ゴーストな彼女

イチカ

第1話 降霊

プロローグ


 呆然と自分の屍を見下ろしていた。

 ぼんやりとした、まるで今の状態のような危うい記憶には、そこにまでに至る決定的な道程がなく、ただ、蝋のように白くなっていく自分の顔を見つめ続ける。

 ―なぜ、なぜ、なぜ……?

 青すぎる、一掴みの雲もない空の下、ぎらぎらとする初春の太陽光線に貫かれながら、彼女は何者か、自分の運命を突然変えた、どうしようもなくねじ曲げた『何か』に必死に問いかけた。

 振り向き、つい数秒まで立っていた場所、影となりそそり立つ校舎の屋上を仰ぎ見て、陽炎のように揺らめく人影にその行為の意味を問う。

 答えは帰ってこず、今一度、仰向けに転がっている自分を上から下まで睨めた。

 目は剥き出されていた。あまりにも驚いたのか、落下の衝撃で眼窩を飛び出したのか、つやつやの眼球が片方、丸い表面を白っぽい世界に晒していた。

 もう片方、左側は青い瞼にきつく閉ざされ、その中にきらきら光る瞳があるなどと連想も出来ない。

 ついさっきまで色つきのリップクリームでそっと撫でていた唇はだらしなく歪み、散々に欠けてぎさぎざになった真珠色の歯が、硬質な光を反射している。

 あまりに無惨な姿に、両手で視界を覆った。

 なのに、何故か手の皮膚は肉は骨は透け、もう見たくない自分だったものを、さらに目に焼き付けることとなる。

 ほっそりとしたうでは関節の無いところで曲がり、足は膝から逆方向に折れている。

 ―ああああ……。

 彼女はおののいた、じっくりじっくりと自分から暗い朱色の液体がにじみ出し始めたのだ。 体の下から鮮血が放射状に広がっていく。

 ―ああああ……。

 清潔な白を保つ為に何枚も買い込んだ高校指定のブラウスが、血の染みで汚れていく。

 ―ああああ……。

 死に向かう自分の肉体を少しでも現世に繋いでおくために、大地から抱き上げようと、あわてて頭側に回り込んだ。

 自慢だった艶のある髪がぱっくりと割れ、白い何か塊のような物が散らばっていた。

 すぐに閃く、脳だ、脳漿が飛び出しているのだ。

 ―ああ……。

 壊れてしまったのだ。

 彼女の肉体は、器は、もう生命を溜めておけなくなっている。

 どうしようもなく、滅茶苦茶に破壊されてしまった。

 彼女を受け止めた灰色のコンクリートは、信じられないくらい暴力的で荒々しかった。

 夜にいつも包んでくれるベッドなどとは根本的に異なり、柔らかい肉体をただ潰したのだ。

 ―なら私……。

 ようやく自分が、壊れた肉体を見つめるもう一つの『自分』の正体に気付いた。この世界に存在するために必至な『肉体』を失った霊魂。

 ―幽霊……。 

 彼女は言葉を失った。その場で立ちつくす。否、本当の足はねじくれてしまったのだから、ただ制止しただけなのか。

 どこかで高い悲鳴が上がった。

 彼女の『肉体』の異常に誰かが気付いたのだろう。

 途端、大勢の叫び声、靴音などが沸き起こる。

 だが気にもならなかった。ただ茫漠たる表情で、自分の屍体を見つめ続けた。

 ざわざわと肉体のある人々が集まってくる、今更、壊れた彼女を助けようと言うのか、駆け寄ってくる。

 ―無駄……、何もかも無駄……。 

 彼女はそれを悟っていた。どうしようもなく切実に感じていた。

 もうダメなのだ。終わりなのだ。過去のみに埋もれてしまう肉の塊になってしまった。

 ―恋も……。

 それは密かに夢見、友達と幻想を語り合いながら前に立つ者をじっと待っていた、あまりに神聖な言葉だ。

 ―恋もしたことがないのに……。

 その時、砂の城がさらさらと崩壊するように彼女は絶望していった。

 この世界で約束されていたはずの何もかもが失われた。出会うはずの全ての人が、消え失せた。  

 突然、何の前触れもなく一方的に、情けも容赦も猶予も与えられず、切れ味の悪いナイフで命の緒を叩き切られた。

 ―あああああああああ……。

 頭を抱え、激しく叫んだ。叫び続けた。絶叫し続けた。


 第一章

 日比木達瀬(ひびき たつせ)は辛うじて白いYシャツの袖で、乱暴に汗を拭った。

 梅雨時特有のむっとした熱気が、駅の改札を出た途端襲いかかってきたのだ。

 憮然とした面持ちで見上げる空は、汚れたコンクリートのような暗い灰色だった。

 雨の匂いが鼻をくすぐる。出がけに母親の忠告を無視して傘を手にしなかったことを、なんとなく後悔する。

 朝だというのに灰黒い空と、湿気を帯びたなま暖かい空気が世界の隅々まで満たし、彼に奇妙な胸騒ぎを覚えさせた。

 ―雨が降らないだけマシか……。

 達瀬は雑然とする駅の構内から広いロータリーを見回しため息をつくと、同じ服装の校友達と同じ方向に足を動かした。

 道はしばらくレールに沿った上り坂が続き、朝故の過密スケジュールに押し流される電車が、幾本も横を行き交っていた。

 その度にぎしぎしとレールが揺れ、達瀬は思わずその度に不快な音の方向に振り向いてしまう。

 ぎらぎらに磨かれた鉄の線を上を、さび色の鉄の車輪が通過していく。何ともない列車の仕組みだが、鉄と鉄の噛み合いが不吉で不安なものに写った。

 百年くらい前西洋にあった、システマチックな金属製の死刑台を連想させる。

 ―どうかしている……たかが梅雨らしい天気、というだけじゃないか……。

 顔を左右させても、あるのは浮き出た血管のように青黒いアスファルト道と、それと住宅とを分かつ灰色のブロック塀だけだ。

 達瀬は無理に舌打ちした。そうしないと心が運んできてしまうような気がするのだ。

 どうしようもなく大きな、問答無用な『恐怖』を。

 達瀬は益体のない考えを無理に中断する。

「昨日のアレ見た」

「見た見た」

 すぐに、訳も分からない会話を耳が捉える。同じYシャツ姿の男子生徒二人が、前を歩いていた。

「スゴかったなあアレ」

「笑えたね、あそこまで行くと芸術だ」 

 真新しい鞄からすると下級生と思われる男子生徒達は、達瀬には意味の分からない会話で盛り上がっている。

 ―アレってなんだ?

 気分転換に考えてみた。訳も分からず不吉がっているよりはマシだと思ったのだ。

 ―すごくて笑えて芸術?

 さらに情報を得ようと耳を澄ます達瀬の前で、二人の男子生徒は何か囁き合って体を反らして笑った。

 ―仲が良い友達なんだな……。

 会話に出てきたアレは分からなくとも、それだけは分かる。いつもたった一人の自分とは大きく異なる、ということだった。

 レールが軋み、列車が猛スピードで傍らを駆け抜けていく。

 上り坂はいつのまにか急な下り坂になっていた。再び額にじっとりとした汗が吹き出し、一条の流れとなる。

 鷹揚に腕を振って拭った。

 倦怠、とも取れる熱く息苦しい感触がどうにも適合しない。

 たまらなく不快だ。

 達瀬は足を速めて前方にいた二人の下級生を追い抜いた。

 ついさっきまで考えていた『アレ』の正体も、何でもよくなった。

 とにかく早く屋内に入りたかった。湿度と熱気が混ざられたのに風も吹かない外なんてうんざりだった。

 眉を顰めて私立氷賀子高校へと急いだ。

 だが校舎が見え、校門が視界に入ると呻いていた。こんなに息苦しいのに、校門の前に列が出来ているのだ。何が起きているかは分かる。

「みんな一列に並べ、隠しても無駄だからな!」

 若々しい甲高い声が生徒達の不満顔をさらに煽っていた。

 憤懣と無力感に苛まれながら、達瀬は黙って白い夏服の女子生徒の背後に並んだ。

「また荷物検査?」

 どこからか現状を端的に表す言葉が流れてくる。

「いいかげんにしろよ! 三日前もあっただろ、持って来たくても持ってこないって」

 梅雨の不快に苛々しているのは彼だけではないらしい、爆発寸前の男子生徒の声は微妙にうねっていた。

 無理もない、言葉通りに校内に入る前手順としての荷物検査が、今日を含めると一週間に三回という執拗を超えて偏執のレベルで行われているのだ。

 達瀬も好意のかけらも含めぬ目で、列の先にいる人物を射た。

 小豆色ジャージ姿の男。金川京大教諭が、この暑さの中マメとも言える機敏さで動き回っている。

 彼は丁度一年前、達瀬らが入学したと同時にこの学校に着任し、二十代の若さと端正とも取れるルックスで、しばらく女子生徒に人気のあった教師だ。

 だが、金川教諭は女子生徒達により加算されていたボーナス得点を、フイにしてしまう欠点があった。

 傲慢で神経質でしつこい。

 着任早々風紀委員の顧問を買って出た金川は、今まで生徒の自主性を重んじてきた校風を一蹴し、全ての生徒達にプレッシャーを与える幾多の関門を築いた。

 その一つがこの週数回に及ぶ荷物検査であった。

 生徒達はそれにより逆に学校側に不快感を持った。金川のやり方はつまり生徒など信じていない、という意味だ。

 今まで学校の為、道を誤った級友の為に、教師にそっと秘密を打ち明けていた一部の模範的生徒達も、硬く口を閉ざすようになってしまった。

「次だ、早くしろ! お前だけが特別じゃないんだ」

 無意味にがなる金川に、達瀬は無抵抗のまま鞄をつき出した。

 金川のやり方は好きではない。生徒からの悪評を教えてやりたい、だが教師というのはどんなに若くとも学校で権力を握っている。それに逆らうと酷い目に遭うことを、達瀬は中学時代に思い知っていた。

 金川は無言で達瀬の鞄を開くと、中身をのぞき込んでいる。その間、一重のつり上がった目と、通った鼻筋、細い顎を観察した。

 確かによく言うハンサム顔ではあった。着任時に女子生徒達が騒いだのも頷ける。

 金川は無表情のまま学校指定の鞄のサイドポケットにまで指を入れた。目にした達瀬は、偏執さに密かにゾッとする。

「よし、問題なし、行って良し!」

 達瀬は金川の細い目から逃れるように鞄を取ると、生徒玄関がある昇降口に足を向けた。状況の激変に弛緩した顔のまま、ゆっくりと学校の敷地内を進む。

 はっと俯いた。

 それが目に入ったのだ。足下から続くコンクリートの視界だ。

『あの部分』に今はもう『痕跡』などない、ただ同じ灰色の硬い地面があるだけだ。誰かが染みが残っている、と言い張るのを聞いたが、そんなはずはない、あの後、綺麗に洗われたのだから。

 そこを見ないようにしながら、心の中で呟いた。 

 ―よくここまで平和になったものだ。

 一ヶ月半ほど前の、新学期が始まってからすぐ、学校は大騒動に傾いだ。 

 私立氷賀子高校は愛知県の地方にあり、学力レベルは中の上、運動部レベルは中の下、学校施設、敷地面積、何を取っても取り上げるところが無く『どこにもある学校』というのが最大の特徴だった。 

 中部最大の都市・名古屋市から電車で四五分、周りには住宅地と、学校の位置も特に挙げるものがない、常識的なつまらない所だ。

 だが一時期、この学校は台風の中心にあった。

 達瀬が覚えているのは学校の校門に押し寄せたテレビカメラと、こちらに背を向け誰かに語りかける女性リポーター、不安がって集まってきた近隣住民の姿だ。

 彼等は一様に、どこにでもある灰色の四角い校舎を異形の巨人のように見上げ、その場所を示した。

 一人の少女が死んだ。

 実は達瀬は見ていないし何も知らない。通常授業を吹き飛ばして行われた全校集会で、校長先生から、「面白半分のマスコミに詳細を語ってはいけない」と釘を刺されたが、大多数の生徒は、何も知らないはずだ。

 だが良かったと思っている。後に詳細を観察した者の発言に戦慄した。

「酷い死に方だったよ、まるで潰されたみたいだった、血まみれで手足はぼっきり行ってて脳が」

 ここまでで十分だ、聞きたくもない。   

 だが人の噂も……とはよく言った話しであり、事件は数日テレビで燻り、数週間近隣で囁かれ尽くすと、噛み尽くされたガムのようにぺっと捨てられた。

 もう事件の余波は学校のどこにもなかった、二週間後に事件性が薄いと判断されて、警察官の姿が消えると同時に、校内外は秩序を取り戻したのだ。

 そこまで達瀬が考えた時、ふっと白い何かが横切った。びくっと立ち止まり、その方向を見る。

 コンクリートが続いていた。何の変哲もない暗い灰色の地面、しかし衝撃に立ちすくむ。

 見てしまった、なるべく視界に入れないように気を配っていた場所、少女の死体があった場所だ。 

 達瀬をそう導いた者の正体も分からない。

 幻ではないはずだ、確かに白い何か、しかし風で飛ばされた紙の類とは考えられない柔らかな、人の影のようなものが目の前を通った。

 談笑する男子生徒と女子生徒、俯き歩いている男子生徒、自転車を駐輪所に入れる生徒、部活なのか運動着姿の生徒達……何もない。

 ―何があった、何が通った?

 達瀬はぐるりと何も変わらぬ学校の風景を確認して、自分に問うた。

「ウゼえんだよ!」

 達瀬は飛び上がりかけた。野太い声が、雷のように上がったのだ。

 素早く視線を転じてほっと安堵する。見慣れた光景だった。

 髪を所々金色にしている大柄の生徒が、小柄の生徒の胸ぐらを掴んでいた。

 達瀬は唇を強く結ぶ。無表情に揺さぶられている被害者を、知っていた。

 今田吉郎……、達瀬と同学年で同じクラスの生徒だった。

「シカトしてるんじゃねえよ!」

 今田は金髪に乱暴に顎を掴まれているが、心ここにあらずといった体で無言のままだ。

 思わず背後を振り返ったが、金川教師は女生徒の鞄に頭を突っ込むのに忙しいらしく、今田の窮地に気付きもしない。 

「キモい野郎だな!」

 鈍い音が鳴り、今田の体は地面に落ちていた。

 殴られた。と解る。

 だが、今田はまだ何も言わず、じっと俯いている。

「いい根性だな、俺をバカにしているだろ?」

 無感動になることで、無防備になることでようやく身を守っている今田なのに、絡んだ男子生徒は訳の分からないインネンをつけていた。

 登校に賑わっていた生徒達が黙り、皆頭を垂れ歩を早める。

 今田に絡んでいるのは、校内でも知らぬ者はない松葉洋一という不良である。

 彼は入学時は普通の生徒だったが、その年の夏休みに見事に染め上げられて登場した。

 最初学校側は彼の処遇に苦慮し、体力自慢の教師が恫喝のような説得に明け暮れた。その教師の通勤用の車が何者かに潰される。ぴかぴかだったフロントガラスに、学校の隅にあった石のオブジェが叩き込まれたのだ。 

 学校側は放置を決めて、結果、松葉は髪をまだらに金色に染めて、耳に校則違反ど真ん中であるごっついシルバーアクセを幾つもぶら下げている。

 考えたら荷物検査とやらの時、松葉から何も出ないのはおかしいのだ。校内でナイフを自慢していたのはつい先日だし、何やらの薬でふらついていた日にも荷物検査があった。

「ううっ」

 思考が今田のうめき声に中断した。

 どういう生地か、てかてか光るズボンに包まれた松葉の蹴りが、今田の薄い胸に突き刺さったのだ。松葉は最近、その苛立ちと暴力衝動のはけ口を今田にぶつけることを日課にしている。

 氷賀子高校の誰もが知っていることだ。誰もが触れないことでもある。

 無言で見ていた達瀬だが、あ、と思わず駆け寄りそうになる。

 苦しみにのたうつ今田の首に容赦ない一撃が入ったからだ。危険な攻撃だ、相手の命の事など何も気にとめていない。

 だが、救出を思った足の勢いは、すぐに止まった。

 苦い記憶が蘇る。数年前、中学生の時だ。

 顔を歪めて笑う中年教師、敗北感と無力感に涙を浮かべる自分、遠巻きに見ているだけの仲間。

 今田の悲鳴に背を向け、口をつぐんだまま生徒玄関へ階段に急いだ。

 関係なかった。真っ平なのだ、誰かを助けた変わりに自分が不条理な目に遭うのは、下らないこと。

 マイナスの方向に目立ってしまった今田がマヌケなのだ。今田が悪い。

 苦しげな声が背後を騒がせるが、達瀬は振り返らなかった。

 

 二年四組の教室は二階にあり、二階の玄関かせらは靴を履き替えたらそのまま二年生の廊下へと行ける。

 達瀬はすれ違う顔見知りの他人に一言の挨拶も交わさず、口をつぐんだまま四組に入った。

 突然ボリュームが上がった嬌声が、鼓膜を刺激した。

 一瞬でも惜しがっているかのように、皆近場の友達と囁き合っている。エサをねだるひな鳥のように急がしく喧しい。

 達瀬は大きく息を吐くと自分の席、窓側の真ん中に向かった。

 学年が上がり新たなクラスに編成され三ヶ月、顔なじみはくらいは出来た。

 縁の薄いそれら顔が達瀬を認め、一瞬戸惑って軽く会釈する。全てを無視した。どうせ友達など肝心なときに助けてはくれないのだ。

 中学時代、それを学習した彼は高校入学の後、友達を求める級友を尻目に、何もしなかった。

 自然と孤立する。

 寂寥はあるが、それにじっと耐えた。

 友達というものは得るときの喜びよりも、失うときの悔しさの方が大きいのだ。

 だから一人で過ごす、その方が楽だった。

 重い革鞄を机に降ろし、中身を入れ替えながらいつも通り窓から外を見た。意味があるわけではない、こうしていればヘンな気を起こした者に、話しかけられないで済むからだ。

 机の左側にある窓からは学校の校庭が見渡せた。

 私立氷賀子高校の校庭は、高いフェンスを挟んで線路と隣り合わせになっている。

 着席を忘れて見つめ続けると、名古屋に向かうのだろう上り電車が、敷いてあるレールどおり歪んで通過していった。

 その横で、校庭のそこここにいる運動部らしい軽装の者達が必死に、与えられた課題に取り組んでいる。

 達瀬は冷めた目で、観察者の存在に気付かぬ生徒達を見下ろした。

 白い手が窓を撫でるように横切った。

 はっと目を見開いた。今度は確実に目撃したのだ。

 思わず顔を窓に近づけ、それが去った方向を覗き見る。灰黒い空がある、それだけだ。

 何が起こったのか、何が視界にちらつくのかは分からない。

 改めて窓から校庭の隅々まで確認し、はっとする。それは線路と校庭を分かつフェンスの下だった。

 遠目でよく分からないが、スカートを履いた女の子が、黒い影のようにじっと佇んでいる。

 達瀬は怪訝な顔になる。学校の敷地内に勝手に他者が入れるとは思えない。それに、あんな遠いところから何を見ているのだろう。

「おい! 日比木!」

 正体不明の人物に焦点を当てていた為に、思わず声を上げそうになる。何とか喉で押し殺し振り向くと、同級生の少年が立っていた。

「何してんだ? 何か面白い者でもあったか? それとも好きな女でも校庭にいるのか?」 

 六月だというのにもう日焼けした顔に『興味』という笑みを浮かべた少年は、笑うように問うた。

 達瀬は瞬きを繰り返し、その生徒の子細を記憶層から抜き出した。

 西野由岐雄は日比木達瀬のいる二年四組で、最も目立つ男子生徒である。  

 短く切った髪を校則すれすれの色まで脱色し、没個性な学校指定白Yシャツとズボンを履きながらも、高い身長故、嫌でも人目を引く。その上バスケット部の二年生主将なのだから人気が出ないはずがない。学年を問わず女子生徒から圧倒的に支持されていた。

 しげしげと観察していると、西野はふふと鼻から息を抜くように笑う。

「何だよ、俺に惚れたか? お前ソッチ?」

 その言葉は表面上軽い冗談だが、底にある悪意、見下すような感触を達瀬は見抜いた。

 西野は男子生徒にウケが悪い、嫉妬がその理由をほぼ占めているが、その他は同級生に対する言動に対してのものだ。自分に絶対の自信があるのか、他者を高い視線から見て、いつもどこかで嘲っている。

「何?」

 どこかで自分を嗤われていると分かるから、返答は短くする。

「つまんない野郎だな、だからモテないんだぞ」

 素っ気ない態度に、自惚れている西野は肩をすくめた。

 その仕草はどこか演技めいていて、達瀬の西野に対する印象はより悪くなった。大体、こんなに目立つ男と仲良くしてなどいない、今日初めて口を利いたと言ってもいい。 

「英語の課題を見せてくれないか?」

 はあ、と聞き返した。何を言っているのか本当に分からない。

「ほら、こないだの英語の時間に出たろ? 長文の翻訳、あれだよ」

 彼は言葉を切って胸を張る。

「俺はバスケが忙しいからそんなのやっている暇はないんだ」

 それのどこが言い訳なのか分からなかったが、達瀬の首筋が急に冷えた、朝からの胸騒ぎの理由を悟った気がする。

「お前忘れたのか?」  

 その様子に西野は舌打ちする。

「この馬鹿! どいつもこいつも今日に限って忘れやがって」

 ようやく西野の不意のコンタクトの意味が分かった。いつも親しくしている目立つ仲間達も、その課題とやらを失念したのだ。

 だから無関係ながら同じクラスの達瀬に話しかける必要が生じたようだ。

「ったく、どうすんだよ! このバカ」

「女の子はやっているんじゃない? 聞けば」 

 西野は女子生徒からの人気を利用して、欲しい物を手に入れたり、気に入った娘を連れ回したりと、いろいろ悪名がある。噂ではない、自分で言いふらしている。

「バーカ、そんな格好悪いところ見せられるか、俺はどんな時でも格好いいから、西野由岐雄なんだぞ!」

 正直、もうこの男と関わるのはうんざりだ。達瀬が教室を眺めて課題を終えていそうな者を探したのは、優しさからではない。

「今田君は? きっとやっているよ」

 今田はただ松葉にイジメられている無力な存在ではなかった。実は成績や授業態度はすこぶる良好なのだ。 

 西野の眉間に深い縦縞が刻まれる。

「ふざけんな! あんな暗い今田なんかに関われるか、キモいだろうが!」

 今まで小声だった西野が、不意に大声で喚く。

 その意味を三秒遅れで悟って視線を転じると、今田の顔が苦しげに歪んでいる。

 げらげらという西野の笑い声を遠くに聞きながら、今田はここで陰口を叩いていたと誤解するだろう、と達瀬は消沈した。

 西野はその後、一言もなくすぐに背を向けた。

 屈辱と怒りに縮む今田を顧みるまでもない、西野にとって達瀬も同じような存在なのだ、ただ明確な悪意が向いているか、関心がないかの違いである。

 遠ざかる長身の背を横目で見ながら、英語の教科書とノートを指先で探した。しかし、それらを取り出し机に滑らせると、途端に肩辺りが重くなり心から力が抜けていく。二時限目の英語の時間までに出来上がるとは、考えられなかった。

「ねえ、日比木君」

 頭を抑えていると、控えめな声がかかった。

 斜め前の席にいる女子生徒が、こちらに体を向けてうっすら微笑んでいた。

「英語の課題、やっていないんでしょ? 見せてあげようか?」

 どうやら西野との遣り取りを聞いていたようだが、こんな幸運があるとは考えていなかった。

 救世主のような存在になった少女、羽島育美は天使のようにはにかんでいた。

「ちょっと!」

 すぐに彼女の机に覆い被さるように話していた女子生徒が、眦を上げる。 

 安藤このみはショートカットの頭を片手で掻きながら、睨みつけてくる。

「なんでそんなことしてやるの! こいつが課題忘れたのはこいつのせいじゃない! せいぜいあがいて叱られればいいのよ」

 酷い言い分だが正論だ。

「いいじゃないこのみ、情けは人のためならず、という諺があるわ」

「こいつに教えたところで、回り回った後でその見返りがあるとは思えない」

「見返りばかり考えていると逆にバチがあたるよ」 

 当人を置いて、二人の女子生徒は言い合いを始めた。

 達瀬は口を挟む位置にいないので、成り行きの好転を持つ。確かにそれほど親しいとは言えないただのクラスメイトという関係だ。

 羽島育美は達瀬と同じ中学出身で、セミロングの黒髪がよく似合う、小柄な可愛い少女だ。円らな瞳に優しげな口元、笑うと片えくぼが出来る誰もに好かれる娘で、クラスの男子生徒からの支持も厚い。

 片や安藤このみは育美と対照的にスレンダーな長身で、髪型から趣味、言動まで男っぽく、そこらのひ弱な男子生徒では喧嘩でも勝てないと恐れられている。

 細い眉、つり上がった目に泣きぼくろ、美人の部類に入る容姿だが、育美ほどの人気を獲得していないのは峻厳な性格による。 

 性格も考え方も違う彼女達だがどうしてか気が合うようで、二人でいる様子を校内でよく見かけた。

 否、二人ではない。

 論争している二人を上目遣いに見た。

 羽島育美は泣きはらした腫れた目で頬を上気させていた、安藤このみは蒼白の顔でじっと唇を噛んで正面を見つめていた。

 彼女達は仲良し二人組ではない、仲良し三人組だった。

 ただ、その一人が一ヶ月前に欠けてしまった。

 それを全校集会で校長先生が皆に説明した時の二人を達瀬はよく覚えている。今は精神的な痛手から立ち直ったようで、彼の今後、さしあたって二限目の運命に関する重要事項を話し合っている。

「日比木君は中学の時、部活が一緒だったんだから縁があるわ!」

 度重なる安藤の制止勧告についに育美も幾分気分を害したのか、珍しく強めの語勢で言い切り、頭を横に倒して机の中を覗く。

 安藤は根負けした様子で、憮然と肩を落とした。

「はい」

 と育美は「えいご」と丸文字で書かれたノートを笑顔で差し出す。

 達瀬は反射的に手を伸ばしたが、ばしり、と安藤の手が鋭くそれを叩き落とす。

「お礼は?」

「は?」

 怯んで聞き返すと、安藤の唇が尖る。

「あんた、育美に助けられるんだからお礼を言いなさいよ! ったく、この礼儀知らず、だから友達も出来ないのよ」

 鋭い指摘を受け「あ、ありがとう」と上ずった声で育美に頭を下げる。

「い、いいのよ、気にしないで」

 育美は困った顔で頷いてから、立っている安藤を睨んだ。 

 また何やら始まりそうだが、安藤の言葉を言い過ぎだとは思わなかった。

 安藤このみは自分にも他人にも厳しい少女だ、だからよく友達とも衝突するらしいが、その姿勢が間違っているものと思えない。

 むしろ羨ましい、他人と衝突してまでも己を出せる彼女の強さが眩しかった。

 育美のノートは見やすく、丁寧な文字が定規にでも計られたように真っ直ぐ並んでいた。 写すだけだから無心にシャープペンシルを動かしながら、ふと考えた。

 この二人、あの『事件』に最も近かった者達に期せず触れ、改めて思い返したのだ。 

 ―一ヶ月半前のその時刻。

 手が止まった。

『あの事件』

 育美のノートの蛍光ペンで書かれた注釈を無意味に見つめる。

 どうしてか思い出せない、片手の指で額辺りを強めにつついても、たった一ヶ月半しか経ってないのに、大事件の至近にいたはずの達瀬は自分の姿を完全に忘れている。 

 ただ聴覚は刺激を受け再生した。

 ぐしゃっという音、誰もがそれだけで事の不吉さを連想させる響き、遠いどこからか聞こえた兆候だ。

 犠牲者になった少女は酷い状態だった。

 見てもいないはずなのに、脳裏にその姿が現れた。

 腕は折れ脚は曲がり、目玉は半ば飛び出し周囲に白い脳漿が飛び散っていた。  

 達瀬の胸にどろどろとした霧が掛かりだした、口内にも苦い感触がある。

 同い年、同じクラスの少女が死んだ。

『死』

 もう二度とその姿を見ることが出来なくなる、究極の破滅。

 彼女は死んだ、消えた、壊れた、滅びた。もういないのだ。

 達瀬の脳裏に痛みにも似た鮮烈な感触がわき上がった。彼女、同じクラスの死んだ少女を思うと強烈にこみ上げる激情だ。

 ―血まみれで頭が割れていたって? 唇が酷く歪んでいた? そんにハズはない、だって彼女は……。  

 我に返ると、意識から離れた手が、意味不明の歪んだ線を書いていた。

 紙がこすれるような囁きに気付いて視線を向けると、羽島育美と安藤このみが小声で言い合っている。

 達瀬に対する安藤の態度に、育美が憤慨しているらしい。

 二人のやや赤くなった目元を見ていると、少女の死がまたぼやけて、輪郭を失っていく。警察の最終発表によると、少女の死に事件性は感じられず事故か自殺らしい。

 だから安心しろ、と言いたげな校長先生の報告を全校集会で聞き、達瀬は最初ぽかんとして、次に警察の無能に呆れた。 

 お茶を濁したような調査結果など理解出来るはずがない、そんなありふれた陳腐な結論は信じられなかった。

 だが、ここで少女の死を軽く始末しようとする者達を嫌う心に、ヒビが走るのだ。

 そう言う達瀬さえも、重大事件の最中の自分を思い出せない、何よりも死んだ女子生徒の名前が、近頃どうしても出てこなくなったのだ。

 一時期この学校周辺をパニックに陥れ、毎日どこかしかで連呼されていた死んだ少女の名前が、どこにもない。

 同級生に聞けばいいことだが、そう決心して手近な者を呼び止めても、肝心な質問は喉からついに出なかった。 

 目立ちすぎる少女だったのに、いなくなった途端名前を忘れる。

 安藤から自分を庇ってくれた育美に申し訳ない気持ちになった。どんな罵声を受けても仕方ない程、自分は冷酷だと思えた。

 

 梅雨の放課後は倦怠感に満ちていた。 

 苦しくなるような湿った重い空気が、教室の中に充満している。

 羽島育美のお陰で英語も乗り切り、その日はあっという間に過ぎ去った。

 可もなく不可もない、取り立てて語ることもない一日。達瀬は徐々に生徒が少なくなる二年四組で、しばしぼんやりと静止した。

 軽い疲労が肉体をやんわりと揉んでいる。

 顔見知りの生徒達が笑いながら廊下に出て行く。運動部員らしき者達が忙しそうに通過していく。吹奏楽部の楽器の音が鳴り出していた。

 ―今日も終わったな……。

 達瀬は部活に入っていないから、これで本日の学生生活は終了になる。後はただ重い鞄を持って自宅に帰るだけだ。

「よし」と一人呟いて、椅子を引いて立ち上がった。

 くぐもった轟音が響き渡る。

 教科書類をまとめていた達瀬の手が止まった、雷鳴に引き寄せられたかのように外を見る。

「うえー、本当に雨降らないのか? 真っ暗だ!」

 誰かの悲鳴の通り朝、灰色だった雲がいつの間にか黒く変色している。見るからに厚そうな質感で、ぼこぼこと丸いでこぼこを作っていた。 

「一雨くんじゃね?」

 何故か楽しそうな級友の嫌な予言に、眉を顰める。

 それは困る事だ。今日は傘がないのだ。自然と行動を早め、鞄を閉めると急ぎ足で扉に向かった。

「んじゃあ、後はよろしく! 今田君」

 半ば教室を出かかっていた達瀬は、背中にその言葉を感じて立ち止まった。

 今田吉郎は唇を引き結び、暗い視線を下げていた。何か言いたそうだったが、その前に数人の生徒達が笑いあって手を振る。

「チクるなんてマネはなしだよ?」

 何のことだ、と達瀬は怪訝に思ったが、すぐに思い至る。

 今週の教室掃除当番は今田の所属するグループなのだ。どうやら他の生徒達は示し合わせて、今田一人に押しつけたらしい。

 達瀬は一人で掃除用具が入ったロッカーを開く今田の背中を見、教室を見回した。

 数人でやれば一〇分くらいの広さだが、一人では時間がかかるだろう。勿論、手を抜けば良い、他の生徒達がやらないのだ、今田も適当に切り上げればいい。

 だが、彼が決してそうしないこと、何十分かかっても真剣に掃除して、他の生徒がサボった事も口外しないだろうと、どこかで分かった。

 達瀬の家は実は学校からそう遠くない。

 自転車でも通えるが電車の方が楽、くらいの距離で、駅にすれば二駅で着く。

 ただ、肝心の駅は決して大きくなく、各駅停車以外の電車には見捨てられたかのようにスルーされてしまう。 

 今から駅まで歩けば丁度、数十分に一度というスパンの各駅停車の発車時刻に間に合うが、それを逃せば、しばし駅で時間を潰さねばならない。

 今田は一人で教室の机を動かし始めた。

 残った数名の生徒達も他人の出来事のように手伝わず、興味も示さない。

 達瀬は迷った、出しゃばったところで何が変わるというのか分からなかった、かつてそうして酷い目に遭ったのだ。

 ―今田が一人でやるというなら、それでいい。

 だが、その時彼の心に雷のような閃光がよぎった。

『だから友達も出来ないのよ』

 安藤の言葉が突然蘇っていた。

「今田君……」 

 喉が勝手に言葉を紡いだ。

 彼自身も驚いていたが、今田はもっと驚愕しおののいている。

「俺も手伝おうか?」

 どくんどくんと心臓が打ち鳴らされる痛みにも似た感覚が胸にある。一言に巨大な勇気が入り、一言にひどく緊張したのだ。

 だが、それを受けた今田はしばらく沈黙し、じっと凝視してくる。

「あ、あの……」

 今田は無表情のまま目をそらして、掃除を再開させる。

 達瀬は間抜けに立ちつくした。

 いろいろな反応を思っていたが、ここまでの完全無視はパターンに入っていなかった。数秒呆然としたが、思い直して今一度提案しようとする。

 出来なかった。今田の肩辺りから強い『拒否』のオーラが発散されていた。

 ―どうしよう?

