」

 喚くと西野は、身をよじって手を振り払った。

「こんな事になるなんて思わなかったんだ」

 西野の声はか細く、小刻みに揺れていた。

「ちょっとした仕返しがしたかったんだよ……その、あまりにもあっさりフりやがったから」

「当たり前でしょ! 誰があなたなんかと!」

 花梨の嫌悪の声も揺れている。

「ちょっとした仕返し……?」

 達瀬の頬に冷たい笑みが浮かんだ。

「それで殺したのか? ちょっとした殺し?」

 限界に近かった。このままこの男を殴り倒したかった。こんな奴のために花梨や彼女の母親はどんなに苦しんだことか。

 だが一歩踏み出すと、西野は慌てて両手を振った。

「殺し……イヤ、違う違う! そんな事していないって!」

「今更、とぼけるな!」

 西野はきょとんと見つめてくる。

「え? お前……何言ってんの? 何か食い違っていない?」

「何だと!」

 達瀬は拳を振り上げるが、その前にするりと花梨が侵入してくる。

「ちょっと待って! 達瀬君慌てすぎ、西野君何か言いたそうだよ……それに私ももっと聞きたい」

 歯がみしながら手を下ろすと、西野は微かに息を吐く。

「ひ、日比木、お前勘違いしていないか?」

「だから何がだ? お前が花梨を屋上に呼び出して突き落としたんだろ? どこが違う?」

「え!」と西野は怯えた目になった。

「何言ってんだよ! 花梨のは事故……だろ? 俺が屋上に呼んだから……だとは思うけど、突き落とすなんてしてねーよ」

「ふざけるな!」

「ちょ、待てよ! ……お前も考えろよ、いくらフられたからって殺しまでするか? そんな危ないこと、俺がするか? どう思っているか知らないが、俺は結構ビビリなんだ、マジだって、中学ん時はイジめられていたし、ほら、あの松葉だよ、あいつに入試の時答案見せたの俺だよ」

 達瀬はあんぐりと口を開けた。

 その言葉が嘘である可能性はあった、だが目の前の西野は涙ぐんで、露見を恐れている。

「沢城を屋上におびき出したのは確かに俺だよ、前の日にフられたから、ちょっと傷つけたかったんだ、だから嘘の手紙で呼んで、そのままほっとこうとしたんだ、小さなイタズラだったんだ!」

 もう西野はポロポロ涙を流していた。

「考えなかった、まさか落ちて死ぬなんて! マジだって! だってそうだろ? 柵があるんだぜ? 屋上行ったのだって様子見て笑っただけだよ、すぐに教室帰った」

「そんな……言い訳」

「信じろって! 花梨の落ちた時間辺りにはもう教室いたよ! みんなに聞いてくれ」

 達瀬は途方に暮れた。

 言われてみれば、彼は『柵』と言った、犯人ならその存在と証言が無意味であることを知っていないといけないのだ。

「じゃあ、だれが……?」

「知らないよ! て、あれは事故じゃないのか?」

 達瀬は踵を返した。

 酷く混乱して、感情の行き場も置き場も見つからない。ただ、西野とはこれ以上話していたくなかった。

「おい日比木! このことナイショにしてくれないか? 頼むよ、警察とか面倒だし……内申とかに響くだろ? 大体、イタズラの件については育美に酷くなじられたんだ」

 黙殺した。再び何もかもがフリ出しだ、答える力もない。

 折り紙の金川でも、屋上に呼び出した西野でもない。花梨を殺害した者には明確な殺意と、実行した意思があるのだ。

 だがそれらを除外すると、手がかりも、思い浮かぶ人物ももうない。 

 夢の中を歩くような足取りで彷徨った達瀬は、湿った風を横っ面に受け、屋上にたどり着いたのだと判った。

「また違ったね、空振り」

 花梨が寂しそうだから、虚勢を張ってみる。

「まだまだこれからだ、終わりじゃないよ」 

 空は曇っていた。ぴかぴかと彼方で遠雷が光り、鉛のようなずっしりとした雲が一面に蹲っている。

 だが、達瀬はいつかのように鬱々とした気分にはならなかった。

 花梨が鼻歌を歌いながら屋上をすすすすと移動している。視線に気付いて目一杯手を振ってくるから、達瀬の唇も綻んだ。 

 花梨がいてくれる。それだけで心はずっと晴れて、気落ちすることがない。彼女の一挙一動が達瀬をどうしようもなく緊張させ、驚かせ、幸福にしてくれた。

 ずっとずっと花梨と一緒にいたかった。

「またデートしたいねー、名古屋で」

 水の気配がする風に揺られながら、花梨は目を細めた。

「またデラックスクレープ食べて、お茶飲んで、ケーキ食べて、お昼はエビフライ、全て達瀬君の支払いで」

「……もうやめよう」

 穏やかにそう言うと、花梨ははっと振り向いた。

「……やめる?」

「ああ、もう終わりだ」

「それって……」

 花梨の表情が崩れて、声に涙が混ざる。

「私の死なんてどうでもいいの? ここで捜査やめて……」

「違うよ!」

 彼女の泣き顔に、達瀬は強く首を振った。

「捜査は続ける! 必ず君の死の真相は突き止める……だけど」

 花梨の濡れた目を真っ直ぐ見た。

「もう……嘘をつかないでくれ、そうしなくてもいいから」

「え?」

 花梨は怯えたようにびくりとした。

「君と俺が付き合っていたワケがない、……君みたいな可愛い子が俺なんかと付き合っていたワケがないんだ」

「そ、そんなコトないよ! わ、わたし」

「花梨」

 優しく彼女の名を呼ぶと、彼女は言葉を詰まらせて固まった。

「本当の事を言ってくれよ、怒らないし、捜査をやめたりしないから」

 彼女は青白い頬を下に向けている。

「いつ気付いたか……、実はずっと疑っていた、だって俺たちはお互いのことを知らなすぎる、家も知らないし、お互いの家族も知らない、友達だって俺たちの事知らない、こんなヘンなことはない、君はデラックスクレープの話しをするけど、俺があれを食べられるはずがないんだ、あれにはバナナが入っている、俺はバナナが食べられない、それにあのクレープ屋について何も記憶にない、君と一緒だった記憶はあるけど、店の仕組みも場所も知らない」

 花梨の目が逸らされた。

「全部君が作った記憶だよね? さっき宇津先生にしたように、超絶パワーだよね?」

 最初の齟齬は小さかった。

 彼女が家に来た時に彼のことを何も知らなかった事。次は彼女の家に行き、趣味やらを始めて知ったこと、そして致命的なのはデラックスクレープの中身だ。

 達瀬はバナナは口にすると全てを吐き出してしまう。それがたくさん入ったクレープを幾つも食べられるワケがない。

 宇津先生へ使った力を見て、全てを悟った。とても辛く苦しいことだが、花梨とは付き合っていなかったのだ。

「ごめんなさい……」

 花梨の睫が震えた。

「悪気はなかった……なんて言い訳通じないよね?」

 達瀬は焦燥した。彼女が肩を震わせ苦しんでいるのだ。そんな花梨は見たくないのだ。

「通じる! 通じるよ、俺は怒っていないし」

 だが彼女は両手で顔を覆った。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 私、私ヒドい女だ! 悪霊だ! きっとだからあの子に狙われるんだ!」

 それは倉罫夜如という少女の事だろうが、そんな事はどうでもいい、彼女が泣き出したから、狼狽してしまう。

「私……気付いたらこんなだった、そして葬式が済んでお母さんがずっと泣いているのをただ見ていた、耐えられなかった、どうしてこんなになったか知りたかった、その時あなたの事を思い出したの」

「俺?」

 花梨はこくりと頷いた。

「……育美が言ってたの、昔あなたに助けられたって、ずっと酷い目に遭ってて、誰も助けてくれなかったのに、あなただけは助けようとしてくれたって……」

 ―育美を助けた? そんな事があったろうか?……。

 だが、すぐに思い至った。思い出すのは部活の光景、専制君主のような傍若無人な教師だ。

 あの愚かな男に目を付けられ毎日泣いていたのは、穏やかそうな可愛らしい少女……彼女が羽島育美だったのだ。言われてみれば、記憶の中の幼い少女と現在の姿は一致した。

「そっか、羽島さんはあの時の子だったのか……」

 あまりにも苦いために忘れようとしていた思い出だが、彼女は覚えていて今でも感謝していてくれる。

 育美が時折見せる優しさの理由を、ようやく知った。

「育美は、すっごく感謝していた、今もよ……だから、つい、私も頼っちゃったの……育美や安藤に頼めば良かったんだろうけど……怖かった……仲のいい友達だったから、誰かに恨まれているかもしれない私を知って欲しくなかった」

