第25話 空を翔ける
玉藻の唇が小刻みに動く。ささやくように柔らかで静謐なる言の葉。紡がれた言葉は大気を揺らしながら凛と鳴る。
「
玉藻のまわりに銀色の妖気が立ちこめ、金色の瞳孔がすっと縦に伸びる。
直後、玉藻を囲むようにして無数の木の葉が出現した。
先の爆発音を聞き、いったい何ごとかと天を見上げた民衆からは、それこそ木の葉と同じ大きさに見えたが。実際は人の胴体ほどもある大きな葉である。
しかしながら、ただ大きい葉ではない。一枚一枚が擦っただけで人の手首を落としてしまうほど鋭利で硬質。
それが絶え間なく玉藻のまわりを旋回し続けているのだ。
「ゆくぞ。
続いて黒天狗が羽扇を切る。
まばたき一つする間に十……いや二十かもしれぬ。陽炎のように黒天狗の腕が揺れた。常人よりも動体視力に優れた兼嗣や巴であっても、すべてを見切ることはできなかった。
二度目のまばたきをするより早く。
轟っ!
爆風が弾けた。
餓鬼の腹を裂いた鋭い風が陣の中を縦横無尽となって奔り、玉藻の生み出した葉を乗せて飛び回る。
爆風に乗った巨大な葉は円陣に浮かび上がる七星を切り刻み、中を埋め尽くす炎の筋を断ち切る。あっという間にすべてを霧散させると外周に向かって一斉に襲いかかった。
葉が、刃のごとく煌めいた。
暴れ回る風が、葉が、内側から陣を削り取る。
綺麗な円状をしていた二重の陣はいまや大きく歪み、ともすれば一角が切れてしまいそうだった。
「まずい! 巴、踏ん張れ!」
「きゃあああ! やってるわよおお! なによ、これえ!」
二人は突き出した両の手に力をこめる。
黒天狗と玉藻の発する妖力が予想以上に大きく、陣で留めきれない。
まだかろうじて保たれているというのに、陣から漏れ出した妖気が二人に襲いかかる。威圧で臓腑が掻き乱され、気を抜いたとたんに体がひしゃげてしまいそうだった。
押されてたまるかと二人は必死に呪力をこめる。
もう秋口にさしかかるという季節。
本来なら心地よい涼をもたらす夜の訪れだったが、二人の額には大粒の汗がいくつも浮かび、まとまった汗は頬を伝って顎からこぼれ落ちた。
それでも――
「くっ」
苦しそうに顔を歪ませていた巴の唇から一筋の血が流れる。
「も……だめえ!」
大気が、弾けた。
兼嗣たちが生み出した二重の陣が内側から弾け飛んだのである。
無理やり閉じ込められていた暴風が拘束から解かれ、都の天を四方八方なぎ払う。
円の中心地にあった家屋は砂塵のように消し飛び、周囲一帯の屋根も吹き飛んだ。
近距離で直撃を食らった兼嗣と巴も大きく後方に吹き飛ぶ。
いくら稀代の陰陽師と名を馳せていても、翼を持っているわけではない。爆風に煽られてしまえば、もはや木の葉と同じ。
白夜が爆撃で飛ばされたときよりも速く、二人は都の空を真逆の方角に飛んでいた。あまりに速くて空気の圧が凄まじい。口を開くこともままならず、両手で顔を覆ってなんとか視界を確保するのが精一杯である。
爆風に混じって羽音が迫ってきていた。兼嗣の前を黒い翼が横切ったかと思えば、紫色の瞳が愉しそうな色を浮かべてこちらを見ていた。
「まだまだ」
黒天狗の口が笑う。飛ばされるだけの兼嗣には手も足もでない。
それどころか音すら消してしまう速さに声すら聞き取れなかった。
そこに容赦無用と第二波が襲いかかる。
「
黒天狗が翼を大きく真後ろに伸ばし、兼嗣めがけて凪いだ。漆黒の羽根が翼から矢のごとく降り注ぐ。
いまだ収まらぬ爆風も相まって速さも威力も桁違い。立烏帽子は半分からすぱっと切れ、直衣は見るも無惨な布きれと成り果てた。
羽根が全身に突き刺さり、所かしこから血が噴き出る。覆っていた顔以外は羽根に射られ、兼嗣の体はまるでカラスのようになった。それでもまだ足らぬと、羽根が皮膚をかすめるたびに肉を切り裂いてゆく。