 手伝う、と言ってしまった手前引っ込みがつかない、しかしここまで露骨に拒否されたのに無理に割り込んでいく勇気は持ち合わせていない。 

「あ……、ええと」

 居心地の悪い世界を必死で観察した。どんな物でも良いからそこから逃れる切っ掛けが欲しかった。

 目をこらした結果、黒板の下にスチール製のゴミ箱を見つける。追われるかのように、紙くずが詰まったそれを掴んだ。

「んじゃあ、俺はこれを焼却炉に捨ててくるよ」

 努めて明るく語りかけたが、今田はやはりぴくとも反応せず箒を動かしていた。

 達瀬は銀色に輝くゴミ箱の意外な重さにも気付かず、抱えて教室を出た。

 廊下には誰もいない、本来この時間帯には生徒達が溢れかえるのだが、最初から人間なんていなかったような静寂にある。階段にも人の姿はなく、踊り場の蛍光灯はぱちぱちと点滅していた。

 だが、今の達瀬にはそんなことどうでもいい。羞恥心に似た熱が顔面をじりじりと焦がしていた。

 今田に手をさしのべたつもりだったのだが、どうしてか空回りしてしまった。どうすれば良かったのか、とゴミ箱を抱きながら必死で考える。

 校舎の外は思っていたよりも暑かった。裏口から出た彼の顔をむわっとする大気が包む。

 構わず、学校の裏手にある焼却炉に急いだ。

 赤茶に錆びた黒い鉄の塊の煙突から、黒い煙が空にゆらゆらと揺れている。 

 周りには無人で、雑草の生えた土の地面に焼却炉がぽつんと置かれている。物が燃えている時特有の臭気が鼻を突く。

 達瀬は近づくにつれて増す炎の熱気を全身に感じ、「はあ」とため息をついた。 

「何が悪かったんだろう?」 

 切実な問題だ、今田に感涙されて抱きついて欲しかったわけではない。感謝されたかったわけではないのだ、ただ力になりたかった。

 しかし、こちらに見せたのは背中と拒否だった。

「何が悪かったんだろう?」 

「何も悪くないわ」

「何か気に障ることでも言ったのかな?」

「いいえ、あなたは何もヘンなことをしなかったよ」

「でも、結局助けられなかった」

「そうしようとした、良いことをしたんだから胸を張ればいいのよ、くよくよ考えているなんておかしいわ」

 心胆が凍り付いた。全く意識していなかったが、いつの間にか誰かと会話していたのだ。

「うわっ!」と飛び上がり、前触れもなく彼の独り言に参加した人物を捜した。

 二歩くらいの間を開け、達瀬の背後に一人の少女が立っていた。

 衣替えが過ぎた六月だというのに、冬指定の紺色のセーラー服が蜃気楼のように揺れている。

 その容姿は記憶にある、同じクラスの少女だ。達瀬は目を剥き、小首を傾げている少女を改めて見つめた。

 花梨だ、沢城花梨(さわしろ かりん)。

 達瀬の脳内にその名前が何度もこだまする。

 忘れていた、どうしても思い出せない、しかし忘れられない名前。

 花梨はもう見られないはずの太陽のような眩しい微笑みで、愕然とする達瀬を照らしていた。


 第二章

 沢城花梨を知らぬ者は、私立氷賀子高校にいない。

 それは『事件』前も『事件』後も変わらなかった。

 達瀬が入学して最初に知ってたことは、花梨はアイドルであり天使であり女神だということだ。 

 艶々とした漆黒の長い髪、大きな黒目がちの瞳、すっと通った高すぎない鼻梁、小さな薄珊瑚色の唇。

 テレビで活躍しているアイドル達が、ただの田舎娘に見えてしまう可憐な姿。

 彼女は変わっていなかった。どの生徒達も密かに胸をときめかせた、あの沢城花梨だった。

 達瀬は口を大きく開いて、目の前の現実を拒否した。

 花梨は彫像のように立ちつくす達瀬をしばし見つめていたが、ややあって柔らかそうな唇をきつく結ぶ。

「達瀬君、私の葬式来てくれなかったよね? ちゃんとチェックしてたからね! 酷いわ、結構ショックだったのよ!」

 疑問の最終点にたどり着く前に、花梨があっさりとその上にある事象の文句を口にした。

「い、いや、だって……迷ったけど、何となく気が滅入って」

 言い訳しながら背筋が凍る、そうだ、彼女は死んだのだ。

 一ヶ月半前、まだ春の陽気に温められていた頃、突然屋上から身を投げた。

 自殺か事故、と警察は発表した。思考はぐるぐる混乱する。

 ―幽霊。

 ありふれた解答を巡らせ、達瀬の視線は花梨の笑みから下がった。

 季節外れの冬服を隆起させるふくよかな胸、一転細身の胴の滑らかな曲線、スカートから覗く血色の良い脚。

 花梨は突然体を折り、高校指定スカートの端を掴む。

「ちょっと! 親しき仲にも礼儀あり! 女の子の体をじろじろ見ない! 全く、前から言っているでしょ? 学習してよ!」

「ご、ごめん」

 達瀬は顔を赤らめ、もごもごと口の中で謝った。ただ、脚があることは確認はした。 

「で、言い訳は?」

「は?」

「お葬式に来てくれなかった理由! 彼女の人生最後の式典くらい参列しなさいよ!」

「あえ?」

 突如現れた花梨らしき少女が、何を言っているのか分からなかった。

「何その反応? まさか忘れていたの? 私たち付き合っていたでしょう!」

「ええ!」

 大声を出していた、自分の人生にそんな彩りがあるなど知らなかった。

「そんな……」

「え!」

 花梨の表情が脆い、傷ついた者のそれになる。

「もしかして忘れた、ここで……、それからデートしたよね? みんなにナイショで、名古屋に行って、デラックスクレープ食べた……」

 矢継ぎ早の言葉を受け、達瀬の脳裏に色鮮やかに光景が流れた。

 勇気を振り絞って育美に彼女を呼び出してもらい、がたがた震えながら告白した。

 あっ、と周りに視線を走らせた。達瀬はこの場所で花梨に告白したのだ。

 彼女はしばし考えていたが、優しく見つめて頷いた。

「あのクレープおいしかったな、あなたは三つも食べた」

「あ!」

 絶句する。色の付いた新鮮な記憶が突如頭に溢れ出した。

 どうして忘れていたのだろう、どうして彼女の名前さえ思い出させなかったのだろう、何故、全てから目をそらしていたのだろう。

 確かに花梨と付き合っていたのに、花梨の死を他人事、として抑えつけていた自分が信じられなかった。

「……最低」

 花梨はちょこっと顔をしかめた。

「達瀬君てそんな人だったんだ……」

 言葉もない。

「私、葬式の時スッゴく悲しかった、来てくれないんだもん、ずっとずっと待ってたのに、四九日」

「ごめん……付き合うのは内緒だって約束したから……」

 それは事実だった。花梨は実は男性との付き合いに恐怖感を抱いていて、それを理由として、今まで数多くの告白に首を振っていたのだ。

 達瀬の勇気に笑顔で答えたのも『安全そう』という理由であり、しかしそれによって自らの学校生活が変わるのを恐れていた。

 だから、関係者だけが知る秘密の付き合いが始まった。

「全く、本当は怨霊になって、夜、タンスの中から達瀬君の前に出現しようかと思ったんだけど、最後のチャンスとして来てあげたよ」

「それは困るなぁ」

「だって今まで来てくれないじゃない! 線香の一本もないじゃない! それって酷いことのなのよ!」 

「考えが至らなかった……、今度から行くよ」

 達瀬が弱々しく約束すると、花梨はしばらく睨んだ後、ため息をついて肩を落とした。

「あなたどうしてそんなに普通なの?」

「え?」

「え、じゃないでしょ! 私死んだんだよ! もういないの! 恋人だったのに何もないワケ? 全く平気なの?」

「そんなこと無いよ、悲しかった……、でも内緒で、ていうのが約束だったと考えたんだ」

 そう言いながらも遅れすぎた涙が溜まりだした。どうしようもない悲しみが達瀬の胸に大穴を穿っていた、突然、喪失感がぶつかってきた。

「今更、わざとらしい……」

 だが、花梨は簡単には許さなかった。頬を膨らませてあさっての方向を見る。

「いや、あまりにも突然の出来事で俺もよく分からなかったんだよ、大体、何で自殺何かしたんだ? みんな悲しんだんだぞ!」

 育美と安藤の姿を思い出す。友達の突然の死に必死で抗っていた二人。

「悩みがあったら相談してくれれば良かったのに」

「なによ! いつもぼんやり外ばっかり見ていたくせに、彼氏なら悩みを察しなさいよ!」 

 花梨はまた燃えるような目で見つめて来たが、つと、視線を外した。

「それにね……私自殺じゃないの、事故でもないわ、私……多分殺されたの」

 花梨のぽつりとした告白に重なって、彼等の横を列車が通過していく。だが不快なレールの悲鳴は入らなかった。『殺された』との花梨の言葉が何重も耳の奥にこだまする。

 彼の様子に構わず、花梨はふわふわと風に舞い上がるように浮かんだ。

「……誰に?」

 突如襲われた喉の渇きに耐えながら、達瀬は問う。

「分かんないわ、あの時のことは実は私もよく分からない、ただ何故か屋上にいて、次に下に倒れていた、あ! 脳みそ出ちゃったからあやふやなのかな?」

 冗談めかした花梨の言葉に雷が重なる。

 達瀬はただ、空で泳ぐような仕草をしている花梨を見つめるしか出来ない。

 人の気配に気付いてびくりとしたのは、まるで無防備で、周囲の様子を斟酌する余裕がなかったからだ。

 無表情の今田が立っている。

「いま、だ、くん……」

 今田は驚愕に構わず、ずんずんと近づき達瀬の手にあるゴミ箱を覗いた。

 気付く、そう言えばまだゴミを焼却炉に捨てていない。

 今田は無言のままゴミ箱をひったくると、焼却炉を開け中身を捨てた。

「ご、ごめん! でもほら今ちょっと妙なことがあって忙しくて」

 達瀬は謝りながら、上空の花梨を指す。

「話しに夢中だったんだ、だから……」

 今田は振り向かない、ゴミ箱を持ったまま踵を返して横を通過する。

「誰もいないじゃないか!」

 頬を歪めて一言吐き捨てた今田の背中が、遠ざかっていった。  

「なによあれ? 話くらい聞いてもいいじゃない」

 改めて見上げると、彼女はこちらを頭にして腹這いになっている。

「見えないのか……」

 今田には彼女が見えなかったのだ、だからこの状況に眉一つ動かさず、言葉の意味も分からなかった。

 そうっとゆっくりと両掌を近づける。

「ちょっと!」

 気配に花梨が気付いた。

「もしかして祈ろうとしていない? 勝手に成仏させようとしていない? 無駄だからね! そんなに簡単じゃないからね!」

「き、気のせいだよ……」

 花梨は不審そうな目で観察していたが、ややあって心配げに今田の消えた方向に顔を向けた。

「まあいいわ、それより今田君に何か言ったら? きっと誤解しているわよ」 

「そうだよね、嫌がらせのためにこんなことをした、と思うよね?」

「全く、達瀬君はそんなことしないし、そもそも人に何かするのさえ珍しいのに、ウスバカゲロウの大発生ほど滅多にない出来事なのよ」

「なんか酷い言い分だよね? ウスバカゲロウってそんなに大発生しないの?」

「知らないわよ、でも気になるから後でネットで調べて教えてよ!」

「そ、それにしても、今田君は君の事見えていないようだね」

 花梨は何を言っているの? と問いたげにゆっくりと降りてくる。

「当たり前でしょ、私っていま幽霊よ」

 花梨は非常に重大で、悲劇的な現実をあっさりと認めた。しかし彼女は自身の悲運など気にしていないように、機嫌良く飛んでいる。 

 達瀬は納得できなかった。彼の幽霊像は、柳の下で待ち伏せしている不健康そうな怖い者であり、生前のまま元気に跳ね飛ぶ花梨の全てが意外だった。

 視線が再び花梨のスカートの下に惹きつけられる。下心ではない、確認だ。

「あ! また!」

 花梨はすぐに見抜き、両手で空気に溶けるように端が薄れているスカートを押さえた。

「達瀬君はそんなエッチだったの? この変態!」  

「違うよ! 幽霊なのに足があるなと思ったんだよ!」

「そりゃそうよ、そんじょそこらで蹲っている自縛霊と一緒にして貰っちゃ困るわ!」

 花梨はえへんと自慢げに手を腰に置いた。

「あ、あの、どうして俺の前にいきなり現れたの?」

 実はそれが最大の懸念であった。達瀬は確かに彼女の葬式にも行かず、線香も上げていないが、だからと言って霊界の扉が開くなら世界は幽霊だらけだ。

「うん……」

 花梨はその質問に頭を下げた。今まで溌剌としていた分、元気がなくなると小さくなったように見える。

「会いたかったの、だって付き合っていたのに何もしてないでしょ、私たち……それって悲しいことだな、と思ったらいても立ってもいられなくなった」

 達瀬は花梨を見つめた。彼女は彼女なりに悲しんで、苦しんで出てきたのだ。

「俺……も君といろいろ楽しみかった!」

「このすけべ! 変態! 何をするつもりだったの?」

「なんだよそれ!」

「絶対にヘンなことを考えた! 私には分かる、死して手に入れた超絶パワーで!」

「嘘付け! そんなつもりないってば!」

 言い争いながら再確認する。

 花梨は明るく朗らかで、誰からも愛される学校のアイドルだったのだ。

 そんな少女が、果たして自分と釣り合っていたのだろうか? それを思うと、いきなり冷水を浴びたような冷めた現実に戻る。

「ほら、そんなことより帰りましょう、いつまでも下らない話ししてばかりいられないでしょ」

 達瀬の複雑な心境を知ってか知らずか、花梨は校門辺りを指さした。

「え? 今田君と話すんじゃないの?」

 目まぐるしく変わる話題に目が回りそうだ。

「ああ、今はほっときなさい、人間関係には冷却期間も必要なのよ、大体時間ないんでしょ?」「そうだ! そうだった」

 素早く携帯電話で確認すると、時間的に最適だった各駅止まり列車が出た時刻だった。

 やはり今田の手伝いをした時間は致命的だった、しかも肝心の彼にも益々悪い印象を持たれただけだ。

「何よ、暗いなあ、いい達瀬君? そんな顔をしているとそんな顔をしなければならない事ばかりがやって来るのよ、だから笑顔でいたほうがいいの、幸せなことばかりよ」

「そうかもね、んじゃあ今日はもう帰るか」

 達瀬は気を取り直して、帰宅のために歩き出した。

 当然のように、ふわふわと花梨が付いてくる。

 ―なぜ?