 得心する。どうして彼女に自分が選ばれたのか、全く接点がないからだ。

「でも、断られるのが怖くて……少し記憶を……でも、傷つけないように慎重にした」

 だから達瀬は彼女の死も、名前も忘れていたのだ。花梨がいつからか呪いをかけていたからだ。

「そうか、そうだよね、あまり君たちを知らない他人の俺が丁度良かったんだ」

 大きく息を吐くと、さっと彼女は泣きはらした目を上げた。

「そ、それだけじゃないよ! あなたは優しい人だったから……」

「違うよ、買いかぶりだ……俺はただの臆病者だよ、実は羽島さんを助けたことだって後悔したこともあった、それに逆にやられてずっといじけてたんだから、君や今田君やクラスの他の人を見ないようにしていた」

「そんなことない!」

 花梨は怒って否定した。

「だって結局今田君も助けたじゃない! あんなに殴られても……それに、もう私のこともバレていたのに協力してくれた! 私、実は勝手に記憶をいじったんだけど、その方が良かった、て思い始めていた、嘘だったのに本当に付き合っている気分になってた……あなたと付き合っていたならって、本当に恋人だったらなって! ねえ、どうして私たち付き合っていなかったの? 一緒のクラスだったよね?」 

「俺もそうだよ! こんなことならもっと早く君に告白すればよかった! 君と本当に手を繋いで街を歩きたかった!」

 目元がかっと熱くなり、溢れた涙が頬を伝って滑っていった。

 何もかも遅いのだ、花梨はもう死んでいる。もう触れる事も出来ない、もう手遅れなのだ。

「どうして私達、こんなに近くにいたのに、お互い気付かなかったの? うううう」

 突然、彼女は頭を押さえて蹲った。

「花梨!」

 慌てて近寄ると、彼女はそのまま手を伸ばしてくる。思わず掴もうとしたが、手は空しく宙を掻くだけだった。

「どうして……?」

 花梨は唖然と達瀬を見上げた。

「どうして?」

 花梨はもう一度呟き、顔を覆った。

 いつの間にか小粒の雨が暗黒色の空から落ちてきていたが、達瀬は濡れるのに任せて、そのまま立ちつくし彼女を見つめ続けた。

「うううう……」

 花梨が強く苦しみだした。頭を両手で包みながら背中を丸めて横たわっている。

 ―かりん。

 呼ぼうとした。だが、その前に彼女の表情から苦しみがすうっと抜けた。

「みんな……」

 達瀬は何も言えなかった。その声が怨嗟に満ちていたからではない、彼女は変わっていたのだ。

 両目は血の色に赤く、青色の唇は歪み、歯は黄ばんでぎざぎざに欠けていた。

「ゆるさない……」

 声は野獣の咆吼のようだった。

「私をバカにして……」

「な、何だよ? 花梨」

「私を騙して……」

「花梨!」

「イヤらしい目で私を見て……私の物を盗んで……私を忘れて……今度は達瀬君まで奪おうとして!」

「ど、どうしたんだ? 花梨」

「渡さない……誰にも、絶対に渡さない、達瀬君は私の物、渡さない、渡す物か!」

 瞬間、稲妻が轟き辺りは白く浮き立った。

 花梨がふわりと立ち上がり、歪んだ表情のまま掠れ消えるのを、ただ見ていることしか出来なかった。

 ざあっと、雨は本降りとなった。暗い世界の中、達瀬は一人立っていた。

 心づいて辺りを見回す。学校の屋上だ、それは変わらない。

 だが独りだった。ここ数日、その周りで怒り、笑い、泣いていた少女がいなくなっていた。

「か、花梨?」

 突如、孤独感に襲われそっと名を口にし、誰もいない床を一歩踏み出した。

 糸の切れた人形のようにその場に崩れる。

 手足に力が入らなかった、まるで指先、足先が麻痺性の毒に犯されたかのように、感覚すらない。

 起きあがろうとしても肉体の全てが弱体化していて、振り絞る力がなかった。 

 ―なんで?

 濃い緑色のゴム床に頬を着けながら、考えた。

 ―どうして体が動かないのだろう、すぐに花梨を探さなければならないのに……。

 しかし、どう足掻いても四肢は反応せず、ただ跳ねる雨を見ているだけが精一杯だった。

「わかった?」

 突然の声に、苦労して視線を転ずると、いつからか漆黒の靴があった。

 考えるまでもなくその持ち主は分かったのだが、荒い息をついて首を捻り、倉罫夜如の妖艶な顔を見上げた。

 夜如はピンク色の傘の下、楽しそうな微笑みを浮かべている。

「幽霊はね……」

「え?」

「幽霊がこの世界にいるには生物の生命の力が必要なの、あの幽霊があなたから離れなかったのは、あなたから少しずつ生命力を盗っていたの、覚えがあるでしょ?」

 再び雷鳴が空を切りさいていく。

 達瀬はここ最近の肉体の不調原因を思い知った。だが花梨のせいとは考えたくない。

「そして、生命力がなくなった者は死ぬ、それが『取り殺される』ということなの、危なかったのよ、ぎりぎり」

 夜如は体を折って、達瀬の様子を子細に調べている。

「最も、あなたとは『約束』があったから、危なくなったら無理にでも引きはがすつもりだったけど」

「か、か、花梨は?」

 舌はもつれた。まるで凍っているかのようだった。

「行っちゃった、あなたの力を目一杯奪って……本格的になったのよ」

「何に?」

 夜如は朱色の唇に手を当てて、くすくすと笑った。

「悪霊に、この世界に害をなす、生者を殺す者」

「……そ、そんなの嘘だ! 花梨はそんなことしない!」

「それは生きている者の尺度、死者にはもうそれが分からない、分からなくなっていくの、前にも言ったけど、霊とこの世界は徐々に相容れない物になっていく、霊の方が歪んでいってしまう、死者の感情は生きている者とは違う、楽しい思い出は辛い思い出に、好意は悪意に、愛は執着に変わり果てていく、そして絶望して憎しみを手に入れた霊は強くなってしまう、特に彼女みたいに自分の死が認められなくて悲しんでいた者は」 

 あっけらかんとした物言いだが、達瀬の胸は痛んだ。

 悪夢ではなかったのだ、花梨はやはり死を悲しんでいた。毎日見た悪夢、あれは夢でなく知らないところで、眠っている間に泣いていたのだ。  

「この国は、昔からそういった強力な怨霊に悩まされてきたの、ミチザネ公、マサカド公、ストク上皇……皆、神にさえ比肩するほどの力を持って復讐に現れたわ、それに対抗した一族が私たち、近年は法治国家になった為にそれほどの怨霊は出なかったんだけど」

「花梨!」

 喉を焼くような勢いで呼ぶが、夜如は傘をちょっと上げて肩をすくめた。

「おやすみ、後は私に任せてあなたは眠りなさい、ただ約束は絶対に守って貰うわ」

 夜如の靴が霞む。

 眠りの世界へ力尽きようとしているのが分かった。全身がだるく痺れている。

 ―だめだ!

 全身全霊をかけて覚醒しようとした。

 だが背中から這い上る不快な熱が五感を包み頭脳にまで侵入し、意識はずぶずぶと闇に飲まれた。

「かりん……」


 第五章

 普通の高校の、どこにでもある小さな恋の物語だ。

 日比木達瀬は何の取り柄もない少年だった。彼は一般入試で私立氷賀子高校へと入学し赤点ギリギリながら大過ない一年を過ごした。

 そして運命の二学年、一人の少女に心を奪われた。

 沢城花梨。

 学校でも目立つ、びっくりするほど可愛い少女だった。

 達瀬は最初、彼女を遠くから見ているだけでその日一日なんとなく幸福だった。だが日を追うに連れ、花梨の太陽のような笑顔、赤い唇、煌めく瞳、真珠色の歯、何もかもが心を騒がせ、その挙動に一喜一憂した。

「これではだめだ!」

 悶々とした夜を幾つか過ごした後、ついに決意し、ダメもとで彼女を焼却炉前に呼び出し、あわあわ告白した。

 動転することに、花梨は微笑んで頷いた。

 二人はそして恋人となった。

 花梨が身近になり、達瀬は彼女が思っていた以上に我が儘で嫉妬深く、思いこみも激しく、しかし何倍も魅力的な存在と分かった。

 達瀬と花梨は一時の時間も惜しいほど話し、時には二人で名古屋に出かけてクレープを食べ紅茶を飲み、いつしか交際は学校の皆にも知られていった。

 友達の今田吉郎や、花梨の友達、安藤このみと羽島育美、知り合いの柊真希、野々村潤等、皆が二人を祝福し冷やかし、頬染めて花梨の暖かい手を取った。

 彼女もはにかみ、確かな感触と共に達瀬の手を握り返してくる。

 何もかもが幸福で、何もかもこれからだった。

 何の変哲もない幸福な日常だった。

 だが、達瀬は知っていた。

 それが、夢であることを。


 悲鳴のような電子音が鳴り続けている。

 達瀬が覚醒すると、薄暗い天井があった。

 他人のような肉体をぴくりとも動かさず、自分の場所をまず考えた。

 修飾の類が全くない天井に、垂れ下がっている蛍光灯、四方は汚れのない白いカーテン。

「保健室か……」

 呟いてみるが、声に張りもない。

 電子音がまだ続いている。

 少し首を動かすと、枕の近くに彼のスマートフォンがあった。猛獣にでも追いつめられているのか、喚きながら震えている。

 達瀬は出なかった、出ることが出来なかった。手を伸ばそうとしたが、空気の重さにからまれ、結局おっくうになったのだ。

 電子音はしばらくして止み、震えも止まった。

 直前の記憶が蘇る。

 普通の恋をして、花梨と一緒に……。

 首を振る、それは都合のいい夢だ。現実では、花梨は消えてしまい、自分は倒れるだけだった。

 夜如、一人の少女を思い出した。幼い姿なのに艶麗な容姿の娘だ。

 恐らく彼女がどうにかしてここまで運んでくれたのだろう。誰かに教えたのかも知れない。

 ―花梨。

 次に浮かぶのは当然、彼女のことだった。

 憎しみに囚われて消えてしまった。

 瞼がじんわりと熱くなる。

 こんなはずではなかった、彼女のあんな表情を見たくなかった。それどころか笑顔を望んだから今まで手を貸していたのだ。

「かりん」

 弱々しく呟いた。

 花梨がどうしたのかもう分からない、いなくなってしまったのだ。ただし、夜如の言うとおりに悪霊になったとしても、危険だとは思わなかった。

 彼の中の花梨は、確かに怒りっぽい性格をしているようだが、優しくて明るくて、とても他人に危害を加えるような者には見えなかった。

「花梨が誰かを傷つけるはずがない」

 達瀬は一人、夜如の見解に反論した。

 再び耳障りな電子音が鳴り出す。横目でスマホを見ていたが、あんまりにもしつこいので鈍い体にむち打って、それに出た。

「……はい」

 多少の不快を隠さず返事をする。

「ああ良かった!」

 電話の向こうで、少女らしい声が安堵したようだ。

「誰?」

 一瞬花梨を思ったが、声が明らかに違う。

「私、真希よ!」

 柊真希の声は何重にも高かった。

「ああ、どうしたの?」

「助けて!」

 呑気な達瀬とは対照的に、真希は悲鳴を上げた。

「え?」

「助けて日比木! 私、殺されるかも!」

「ええ……何で?」

「分からないわよ!」

 いまいち事態が飲み込めない達瀬に、真希はらしくもない金切り声を出した。

「ヘンな、何か怖い影みたいなのが追っかけてくるの! あんたを盗るな! てぶつぶつ言いながら、あんたアレを知っているんでしょ?」

 ざわっと血の気が引いていく音を聞いた。

「それって……誰?」

「知らないわよ! でも、冬服の女だった」

 頭に浮かぶ人物は一人だ、携帯電話を持ち直す。

「柊さん、今どこにいるの?」

「来てくれるのね? 校庭、運動部の部室の陰、早くして!」

「分かった」

 達瀬は身を起こした、肉体の養分が地面に吸われているような奇怪な感触はあったが、それどころではない。

 木の枝のように思える足で立ち、ふらつきながらカーテンをかき分ける。

 保健室には誰もいなかった。靄のような闇がかかり、何もかもが深海に沈んでいるかのように陰っている。達瀬はそれらの変化に構わず、か弱い体を揺らして人気のない部屋を出た。

 廊下は季節など無視しているかのように寒かった。床も凍りつくようであり、上履き越しに足の裏が冷えていく。

 生徒会室の隣にある非常口を開くと、雨はもう止んでいた。

 ただ外は暗い、真夜中のようだ。

 驚き、スマホの電源を入れバックライトの中確認するが、まだ四時前だった。

 見直すと、闇の中で二つの目のような光が滑って来る。達瀬はぼんやりと電車が走り去る様を見ていたが、すぐに真希の切迫した救難要請を思い出した。

 体力が極限まで失われているからなのか、足の裏が痛くなるほど土は硬い。自然に歩を慎重にする。こんな所で転んだら酷く怪我をするだろうと考えたのだ。

 はたと顔を上げる。校庭が無人で、人の影すらなかった。

 再びスマホで確かめても、やはり四時になっていない。ならば運動部員達がそこかしこにいるはずだ。

 音を立てて肌が逆立ち、不安が心を暗く塗りつぶしていく。

『何か』がおかしい。

 敢えて振り切り、真希の指定した部室棟に駆けた。

 本当ならば今が一番騒がしく、若い躍動に満ちている運動部部室は、ダムの渇水時に現れる建物のように、黒く荒れていた。

「ひ、柊さん」

 動揺を隠してそっと呼んでみる。何の反応もない、やや声量を上げ繰り返す。

「柊さん、日比木だけど」

「ああ!」

 と部室練とフェンスの間から鋭く声が上がり、柊真希が姿を現した。

 達瀬は驚く。彼女の様子は尋常ではない。

 いつも完璧にセットされていた巻き毛は跳ね、血色の良かった頬も青黒い色になっている。鉛色の唇は乾き切り、口角に血が滲んでいた。

「日比木!」

 柊真希が彼の胸に飛び込んで来た。小刻みに肩が揺れている。

「どうしたんだ?」

 尋ねても、引きつれたような音を出して呼吸を繰り返すだけだ。

「柊さん?」

「あ、あれは何?」

 しばらくしてようやく真希は口を開いた。

「あ、れ?」

「そうよ! あの女!」

「分からないよ、何があったんだ?」

 真希は胸の中から達瀬の顔を見上げる。

「学校がおかしくなったのよ! ちょっと前から急に」

 その言葉が理解できなかったが、真希の見開いた目に恐怖と恐慌の光がちらついているので、聞き役に徹した。

「まず辺りが何か暗くなった……最初、気にもしてなかった、時期が時期だし雨かなって、でも次に窓が風もないのに揺れだして、触ってもいないのに水道から一気に水が出て……突然、教室の備品が燃えたりしたの」

 花梨がかつて家でしたイタズラを思い出した。

「……でも、そんなのきっとイタズラだし」

「何言ってんの!」

 真希は高い声で遮った。

「安藤は死んだんだよ! とってもヘンだった」

「え」

 達瀬はゆっくりと目を見張る。彼女の言葉が簡単に飲み込めなかった。

「安藤? て安藤このみさん?」

「そうよ!」

 安藤の姿が鮮明に蘇った。

 ボーイッシュで背が高く、激しい性格だが本当はとても思いやりがある。

 ほんの少し前、心配してフルーツを分けてくれた。

「なんで……?」

「わかんないわよ! 普通に廊下を歩いていたら突然走り出して、凄い勢いで壁にぶつかったの! 顔から血が飛び散って、彼女人形みたいに……う」

 真希が口を押さえる。相当凄惨な現場だったようだ。

「……みんな、パニックになって、学校から逃げようと……でもできないの、どうしても学校から出られないのよ!」

 真希は泣き出していた。

 達瀬は急いで見回すが、いつもの氷賀子高校であり線路側の高いフェンス以外、外界を閉ざすようなものはなかった。

「……不思議なのよ」

 疑問を鋭く察した真希は泣きながら説明する。

「出るのなんて、どうって事ないのにダメなの、何か空気みたいなものが阻んで、どうしても学校の敷地内から出られない、これっておかしいよね? ヘンだよね? 何が起こったの?」

 辺りは暗い以外何も変わりはない、だがどうやら何者かによって学校からの脱出が出来なくなっているようだ。

「み、みんなは?」

「知らないわよ! それよりアレ誰なの?」

「あれ?」

「私を追っかけてくるの! 影のような女、冬服の女が!」

「それどういうこと? 詳しく教えてよ!」

 真希の肩を掴み目線を合わせると、涙を流しながらたどたどしく話す。

「……暗くなって、安藤が死んで、学校から出られなくなったら、もう私の傍らにいた、影で顔が分からない女が、ぶつぶつ呟いているの、あんたを盗るなって、私怖くなって逃げたらずっと追いかけてくる、まるで空飛んでいるみたいに! アレきっと人間じゃないよ! アレがみんなやったんだよ」