ついに、兼嗣の体が地に落ちた。どこぞの屋根に衝突し一度大きく跳ねて、転がり落ちたのである。
一方、兼嗣と同じように爆風を受けて後方に吹き飛んだ巴の目の前には、金色の目を光らせる玉藻がいた。銀色の髪をなびかせ、あたまには三角の獣の耳がある。太古から存在するといわれる九尾の化け物。そう理解しいるのに白い衣をはためかせ、九本の尾で宙を舞う姿は神々しくもある。
「美しいわぁ」
危機的状況であるというのに、巴は惚けてそんなことを口にした。
玉藻は少し目を見張ってから微笑を称える。
「どんな時も美しさは不可欠ですよ。そう、死ぬ時でさえもね」
玉藻が後方に移動した。少し距離を置く必要があったからだ。
「
いったいどこに迷い込んだのか、美しい夜桜があたり一面に広がる。
続けて玉藻の背後に真っ黒な口を開けた巨大な鳥居が出現した。
その奥にも、またその奥にも階段のように連なった鳥居が見える。
鳥居の奥から桜の花びらがふわりふわりと風に遊んで流れてきた。
とめどない動きで近づき、ふわりと巴の頬をかすめる。また一枚。また、一枚。
頬を、首筋を、手の甲を。なでるように優しくかすめていく。
――幻覚。
巴にはそれがわかっていた。わかっていたが、どうにもできない。
体を覆う桜に魅入られて、ただ甘受するしかなかった。
いつしか鳥居からは目を覆うほどの桜の花びらが溢れていた。視界いっぱいを埋め尽くす桜の花びら。巴は夜であることすら忘れて、淡い桃色の光景に身を委ねる。
痛みなどなかったし、心は信じられないほど穏やかだ。
しかし花びらは確実に皮膚を切り裂く。小さな傷をえぐり、またえぐり。流れるような動きで巴を包みこんで無数についた傷口に襲いかかり、よもや臓腑に到達するという深さまで肉を切り裂いた。
もう、巴の意識はない。
口から血を吹き出しながら、されど夢心地の表情を浮かべ、一糸まとわぬ姿で落下した。
「終わりましたね」
黒天狗と玉藻は倒れこむ白夜のもとへと駆けつける。
「まったく。よく無事でおったものだ」
黒天狗は顔をしかめ、白夜を見下ろす。
「陰陽師に会ったらすぐに逃げるようにと、あれほど言ってきかせたのですが」
「こいつには耳がついておらんのだろう」
「これで白夜も懲りたでしょう。さあ長居は無用です。行きましょう、お館様」
「ああ」
都の上空に突如として青色に輝く輪が出現したのは、二人がほっと安堵の息をついた時だった。
一瞬の油断――
異様な気配に気づき、二人が天を見上げるより早く。
輪はぶんっと音を鳴らして二つに分かれると、投げ縄のような動きで瞬時に二人の体を拘束したのである。
「これは!」
玉藻が目を丸くする。
「お館様!」
焦った玉藻が黒天狗を振り向くが、黒天狗もまた怒りに目をつりあげ、もがいていた。
頭上が青く輝く。二人は同時に天を見上げた。
そこに、虎がいた。
天を翔ける青い虎である。
星々よりも煌めく青と白の縞模様の体。ゆるりとしなる逞しい髭。ぎらつく大きな眼孔。太く強靭な四肢。天に反り上がる尾。
都の空を覆い尽くすほどの巨大な虎が獰猛な
黒天狗は目を見張る。
「白虎だ! くそ陰陽師どもが!!」
黒天狗の鋭い眼光は朱雀大路の突き当たり。朱色の屋根が連なる御所に向けられる。
「さっきの小童どもが戦っている隙に呼び寄せたな!!」
ギリギリと歯ぎしりをする黒天狗の体が天に吸い寄せられる。玉藻の体もふわりと浮かんだ。白虎に引き寄せられているのである。
「白夜!! 起きろ、この大馬鹿者がっ!!」
黒天狗が叫ぶ。白夜はかろうじて、その声を遠くに聞いていた。
「逃げるのです、白夜!!」
今度は玉藻が叫んでいた。
二人の体がだんだん遠のいていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます