第26話 小春
待って。どこに行くの……
意識が移ろっていた。
大きな獣の目の中にお館様と玉藻の姿が見える。
そして……小春がいた。
白夜は八歳の姿だった。小春は十歳だった。
あのころと違って橙色の小袴は鮮やかで美しかったけど、柔和な顔かたちは変わらない。
「小春……」
「いつまで寝てるの?」
春の木漏れ日のように暖かく安心する声。
優しく髪の毛をなでる小春の膝に頭を預け、白夜はそっと目を閉じた。
「本当は、ずっと寝ていたいんだ」
「どうして?」
「だって小春の後を追いかけなくちゃ。どうしてかわからないけど、ぼく生き延びちゃったんだ。ぼくが行かないと小春が寂しくなるから」
「そうね。白夜がいないと寂しい」
そっと目をあければ小春が哀しそうにうつむいていた。
小春が哀しそうにしていると白夜も哀しくなる。
「そうでしょう? だから早く死ななくちゃって思ってるんだけど、簡単に死ねない体になっちゃって困ってるんだ」
「でもね。わたし白夜が生きていてくれて嬉しい」
「え?」
白夜は目を丸くする。
小春、いまなんて言ったの?
生きていてくれて嬉しい?
だって、みんなで死ぬ約束だったんだよ。
ぼくだけ生きていたらだめじゃない。
「ずっと謝りたかったの。幼いあなたを手にかけたこと。お姉ちゃんなのに、あなたを守れなかったこと。ずっとずっと、謝りたかった」
「小春?」
「お母さんもお父さんも後悔してる。あんな道を選んでしまったこと。そんな選択しか与えられなかったこと。ごめんねって謝ってる」
「どうして……」
「あなたに、幸せになって欲しいから」
悲しげに瞳を伏せていた小春が微笑んだ。声は変わらず優しい。
どれほどつらい日常でも、この笑顔と声があれば元気がわいてくる。
けれどいま、白夜は困惑していた。
あのころの幸せは小春と一緒にいることだった。
それだけが唯一の幸せと呼べるもので、いまはもうないものだ。
白夜は首を横に振る。
「小春と一緒じゃないなら幸せじゃない」
「そんなことないわ。だって、白夜はもう見つけたじゃない」
「なにを?」
「新しい幸せ。あなたのことを守ってくれる新しい家族と出会えたでしょう?」
見透かしたような小春に白夜は言葉を紡ぐことができなかった。
「本当はわかってるくせに」
温かみのある小春の声が胸に突き刺さる。
白夜は小春の視線から逃げるように目を伏せた。眉には苦悩が浮かぶ。
ずっと隠していた想いを小春に見透かされ、認めてしまうのが怖かった。
本当は白夜だってわかっていた。
口も態度も悪いのに、ずっとそばにいてくれた人がいたこと。
だって白夜はあやかしの感知に長けていたから。
あの山に棲まうあやかしは白夜を獲物と見なす。
当初は怯えて暮らしていたから感知能力が研ぎ澄まされたのは必然であった。
初めて気がついたのは、いつだったか。
確かあの山で暮らし始めて、まだ一年も経たないころだった。
ときどき雲の上に。木々の密集する山の奥深くに。湖畔の隅に。
いつもお館様の気配があったこと。本当に危ない時は助けてくれていたこと。
本当は、知ってた。
でも早く死ななくちゃと思っていたから素直にありがとうって言えなくて、その代わりに毎日桃を届けた。
玉藻はいつも髪をといでくれた。
桃ばかり食べていたらダメだと叱って、白夜にご飯を用意してくれた。
遊び相手がいなくて寂しく思っていたころ、妖狐たちが寄り添ってくれた。
妖狐たちとは毎日遊んだし、尾が増えたときは手を叩いて喜んで、人間に化けたときもみんなでお祝いした。
いつしかそんな日常を楽しんでいる自分がいて、同時に罪悪感を覚えた。
でも、そんな一つ一つの関わりが白夜の心を埋めてくれたのは確かで。
できることなら、このまま一緒に暮らしていたいと願ってしまった。
「小春。ぼくね……大好きな人たちができたんだ。お館様は性格も口も悪いけど、でも本当は優しいんだ。玉藻も妖狐も。みんな……大好き。でもどうしていいか、わからないんだ」
「何を悩むの? 大好きならそばにいればいいじゃない。わたしはね、ずっと願ってたよ。白夜が生きる理由をみつけること」
「生きる、理由……」
「わたしたちもね、ずっと見守ってたんだよ。たった一人になってしまったあなたが、とても心配だったの。言葉で伝えることはできなかったけど、ずっと一緒にいたのよ」
小春が微笑む。
――言葉で伝えることはできなかったけど。
それって何かに似ていると思った。
言葉がなくても語りかけるもの。
言葉がなくても守ってくれるもの。
あの家からずっと、一緒だった……
白夜は顔をくしゃっと歪ませた。
「黒姫……?」
小春が笑った。
「そう。だから白夜は死ななくても大丈夫。これからもわたしは白夜を守るから。白夜は、白夜の大切なものを守るんだよ」
白夜の目から涙が溢れた。
「ぼく、生きてても……いいの? みんなと一緒にいてもいいの?」
「もちろんよ。今度こそ幸せになってね。約束だよ」
小春の姿がかすむ。
笑顔の小春の後ろにお母さんとお父さんの姿があった。
みんな微笑みを浮かべ、嬉しそうに白夜をみている。
その姿がふっと消え失せ――
「小春!」
自分の声で目が覚めた。
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