 ―そんなはずはない……花梨がそんなことを……。

 大体、彼女にとって安藤は友達だった、殺すわけがない。

「あんた知っているんでしょ? あの女、あんたのことばっかり言ってた! だからここに隠れた後に電話したの、番号は安藤から聞いてたから」

 真希はそこまで話すと達瀬の胸に顔を埋めた。

「私……怖い」

 彼の視界は揺れ、彼女がしがみついたのに立ちつくすだけだった。

 どう考えても花梨以外に該当する者はいない。だが安藤を殺すなんて考えられなかった。

 達瀬の脳裏に、我が儘だけど寂しがりの美少女が揺れる。

 耳障りな金属音が上がり、地面が微震を始めた。金属の不快な悲鳴が遠くから近づいてくる。

 二人に不意にライトが当たった。電車のヘッドライトだったが、演劇のスポットライトのように二人を白々と照らしている。

「あ」と達瀬は声を上げていた。

 闇を切りさくように接近する電車の、真四角の先頭に人影があったのだ。

 電車が人を前につけて接近していた。何者か、考えている間にぐんぐん大きくなっていく。

「あ、あいつよ!」 

 真希が掠れた声を出す。

「あいつがみんなやったのよ! 訳の分からない奴」

「……何言ってるんだよ」

 真希の指先を視界の隅に捉えながら、達瀬は呟いた。

 訳の分からない……筈がない。

 電車のヘッドライトに漂う少女は、沢城花梨なのだ。

 赤く錆びたような顔色でも、片方の目玉が飛び出していても、頭が無惨な歪んでいても、黒い血にまみれていても、わかった。 

「日比木! 怖いよ!」

 真希が肩に顔を押しつけてくる。泣いているようだ。

 動けなかった。

 列車が横を通過する間、身動き一つ出来なかった。

 金属が耳障りな音を立てて噛み合っている

「達瀬、くん、を……」 

 達瀬の髪やらYシャツやらが、列車によって作り出された風ではためく。が、構っていられない。

 どこからか花梨の声が聞こえるのだ。

「わたしの、たつせを……」

 車窓の形をした鋭い光が、いくつもいくつも連なり流れていく。

「盗るな!」

 悲鳴が重なった。突然、真希の体がふわりと浮かび上がった。

「とるな! とるな! とるな! とるなとるなとる」 

 達瀬は見た。通過する電車からいくつもの半透明の手が伸びてきて、真希を掴んでいた。

「た、たすけて!」

「花梨! 止めるんだ! 柊さん!」

 手を伸ばしたが、もう真希の体には届かなかった。

 ゆっくり、その光景を見た。

 無数の白い手に掴まれた柊真希は、五メートルはあるフェンスを越えて、歯ぎしりするような列車の車輪に吸い込まれていった。

 ばきばき、という嫌な音が上がり鮮やかな赤が霧のように吹き上がった。

 先程まで肩にあった真希の頭が、ころころと線路の横に落ちてくる。

 ―花梨……?

 列車が遠ざかっていく。

 線路に、柊真希だった破片をぶちまけて。

 ふわり、と花梨の冬服が学校に向かって飛んでいった。

「ひい、らぎさん?」

 呆然と呟く。

 柊真希の内臓は、まだ息があるようにぴくぴくと蠢いていた。何もかもが赤い中、フェンス側まで飛んだ腿だけが真っ白だ。

 不意に達瀬はかがみ込んで激しく吐いた。

 胃の中に何もないからみぞおちに突き刺さるような痛みを感じたが、嘔吐は止まらない。辺りに真希の香水と血の臭いが混ざり合い、喉がぐうぐうと鳴る。

「か、りん……」

 涙も鼻水も拭えず、呻く。

「花梨……、どうしちやったんだよ……何をしたか、わかっているのか?」

「生者に害をなす、悪霊」 

 はいつくばる達瀬に、夜如の言葉が蘇った。

 ―俺のせいなのか……?

 その場で頭をかき抱く。

 ―彼女に余計な力を与えてしまった。余計な憎しみを与えてしまった。余計な執着を……辛かったんだよな……。

 もう取り返しのない『死』を迎えた彼女に、ここまで構ってはいけなかった。

 ―ごめん……ごめん、花梨、俺のせいで、君を苦しめた……俺が悪いんだ……。

 夜如の言わんとしていたのは、つまりこの事だったのだ。

 死者はもう現世の楽しみを味わえない。美味しい物も食べられない、友達と話せない、恋も出来ない。なのに、彼等は彼女の前でそれらをしてしまった。

 拷問にも等しかった筈だ。

「花梨……俺は、バカだ!」

 彼女を幸福にしよう、と思い上がった己がいた。何ももう出来ないのに。

 ―だから、夜如は……。

 はっとして顔を上げる。

 倉罫夜如、彼女は知っていたはずだ、だとしたらこの状態を放っておく訳がない。 

「花梨!」

 歪むような足に最後の力を入れる。これ以上彼女を苦しめてはならないのだ。

「ごめん、柊さん」

 一声掛けると、真希の死骸に背を向ける。

 花梨は校舎に入って行ったのだ。


 氷賀子高校は闇の中にあった。

 廊下の天井には、光というには虚ろすぎる電灯が連なり、だというのに校内は陰っている。

 今まで通ってきた場所だと思えない、異次元の迷路に見えた。

「何の光もないんだね?」

 だが恐ろしくはない。この世界は花梨、彼女が作った物なのだ。どんな姿であろうと、どんなに残酷だろうと、花梨は怖くない。 

「花梨! どこだ?」

 達瀬は大声で呼んだ。

 数日の間、ぴったりと憑いてて離れなかった少女だ。

「俺だよ! 日比木達瀬だ!」

 学校は静まりかえっていて、何の反応も返ってこない。

 しばらく待って、歩き出す。

 探すのだ彼女を、そして倉罫夜如から守ってあげなければならない。殴ったり蹴ったり……夜如は言ってたが、冗談ではない。

 彼女をそんな目には遭わさない。

「花梨!」

 叫びながら、手近の教室の扉を開く。一階にある三年生の教室だ。

 狼狽する。生徒達がいた。

 てっきり無人かと思っていたが、三年一組には生徒がびっしりと揃っていた。しかし喧しく扉を開けたこちらに構わない、皆、机に教科書類を出すわけでもなく、ただ姿勢正しく着席し、見開いた目で前方を見据えている。