 とは思わなかった。なんとなく分かった、花梨が突然現れたことには意味があるのだ、それも彼と関わりのある。

 ―だけど……。

 彼女が死んだあの日のことが、どうしても思い出せなかった。恋人が死んだというのに、かつての日比木達瀬は何をしていたのだろう。

 気付くといつの間にか花梨は横まで降りてきている。こちらを伺い、片手を振り上げて見せる。

「な、なに?」

「はいっ」

「え?」

「はい!」  

「あ、あの、何でしょう? 花梨さん」

 花梨はむっとして整った眉を上げた。

「付き合っている女の子と一緒に歩いているのよ! 手くらい繋ぎなさいよ!」

「あ! はいっ、ごめんなさい」

 花梨の剣幕に頭を下げ、彼女の瀟洒な手を掴む。

「あれ?」

 花梨の腕は透き通り、達瀬の指は触れることが出来ない。再び試すがやはり彼女の手は握れず、空気しか掴めなかった。

「そっか……」

 花梨は大きく息を吐いた。

「ダメなんだね、私、幽霊だから」

 花梨の微笑は今までのそれと違い、どこか寂しそうだ。

「大丈夫、ほら、こうしているとそれっぽい」

 達瀬は、花梨の手がある所に自分のそれを置いた。傍目からは手を繋いでいるように見える。

「ホントだ! ありがとう」 

 花梨はぱっと輝くように笑い、そんな彼女を一時的に忘れていた達瀬は、それについて深く恥じる。

「何か不思議ね」

「え、何が?」

「生きている時は色々が普通で当たり前だった、でも今は全部特別、生きているってそれだけで幸せで気持ちよかったんだね」

「そうかな?」 

 いつ雨が降ってもおかしくない湿った苦しい空気、だからなのかどこか灰色がかった町並み、彼には快適には感じられなかった。

「達瀬君は生きているからね」

 花梨は小さくそう言い、何か答える前に突然、竜巻のような勢いで、車道を隔てた向こうにある駐車場に跳ねていった。手を繋いでいたという設定が台無しである。

「あ! 猫よ! かわいいねー」

 唖然と見送ってしまう、確かに猫らしい影があるが、そこまで反応するべきものなのか、とも思える。

「分からない……全然」

 花梨は分からなかった。寂しがったと思えば怒り出し、機嫌が直ったかと思えば不思議な発言をし、悲し気なそぶりを見せていたら好奇心のまま驀進する。女の子が理解できない。

「にやー、にゃー」

 だが、花梨がしゃがんで猫を触ろうと声をかけている姿に自然と心は温まり、頬が弛む。

「気を付けなさい」

 その言葉は、その時突然かけられた。

 花梨に気を取られていた達瀬は、はっと声の方向を見る。いつ出現したのか、小柄な少女が傍らで彼と共に花梨を見つめていた。

「ええ……」

 息を飲んでいた。未だあどけない面影がある少女が、あまりにも美しかったのだ。 

 肌の色は真白くミルクのようになめらかで、黒い大きな瞳には何か不思議な光彩があり、引き込まれてしまいそうな引力があった。つやつやと煌めく宝石の束のような髪は、額で横に切りそろえられている。

 黒い地味な服装をしているのだが、少女の女性としてのボリュームは隠しきれず、彼女がいるだけで辺りがふんわり明るくなったように思える。 

「あの幽霊、今は普通に見えるわ」

 一二、三歳くらいの少女だが、妙に妖しさと艶のある微笑みを閃かせた。

「でも、すぐにあなたの世界とずれ始める」

 くすりと小さく笑い華奢というには可憐すぎる腕を伸ばして、こちらに気付かぬ花梨の背中を指した。

「すぐに彼女は変質していく、あなたの命を脅かす存在になってしまう、どんなに親しかった者でも最後には生者を脅かす存在になる、それが幽霊」

「……そんな」

 花梨はしゃがみ込んで無邪気に猫を触ろうとしている、危険な者とは思えない。

「君……」

「倉罫夜如(くらけ よにょ)、覚えておいて」

 夜如は、そっと微笑んだ。

「あ、うん」としか答えられぬ達瀬を見ながら、彼女はちらりと桃色の舌で唇を舐める。

「特にあの幽霊はとても剣呑、あんなに見事に実体化しているわ、それに……」

 夜如という少女にも花梨が見えているとだけしか分からない。

「あなたが殺したんだから」

 絶句した。言葉どころか息も失う。

 ―殺した……? 花梨を……? 俺が……?

 目の前が黄と赤にちかちか揺れた。両手で顔を覆いすべてを避ける。汗だくで見上げる達瀬の顔に、夜如の美貌が自然に近づいた。

「幽霊を舐めたらだめよ」

 世界が歪んだ、視界には夜如の制服、どこの学校の物か分からない黒一色のセーラー服しかない。 

 ―闇だ。

「何してんの?」

 背中を丸める達瀬に、怪訝そうな声がかかった。目を開けると、花梨が小首を傾げている。

「気分でも悪いの?」 

 心配そうな声に答えられず、辺りに視線を走らせる。

 夜如が、美しすぎる少女の姿がどこにもない。

「かの、じょは? ここにいた彼女は?」

 浅い呼吸を繰り返しながら、花梨に尋ねた。

「かのじょ? どんな娘?」

「すごい綺麗な、この世の者とは思えない女の子が……」

 達瀬は言葉を切った。

 花梨の柳眉が上がり、唇がむっと突き出されたのだ。

「へー、達瀬君すごいね、恋人の私の前で浮気? どんな女だって?」

 もはや困惑するしかない達瀬を、花梨の熾烈な視線が突く。

「ねえ言ってみなさいよ! どんな可愛い子? 私より可愛いの?」

 花梨は確かに美人だが、夜如という少女には美と共に妖しさが……そこまで考え、頭を強く振る。

「あーやだっ! これだから生きている男は、彼女が隙を見せたら他の女に走る!」

「ち、違うよ、妙なこと言っていたんだよ」

「何? 自慢? 告白されたって」 

「違うって、そんなに怒るなよ」

「怒る! この怒りは簡単には収まらない、そうだ取り憑く! 雷を落としたり田畑を枯らしたり害をなす」

「いや、浮気じゃない! 誤解だ」

「七代はいくね! 家族写真には必ず私が写り込む、やっぱり基本はピースよね!」

「それは勘弁して!」

 ついに花梨に手を合わせ、顔を伏せた。

「ごめん! もうしない、いや本当に、だから許して」

 花梨は腕を組み、じっと睨む。

「高い線香、緑のじゃなくて黒っぽい高級な線香を私に供えて」

「うん、わかった」

「梨、梨が好きだから供えて」

「……えらく時期はずれだね、今まだ六月だよ」

「毎夜毎夜夢をぶちこわすわ! 悪夢にうなされるのよ!」

「わかった! 善処する! 梨だろうドリアンだろうとあんぽガキでも何とかする」

「それから……」

 花梨の様子が不意に変わる。みなぎっていた怒りのオーラが消え、戸惑った声色は波うった。

「……私に何が起こったのか、私を殺したのは誰か、どうしてそんなことしたのか……知りたい」

 思わず顔を上げ、花梨の瞳を見た。

 小刻みに揺れている。

 改めて思い知る、彼女は『殺された』のだ。

「あなたが殺した」倉罫夜如と言う少女はそんな言葉を残して行ったが、今は疑問だ。こんなパワフルな花梨を達瀬が殺せるわけがない、逆ならまだ納得できる。

 ―では誰が?

 警察の発表では事件性は否定された。しかし本人が『殺された』と証言しているのだから間違いないだろう。

 達瀬がその時の自分を思い出せないのも不気味だった。

 否、それらは咄嗟に付け足した言い訳だ。その時は花梨にただ協力したかったのだ。疑問に答えてやりたかった。

 そうすれば彼女が救われるかも知れないのだ。

「分かった、必ず解明する」

 達瀬は花梨の幽霊の前で、胸を張って宣誓した。


「へええー」

 達瀬の住んでいるアパートを見上げて、花梨は感心した。

 意味が分からない。本人から言わせても見るべき所のない、普通の角張った集合住宅なのだ。 同じような部屋とベランダがきっちりと縦横に並んでいる、自慢する余地のない建物だ。

「何か新鮮、ほら私、あんまりこういう近所付き合いの中にいたことがないから、楽しそうね」

 目を丸くする花梨の言葉は、明らかに修飾されすぎていた。

「お世辞はいいよ」

 にべもなく言い放つと、もごもご言い訳がましい花梨を連れて、三階まで階段を上る。

「ここがオレの家」

「ふーん、来たこと無かったなあ」

「そうだっけ?」

「そう! ……私、始めて来る」

 花梨の元気ない様子に「ふーん」と答え、扉を開いた。

「ささ、入って」

 気を利かせて花梨を先に行かせようとするが、彼女は両腕を抱いて不安そうに振り返る。

「女の子を家に誘うなんて……何考えているの?」

「何も考えていないよ! その警戒は何?」

「あやしい」

 花梨は上目遣いに達瀬を観察する。

「ここまで来ていきなりなんだよ!」

「あ! ほいほい着いて来て入った私が悪いと言われるのね! そして私は泣き寝入り」

「違うって! ……ヘンなドラマの見過ぎだよ」

 頭痛にこめかみを押さえた。

「何もしないってば!」

「ほんとに? 例えばいきなり写真を撮って怪しい雑誌に投稿したり、塩をふりかけたり、お経を読んだり……」

「しないよ!」  

 花梨は眉根を寄せて胸を張る。

「言っとくけど私は並の幽霊と違って泣き寝入りだけはしないからね! もしそんな目に遭ったら明日から冷蔵庫の中に恨めしく居座ってやる! もうびっくりよ! 喉が渇いて冷蔵庫開けたら私と目が合うんだからね!」

「わかったよ……」達瀬は酷い疲労感に襲わる。  

 油断無く周囲に目を光らせている花梨を連れて、居間兼台所に入ると、母の逸子は夕食の調理中だった。

「あらお帰り」と、いつも通りに声をかけてくる。

「ただいま」

 達瀬が返すと、彼女は首を傾けじっと見つめてきた。

「な、何? 母さん?」

 たじろぐと、母は首を傾げる。

「あんた、顔色悪くない? 風邪でもひいた?」

 ―そりゃあ悪くもなるだろうさ。

 達瀬は横目で傍らの面倒くさい幽霊を一瞥する。

「ねえねえ、お母さん若くて綺麗だね」

 もちろんそれには答えず、無理に笑顔を作った。

「疲れただけだよ」

「大丈夫?」

 母の追求に「う、うん」と歯切れ悪く答えながら、襖で仕切られている自分の部屋に逃げた。

「うわー、ひどいね、聞きしに勝る散らかりよう」

 慎重に音を殺し襖を後ろ手に閉めると、花梨は嘆息する。

「そうかな?」

 自分にあてがわれた六畳半ほどの自室を改めて見回す。

 黒いパイプベッドの上の布団はよじれ、そこかしこに雑誌が散らばっている。小さなテレビの周りにあるゲーム機は配線がこんがらがって、知らずに歩くと足を取られそうだ。

「男の子の部屋ってみんなこうなの?」

「ちょっと! そんなにじろじろ見るなよ! プライバシーがあるだろ」

「あ、これ知っている」

 声を無視した花梨は、タンスの上に佇立しているプラモデルロボットを指して振り返る。

「私が小さい頃にやっていたアニメ、まだこんな物あるの?」

「今も続編がやっているんだ」

「このオタク!」

 達瀬は声を上げそうになる、制止する間もなく花梨が雑多に本が積んである本棚に、すうっと近寄ったのだ。

 敢えて反応しない。やり過ごせると信じているのだ。

「あれ? これって……」

 だが妙に勘の良い花梨は、彼が編み出した本棚のからくりに気付いた。

「文庫本て小さいのに、こんなに厚い本棚からはみ出しているよね?」

「そ、それはいいから!」

 狼狽するが、花梨は意に関せず本棚に顔を突っ込んだ。

 羞恥と悪い予感に一歩後退する。案の定、見えている花梨の肩は震えだした。瞋恚に満ちた赤い顔がきっとこちらに向く。

「すけべ! 変態! 痴漢! こんなヘンな本をご丁寧に隠して!」

「それは、でも、今時……」

 弱々しく応戦しようとするが、弱点を握られているために花梨の燃える目から逃げるしかない。

「いやらしい、ああいやらしい、不潔、誰かに自動書記で教えちゃおうかな?」

「仕方ないじゃん! 男なんだし」

「生前知っていたら押しかけて一発はり倒して捨てていたのに、悔しい、騙された!」

「このくらい普通だって!」

「わかっているわね?」

「……何欲しいの?」 

「ケーキもお供えして、この裏切りをチャラにするにはモンブランがいるわ、絶対必要」

「また季節的に無茶なことを……」

「とにかく、乙女がいるんだから片づけなさい! 今すぐに!」

 せき立てられるままに、達瀬は部屋を片づけ出した。指揮をする花梨の命令に従い、隠したエロ本の類は問答無用でゴミ箱行きとなる。

 そして一段落が着くと、花梨はきちんとたたみ直したベッドの上に降りてくる。 

 もうぐったりしている達瀬だが、彼女が満足した様子を見計らって、咳払いをし本題に入った。

「さて、じゃあ始めよう」

 言葉の意味に気付いたのだろう、花梨も真面目な顔で頷いた。

「まず、あの日何があったのか教えて」

 花梨は難しい表情でしばらく天井を見つめていたが、力無く首を振る。

「ダメ、ごめんなさい、私はあんまり実感がないのよ、あの日辺りの記憶が曖昧で、ねえ、達瀬君の認識を教えて、あの日の」

 達瀬は乱暴に、無理矢理記憶を巡った。

「一ヶ月半、多分丁度四六日前、俺は……」

 ぶつぶつ呟きながら考えるが、よどんだ水の中にいるように光景は濁っている。

「覚えているのは……、昼休み弁当を食べて、気付いたら騒ぎになっていた、誰かが屋上から飛び降りた、て……そうだ、梅雨の前の晴れた日だった、前の日が雨で、だから妙に太陽が眩しくて」

 自分でも驚く、記憶があまりにも断片的なのだ。前日の天気も覚えているというのに、当日の行動がすっぽりと消えていた。

「くそっ」と絨毯を叩く。

「どう思った?」

 突然割り込んだ花梨の声があまりにも真剣なので、「え?」と聞き返す。

「私が……そんなになって、どう思った?」

「最初は呑気だった……ドジだなって……いや、その、そんな重大な事だとは思わなかったんだ、でも救急車が来て、みんなが噂を始めて、酷い状態だと……」

 言葉を飲み込みちらりと花梨の様子を窺う。

「悲しかった?」

「え?」

「私それでいなくなったんだよ? 悲しいと思わなかった?」

 花梨の瞳に感情の揺れはない。だが、だからこそ奥にある激しさを感じ取る。

 どうしてか実感がない。そう言えば、事件の後、当然のように花梨の席には花瓶が置かれ花が飾られた。が、いつの間にかそれすら無くなっていた。

 ―何でだろう?

