第2話 死ねない体

 しかし、いくら待ってみても痛みは訪れない。

 首を傾げて喉に触れる。血が吹きでるはずなのに傷すらない。

 (きっと錆びているから切れないんだ)

 苛立ちを覚えて包丁を放り投げ、抱き合う両親の元へ行って母の胸に刺さっていた物を引き抜いた。

 これも錆びているけど大丈夫かな。

 眉をひそめて濡れた刃先を睨む。

 切れが悪いなら刺せばいいんだ。お母さんたちもそうしたし。

 両手で柄をグッと握りしめ、目をつぶる。

 今度こそ。

 気合いを入れて真っ直ぐ喉仏に突き刺した。

 今度は刺さった感覚があった。

 肉を裂いて喉の中に異物が潜りこんだのがしっかりと感じられる。

 なのに痛みがない。血が溢れる感覚もなければ苦しさもない。

 強いて言うなら小骨が喉に引っかかった感覚。感じるのはその程度のものだった。

 顔をしかめて、そっと目を開けた。

 少し顔を下に向けると包丁の刃が半分ほど喉に食い込んでいるのが見える。

 さらに深く押し込む。さっきより少しだけ違和感が大きくなった。

 でも、死なない。

 ……なんで?

 困惑する白夜の元に部屋を彷徨っていた黒煙がやってきた。

 目の前に集まってぐるぐる回る。そこから手が伸びた。手、というには語弊がある。手のように煙が伸びた。それはゆっくりと白夜の喉仏に差しこまれた包丁に向かい、柄に巻き付いた。ぐぐっと包丁が引っ張られる。

 喉に刺さった獲物を抜こうとしているのだ。

 白夜は目を丸くする。

 ダメだって!

 怒りつけたかったが、声が出ない。

 差し込まれた包丁はしっかりと肉を裂き、声帯を断絶していたのだ。

 刃物を抜き取ろうとする黒煙と抜かれまいと抗う白夜。

 力の拮抗が見られたのは、ほんのわずかな時間。

 もともと筋力のない白夜はあっけなく敗北を期した。

 抗っても無駄だ。

 包丁を握る黒煙から、そんな嘲りが聞こえてきそうだった。

 白夜は黒煙を恨みがましく睨みつける。

「なんで邪魔をするの」

 答えは、ない。

 腹を抱えているのか、黒煙が小刻みに震えている。

「死ななきゃならないのに」

 小春も両親も死んだのだから、早く後を追わないと。

 焦った白夜は父の胸に刺さっていた刃物を引き抜いた。

 焦ったあまり半分突き出た刃を握りしめてしまった。

 ざくっと手のひらが切れた感覚。

 これはちゃんと切れるのかと嬉しくなって手のひらを見てみた。

 親指の付け根から真横に大きく裂けた傷口。

 けれど出血はなく、少し赤身のある肉が口を開いているだけだった。 

 なんで血が出ないの?

 目を見張る白夜の前でぱっくりと開いた傷口は引き合うようにして塞がり始めた。

「なにこれ……」

 瞬く間に薄紅色の擦り傷となり、元と同じ手のひらに戻る。

 不気味な光景だった。こんなことは人としてあり得ない。

 嘘だ。嘘だ!

 その後、白夜は何度も己の体に刃を突き立てた。

 ぜいぜいと呼吸があがり、汗が噴き出るほど何度も何度も。

 何十、何百と体中を切りつけても繰り返し行われる修復。

 苛立ちと悔しさが入り交じって目に熱がこもる。

 目頭の熱が溶けて溢れだしたのは涙だった。

 手から刃が滑り落ちたのは数刻が経ったころ。

 顔からは能面のように表情が抜け落ち、涙はとうの昔に乾ききっていた。

 白夜はゆっくりと腰をあげて小春の亡骸を見つめる。

 すると燃え尽きた心にまた熱がこみ上げた。

 悔しそうに口を一文字に結び、泣きそうになるのをぐっと堪える。

 本当はここで死にたかったけど無理みたいなんだ。

 小春。ごめんね。寂しくさせて、ごめんね。

 何度も心の中で謝って、白夜はゆっくりと背を向けた。

 (どうにかして死ぬ方法を見つけなくちゃ)

 白夜は歩みだした。

 陰鬱とした夜の澱みに小さな背中が消えてゆく――

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