「あ、あの」

 が、その言葉に反応する者はいない。彫像のように硬い姿が並んでいるだけだ。

「すみません……」

 咳き込むように呟いて扉を閉めた。

 胸が切り刻まれたように痛む。

 恐らく花梨は戻りたいのだ、自分がいた学校に。だから本来なら授業が終わっている時間なのに生徒達を帰さない、教室に縛りつけておく。

 一階の科学室を覗くと、案の定生徒達はいた。何年生か分からないが、生徒達は横長の机に行儀良く着き、正面を凝視している。

「花梨……どこだよ?」

 居たたまれなくて顔を伏せた。再現された彼女の傷を見ていられない。

 考えて、あっと閃く。 

 花梨がいた、いるはずだった場所だ。

 達瀬は走りだした、二年四組、彼等のクラス。

 いつからか脚に力が蘇りつつあった。花梨を思うと萎えた四肢に熱い活力が蘇る。そう感じるだけかも知れないが、足は雄々しく床を蹴った。

 二年四組まではすぐにたどり着いた。

 見慣れたはずの教室の扉は、死人の顔のように青白い。達瀬は不吉な胸騒ぎを覚えた。

 戸袋に伸びた手が震えて固まる。

 一つ息を飲んで耳をすますと、二年四組から微かにぐちゃぐちゃと泥をかき回すような音が聞こえた。 

 心が挫けそうになるが、一人の少女を思い出す。

 ―花梨。

 意を決して扉を開いた。

 最初目に入ったのは他と同じく、整然と並ぶ生徒達だ。

「え?」

 しかし、すぐに違和感に気付く、それぞれ自分の席に座っているのは男子生徒だけなのだ。

 今田吉郎を含めた彼等は、弛緩した表情でじっと黒板辺りに視線を固定している。 

 だが、女子生徒達は違った。

 彼女達は集まって、こちらを背にして何か動いている。ぐちゃぐちゃという湿った音は、女子生徒の向こうで鳴っている。 

 達瀬は一歩踏み出した。何か柔らかい物の感触が足の裏から上がる。

 慄然として背筋が痛んだ。

 足の下にあったのは、耳なのだ。まだ生者の肌色をした、血まみれの耳が無造作に落ちている。

「……何をしているんだ!」

 勇気を振り絞って女子生徒の列に割って入るが、さすがにぞくりと体が痺れた。

 少女達は可憐な顔で、一人の男子生徒を八つ裂きにしていた。

 ハサミやらコンパスやらカッターなどを手に、執拗にもう動かなくなっている男子生徒を攻撃している。

 達瀬には被害者が誰だか分からなかった。

 殆ど顔面部位がそぎ落とされている。顔はただの赤い平らに削られ、口の部分から白い歯が並んでいた。

「よくもわたしを騙したわね」 

 少女の一人が虚ろに呟いた。

「よくも屋上に呼び出したわね」

「あなたのせいで私は死んだ」

 少女達は抑揚もなくそう口ずさんでいて、達瀬は男子生徒の身元が分かった。

「西野……西野か?」

 凍える声に反応したのか、顔面に何もない少年の体が震えた。

「よくも私をバカにして」

 その直後、西野の胸に一人の少女がボールペンを突き刺した。止めだったのか血が間歇泉のように吹き出し、西野の体がぐったりひしゃげた。

「よくも……」

「育……美?」 

 達瀬の足ががたがた鳴り、下半身から力がなくなっていく。

 西野の息の根を止めたのは、羽島育美だったのだ。いつも健康的な頬に西野の血がべったりと着いている。

「育美……何しているんだよ?」

「よくも、わたしを……」

「育美!」

 達瀬が肩を揺さぶっても、色のない目でぶつぶつ呟くだけだ。

「ふうん」

 おののく達瀬に、呆れたような声が掛けられた。

 いつの間にか倉罫夜如が、クラスの女子生徒達の間にいた。

「き、君は……」

 言葉が続かない。彼女の姿が一変していたのだ。

 幼い妖艶な美貌は変わらないが、髪は解いて背中の上辺りで水引で縛っている。服装は頭に挿頭、ほっそりとした体に千早、衣、袴、簡単に言えば祭事の折の巫女装束だ。

 だが色が違う。

 白い筈の衣は深海の藻のような深緑で、袴も緋色ではなく黒に近い青だった。千早に至っては黒灰色と藍色が渦巻きのように混ざっていて、見ているだけで気分が不安定になった。

 首から下げた金色のメダルがぴかぴか光るから、達瀬は目が白々と眩む。

「これは私たち一族の正式な服装、趣味は悪いけど我慢してね」

 気配を察したのだろう、楽しそうに説明するが、そんな場合ではない。

「そんなことより! みんなが、みんながおかしいんだ!」

 夜如は大仰に肩をすくめた。

「そうね、まあまあの怨念ね、まあさすがにミチザネ公まではいかなくても、彰義隊くらいにはなったわ」 

「何を……」

 訳が分からぬ達瀬は、夜如に構わずまだ西野の死体に攻撃をしようとする育美の肩を掴んだ。

「育美! 育美!」

 何の反応もない。が、まるで何でもないかのように倉罫夜如が近づき、育美の目を小さな手で覆う。

「はい」

 夜如がこちらに微笑を閃かせる。

 びくり、と育美の肩が弾んだ。何の感情もなかった瞳に光が戻る。

「育美!」

「……うう、日比木君?」

 育美は顔をしかめて頭を抑える。

「わ、わたし……一体……」

 手にあった血まみれのボールペンがからりと落下した。

「いいんだ! 何も考えなくていい!」

 西野の死体から育美を引きはがし、女生徒の輪から抜け出そうとする。

 その必要はなかった。

 二年四組の女子生徒、皆で西野由岐雄をなぶり殺した少女達は床に崩れていた。

 驚くと、倉罫夜如が愉快そうに妖艶な唇を歪める。

「おやすみしてもらったの」

「花梨はどこだ! 一体どこにいる!」

 だがその前に腕の中の育美が悲鳴を上げた。慌てて視点を転ずると、西野の死体を見ていた。

「しまった!」

 達瀬は歯がみした。結局育美に見せてしまった。

「きゃあああああっ! わああああっっ! ううううっっっ……」

 育美は錯乱したようで、腕の中で暴れ出した。細い手足を振り回し、何かから逃れようと達瀬の頬をひっかく。

「育美、育美、大丈夫だ! もう大丈夫」

 必死に嘘を囁くと、時間を掛け彼女は静まった。だが、達瀬の胸に顔を埋めて激しく泣く。

「……な、何? 日比木君、これなんなの?」

 困惑した。彼女に何と言えばいいのだろう。だが、倉罫夜如はふふふと笑う。

「教えてあげなさい、隠す必要はないわ、彼女には」

 しばらく夜如を睨んだ後、出来るだけ言葉を選んで今までの事、花梨の幽霊との出会いを語る。   

「花梨ちゃん……? 幽霊?」

 荒唐無稽な話しではあるが、場合が場合、育美はすんなりと受け入れたようだ。

「そう……」

 育美が寂しげに笑う。

「だから色々詳しかったのね?」

 達瀬は目をつぶった。

 違うのだ、詳しくなんかない。結局彼女の悲しみと痛みを察してあげることが出来なかった。結局こんな事態になってしまった。

「でも……」

 育美の表情は不意に崩れた。

「じゃあ、どうして花梨ちゃんは安藤を……あんなに」

 彼女の言いたいことが分かる。柊真希から聞いたが、この事態の突端で安藤このみが死んでいるのだ。

「それはね」

 一部始終を見ていた夜如が、人差し指を立てる。

「死んだ者と生きている者の考え方は根本的に違う、生きている時にはいろいろな事が起こるもの、人間の感情は支離滅裂、どんなに親しくても愛し合っていたとしても、時々憎み合ってしまったりしてしまう、でも生者には未来がある、だからすぐそんな感情は消え、また親しみや愛を思い出す、だけど死者は……未来がない者は過去の悪い事ばかり、憎んだ事ばかり思い出す、そして考えが変わるようなことは先にはない、死んでいるのだから」

「……そんな」

 育美は絶句し、達瀬はぼんやりと、安藤がよく花梨と衝突したと話していたと思い出した。

 喧嘩した時の怒りしか思い出せなくて、憎しみのまま親友の安藤を殺害したのだ。

「……学校は、ここがこんなになったのは?」

 達瀬は辺りを見回す。どう見ても、そこは彼等の氷賀子高校の姿ではなかった。

「異界よ」

 夜如は豊かな胸を張り、教師のような口調になる。

「幽霊は元々この世界の存在ではないの、誰かに取り憑いて辛うじて存在できる、だけど時間が経ち力を増すと、今度はこの世界を自分の存在できる物に変えてしまう、こんな風に、だから普通の人間は入れないし出られない」

 学校はそれこそ夢の中にあるように朧気で、現実感が全くない。

「どうして? こんな……」

「あなたが望んだからでしょ?」

「え?」

「私があの幽霊の前に現れたとき、もう限界だった、あの幽霊はあなたとどうしようもなく生きたくなっていた、一緒にいたくなってたまらなくなっていた、だから私が苦しみから解放して、消してあげようとしたの」

 いたずらっ子のような夜如の目を、達瀬は見返せなかった。

 ―そうだ……俺が止めたんだ……何も知らないくせに、何も出来ないのに……。

 達瀬の懊悩に構わず、夜如はほうっと感心したような息を吐く。

「でも、凄い力ね……学校一つだけど完全に飲み込んでいる、昔の人はこれを恐れてお祭りや儀式をして死者を敬った、最近は法治国家になった為に、犯罪者が大抵裁かれるから、幽霊の怨念は自動的に晴れるんだけど」

 珍しく饒舌な夜如は、横目で達瀬を見る。

「よっぽどあなたと一緒にいられないのが、許せないのね」

「俺のせいだ……柊さんや、西野、安藤さんも……」 

「そうよ」

 夜如の頷きには容赦がない。

「花梨ちゃんは……花梨ちゃんは……」

 育美が涙声で呟く。

「私と安藤が廊下を歩いていたら突然現れた、怖い顔で安藤を睨んでいて、突然安藤が走り出して……うう!」

 何もかも拒否するように彼女は耳を塞ぐ。

「友情も親愛も、死んだ者にとってはただの執着、特にそれが対立の中にあった危うい物なら幽霊にとってただの『悪い思い出』、憎いだけの相手、もう彼女はあなた達のお友達じゃないわ、ただの見境いのない悪霊」

「何で、何で止めてくれなかったんだ! そう知っていたなら!」

 苦渋に満ちた達瀬の叫びに、夜如はふんわりと微笑む。

「約束したでしょ? あなたと、このまま見ているって」

「だけど、こんなになるなんて、説明してくれたら……」

「いやよ」と突然彼女は頬を膨らませる。

「私は別に慈善事業をしているんじゃないの、ただ家が勝手に決めるから仕方なく幽霊と戦っているだけ、それに見てみたくもあったし」

 夜如が夢見る乙女のようなうっとりした表情になる。

「愛ゆえに歪んでいく幽霊を」

「ひ、ひどい……」

 育美の呼吸が乱れる。

「それで、後悔した? こんなことになって?」

 何もないかのように達瀬に問うてくるが、今は何も答えられない。後悔していない筈はなかった、だが人間の命などどうでもいいと言いたげな彼女と、もう口を利きたくなくなっていた。