 改めて問われてみれば確かに妙な話ではある。クラスメイトの自殺という衝撃がどこかで緩和されていた。

 張本人は学校のアイドルであり、達瀬の知っている限り、全ての男子生徒が思慕を寄せていた美少女なのだ。

 しかし実質数週間で物事は忘れられ、誰の口の端にも上らなくなっていた。

 十代の彼等にとって『死』というのは想像も出来ぬ遠い出来事なのかも知れない。遠すぎて忌まわしい事だから、皆敢えて忘れようとしているのか。だとしても、自分自身の行動は納得行く物でもない。

 当日を思い出せぬ事もそうだが、何よりどうして花梨の葬式に行かなかったのか、その後も手を併せるでもなく、何となしに過ごしてきた。

「ごめん! 俺はどうかしていた、どうして君の葬式にも行かなかったんだろう? どうして今まで考えなかったのか……」 

「いいわ、もう……私もあの時のことはよく思い出せないの、午前中の授業はしっかりと覚えているんだけど、次に目に浮かぶのは落ちた私……でもはっきりと背中に感触が残っている、強く押された感触」

 花梨は身震いして胸を抱いた。

「大体ね、私がどうして屋上にいたのかもさっぱりなのよ、自殺じゃないわ、それだけは言える、だって毎日楽しくて仕方なかったもん! 自殺じゃない、自殺ではないのよ!」

 達瀬は目を伏せた。何となく彼女を見ていられなくなった。死にたくもないのに死ぬのは、きっと辛いことなのだろう。

 考えたくもないのに屋上の光景が蘇る。花梨の落ちた、花梨が落とされた。

「あれ?」 

 ふと気付いた。

「君は屋上のどこにいたの?」

 達瀬は手を自分の胸辺りに当てる。

「屋上は確か柵があったよね? 転落防止のための、押されただけじゃ落ちないんじゃない?」

 言われた花梨はしばし考え、大きく頷いた。

「そうよね、思い出した! 確かに学校の屋上には柵があった……どうして落ちたんだろう?」

 ……誰か花梨に殺意を持っている者が彼女を呼び出し、そっと近づいて……、持ち上げて落とす。

 それではどうしても花梨に気付かれる、彼女も無意味になすがままになっていないだろう。

「うーん」

 と花梨は細い顎をつまんで唸っている。

 その姿がまるで美人画のようだったから、しばらく感心して鑑賞していたが、頭の芯がぼんやり熱を帯びている事に気付いた。

「今日はここまでにしよう、なんかとても疲れた」

 額に手の甲を置き、花梨に提案する。

「明日にでも現場を見に行こうよ、今日は休もう」

 何気ない言葉に、花梨は飛び上がりそうに驚いた。

 実際、数センチ浮き上がった。

「わ、私を泊めて何する気!」

「……あのねえ、何も出来ないでしょ? 実体ないんだし」

 だが、花梨は油断無い視線を周囲に走らせている。

「あやしい……、だってあんな本を置いている部屋なんだから、幽霊を動けなくしてイヤらしいイタズラをする経文全集があるかも」

 花梨は再びふわっと本棚まで飛び、並べてある本を一冊ずつ確認し出す。

「なら帰れば?」

 さすがに面倒になった。重い肩の存在が何もかも億劫にさせている。

「いやよ!」

 即答した花梨は、険しい顔で振り返った。

「あそこにはいられない……、とてもダメ、だからお願い、ここにいさせて……そんなに我が儘言わないから……私、もう家にいられないの」

 何も返せない。不意に彼女が泣き出しそうな弱い表情になったのだ。

「行けば分かるわ……」

 湿った声を受けた彼には、花梨を拒否することなど出来なかった。


 第三章

 達瀬は口車に乗って、彼女を自分の家に泊めてしまった愚行をひどく後悔した。

 一言で言うと、花梨は煩い寂しがり屋だった。

 僅かな時間でも一人になることを拒み、常に彼の横か背後にちらちらと着いてくる。

 トイレの時はさすがに扉の外で待つが、それが諸処の事情により長引くとドンドンと木扉を叩きだし「寂しいよー、早く切り上げてー」と無体なことを要求する。

 風呂など最悪だった。

 入浴を告げると、難しい顔で人差し指を天井に向けて回転させ、

「十分! それで洗い終わって帰ってきて、もし半身浴なんかの習慣があってももう終わり! そんな時間ないからね」

 独裁者か絶対君主なのか、命令してくる。

 その数字を無視することにした。達瀬はあまり怒気を表さないたちだが、花梨の横暴に機嫌が悪くなったのだ。

 が、十分丁度過ぎると、触れてもいないのに風呂場のシャワーから勢いよく水が飛び出し、蛇口からは水と共に黒い髪の毛がもりもりと吐き出されてきた。

 ガラス窓がバンバンと鳴りだし、突然石鹸が燃え上がった所で、大声で花梨に謝り超速で入浴を切り上げた。  

 以降、彼女には逆らわない事に決めた。

「絶対! 絶対、絶対に何もしないでよ! 妙なことをしたら私の戒名を一千万回書かせるからね!」

 夜、ベッドに入る前に言われ緊張した。

 何かをしでかそうと言うつもりはないが、花梨は何をどう誤解するか分からないヘンな女なのだ。

 難しい漢字の組み合わせを一千万回も書きたくはない。

 ―幽霊……。

 世間的には忌み嫌われ、それについての逸話はロクな物がない。達瀬もジャパニーズホラーに出てくる血まみれのそれは嫌いだ。恐ろしくて映画も見られない。

 だが、何故か花梨は違った。

 色々と迷惑な超常現象を引き起こすが、それに対して恐怖は湧かなかった。

 ―なんて騒々しい奴……。

 と肩をすくめる余裕もある。

 恐らく花梨があまりにも活き活きしていて、その存在に対して考える暇を与えないからなのだろう。

 だが、けたたましい目覚まし時計に起こされた次の日は最悪だった。

 感触で分かる腫れぼったい目を開くと、頭の奥がずきりと痛み、目覚めの悪さを自覚する。

 遮光カーテンから漏れた薄い陽の光を浴びながら、達瀬は夢を思った。泣き声を聞いたような気がした、何か酷く悪い夢を見たような実感があるのだ。

 しかし、掌からするりと抜けていったように、もう形にならない。左右を見ると見慣れた自分の部屋は、珍しく片づいている。

「夢……」

 何もかもが夢、死んだ同級生の霊と遭遇したことも、訳の分からぬ少女に忠告された事も、何もかもが改まった日の光によって霧散したように思えた。

「おはよー! 今日も元気に行こうねー!」

 現実をぶち壊す勢いで、沢城花梨の幽霊が降ってきた。

「うふふ、ずっと見てたのよ、寝顔かわいー! うん? どうしたの?」

「悪い夢を見た気がする……」

「してないわよ! 悪い夢は見させていない! 見たとしてもそれはあくまで自己責任なの! でも……」

 悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「……あんまりにも暇だったから、ちょっとラップ現象起こしてみた、この家よく鳴るわね……あと、正直言うともう少しで夢枕に立とうと考えた」

 達瀬は片手で顔を覆った。

「仕方ないじゃない! 暇だったんだもの! どんな夢を見ているか興味あったし、でも思いとどまったよ! それはプライバシーだって! 偉いでしょ?」 

 弁解している花梨を置いて、居間に向かった。

「た、た、達瀬!」

 顔を出すと、母が声を上げた。顔色は悪く、歯の根が合わないくらい怯えている。  

「どうしたの? 母さん」

「あんたの所、何ともなかったの?」

 やはり目の下を黒くしている父と目配せをし合っている。

「あのね! 昨日の夜、家中からヘンな音が鳴ったの、母さんも父さんも怖くて眠れなかったんだよ!」

 横目で睨むと、花梨はそっぽを向いてとぼけ、鼻歌を歌っている。 

「それはきっと家鳴りという現象だよ、霊とかそういうの関係ないから」

 父母の動揺を静めながら、定時に家を出る。

 今日も空は曇っていた。近づく雨の匂いに、達瀬は傘を手に取る。

 登校途中、自分に与えられた当然の権利のように花梨は話しかけてきた。

 それに対して言葉を発せられる時は答え、出来ないときは小さく頷いたり首を振ったりして、意思表示をする。

 時間通りに氷賀子高校に着くと、いつも通り見慣れた行列が待っている。

「わわ、またー?」

 代わりに花梨が心情を表す。

「全く、金川先生はしつこいのよ! いっつもいっつも持ち物検査!」

 花梨は唇を尖らせて文句を言い続けるが、達瀬にしか届かない。

「それも鞄の底まで見るのよ! 何にも持って来ていないわよ!」

 喚く彼女を無視し、濁った目を向ける金川に黙って持ち物を差し出す。鞄を持った金川は、チャックを開きざっと見回して無言で返した来た。

「ええ!」と花梨が声を上げる。

「何それ? それだけ? 私の時とは大違いじゃない! まるで適当! 達瀬君は部屋の本棚にイヤらしい本を隠すような奴なのに!」

 彼女の憤慨には取り合わない。話がややこしい所に向かっているからだ。

「……今度ポルターガイスト現象で脅かしてやろう! ぐらぐらっとしてやる」

 さすがに「ほどほどにね」と金川を庇う。

「うーん」 

 不意に花梨が腕を組んで首を傾げた。何やら難しい顔をしている。

「どうしたの?」

「……う、うん、何だかだんだん思い出してきた、そう言えばあの頃、ヘンな事があったのよ……」

「どんな?」と聞こうとしたが、その前に明るい微笑が視界に入り口をつぐむ。

「おはよう、日比木君」

 育美は相変わらず愛らしい笑みで見つめてくる。

「お、おはよう」くぐもった声を返すと、怪訝な表情になる。

「どうしたの? 日比木君何かヘンな表情だよ?」

「実は花梨の霊が見えて……」とは言えない。

「な、なんでもない」と不器用に誤魔化してみせると、折良く安藤このみが現れて大声で育美を呼び、彼女はこちらを気にしながらも走っていった。

「育美……もう私が見えないんだね……」

 寂しそうな花梨の言葉に、達瀬は目を伏せた。

 花梨の悲しみはまだ分からない、ただ徐々にその傷みが理解できるようになってきた。

 達瀬は敢えて強い語気で話題を変えた。

「で、ヘンな事とは何?」

「ああ、それね……うーん、無関係かも知れないけど」

 花梨は前置きすると、人差し指を唇の下に添える。

「うん、実はね、あの頃私にヘンなイタズラする人がいたの、イタズラ……か分からないんだけど」

「どんな?」

「うん」と花梨は考え込んだ。

「あのね、絶対にあった私物がなくなったり、机にいつの間にか折り紙が入っていたりしたの」

「何それ? 泥棒? 折り紙って?」

「普通じゃないのよ、折り紙は女の子の形に折ってあったんだけど、それを開いてみると、言葉が書いてあった」

「へー」と達瀬は無感動に頷いた。 

 いまいち現実感のない事柄なのだ。だが、花梨はそんな様子に怒ったように唇を結んだ。

「何その反応! 言っておくけど結構大変なのよ! 折り紙に書かれていたのは愛の言葉だから!」

「ええ!」

 達瀬の驚きに満足したように頷いた花梨は、暗い空を見上げる。

「確か……君は神に選ばれた……だとか、天使だ……とか、とにかく気持ち悪いの」

 思わず改めて学校を見直してしまった。

 築三〇年は固い普通の四角いコンクリートの校舎だ。しかし、その内側ではそんな妙な事が起こっていた。

「知らなかった……」

 彼の慨嘆は無理もなかった。二年四組は今日も普通の顔をしていて、その裏側に潜む物を見せなかった。

 級友達の声の中、自分の席まで歩く。 

「何か懐かしいな……」

 律儀に背中に着いている花梨が、ため息と共にそっと呟く。

 生きて毎日を送る達瀬にとって、この光景は毎日の事であり当然だった。だが、花梨にとってそれはもう触れられぬ世界なのだ。

「……私がいなくなったのよね?」

 花梨の感情の除かれた言葉は続く。

「なのにみんな楽しそう……本当は私はここにいなかったのかな?」

 達瀬は席から立った。大股で歩き、いつの間にかただの空席になっていた花梨の机、廊下側の最終列にある沢城花梨の席へと向かう。

「これよこれ! 私の席だ!」

 かつての席が近づくと、背にいた花梨はぱっと離れてふわりと無人の机に覆い被さった。

 華奢な白い指先で、そっと机の表面を撫でている。

「実は色々ラクガキしたんだ、むむ、これもある! 数学の授業中、あまり暇だったからボールペンでほじくったの!」 

 嬉しそうな花梨の姿を微笑して見つめていたが、彼女の様子が変わっていく。

 笑顔が歪み、見る見るうちに瞳から涙があふれ出した。

「……どうして? どうして私死んじゃったの? もっと色々書きたかったのに」

 花梨の大粒の涙がぽたりと落ちる。しかし、それは机の表面にたどり着く前に消えた

「うううう……」

 顔を覆う花梨の姿は、達瀬の胸に鋭い痛みを刻んだ。

「ちょっと、聞きたいんだけど」 

 達瀬に不意に声をかけられた女子生徒は、驚いた表情で振り向いた。

 一年生の時も同じクラスだった女子生徒は、きょとんとした面持ちで見上げてくる。

「何? ええっと……」

「日比木達瀬、だけど……ここ花……沢城さんの机だよね? どうして何もないの?」

「は?」と女子生徒は首を捻った。いまいち意味が通じなかったようだ。

「花瓶とか花とか、確かあったよね?」

 答えたのは彼女と数刻前まで話していた少女だった。

「何言ってんの日比木君? 花瓶は撤去してでしょ? 確か十日くらい前」

「なぜ?」

「覚えてないの? あいつよ、あいつ、今田」

「今田……くん?」

「そ、あいつがここらを通るときひっくり返したのよ、誰かに足をかけられた……とか言って大騒ぎだったじゃない! あんた覚えていないの?」

 達瀬ははっとした。

 そんな事があったとは知らなかった。関わらないように、見ないようにしていたからだ。

「それから……沢城さんには悪いんだけど……その、自殺か事故か分からないけど、自殺ならあまり当人にとって名誉じゃないから、って安藤さんが言い出して置かないことにしたのよ」 のろのろと安藤このみを振り返ると、彼女は育美と何か楽しげに話している。