「……そんなことより、花梨はどこだ! どこにいる?」

「自分で考えなさい」

 奥歯を噛みしめながら思い返す。

 笑っていた花梨、泣いていた花梨、怒っていた花梨。

「そうか……」

 育美を伴い立ち上がる。 

「どうしたの? 日比木君?」

「金川先生だ……、花梨はあいつに怒っていた、西野がやられたなら次はきっと……」

 ふふふ、と夜如が笑い、胸に光るメダルが煌めく。

「育美、ここにいてくれ、もう花梨に説得が通じるか分からない」

 だが、彼女は即座に首を振った。

「いや! 花梨ちゃんに私も会う、日比木君を一人に出来ないもん!」 

 迷うが、育美の目に強い光があると見とり、頷いた。

「職員室だ!」

 二年四組を背に再び達瀬は駆けた。遅れて育美、軽快な足音の夜如が続く。  

 が、たどり着いた職員室には何もなかった。薄くらい中、教師達が微動だにせず座っているだけだ。ただし、そこに金川はいない。

「いない、どこにいるんだ……」

「よく考えてみなさい」

 夜如に言われすぐに思い出す。確かに閃く場所がある。

「ロッカー室!」

 慌てて向かうと、不吉な兆候は隠れていなかった。くちゃくちゃという怖気を振るう音が漏れている。  

「花梨!」

 構わず突入するが、広がる光景に達瀬の心がぼきりと折れた。

 教員用ロッカーの並ぶ床に金川京大はいた。

 唖然とした表情のまま、仰向けに倒れている。

「きゃああああ!」

 達瀬の行動は再び遅れた、またもや育美はそれを見てしまった。

 金川教師の上に何かが乗っかっている。逆立った艶のない髪、厚い化粧の女。

 宇津美香子だ。

 彼女は血まみれの金川に覆い被さり、せわしなく顎を動かしていた。びりり、と宇津は金川の頬の肉を食い破る。

 達瀬の胸にまた胃液がせり上がってきた。

 宇津美香子が表情もなく、金川京大を食べているのだ。くちゃくちゃという音は、彼女の咀嚼音だ。もう金川の目には生者の光はない。

 達瀬はその場から逃げ出した、廊下に出ると育美が肩を震わせて嘔吐している。

「あの女の人はあの男の人が大好きだったのね、そこを幽霊に突かれて……これが異界、人の論理が通じない場所」

「も……もうやめて!」

 床に蹲っていた育美が顔を上げ絶叫した。

「育美!」

 慌てて近づこうとする達瀬だが、鋭く夜如が割って入る。

「黙っていて! あなたが望んだのはここからよ」

「やめて、やめて、やめて! 花梨ちゃん!」

 彼女は立ち上がり叫び続けた。

「もう他の人に酷い事しないで! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 何かに必死で謝っている。

「本当にごめんなさい! 私があなたを殺さなければ……」

「え」と達瀬の中で時が凍えた。

 育美がぎくしゃくとした動きで数歩歩き、空に向かってもう一度繰り返す。

「そうよ! 私があなたを殺したの!」

 衝撃で達瀬の体は停止した。足先、指先がじっくりじっくりと冷えていく。胸にあった悪心も消える。 

 ただポカンと、育美の小さな背中を見つめた。

 明滅する花梨がその前に現れても、達瀬は反応できなかった。

 肉体に反して脳が答えを導き出す。

 西野は最後に何と言った? 悪戯を知った育美から酷く責められた……ならば、彼女も花梨が屋上にいたことを知っていたのだ。

 羽島育美。

 かつて達瀬が助けた、いつもはにかむ優しい娘。

 殺した。

 沢城花梨を屋上から突き落とした。

「育美?」

 呟く花梨の姿は酷かった。冬服は所々破れ血まみれで、手足は違う方向に折れ、顔の半分は潰れ、脳らしきものが頬を伝っている。

 何よりも達瀬が目を覆いたくなるのは、目だった。  

 飛び出した片方ではない、もう片方の瞳。

 いつもの花梨の、彼の傍らにあった輝くようなそれではない。白濁した死者の目だ。

「どうして?」

 割れた声で花梨が問うと、育美はいつもの穏やかな表情に戻る。

「覚えている? あの日……西野君があなたを騙して屋上に呼び出したよね? 私、偶然それを聞いて西野君を責めた後、あなたを迎えに行った……花梨ちゃんは屋上の高くなっている所で何か考え事をしていた、私ね、最初はただ後ろから驚かそうしたの、いたずらだった、そっと近づいても花梨ちゃん気付かなかった……ねえ、覚えている? あの日の前、雨だったよね? だから雨の滴があちこち残っていて、光に反射していた、とっても綺麗だった、綺麗だったの、何よりも花梨ちゃんが……大好きだった、大切な友達だった、でも、でも一瞬だけ憎くなった、あんなに綺麗なあなたが、だから、だから……」

 疑問の余地もない。花梨が屋上の一段高い場所にいたことを知っているのは柊達と……。

「どうして?」

 達瀬は思わず飛び出しかけるが、夜如が小さく首を振る。

「お前が……」

 花梨の声は反響して色々な角度から響いた。

「お前が達瀬君と私を引き離したのね!」

「……うん、そうよ」

 力無く育美は首肯する。

「わたしはずっと前から日比木君が好きだった、部活で庇ってもらってからずっと、でも全く気づいて貰えなかった、それでもいいと思ったの、だって日比木君は高校で全く目立とうとしなかったから、でもね、ずっと怯えていたの、日比木君は実はとても優しく激しい性格だから、いつか誰かの為にまた声を上げてしまうと分かっていた、そうしたら分かっちゃう、みんな日比木君の良さに、……花梨ちゃん、前に恋の話ししたよね? 花梨ちゃんの家に泊まって、安藤と三人で、その時あなたが言っていた理想のタイプ、普段は穏やかでも誰かのために一所懸命になれる人、それって日比木君そのままのことだった、私、すごく怖かった、いつか花梨ちゃんが本当の日比木君と出会ってしまったら、そうしたら私、綺麗なあなたに絶対に勝てない、日比木君が花梨ちゃんのものになっちゃう、それは許せない、許せなかったんだ」

 育美ははらはらと涙を流した。しかし、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

「でも、後悔していないよ、だってやっぱりそうだった、あなたが幽霊になって日比木君の前に現れて……やっぱり好きになった、だから私、後悔していない、だってもう花梨ちゃん、日比木君と付き合えない、死んだんだもん、私の日比木君をあなたは奪えないの」

 窓が激しく震え割れた、蛍光灯も砕け散る。降り注ぐガラスの中で、達瀬は夜如の言葉を思い出していた。

「あなたが殺した」

 あれはそう言う意味だったのだ。

 達瀬の中で何か大きな物ががらがらと砕けていった。この事件の全ての目は、ずっと自分に向いていたのだ。

 何も知らず、関わらず、しかし世界は彼に深く深く関わっていた。達瀬はどうしようもなくなり途方に暮れるが、黙っていた倉罫夜如はすっと進み出た。

「さあ、始めるわ」

 

 第六章 

 倉罫夜如と沢城花梨の対峙を、達瀬は為す術もなく見守るだけだった。

 何が出来るというのだ、花梨の死の責任は彼にあり、彼女を救うなどそらぞらしいにも程がある。 

 夜如の小さな背中越しの花梨は、まるで獣のように四つ足で歯を剥き出している。

 世界はあまりにも暗い。

 まだ細かなガラス片がパラパラと落ちてくるが、もうそれを払う気力もなかった。

 ふふふ、と夜如は楽しそうに笑う。

「もしかして、勝てるなんて思っている? たかが幽霊なのに私を倒せる、とか思っていない?」

 花梨は伸び上がるように吠える、それはもはや人の姿をなしていなかった。不定型な空気の塊……霊魂。

 この世のいかなる武器も効力があるようには見えない。

 夜如は何とでもないように、不吉な色の巫女装束のまま拳を突き出して構える。

「きゃあああ!」

 突如声が上がった。

 花梨でも夜如でもない、倒れ込んでそれらを見ていた育美だ。異様な事態にようやく声が出せたのだろう。

 次の瞬間花梨が動いた。

 床を掴んでいた腕を振るう。その腕はゴムのように伸び夜如に向かった。しかも、途中から何十もの白い手となっている。

 柊真希を電車に放り込んだ腕だ。

 対して夜如はおおように拳を突き出した。

 ばちり、と空気が弾けるような音が響き、ついで咆吼のような野太い悲鳴があがった。

 花梨は伸ばした腕を抱えて呻いている。

「ほらね」

 夜如は口元を押さえ嗤いを隠した。

「前にも言ったけど、私の倉罫冥海法はあなた達のような異界の者にも大ダメージを与えるの、反対にあなた達の攻撃は私に届かない、丁度、影を攻撃出来ないように、だから神や悪魔でも私には勝てない、この戦いはすごく無駄」

 花梨は腕を抑えながら赤い目で夜如を睨み、ひとっ飛びで後退した。

「達瀬君……」

 花梨の震える声が届いた。

「達瀬君を連れて行かなきゃ、私の世界に……」

 花梨と夜如の対峙が熱く滲んでいく。

「やっぱりそうなった」

 夜如はちらりと涙を浮かべる達瀬を見る。

「幽霊の愛は結局殺すこと、そうじゃないと結ばれないから、ふふふ、私知っているわよ、あなた彼の寝顔を見ながら迷っていたでしょ? このまま殺しちゃおうかって、でも出来なかった、だから悲しく苦しかった」

「達瀬君……私の、だいすき……」

 花梨の儚い瞳に達瀬は血が滲むほど唇を噛んだ。涙がぼたぼたと床に染みを作っていく。

 やはり知らなかった。花梨が毎日そうして苦しんでいたことを。呑気に寝ているだけだった。「ばかね」

 容赦なく夜如は切り捨てる。

「死んだらそれで終わり、愛とか欲しい物とか何もかも手に入らない、ぐずぐず迷ってないで逝ってしまえば良かったのよ、そしたら余計なことを知らずに苦しまなくて済んだのに」

 花梨がこの世界に残って知ったのは悲しいことだけだった。数週間もしたら忘れるクラスメイト、人知れず悪戯していた教師、親友の裏切り。

 ―俺がバカだから。

 全て達瀬が調べたことだった。

 夜如が一歩進みもう片方の拳を突いた。遙か彼方にいるはずの花梨が大きく仰け反り。苦痛に鳴く。だが彼女は耐え、儚い目で見つめて来た。

「……達瀬君」

 そんな花梨の声を、もう聞いていられなかった。

「花梨……! もういいよ、逃げちゃえよ、何もかも嘘だったんだろ? 俺のことなんかどうでもよかったから、俺の前に現れたんだろ!」

「違うわ!……もう違う!」

 花梨は悲しげに達瀬の叫びに答える。

「最初はそうだったけど……今は違う、今は思える、あなたが私の運命の人、ずっと待ってた人、大好き、大好きよ! 愛している、もうどうしようもないくらい、愛している……だから……だから、あなたを連れていく! 殺して永遠に一つになるの! だってこのまま達瀬君が生きていたら、きっと……きっといつか誰か他の女の物になる、そんなの許さない……許せない!」

 四つ足の花梨の体が歪みながら大きくなっていく。 

 声も出せない達瀬の前で、彼女の何もかもが滲んで広がるように、大きく太くなっていった。

「凄い力」

 夜如は感銘を受けている。

「これが愛で歪む幽霊……素敵ね」

 ごうと暴風のような声を上げ、花梨は人間くらいある掌を振り上げた。指を曲げて夜如に叩きつける。

 すらりと彼女はすり抜ける。花梨の一撃は学校の床をえぐった。

 轟音と激震で達瀬の足がもつれる。堪えようかとも思ったが、世界の悲しさに打ちのめされていた為に、どうでも良くなりその場に蹲った。

 ぎゃあ、と再び花梨が高く鳴いた。

 鞭のような夜如の蹴りが見事に顔面に入り、花梨の姿が消えかかる。

「花梨……」

 声に出していた。

 彼女がこうなったのは自分のせいなのだ、真実が癒すなどと勝手に思いこみ、魂を歪めてしまった。

 もし最初から協力しなければ、夜如の言うとおりにしておけば、ここまで苦しめることはなかったはずだ。

 花梨の叫びがまたあがる。

 言うだけあって夜如は強かった。巨大な悪霊になった花梨でさえ、手も足も出ず「ぐわぁ」と囚われた獣のように苦しんでいる。

「もういい!」

 叫んでいた。心の中で何かが決まり、達瀬は穏やかになっていた。

「もういいんだ……夜如」

 きょとんとして夜如がこちらを振り向く。

「俺は、花梨と行く、彼女にここで殺されて……一緒に行く、考えたらそれは悪い事じゃない、俺も、花梨が好きだ」

「だ、だめ! そんなのダメ! ダメ! ダメよ!」

 息を殺していた育美がぶるぶる首を振るが、もう心は決まっていた。

「夜如、だから花梨が俺を殺してから、二人とも君の技で消してくれ」

「達瀬君……」

 巨大化していた花梨が、一瞬にして元のサイズに戻る。

「うれしい……」

 血にまみれた目から、涙があふれ出ている。

「一緒だ花梨、だからもういいだろ?」

「だめよ!」

 花梨がようやく再び笑みを見せてくれたが、それはすぐに凍りついた。

 倉罫夜如はいつからか目の前に立っていた。白磁のような頬を紅潮させて、達瀬を見下ろしている。  

「なんでだよ……俺が良いんだから……」

「そんなこと、どうでもいい!」

 夜如の声色はらしくもなく乱れていた。

「……ねえ、後悔した? こんな事になって後悔した?」

 鋭い問いに、震えながら頷く。 

「ああ、だから花梨と一緒に……」

「だめ!」

 夜如は勝利者の顔で一声叫ぶ。

「約束したはずよ、後悔したら私の願いを叶えるって」

「ああ……」

 思い出した、確かにそんな約束をしていた。こんな事態になるとは思わなかった頃、花梨を救えると信じていた時。

「わかった、言ってくれ、そしてその後……」

 その後が続かなかった。夜如が不意に抱きついてきたのだ。甘いミルクのような香が鼻孔をくすぐり、達瀬は驚く。

「な、なに……」

 くすくすくす、と彼女は胸の中で笑う。

「……離れろ! 達瀬君から離れろ!」

 唖然としていると、花梨が憎しみに顔を歪める。  

「幽霊は黙ってて! どうせ何も出来ないんだから……私の『願い』はあなたと結婚して子供を作ること、守ってもらうわ、約束したでしょ?」 

 意味が全く分からなかった。

 ただ花梨は荒れ、周りの風景がぐにゃりと歪む。

 夜如は驚愕する達瀬に、胸のメダルを差し出した。良く見ると、まばゆい金の表面に気持ちの悪い蛸のような物が描かれている。

「倉顕(くらけん)様よ」

 彼女の口調はどこか冷ややかだ。

「ずっと前、神話の時代に宇宙からやってきて海に棲んでいる神様、そして私達一族の祖先、私のずっと先祖の巫女は私と同じくらいの歳の時に倉顕様に身を捧げて身ごもったの、それ以降、私達一族は倉罫冥海法という技が使えるようになった」

 達瀬の胸で夜如は身震いした。

「その後も一族の女子が子孫を残す相手がいない場合、倉顕様に捧げられる運命なの、冗談じゃないわ! 私は嫌! こんな化け物なんか、神様でも嫌!」

「なんで……俺なんだ? 他にも沢山人はいるじゃないか?」

 呆然と聞き返すと、夜如は人間離れした美貌を近づけた。

「あの時、あなた泣いてたでしょ? 救われない幽霊の為に、その時決めたの……私達は自分たちの力で、最高の連れ合いを探さなければならない、他人のためにあんなに真摯に泣けるあなたのような」

「冗談でしょ!」

 花梨の悲鳴は割れている。

「あのねえ……」   

 夜如はわざとらしく肩を落として見せた。

「例えここでこの人を殺したとしてもあなたとは一緒になれないのよ? だってあなた罪のない人を殺したでしょ? そんな幽霊は地獄……違う世界に消えるさだめ、この人はただの冥界に、あなたは地獄……ほら、どうやっても一緒になれないじゃない」