「日比木君、あんたももう少しみんなに関心持った方が良いよ」

 女生徒が付け足したが、その必要もなく達瀬は後悔していた。

 クラスの出来事を全く無視していたのだ。花瓶を撤去したことについて文句を言える立場にはなかった。

 花梨はまだ机に突っ伏して泣いているが、しばらくそっとしておくことにした。

 あるいはすぐにでも花梨の落とされた屋上に行くべきだったのかも知れないが、今連れて行くことに抵抗があった。

 着席した達瀬は、習慣通り窓の外から校庭を眺めた。いつもそうしていた。そうしていて、クラスと現実と背を向け続けていた。

 ―俺は弱い奴だ。

 ばんばんと窓が震えている。

 気付くといつの間にか外はどしゃ降りの雨が降っていて、激しく窓ガラスまで殴りつけていた。

 最初は見間違いだと思った、あまりにも不自然だったからだ。窓に顔を近づけよくよく見つめると、それは現実だった。

 滝のように雨が降る校庭の隅に、一人の少女が立っている。

 昨日、話しかけてきた少女だ。倉罫夜如、という名前をだったはずだ。

 彼女は雨の中、ピンク色の傘を持って佇んでいる。

 遠すぎて表情などは判らない。が、どうしてか微笑を浮かべているように思えた。不穏な物を感じ、さらに見つめる。

「日比木!」

「え?」と振り向くと、白髪まじりで油っぽい頭髪の中年女が睨んでいた。

「え、じゃない! 聞いていたの? 古文を和訳しなさい!」

 中年女は国語教師の宇津美香子だ。国語の時間だったらしい。

「何しているの! 早くしなさい」

 宇津はヒステリックな口調でせかせる。

 達瀬は混乱した。

 ぼんやりしていて何も考えていない、実は教科書もノートも机に出していなかったのだ。 宇津の目に何か陰険な光があった。それらを見越して指名してきたのだろう。

 クラス中の好奇の視線が達瀬に集中し、斜め前から育美が答えらしき言葉を囁いていたが、彼はどうして良いか分からず、おろおろと宇津の顔と机の表面を交互に見た。

「このバカ! ぼけっとしているからよ! いい、この借りは高いわよ!」

 様子に気付いた花梨が、怒りながらもすらすらと古事記の一文をなぞった。

 オウムのようにそれを復唱する。

「……よろしい、正解です、余裕があるのは結構ですが、せめて教科書くらいは出しましょう」

 宇津は悔しそうな言葉を残し、達瀬は安堵にその場所に沈み込みそうになった。

「あのねえ、宇津先生は性格悪いから油断したらダメよ」

 救世主花梨は人差し指を立てて、偉そうに忠告する。

「ああ、わかった、ありがとう」   

「はあ?」

 思わず声に出すと、前の席の生徒が振り向く。

「何?」  

「な、なんでもない、人の独り言を聞きとがめるのは良くないよ」

 花梨のファインプレーにも助けられ、その後は何もなく経過し昼休みになる。

 達瀬はもう元気満開の花梨を引き連れて、教室を飛び出した。

 足早に屋上へと向かう。

 花梨の転落の後、屋上の閉鎖の話は当然持ち上がった。

 だが、生徒の自主性を持ち出す父兄との連携が保てず、未だにそこは出入り自由になっている。

 屋上へ続く鉄扉を開けると、視界に青空が入った。 

 午前中の雨はその勢いが嘘だったかのように止み、雲間から現れた夏を思わせる太陽が、湿気を駆逐していた。 

 屋上に敷かれたゴムの床を確認する。所々にはまだ水たまりがあるが、ほとんど乾いている。

 達瀬がゆっくりと屋上に出ると、雨の香りが残る厚い毛布のような空気が、わっと被さってくる。

「うわー、綺麗だね!」

 感想を花梨が口にしてくれる。

 太陽の光が残った雨粒に反射して煌めき、辺りはまるで宝石でもばらまいたように、きらきらと輝いていた。

「で、どこから……その」

 問題を提起したのは、光の中の花梨が踊り出しそうに見えたからだ。いつの間にかいろいろ借りを作ってしまった故、彼女を制止することは難しい。

「うーん」

 花梨は悩む。

 改めて観察すると、やはり屋上には標準的な生徒の胸にまで達する柵があった。

 黒い塗装をなされたそれは頑丈そうで、どこも壊れたり歪んでいたりしてはなさそうだ。

「どうして押されたの?」

「どうしてかなあ……」

 首を捻る花梨を背に、手近な柵を握る。

 冷たい鉄の感触が、手にずっしりと広がった。

「君が押された、って言ったんだろ」

「そうよ! 思い出しているんだからごちゃごちゃ言わない!」

 強い日差しに達瀬の体からは汗が吹きだし、突き刺す紫外線の痛みに耐えて歩き回った。

「柵の向こう側にいたとか」

「それはない、私は落ちるつもりなんて全くなかったもん!」

 ため息をついて肩を落とした。突端から捜査が難航しているのだ。花梨の記憶はあやふやでおぼろげで、信憑性すら薄かった。

「あ! 達瀬君疑っているでしょ?」

「ち、違うよ」

「その目で分かる! ああムカつく! さっき助けてやるんじゃなかった!」

 花梨も苛立っているようで、宙を飛び回りながら何やら悪口を言っている。

「あんた!」

 達瀬は驚いて飛び上がりかけた。花梨なら空高くすっ飛ぶだろう。

 振り向くと、二人の少女が冷ややかな目で立っていた。

「こんな所で何してんの? ぶつぶつ独り言言って」

 目鼻立ちのくっきりとした西洋人形のような容姿の少女が、漆黒の目でじっと観察してくる。

「……二組の楠さんよ、楠真希さん」

 機転を利かせた花梨が、そうしなくても良いのにそっと囁く。

 楠真希。この学校で沢城花梨と人気を二分している有名な少女だ。

 花梨と違う西洋人じみた派手な顔の作りと、校則すれすれの色に抜いている巻き毛が確かに眩しく写る。

「えと、楠さん、あの……」

 狼狽する達瀬に、真希は目を大きくした。

「へえ、あんた私知っているんだ? 確か……四組の日比木……だよね? 何してんの?」

「い……色々、興味の尽きない世界を散策しているんだ」

 真希の隣に立っている薄い化粧が愛らしい、育美の三倍色っぽい少女が改めて彼を下から上まで見る。

「興味? 何もない屋上で?」

「野々村潤さん」と花梨はその娘の氏名も教えてくれる。

「な、何もないところから喜びを見出したくなって……」

「はあ?」と二人の目立つ少女達は、眉根を寄せた。

「楠さんと野々村さんは……何してんの?」

 二人は顔を見合わせたが、潤の方が片手に持った小さな包みを持ち上げる。

「何って、昼休みでしょ? 私たちは晴れたら屋上で食べるの! そこに正体不明の奴がぶつぶつ一人言いながらうろついていた、というワケ」

「……な、なるほど、でもまだ水たまりとかあるよね?」

「何? 文句でもあるの?」

 軽い気持ちの言葉に、真希は目を細めた。

「私たちは面倒なのがイヤなの! 教室いるとウザい奴達がすり寄ってくるの! とくにキモい男!」

 潤の鋭い視線を受け納得した。二人の少女は確かに男子生徒の夢の先にいる存在だろう。そんなしつこすぎる彼等の接触を断っているのだ。

「でも、ここもアブないのよ」

 潤の唇はグロスで艶めかしい。思わず達瀬は見とれたが、花梨の厳しい視線に気付いて、彼女の話しに全神経を向けた。

「トチ狂った花梨が自殺したから、閉鎖される可能性もあるらしいの、全く! あのバカ、生きている時は煩い下らない奴だったけど、死んでからも迷惑かけるんだから!」

「何て言い方! 私だって好きで落ちたんじゃないし! そもそも私もあなた達キラいだったのよ!」

 沢城花梨と柊真希は犬猿の仲らしい。どんな事があっても二人が話すことはない、誰かにそう教えられた記憶がある。だから真希の側にいる潤にとっても、花梨は罵倒する対象でしかないのだろう。

「……あのさ、聞きたいんだけど、沢城さんがどこから落ちたか知っている?」

「ええ? ……そんな事聞いてどうするの?」

 真希がまた不機嫌そうな表情になった。彼女は花梨の話題を徹底的に避けているようだ。

「何? もしかして後追い自殺? やめてよ! そんでなくても私たちあの日花梨を見ていたからケーサツに疑われたのよ!」

 潤がうんざりしたように顔をしかめた。

「ち、違うよ! ほら……えーと、沢城さんの死が腑に落ちなくて、自殺とかじゃないかなって……」

「え! なら何よ! ちょっとあんたそんな事しているの? 調査? 何で? 誰かに頼まれた?」

 少女達の目に好奇心が灯る。

「マジで? まあ確かに校長のハゲの言っていることは信じていないケド」

「い、いや、まだ確証はないんだけど……だから協力してよ、沢城さんはどこから落ちたの?」

 達瀬は前のめりの潤を制しながら尋ねる。

 二人はしばらくお互いの顔を見つめ合っていたが、真希がついと腕を持ち上げた。

「どこから落ちた……かは知らない、その時は私たちはもう教室にいたから、でも最後に見たのはあそこ……ほら一段高いでしょ? あそこでバカみたいにぼけっとしてた」 

 花梨が息を飲む声を聞いた。

 真希が示した場所、屋上の隅の一角はどういう設計ミスか、コンクリートの段があり、上ると柵が膝より下になる。

「ああ……」 

 傍らの花梨が呻き、頭を抱えて蹲る。

 達瀬は段の上からのぞき込んでみる、昇降口前の灰色の地面が見えた。

 残痕はもうないが間違いはなかった。花梨はあの日、ここに立っていて誰かに押されたのだ。

「ここだ……」

 花梨の言葉はどこか虚ろだ。

「ここから私……落ちて……死」

 不意に達瀬の視界がぐらぐらと揺れた。頭が割れるように痛み、その中で音が響く。

 花梨の潰れた音が、何度も何度も再生される。

「ちょっと!」

 気付くと真希と潤により、段から引きずり降ろされていた。

「危ないじゃない! やっぱり後追いだったの?」

 咄嗟に真希に答えられない、口がからからに渇いていた。

「あんた、顔色凄く悪いよ、病気?」

「……い、いや、何でもない、ありがとう助かった」

 達瀬は二人の少女に礼を言ってから、屋上を後にする。

 廊下の床が飛び跳ねていた。壁はぐにゃりと曲がり、窓は歪んでいる。

 花梨の死が決定的な物になった。

 どこかでそれを否定していた。活き活きと目に写る彼女が間近にいたのだ。だが、ついに花梨の死を司った場所を発見してしまった。花梨は死んだ。 

 よろけながらも二年四組の教室にたどり着くと、その姿を見た育美が小さく声を上げる。

「日比木君! ちょっとどうしたの? 気分悪いの?」

 安藤もすぐに近寄る。

「保健室へ運んでやろうか? 無理するな」

「い、いや、腹が減って死にそうなんだ、昼食喰いそびれた」

「ええ」と育美と安藤は嘘に呆気に取られる。

 実際は胃がもたれ、中の物を逆に噴出させてしまいそうだ。ずっと食欲がないから出てくるのは胃液位だろうが。

 達瀬はそのまま自分の席に向かい、机に顔を埋める。

「た、達瀬君、大丈夫? どうしたのよ? いきなり」

 花梨が背後から尋ねてくるが、顔を上げなかった。


 達瀬は乾いた目で黒板を見つめていた。

 午後の数学の授業である。

 教師の金川が何か説明していたが、世界は無音だった。

 花梨は死んだ、だから幽霊だ。

 図式は彼の中にあった。方程式よりも確固とした物だ。実感するにはあまりにも辛い。

 ぱっと目を開いたらもう絶望しかない。苦悩も悲鳴も上げられず、ただ事実だけを受け入れるしかない。

「数学きらいー、ワケ分からない! ねえ達瀬君、あいつの言っているの何語? 苛々するから翻訳して後で説明してみせて」

 花梨は何もなかったように喚いているが、それに答える力がない。

 そうこうしている内にチャイムが鳴り、金川は慌ただしく教科書類をかき集めると出て行った。

 今日の授業は終わった。

 何もかも頭に入らなかったが、もう巻き戻すことは出来ない。

 どう後悔しても、人は過去に戻れない。死んでしまった人は生き返らない。前に起こった事実は覆せない。

 ―花梨はもう……。

 ガシャンと大きな音が響き、思考が中断した。

「ウゼえんだよ!」

 野太い雄叫びに振り向くと、慎重にセットされている斑金の髪が揺れていた。

 いつの間にか違うクラスの松葉洋一が二年四組に入り込んでおり、その足元には一人の男子生徒が倒れていた。

 どういう経緯か知らないが、今田吉郎がまた松葉の逆鱗に触れたようだ。いや、達瀬は首を振った。松葉がただインネンを付けに来たのだ。

「てめえの顔を見るとムカつくんだ!」

 松葉は倒された机を一蹴りするが、今田はただ怯えように見上げるだけだ。

 達瀬は立ち上がっていた。

 今田を助ける無謀な方法を幾つか考える。

 だが、松葉が今田を殴る音を聞き、心は挫けた。

 まるで映写機の映像のような断片的な記憶が、ぐるぐる巡った。

 不条理に殴られても誰も助けてくれない世界。悪意を剥き出しにしながらも、そんな自分の醜さに気付かぬ男。

 達瀬はかつてそんな存在に二年間、痛めつけられた。

 きっかけは誰かを助けるための勇気だったのだが、その男はそれを理解しなかった。世の中には人を傷つける事に喜びを感じる者が確かに存在するのだ。

 周りの生徒達の様子に気付き、達瀬は凍り付いた

 今田がどんなに悲鳴を上げようと、助けを呼ぼうと彼等は変わらぬ白っぽく光を反射する目で、遠く眺めるだけだ。

 かつて被害者だった時、友人面をした連中がそうだった。

「ごめん! 松葉君、もうしないから!」

 泣き声を上げた今田だが松葉は許さず、鞄を拾い中身をぶちまけた。

 達瀬は一歩踏み出した。

 松葉の悦楽を浮かべたような、他者を見下す笑みの醜悪さが我慢出来なかった。 

 だが、その体に躊躇が絡みつく。

 ―激情のまま他者の為に動いてどうなる? また他人の為に傷つくのか?……。

 指先が冷たくなるまで拳を握り震えるが、感情の激発に対して肉体は凍ったように動かなかった。

「ああ!」

 一連をはらはらと見守っていた花梨が声を上げる。

 視線を上げると、鞄から落ちた今田の持ち物が散らばっていた。松葉に踏みにじられているその中に、青い折り紙で折られた少女がある。

「なんだこれ? キモー!」

 気付いた松葉は蹲る今田に唾を吐いて嘲笑った。

「お前こんな趣味あんの? くれー」

 頬を歪ませて松葉は観衆を見回した。まるで自分が皆の代弁者のような素振りで折り紙を拾う。

 沈黙する教室。だが花梨は大声を出して驚いた。

「あ、あれだよ! 達瀬君! 私の机に入れられていた奴!」 

 花梨は誰も近寄らぬ松葉に幽霊特権ですっと近づき、その手の中を見つめた。

「きゃ!」と悲鳴を上げる。ぐしゃりと、折り紙が握りつぶされたのだ。

「こんなキモい奴と関わりに遭うなんて、このクラスの奴は可哀相だな」

 松葉はわざとらしく肩をすくめて、皆の静寂をかき分けて去っていった。

 今田はまだ倒れ、うちひしがれた表情を伏せている。

 達瀬は無言で近寄っていた。

 視線が集まるが構わず、今田の持ち物、ゴム床に散らばった教科書類をかがんで集める。

「大丈夫かい? 今田君?」

 声をかけても今田は身動きせず、ただ下を向いている。

「ど、どこか怪我でもしたのか?」

「煩い!」

 今田は怒鳴ると、怒りに燃える目を向けてくる。

「お前も僕を笑っているくせに! こんな時ばかり面白半分に関わるなよ!」

 突き刺さる憎悪を受け、達瀬は呆然とする。

「そ、そんなつもりは」

「煩い! 昨日もバカにしていたくせに!」

 引き裂かれた声に、ゆっくりと考える。

 やはり昨日の色々な出来事は彼を誤解させていたらしい。しかし、当然だ。関わらなかったのだ。今まで助けようともせず、見ようともしなかった。何もしないのは罪、彼をイジメている者と全く同罪だ。