 それは達瀬にとっても初耳だ。

「そ、そんなの」

 花梨も狼狽したように明滅する。

「で、でもダメ! やっぱりダメ! 達瀬君は渡さない、私の物!」 

 ふ、と夜如の熱い吐息が達瀬の頬にかかる。

「そうね、私にとってもどうやらあなたは邪魔だわ……」

 達瀬が彼女の大きな瞳から目を逸らすと、夜如はするりと離れた。

「ここで完全に消さないとね、私は独占欲が強いの」

「待ってくれ!」

 叫んでいた、夜如の言葉から明らかな殺意を嗅ぎ取ったのだ。

「やめてくれ! 花梨を消さないでくれ! 何とかするから、何とか悪霊じゃなくするから! 何とか……」

 もう夜如は振り返らない。

 いつかのように割って入ろうと考えたが、肉体は固まったかのように動かなくなっていた。

「……達瀬君」

 花梨が微笑んだ、死んだ時の無惨な顔でだが、美しい笑みに見えた。

「ほらね、そんなあなたを私は選んだのよ」 

 夜如は端で密かに睨んでいる育美を指す。

「あの娘は正しいの、幽霊は邪魔なだけ」

 その瞬間、花梨は跳んだ。悪霊の、屍の姿で夜如に襲いかかる。

「倉罫冥海法」

 夜如はそう呟き、迫る花梨の胸に掌を叩き込んだ。

「きゃあああ!」

 今までとは違い、花梨の悲鳴は少女らしいそれだった。

 世界のどこかでパチンと弾ける音がした。

 花梨が風に舞うように落ちると、辺りはいつもの学校の風景に戻っていた。

 突如、梅雨時の蒸し暑さに包まれる。

「花梨!」

 必死に彼女に駆け寄った。先程まで動かなかった体が、嘘のように軽い。

「花梨! 花梨! おい!」

 だが達瀬の手は空気だけを掴み、倒れている彼女に触れることが出来ない。

 花梨は弱々しく目を開いた。

「……ごめんね……怖かったでしょ?」

 彼女はもう傷だらけの悪霊じゃなかった。いつも傍らにいた怪我一つない姿だ。

「怖くなんかない! だって……だって、所詮君がやることだ、何かマヌケだった」

「もお」

 花梨は唇を尖らせる。

「こっちは悪霊やっているんだから怖がってよ! それが社交辞令でしょ? ……ふふ、ホントに達瀬君だね」

 彼女は優しく、細い手を伸ばす。

「大好きよ、本当に……あなたの全部が好き」

「俺もだよ……花梨、だから一緒にいてくれ!」

「いや」

 小さくかぶりを振る。

「今気付いた……思い出した、大好きだから私、あなたの幸せを祈る、死んだ後のじゃなくて生きている者の幸せ……だから達瀬君は殺さないし、連れていかない」

「花梨……」 

「……ほんっと、とんだ悪霊だった、私バカだ、どうしてそんな簡単な事も忘れてたんだろう、安藤も殺しちゃったし、私どうしようもないね?」

「そんな……」

「いいの、自覚しているんだから」

 花梨は唇を結ぶ。

「やくそく……ちゃんとお供えしてよ、梨とモンブランと牛乳プリンと高級メロンとチョコケーキとあんず飴と……デラックスクレープ」

「……どさくさに紛れていくつか増やしたろ?」

 花梨が滲んでいく。目が涙に濡れているからだけではないようだ。

「……まったく、女の子の頼みは黙って聞く! 細かいところばかり指摘するんだから……でも、私はそんな達瀬君を、どうしようもなく愛しているわ……長生きしてね、私の分もよ、幸せになってね、そしたら許してあげるから」

 達瀬はそれに答えようとした、だが彼女の顔が凄惨な屍のものに変わる。

「でも……」

 息を飲むと、花梨の飛び出していない方の目が細められる。

「あなたは許さない!」

「ひっ」と何かが声を上げた。

 振り向くと育美が喉を押さえて暴れている。強い力で首を締め上げられているようだ。彼女の大きく開いた口から、赤い泡が吹き出る。

「花梨!」

 大声で呼びかけるがその前にボキリと音が鳴り、育美の体はだらりと力を失った。

「なん……で?」

 もう答えは返ってこなかった。

 花梨の姿は消えていた。廊下に真っ黒い人型の染みだけが残っている。

「最後まで悪霊だったわね、だから言ったでしょ? 幽霊を舐めちゃだめよ、さあ約束よ!」

 夜如の言葉にも、絡んでくる腕にも構わず、必死に視線を動かし見つけようとした。

 荒廃はしたが見慣れた学校の廊下。割れたガラス窓、壊れた蛍光灯、舞い散る至る紙類。

 床には散らばるガラス片と埃と、羽島育美の死体。

 彼女はいない。

「……花梨、どこにいるんだ? 花梨!」

 達瀬はいつまでも探した。傍らにいてくれた少女の幽霊を、騒がしく面倒くさい彼女の笑顔を、いつまでも探して呼びかけた。


 エピローグ 

 毛布のように空を包む深い闇の奥に、夏の星座があった。

 達瀬はぼんやりと、瞬きを見つめていた。

「ほらいた」

 傍らから可笑しそうな声が上がる。倉罫夜如は、心からおかしそうに嗤う。

「馬鹿な連中ね、あんなことで度胸試し? それとも退屈なのかな?」

 彼女の視線を追うと、そこには白っぽい建物がある。三階建ての大きな施設だ。だが、見た目からも荒れ果てていた。

 よく観察してみると、白壁は端から黒い染みに蚕食されて行っている。窓々にもガラスはなく、木の板で封じられている。出入り口には立ち入り禁止のロープが揺れていた。

 風が出てきた。 

 熱帯夜故に生温かかったが、気分を変えるには丁度良い。

「このままでいいのか? 危険なんだろ?」

 小さな懐中電灯らしき光を捉え、無駄だろうが夜如に言ってみる。

「いいのよ」

 案の定、軽侮に満ちた返答だ。

「廃業した病院に勝手に入り込む奴らは知るべきよ、自分たちの馬鹿さ加減を……そうね、一人くらい死んじゃうかも、でも、それが教育、幽霊を舐めた者への」

 冷然とした微笑みを無言で見つめた。

 あの事件……痛みしか残らなかった氷賀子高校のそれから数ヶ月が経過し、夏になっていた。

 光源もないのにぎらぎら輝き揺れる、夜如のメダル、倉顕様の描かれたそれを目で追いながら思い出す。

 事件は当然、大問題に……ならなかった。

 学校で、精神的に不安定だった女教師が同僚教師と生徒を数人殺害した、と極抑えた言葉でなぞられだけだ。

 それだけでもセンセーショナルなのだが、何故か騒ぎ出す者はいなかった。

 胸を張った倉罫夜如に説明される。 

 彼女達の『行動』の時、起こった何もかもは手厚く秘匿されるという。

 発表はされたのだが、この国では隠すより理論でガチガチに固めて当然のように教えると、誰も疑問を持たないらしい。 

 確かに、一連の惨劇は誰の口にも上がらず、当事者の生徒達もほとんど何も覚えていなかった。

 異界とはそんな物だそうだが、よく分からない。

 ただ数週間前に『自殺』として片づけられた一人の少女の死については、その犯人が彼女と親しかった友人だと警察が断定した。

 羽島育美の家庭は散々な目に遭っている。

 散々と言えば大火傷を負った松葉洋一は、呼吸器官にまで傷が及んでいたために、一生病院のベッドから動けなくなった。

 今田吉郎は明るさと友人を取り戻しているらしい。

 そして……日比木達瀬はもうこの世界のどこにもいない。沢城花梨のように消滅した。

 倉罫夜如との『約束』を受け入れ、なんやかんやの儀式の後、今は倉罫達瀬となっているのだ。

 倉罫家に入って分かったが、世界は彼の知るより余程危険で危ういものだった。 

 常に異界の死者達が現世を求めて生者を狙い、世の平安を守るために、倉罫の少女達が日々奔走している。

 ただ彼女達の意識にはやはり他者の命への尊厳という物がなく、夜如のように、事件を解決させれば犠牲は何人でも構わないらしい。

 実は達瀬は彼女について回る必要がない、東京の倉罫家でぼんやりとしていればいいのだ。

 だが必ず彼女と行動を共にした。

「ほら……でも、ヘンね、どうやら仲間の一人が幽霊のフリして、他の連中を狙っているようね」

 嬉しそうに夜如が目を輝かせた。

 廃病院のどこからか悲鳴が上がった。何か惨劇が起こっているらしい。

 人間の命は弱く、どんな動物の霊にも脅かされる。しかし本当に人の命を狙うのは人だ。

「……バカね、こんな所でそんなことしたら、どうなるのか考えてもいない……そろそろ助けてあげようか? それともまだ見ている?」

「頼むよ」

 達瀬の言葉で夜如は一つ伸びをし、鷹揚な足取りで建物に進んでいく。

「……待ってた方がいいのよ?」

 達瀬に夜如は振り向いた。珍しく困ったような表情だ。

「いいんだ、見たいから」

 すぐ後ろに着いてくる達瀬にため息をつくと、夜如は向き直った。

「私は……倉顕様の血を引いているから絶対大丈夫だけど……達瀬は普通の人間なんだから、いつも無事とは限らない」

 彼女の少し沈んだような言葉に、そっと頷く。知っている、この行為が危険極まりないことを。

 達瀬は夜空を見上げた。もう雲に隠されてしまったらしく、星は消え去っていた。

 こんな事をしていたら、いつか命を落とすだろう。幽霊によって殺される。

 夜如の話では幽霊に殺された者は、普通に死ぬより遙かに悪霊になりやすいそうだ。

 ―そうなれば倉罫の娘に倒され……地獄に行ける。 

 あの日、あの時失われてしまった『彼女』の傍らに行けるのだ。 

 ―花梨……。

 思い出すのは太陽のような笑みだ。去来するのは何よりも熱い思い。

 ―花梨。 

 間違いなく、彼女を愛していた。出会った時にはもう共に生きていくことの出来なかった少女。

 ―だから……だからこそ地獄の底で今度こそ一つになる!……。

 達瀬にとって何よりも尊い、生涯ただ一度の愛だったのだから。

                                  了

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ゴーストな彼女 イチカ @0611428

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