 肩を落として、疲労感と無力感と罪悪感に打たれながら自分の席に戻った。

「仕方ないよ……今田君は考え違いをしているの、達瀬君は悪い人じゃないのに……」

 花梨は斜め上に浮遊して慰めてくるが、達瀬はそう思わなかった。

「そんなしょんぼりしなさんな! 明日にはいいことあるさ! 明日という字は明るい日と書くのよ」

 両腕を上げてエールを贈ってくる花梨に、ふっと微笑む。

「そうだね」

「そうよ! それより今日行こうよ!」

「どこに?」

「線香の一本でもあげてあげてよ! お供えも! そしたら故人はきっと喜ぶ! まあ私なんだけど」

 達瀬は頷いた。折り紙の事は知りたかったが、今の今田に聞いても無駄だろう。

 それに今は確かに花梨の冥福を祈りたい気分だったのだ。

 目の前をちょろちょろしているのだが。


 沢城花梨の家は名古屋にも近い愛知県のベッドタウンにあった。

 その名の通り、寝るには最適な閑寂な住宅地がどこまでも広がっている。

「いい所だね」

 白い煉瓦歩道を歩きながら呟く。

「でしょ!」

 嬉しそうに花梨が目を輝かす。

 彼女の機嫌を取ったつもりはない。本当にそう思ったのだ。

 これだけはしょうがない青黒いアスファルトが縦横を仕切っているが、そこここに建てられた建物は瀟洒で趣があって、見飽きていた自宅の団地より余程品が良かった。

 それだけの金がかかっていると言うことだが、設計業者達の腕が良いのか高級住宅地にしてはケバケバしさがなく、ヨーロッパの古都と例えても言い過ぎにはならない。

 気のせいか吸う空気も清潔に思えた。

「しかし、こんな落ち着いた街に始めて来たな」

「私はずっとここで育った!」

 エヘンと花梨は手を腰に当てる。

「……でも、俺たちは本当にお互いの事を何も知らずに付き合っていたんだね?」

「……そうよ」

 突然、偉そうだった花梨から元気が失われた。目に見えて消沈し、一回りしぼんだように小さくなる。

「私たちは何も知らないの、何も知らずに付き合っていた……」

 怪訝に思い、問い返そうと口を開くが、その前に見知った者達の姿を捉えた。

 通りを挟んで育美と安藤の姿がある。

「あれ? 日比木君、何でいるの?」

 恐らく同じく学校帰りなのだろう、制服姿の二人は彼を見つけると小走りに近寄って来た。

「……いや、かり……沢城さんに線香でも上げようと思って」

「あんたが? 何で?」

 息を弾ませる育美の隣りで、安藤がきつい目つきに変わった。

「何だか気になって、俺、葬式にも来なかったから」 

「そうだったよね! あんた最低!」

 相変わらず安藤の視線は鋭く、言葉も厳しい。

「ごめん、自覚してます……」

「まあいいわ、許してあげる、今日でチャラね」 

 安藤が微笑むのを、達瀬は信じられない物でも見るように見つめた。

「何? その目つき」

「笑ったら可愛いよね……」

 パチリと安藤は達瀬の頬を張る。

「この馬鹿野郎! 調子に乗るな!」

 赤面して怒り出す安藤を、まあまあと育美が抑えた。

「ところで羽島さん達はどうしたの?」

 ひりひり痛む頬を撫でながら問うと、育美はにっこりと微笑んだ。

「私たちは折を見て花梨ちゃんの家に行くことにしているの」

「どうして?」

「友達だから」

 明快に答える育美は眩しかった。

「育美……ありがとう……」

 じっと聞いていた花梨も涙ぐんでいる。

「折角だから一緒に行きましょう!」

 育美はそう提案し、ぶすっとした表情の安藤も拒否はしない。達瀬は内心ほっとした。

「……お供えは?」

 鋭く心情を看破した花梨が尋ねてくる。

「ねえ、電車降りたらどこかで買うって言ったよね? 各種有り難い食べる物」

 聞こえないフリをしていると、花梨は見る見る不機嫌になっていく。

「ははーん、育美達に会ったから、これ幸いと手ぶらで行くのね?」

 彼女は読心術を持っている。幽霊の力だろうか? 恐ろしい女だ。しかし、彼女ははあっと肩から力を抜いた。

「……まあ、今回は許すわ、育美達に時間的なメーワクはかけられないからね」

 目を輝かせると、その顔すれすれに彼女の顔が近づく。

「でも、今回だけだから……次は何か供えてね、そうしないと安藤の夢の中に出て、あること無いこと泣きながら報告する……達瀬君に生前スッゴいことされたって! 安藤は怖いよー、そんな夢を見たら半殺しだね! きっと信じてくれるし」

 達瀬は力無く、自分とほぼ同じ身長の安藤を横目で観察する。彼女はバレー部の主力選手だ。本気ではり倒されたら先ほどの比ではないだろう。

「つ、次は何か持って来る!」

 空中に言うと、聞いた育美の顔が輝く。

「日比木君やさしーね、私たちは何もないのに」

「まあ、香典代浮かしたんだからな、行こうよ、コッチだ」

 安藤に着いていくと、傍らの花梨が心なしか俯いていた。 

「綺麗で清潔で良いところだね!」

 わざとらしく褒めるてみるが、花梨の顔色は悪い。

「そうよねー、花梨ちゃんの家は大きいからねー」

 話しかけられたと思った育美が大きく頷き、安藤が説明する。

「あいつはお嬢様だったんだ……深窓の令嬢という奴だな」

「あ、あれで!」

 大失言をしたのだが、怯んだ目でちらりと確認しても、やはり花梨は黙って唇を噛んでいた。

「あれで? お前花梨の何を知っている?」

 代わりに安藤がぴしりと問うてくる。

「まあまあ、確かに普段の花梨ちゃんは元気良くってそう見えないかも」

 育美が手を振って再び安藤を遮った。

 当人がエネルギーを吸われているように消沈していく中、三人は目的地たる沢城家に着いた。

 同じような姿のそれでも気品ある家々の中に一際豪勢な、茶色の煉瓦状タイルに覆われた二階建て一軒家があった。

「へえー」と達瀬は感心した。

 確かに資産家の家、というに相応しい造りだった。

 四角い建物を中心に、左右に屋根のある小振りの部屋があり、頑丈そうな黒い鉄門からは広い芝生も見え、愛知県の一等地に庭まで完備していた。

「すごいでしょ!」

 どうしてか育美が自慢げだ。

「うん、そうだね」

 だが、達瀬の感嘆にも花梨はちょこっと顔を上げただけだ。

 彼の躊躇を意に感せず、安藤は慣れた様子で門の横に着いているインターフォンを鳴らす。

「はい」としばらくの間の後、女性が返答してくる。

「安藤です、羽島と……その他一人もいます」

「ああ」とインターファン越しの声のトーンが上がった。

「どうぞお入り下さい」

 育美は門をガチャリと開くと、目配せをして両開きの扉に続く白いタイルの上を歩く。

 続くと丁度木扉の前までたどり着いた時に、一人の女性が姿を現した。

「育美ちゃん、このみちゃん、いつもありがとう」 

 微かに驚く、花梨の母親は問答無用の美女と勝手に予想していたが、出てきたのはふくよかな体型の優しそうな女性だったのだ。

「花梨も喜んでいるわ」

 彼女が見えていない女性はそう言い、さっと目元を拭った。

「そちらの方は?」

 花梨の母親が達瀬を穏やかな目で見つめてきた。

「ええっと……」達瀬は困った。

 ―『内緒で付き合う』とはどのくらい内緒だったのだろう? 花梨は親にも恋人の存在を告白していなかったのだろうか?

「花梨ちゃんの同級生です、偶然に会って」

 育美が代わって快活に答え、花梨の母は微笑した。

「そうですか、わざわざありがとうございます、花梨に会ってやってください」

 花梨の部屋は二階にあった。

 彼女の母親に連れられて入ると、まず立ちこめる線香の匂いが鼻孔をくすぐった。

「どうぞ」

 達瀬はまだ女の子をよく知らない。かつて、まだ幼かった頃、団地仲間の少女の家に遊びに行ったことはあるが、性差などない時代はカウントされないだろう。

 花梨の部屋は彼女らしく清潔で華やかだった。

 西向きの大きな窓からは明るい太陽光が入り、まとめられているカーテンはピンク色だ。絨毯は淡いベージュで、ぴかぴかの木机と、大きな液晶テレビ、真白い洋服ダンスにコンパクトなコンポもある。 

 白い壁に貼られているハリウッド男優のポスターを見て「おおー」と達瀬は大げさに唸った。

「……あんまりジロジロみないでよ」

 終始無言だった花梨が、じろりと睨む。言われるまでもなく、視線が止まる

 ベッドの横にある台に紫色の四角い袋と位牌が置かれていた。線香立てもあり、三本の線香が燻っている。

「花梨、お友達が来た下さったわよ」

 花梨の母は鼻を啜ると、立てかけてある遺影にそっと囁いた。

 ぼんやりと花梨の写真を見る。

 どこで撮られた写真なのか、元気な彼女が目一杯の笑顔でピースしている。

「花梨ちゃん……また来たよ」

 育美は正座すると、線香を取る。

 花梨の部屋には、まだ彼女の息吹が十分に残っていた。どこで勉強していたか、どこでテレビを見ていたか、どこで寝ていたか、誰のファンだったか、それらがすぐに分かる。

 が、それは過去なのだ。

 彼は見つけてしまった、この部屋の瑕疵。もう誰にも使われていない証。勉強机にうっすら積もる埃を見てしまった。

「うう……」

 花梨の母親が目頭にハンカチを当てていた。

 その光景を目にした達瀬は、充満している巨大な喪失感に気付く。

「やめてよ!」

 花梨が悲鳴を上げて、背を丸めている母親に近づいた。

「もう泣かないで! お願い! 私見ていて苦しいのよ! 辛いの……」

 その声は届かず、花梨の母は嗚咽している。

 ようやく彼女が自分の家にいたくない気持ちが分かった。何故、しつこくつきまとうのか、ここは花梨の死を母親が嘆いている場所なのだ。

「お母さん……」

 花梨の声にも涙が混じる。母にすがって彼女もしばらくすすり泣く。

「ほら日比木も」

 安藤は無表情に振り返った。意味を悟り、達瀬は花梨の遺骨らのある台の前に座る。

「ごめんね……達瀬君」

 花梨が振り向かず謝ってくる。

「嫌な気持ちでしょ? お母さんずっとこの部屋にいるの、もうやめてって言っているのに、声が届かない」

 答えず達瀬は手を合わせた。

「ごめんね、ごめん……」花梨が謝ってくるので、歯を食いしばった。

 ふつふつとわき出てくる感情がある。

『怒り』だ。花梨は殺されたのだ、この状況、救われない悲しみは『誰』かによって作られた物なのだ。

 ―絶対に真相を暴く……花梨を楽にしてあげるんだ!……。

「ごめんなさい、お持てなしもせず」

 花梨の母親はすぐに涙を払って立ち上がった。

「そんな」と慌てて手を振る育美達に悲しい微笑を向けると、部屋から出て行った。

「どうしようもないの……悪いことだと分かっているけど、どうしようもないの」

 背中を見送った花梨は、そう呟くと「ううう……」と苦しそうに頭を押さえた。

「どうした!」

 思わず声を出してしまい、育美と安藤が振り向く。

「どうしたって? 何が?」

 安藤が怖い顔になっている。

「い、いや……呟いてみた」

「あんたねー、からかいに来たんだったら承知しないよ!」

「ね、安藤怖いでしょ? 私も喧嘩したら酷い目に遭ったのよ」

 花梨が目を尖らせる安藤の横でにこにこしている。

「そんなぁ……」

 変わりように達瀬は窮した。安藤を刺激したのは彼女を慮ってのことなのだ。

「……あ、あの知っている?」

 仕方なく強引に話題を変えた。二人の少女は首を傾げる。

「なによ? バカな事言ったら半殺しよ!」

「沢城さんに妙な事があったらしいんだ」

「え? ……ええっと、いつのこと?」

 こちらの窮地を察してくれたのか、育美が尋ね返してくれた。

「事件の前、ええっと……どこかで聞いたんだけど」

「どこでよ! て、何であんたが知っているのよ!」

「まあとにかく、お、折り紙があったらしいんだ」

 達瀬が苦しげに舌をもつれさせると、花梨は勉強机にある引き出しを指した。

「こんなこともあろうかと……みんなまとめてこの中にあるわ」

 安藤の目から逃れるように立ち上がり、示された一番下の引き出しを開く。

「ちょっと! 勝手に!」

 安藤の声は高くなったが、それ以上の非難はなかった。素早く中にある折り紙の一つを取り出していたのだ。

 赤色の紙で女の子の姿を折っていた。

「何? これ……?」

「これが学校の沢城さんの机にいつの間にか入っていたらしいんだよ、何か気にしていた」 

 二人の少女は個々に息を飲んだ。引き出しの中は、同じ折り紙で一杯なのだ。

「……知らない……花梨ちゃん、そんな事一言も」

 育美が達瀬の手の中の一つをじっと見つめた。

「いや、こんなのがどうだっていうの?」

 立ち直った安藤が再び厳しい声になる。

「これはヘンなものなんだよ」

 彼女に攻撃態勢を取らせないために、くしゃくしゃと開く。折り紙の裏の白い面に確かに文字がある。

「ほら」

「う!」

 安藤が言葉を失った。食い入るように文字を見つめる。

『僕の天使、君を見つめているだけで僕は幸せだ、だけど君が望むなら僕は姿を現そう、僕らは結ばれる運命なんだ』

 定規をなぞったような細い字でそう書かれている。

「何これ?」

「沢城さんはずっと気にしていたんだって」

「ほ、他のも?」

 達瀬はもう一枚取り出し開く。

『僕は君の奴隷、神が与えたもうた君の美しさが僕の心を奪った、だけど君は隠している、もっともっと僕に君を見せてくれ、君の淫らな本性を』

「嘘……何よこれ、これって何なの!」

 安藤は混乱したように視線を宙に彷徨わせた。育美も唇を振るわせて机から折り紙を一つ一つ取り出している。

「こんな、ことあったの……知らなかった」

 反応を見て背後にいる花梨が一つ頷く。

 達瀬は咳払いをすると花梨の母親の気配を探り、口調を改めた。

「これは、ここだけの話しだけど……」

 達瀬は慎重に前置きを設置する。

「沢城さんは事故や自殺じゃない、そう俺は思うんだ」

 沈黙が降りた。

 安藤と育美は言葉の意味が分からなかったように、小さく口を開ける。

「……沢城さんは、殺されたんだ」

「ちょっと!」

 安藤は達瀬に掌を向けた。顔を歪めて必死に考えている。

「何を言いたいのさ? ……いいえ、何を知っているの?」

「俺は、その、君たちとは少し違う立場で沢城さんを知っていたんだけど、事故の数日くらい前から彼女の周りで奇妙な事が起こっていたんだ」

「違う立場……?」

 育美が弱点部分を突いてくるが、安藤はそれに構わなかった。

「折り紙! このキモいラブレター!」

「ああ」

「そう言えば!」

 安藤はせわしく瞳を揺らせた。

「私も聞いた! 花梨は事故のちょっと前、よく物を盗まれていた! ぶつぶつ文句言ってた」

「誰なの?……」

 育美の言葉には感情が省かれていた。

「分からない、ただ、俺は沢城さんが自殺するとは思えないし、事故だとしても違和感がありすぎる」

 花梨がうんうんと頷く。

「それって!……」

 安藤が目を光らせたが、育美が制止した。

「こんな物しかありませんけど」

 花梨の母親がお盆に紅茶とお菓子を並べて持ってきてくれる。

「ありがとうございます」と安藤は礼儀正しく礼をしながら、横目で睨んだ。

 もちろん、花梨の母親の前で無神経な話をするつもりはない。


「で、さっきの続きだけど」

 達瀬と安藤と育美の三人は、数十分後沢城家を辞していた。

 駅に向かう道すがら、たっぷりと時間をとって安藤が唇を舐めた。

「まず、はっきりさせたいんだけど、花梨とあんた、どんな関係?」

 鋭い一撃だ。 

「幽霊と語り合っている」等と言えば折角得た信頼も信憑性も瓦解する。だが「密かに付き合っていた」と正直に答えていいものか。

 花梨が生前二人に達瀬のことも話していてくれれば、こんなに困ることはないのだ。

「密かなLINE友っていうのは?」

 成り行きを見守っていた花梨のアイディアを拝借する。

「……沢城さんとはLI……NE友だったんだ、内緒だったんだけど」

「LINE友……」

 育美は納得していないのか、足元にちょこっと呟く。

「ホント?」

 安藤は露骨に疑ってくる。

 達瀬は大きく首肯する花梨の霊を見て、胸を張った。

「ああ、疑うなら何か尋ねてくれ! 花梨のことならそれなりに知っている!」

「花梨て……いいわ、信じる」

 安藤はふと相好を弛ませた。

「みんな知らなかった折り紙の事を知っていたし、あんたに私たちをダマすメリットも度胸もないからね」

「そ、そうかな?」

「とにかく、あんたが知っている事教えて」

 やや迷ってしまう。花梨の言葉そのままを伝えたらあまりに知りすぎていた、ということで逆に疑われそうなのだ。

「まず、花梨は自殺をする動機がない、次にだとしたら事故なのだけれど、君達も学校の屋上は知っているよね? あそこから間違って落ちるかい?」

 実は作戦である。花梨は落ちるかも知れない場所にいたのだ。 

 安藤は頬に指を当てて考える。

「そうよね、氷賀子高の屋上は鉄の柵がある……実は私も事故はないって思った」

「そして、彼女は……その、メールで俺に相談していた、折り紙のラブレター」

 完全な嘘だが、二人は納得したように顔を見合わせる。

「あれ……、折り紙だけど、何なの?」

「事故の五日位前からいつの間にか机に入ってた」

 花梨の言葉をそのまま伝える。

「気持ち悪い……」

 嫌悪感を露わにして、安藤は眉を顰めた。

 達瀬は拝借してきた一つ、青いそれをポケットから取り出す。一枚の紙から長髪の少女を見事に再現している、民芸品のような形だ。

「それ……、私見たことある」  

 育美が控えめに口を開いた。

「ああ、今日、今田君が持っていた」

「あいつが?」

 安藤の声音には好意の欠片もない。

「あいつが花梨を?」

「いや、結論するには早いよ」

 そのまま激情に駆られそうな安藤を、先回りして制した。

「でも、早く解決しないと」

 達瀬は花梨の母と彼女の苦しむ姿を、思い出す。

「秋までに解決しないとモンブランを供えられないからね」

 育美がはっとしたように見上げた。

「……LINE友って本当だったんだね、花梨ちゃんはモンブランが大好きだった」

「あと梨……」

 無茶な要求を思い出し、達瀬は渋い顔になる。

「なんだ、それも知っているのか? なんかショックだな」

 安藤がらしくなく、しんみりと笑う。

「花梨は太るのを恐れていたから滅多に好物の話しなかったんだ、それを教えているってことはあんたと花梨、かなり仲が良かったんだ」

 内緒で付き合っていた、とは言えず曖昧に微笑んで見せる。

「だったら余計に葬式来てやれよ! 冷たすぎるだろ!」

「そ、それはその、信じられなくて、それに何か関係が希薄な気がした」

 前半は言い訳、後半は本心だ。

「そうだ」と彼は心づく。

「花瓶の事なんだけど、安藤さん、花梨の机から花瓶を撤去しようて提案したんだって?」

 達瀬の心にずっと引っかかっていた疑問だ。

「ああ」

 安藤は表情を消して空を見た。

「あれは今田を庇った、というつもりじゃない、あいつマジで誰かに足をかけられたようだからってのも確かにあったけど、誰からか覚えていないけど、事故とか自殺なのにそれを思い出させる花があるのは可哀相だ、と言っていた奴がいてね」

「それは誰?」

「覚えていない……言われた気がしたのかもしれない、おい! 日比木」

 安藤は突然肩をがしっと掴んで顔を覗いた。

「な、なに?」

「花梨とお前が仲良かったんなら、犯人絶対に探してくれ、私と花梨は……その、あまり仲良くなかったかも知れない、実際、あいつのあのテンションに付き合いきれなかったからな、でよく衝突して、あいつを泣かせた事もあった、でも今考えると花梨はやっぱり私の大事な友達だった」

 安藤の切れ長の揺れる目に、どぎまぎしてしまう。

「安藤……」と花梨も感動して涙ぐんでる。

「私もいろいろケンカしちゃったけど、あなたを友達だと思っている」

 花梨と安藤を見比べる。

「ああ、わかっているよ、花梨は煩いから」

 安藤は破顔した。

「そうだな、あいつは我が儘で煩い奴なんだ、クラスの男共は勘違いしているけど、花梨は面倒くさい女なんだぞ」

「知ってる! 煩くて面倒!」

「……て、煩くて面倒? それ達瀬君の本音? すっごくムカつく! こりゃあ北海道の牛乳ビン入りプリンだな、それを供えないと、もー大変なことになる! どうするの? お供え物でいっぱいだよ」

 悄然とする達瀬に構わず、安藤はちらりと育美と目配せをする。

「あんただから教えるよ、あの日花梨がどうして屋上にいたか」

 不意に訪れた重大情報の暴露に、達瀬の背骨が冷えた。 

「花梨はあの日誰かに呼び出されたんだ、屋上に」

「それって?」

「ああ」

 安藤は厳しい顔になる。

「もし、この事件に犯人がいるなら、恐らくそいつだ」

「あ! あああ」

 ふわふわ浮いていた花梨が頭を抱える。

「そ、そう、そうよ! 思い出した! うん、私呼び出された、二時限目の休み時間、ちょっと席を外していたら机に手紙があった!」

「警察には言わなかったの?」

「言ったさ!」

 安藤は悔しそうに吐き捨てた。

「でも重要視されなかった……すごく悔しかったよ、私はさ、時々憎み合っているんじゃないかって程、花梨と言い争った、だけど本当に花梨が好きだった! 殺されたんだとしたら、そいつを許せない!」

「ありがとう安藤! 私も時々あなたが疎ましくて苛々したけど、本当は大好きだった」

 もし安藤の言うとおり犯人が花梨を屋上に呼び出したのなら、殺意は明確で計算されたものになる。果たして学校生活の中でそんなに人から恨まれるのだろうか。

「……ねえ」

 育美が前触れ無く振り返り、小さな声を二人にかける。

「名古屋駅、行かない? 花梨ちゃんも好きだったクレープ屋があるんだけど」

 少し緊張した面持ちの育美を見ながら、花梨とのデートの記憶を探った。

「ああ、デラックス……とかいう奴?」

「ええ」育美は俯く。

「ダイエットしているって言うのに、どうしてか花梨ちゃん、あれだけは食べた」

「そ、それはね、あ、あれは別腹なのよ! お腹の違う所、異次元みたいなのがあって、そこに格納される仕組みなの……だから、太らない理論なの」

 

 夕方六時頃になると名古屋駅は混み出す。学生やサラリーマン達の帰宅時間と一致するのだ。

 正直混雑している場所はそれほど得意ではないが、育美と安藤の背について駅の地下街へと訪れた。

 名古屋駅の地下街は意外と複雑だ。迷路のような地下道が縦横に伸びていて、慣れた者でもなければ全体を把握できない。

「なつかしいなあ」

 花梨は片手を達瀬の肩に乗せてきょろきょろと見回した。

「ここでよく私達デートしたのよね!」

 だが、実感が湧かなかった。興奮気味の彼女と違い酷く気持ちも冷めている。 

 確かに良く来た場所だ。

 すれ違う学生やスーツ姿の人々、地下街の店の明々と灯したライト、一日から解放された帰宅者達のざわめき。

 何もかも記憶にある。だがそれらは水中の中の光景のように鈍く揺らぎ、時折波紋さえ起こった。

「ここだ! 着いた」

 安藤が普段の彼女からは想像できない、女の子の喜びを込めた黄色い声を上げた。

「良かった、今日はすいているね」

 育美も弾むような息をつく。

「え?」

 達瀬は困った。地下街のど真ん中なのだ、目の前には茶色の壁しかない。何に到着したのか分からなかった。

「あー! いいなあ!」

 花梨が喚くが、達瀬は見回す。

「ほら、ここだよ」

 育美が察してくれ、茶色の壁の一部分を指す。

「ああ」とようやく仕組みに気付く。壁には同じ色の窓が付いていたのだ。

 こんこんとリズミカルに安藤が叩くと、「はーい」とがらりと窓が開く。

「変なお店でしょ? 口コミで人気が広がったんだよ」

 ぱたんぱたんと変形するように窓から台が現れ、メニューと値段の書かれたプラスチックの札がぶら下がる。

『チョコ』『チョコ生』『チョコ生バナナ』『ストロベリー』……。

「うーん……」

 安藤が目を輝かせて悩む。

「デラックスは……?」

 札を確認してぼんやり尋ねると、安藤は大げさに肩をすくめた。

「知らないのか? あれは裏メニュー、チョコだのバナナだのストロベリーだのをいっぺんに巻くんだ! ……食べたいけど、カロリー的に勇気がいる」

「よく食べたねー! 達瀬君と二人で何個も……」

「だから太るんだ……」

「よし呪おう! なむなむ……テストで散々になれ! 体育の時コケろ! お弁当の中にパチンコ玉はいれ……聞いているの?」

 はっと我に返ると怒った顔の花梨がいた。

「い、いや、安藤さんも気にするんだ」 

 慌てたごまかしに、くすくすと育美が笑った。

「安藤ねー、最近太ったんだって!」

「育美! 日比木の前で、このバカ!」

 拳を振り上げる安藤から、育美は悲鳴を上げて逃げた。

「羨ましいな……」

 怒気を忘れ、花梨が呟いた。

「もう私は食べられないのかな? 安藤や育美と騒げないのかな?」

 答えられずチョコを頼み、達瀬は用事があると安藤達に別れを告げた。

「また明日ね」

 チョコ生バナナを片手にする育美が小さく手を振ってくれたが、安藤は真面目な顔を近づける。

「あのさ……これは私の勘だけど、花梨を呼び出したのは西野じゃないか、と思っている」

「どうして?」

「いや、だから勘だって! また明日な! 何か分かったら教えろ」

 落ち付きなく目線を逸らす安藤の様子から、彼女が何か隠している事を直感したが、追求は止めた。

 西野本人に聞けば良いことと、思い直したのだ。達瀬は無言で踵を返し、喧噪に背中を向けた。


「優しいのね……」

 二人から離れ地下街をしばらく進むと、花梨が顔を近づけて吐息と囁いてきた。

「あんまり楽しそうにすると私が可哀相だから、一人になったんでしょ?」

「……どうも君は俺を過大評価するなあ、ただ二人のパワーについて行けなかっただけだよ」 達瀬は片手のクレープを口元に持ってくる。

 美味しそうなチョコの匂いが鼻孔を撫で、胃がぐるぐると重くなる。

 だが、思わず口にして顔をしかめた。すぐに食欲は失せ、舌の上の欠片がゴムのように冷え切った感触に変化し、煩わしくなる。どこにはき出そうか、視線をさまよわせた。

「そろそろ思い知った?」

 凍った声は横合いからかけられた。 

 花梨の様子が一変する。敵に出会った猫のように一瞬伸び上がると、五指をかぎ爪のように曲げる。

 達瀬は戦慄してクレープを落とした。こんな恐ろしい彼女は見たことがなかったのだ。

 輝いていた瞳は濁り白目は真っ赤に血走っていた。長く真っ直ぐだった髪は逆立ち、艶やかな唇は裂けたように左右に開き、ぎざぎざに尖った歯がのぞく。

 背の辺りを冷やしながらその理由、声の主を探すと、行き交う人の中に少女がいた。

 ―倉罫夜如。

 せわしなく動く人々を背景にし、ひんやり微笑している。

「……思い知った? 訊いているのよ!」

「な、なにを?」

「あら、気付いていないの?」

 夜如は訳の分からぬ達瀬に、横目を当ててくる。

 彼が何よりも驚愕したのはその所作の優雅さではない、むしろ彼女は艶めかしかった、自分より幾つか年下だろう少女の凄艶さが、背徳的に写る。

「なんの用!」

 花梨の声は割れていて、断末魔の絶叫のようだった。

「知っているくせに……すぐに楽にしてあげる」

 夜如はゆったりとした川の流れのような自然な動きで両腕を上げて、拳法でもするように構えた。

「やる気!」

 花梨の体が大きくなった。闇夜に強烈な光で出来た影のように、細長く歪む。

 ふふふ、と夜如は口の中で笑い二人の少女の周りから温度と現実感がさっと抜けていく。代わりにひりひりとした殺気が氷のように一面に張った。

「ちょ、ちょっと!」

 達瀬は大声を出していた。道行く他人達が怪訝な顔でちらちらと見てくるが、それどころじゃない。

「何?」

 夜如は花梨から目を離さず問う。

「君は何? 一体どうしてここに……いや俺達に付きまとう?」

「倉罫夜如、俺達じゃないわ、私が用のあるのは、その幽霊」

 振り返ると、影の中で赤い目を光らせる花梨がいる。

「き、君は……」

「倉罫夜如、私の名前は覚えなさい!」

「……夜如ちゃん」

「子供扱いしないで! こないだ子供を産める証が来たわ! 私はもう一人前の女よ、それなりの敬意を払って礼儀正しく接しなさい! ぶっとばすわよ」

 口ごもった。夜如の激しい性格の一端をかいま見て気後れしたのだ。

「取り憑かれているくせに色々口出ししないで、あなたの為でもあるの、あの幽霊は危険だわ、忠告したでしょ?」

 確かに今の花梨は恐ろしかった。ホラー映像に出てくる怨霊のようだ。

「その幽霊を消す、徐霊とも浄霊とも退魔ともいうわ、好きに呼びなさい」

「な、何で? そんなことを」

「私の役目だからよ、正確に言うと私の家の、役目」

 夜如は不機嫌そうに、語尾を強めた。

「どうやって?」

 その疑問は時間稼ぎだが、夜如には不意打ちだったようだ。

 きょとんとする。

「……当たり前じゃない、殴ったり蹴ったりして弱らせて消すの」

 全然当たり前じゃなかった、花梨が猛獣のように唸り出す。

「だって、出来るワケないじゃないか、……か、幽霊は、通り抜けるか、ら」

「出来るわ、私の倉罫冥海法(くらけめいかいほう)なら実体のない物も殴れる、それが神や悪魔でも私たちなら倒せる」

 達瀬は唖然として、芸術品のように華奢で真白い、夜如の拳を見つめた。

「だからどいていて、すぐよ」

 夜如はちらりと笑って見せて、また花梨に向き直った。

「ちょっと!」

 達瀬は語気を荒くして、花梨を庇うように夜如の前までずんずん進んだ。

「何? あれは危険よ? あなたが思っているよりずっと」

 何となく分かる。今まで花梨は可愛らしい少女の姿を崩さなかった。だが、夜如の登場で一変し、達瀬すらおののく容貌に変わっている。

 だが、どうしても花梨をこのまま消す事が許せなかった。脳裏に力無い花梨の母と、それを慰めようとする彼女がよぎる。

「もう少し、もう少し時間をくれ! ずっと、じゃない、それくらい分かっている、分かっているから、もう少しだけ」

「どうして?」

「彼女を殺した者を突き止める、それまで……」

「何故? 詮無いことを」

「だって……」

 夜如の磨き抜かれた黒檀のような、煌めく瞳に訴えた。

「このままじゃ可哀相じゃないか! 彼女は自分が何故、誰に殺されたか分からないんだぞ! そんなの可哀相だ! 死んだんだぞ!」

 花梨は寂しがっていた、彼の家でも安藤や育美の前でも。

「まだまだ生きていたかったろうに! クレープやモンブランや、好きな物を食べたかったろうに! もう出来ないんだ! なのに!」

 達瀬の言葉が驚きにとぎれた。いつの間にか流れ出していた涙を、夜如が細い指で撫でたのだ。

「何になるの? 知ったら何か変わる? あなたは霊を舐めているわ」

「そんな、つもりは」

 夜如の指の感触にどぎまぎしてしまう。

「後悔するわ、必ず……だって彼女の死は……」

 そう言うと彼女はまじまじと達瀬を見つめ、一瞬思案顔になり両腕を下げた。

「……いいわ、真実とやらが分かるまで待ってあげる、きっと後悔するでしょうけど、でも後悔したらあなたの負けよ、そしたら私の願いを聞いて、それを約束できたら、ここは見逃してあげる、その願いはね……」

「わかった」達瀬は聞かず即答した。夜如の『願い』は分からないが、後悔しない自信があったのだ。

「……ヘンな人ね、でも約束は約束よ、聞いていなかった、という言い訳は通じないわ」

 夜如は始めて驚いた顔になったが、すぐに花が開くように笑った。

「そして、私はずっと見ている、あなた達を、いい? もう一度言うけど、後悔したらあなたの負けで私の勝ち、私の願いを叶えてもらう」

 言い残し、背を向ける。

「とんでもないお願いだけど、絶対に叶えて貰うわ!」 

 幻影が消えるように、だが現実には軽い靴音を立て彼女は去った。

 突然世界に色が付いたように、周りの音が蘇った。

 足音、さざめく笑い声、店々の呼び込み。

 達瀬はぐったりと近くの灰色のコンクリート柱に寄りかかった。肉体が消耗しているのをはっきりと感じる。夜如との対峙はそれほどの物だったのか、寒気にぶるっと震えた。

「あ、ありがとう達瀬君」

 涙を溜めた花梨が礼を言う。もはやいつもの可愛い少女、学校のアイドルの姿に戻っている。

 先ほどの恐ろしい姿が夢ではなかったか、と疑ってしまう。

「私、なんかおかしくなった……どうしてだか分からないけど、あの娘を見た途端スッゴク怖くなって、どうしても……何をやっても逃げなきゃ、と思ったの」

 ぽろぽろと彼女は涙を流す。達瀬は穏やかになだめようとしたが、うめき声しか上がらない。

「……達瀬君? どうしたの? 顔色悪いよ、達瀬君?」

「いや、なんか疲れたよ、俺こんなに弱かったかな? 体……」

『後悔するわ』息と共に力を抜いた途端、夜如の言葉と美しい瞳が蘇る。そんなはずは無いのだ、彼女の為にすることで後悔などするはずがない。

 達瀬は不安そうな花梨を安心させるために、体中の力を振り絞って歩き出した。

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