第3話 黒天狗の噂
白夜は羅城門の前へとやってきた。
特に目的があったわけではない。
ただ家から近かったから、なんとなしに足を向けただけである。
白夜の家は平安京ではなく、羅城門を越えた辺境にあった。
田畑や川を挟んで見える羅城門は、異国の者すら迎え入れる寛容さもありながら、白夜のような貧窮した農民などは頑なに拒絶する何かがある。
なぜそう感じてしまったのかはわからない。
小春が、あの門の奥は別世界だと話していたからだろうか。
その意味をここに立ってようやく理解した気がする。
天高くそびえる門は墜ちた闇の中に半分溶けこんで、首がもげるほど見上げてみても、てっぺんが見えない。
そこから真っ直ぐに伸びる朱雀大路は都随一の大きさを誇る道である。
しかし、この道は白夜が知るものとは明らかに違っていた。
土から違う。土というよりは砂に近いのではないだろうか。色も白みがかっており、泥臭さなど微塵も感じられない。
馴染みのある畦道とは比べものにならないほど広く整然として、とても美しい道だった。
それなのに両脇に並ぶ柳の枝は空の重みに耐えかねてうなだれているようにも見え、月の翳った夜に寂寥とした空気を生み出していた。
そんな中、ひとり佇む白夜の存在はあまりに小さい。
延々と続く道の奥は真っ暗で、入ってしまったら最後、抜け出せなくなりそうである。
いっそのこと、そのまま黄泉の国にでも紛れこんでしまえばいい。
白夜は朱雀大路を歩み始めた。
歩んでも歩んでも一向に進んでいない気がする。
白夜は八歳であるが、そのわりに肉づきが悪い。長年まともな食生活を送っていなかったのだから仕方のないことである。
肉がなければ筋肉もつかないし、体力もない。
少し歩んだだけで息があがり、途中で何度も足を止めては休んだ。
でも行く当てなどないから、また足を進める。
羅城門からここまで、いったい何本の通りを越えてきたのだろう。
また膝に手をついて呼吸を整えていると、奥から人影が近づいてくるのが見えた。
「もうこんな時間だ。早く帰らないと鬼に食われちまう」
狩衣姿の男が二人、「こわや、こわや」と声をそろえ、こちらに向かって走ってくる。
彼らが纏うそれは絹か何かだろうか。
手にした灯りに照らされる衣には艶があり、とても手触りがよさそうに見える。赤や青といった布地も花のように艶やかで、夜だというのに目に映えた。
きっと宮に仕える高貴なお方なのだろう。
すれ違いざまに、何気なしに目をやった白夜と男たちの目が合った。
「ひいっ、でたあ!」
「なんだ、あれは! あやかしか⁉」
男たちは足を止め、口々に叫んだ。
顔は恐怖にひきつって歪み、震える指先を白夜に向ける。
白夜はきょとんとして小首を傾げた。
「ぼく?」
「しゃべった!」
よほど仰天したのか、あわあわと尻餅をつく男たち。
白夜を見上げる目は、いまにも飛び出しそうだった。
(そりゃあ、しゃべるよ)
あやかしとまで言われれば、さすがに悲しくなる。
確かに白夜と男たちの風貌には雲泥の差がある。
男たちは服だけでなく顔や手まで綺麗なのだ。
肌には土汚れなど見たらないし、烏帽子の中に纏められた髪だって一本足らず結い上げられている。
だからって、そんな風に言うことないのに。
唇を一文字に結んだ白夜は、顔を伏せて男たちの横を通り過ぎた。
蔑まれる視線から早く逃げ出したかった。
とぼとぼと歩み始めた白夜の背中を男たちは畏怖恐々と見つめる。
男たちが見ていたのは白夜ではなく、その背中から生えているものだった。
確かに白夜は汚らしい童であった。
だけどそれより目を引くものがある。
白夜の背中から枝のように広がって、ゆらゆらとうごめく黒い煙。
闇よりも黒く、禍々しい何か。
動きはとても不規則で一本に纏まって真上に伸びたかと思えば、蛇が何匹も絡み合ったようにぐにゃぐにゃと動くこともある。
ふいに、それが大きく二つに分かれた。
同じ大きさで左右に伸びて上下に揺れ動く。
そのさまは、まるで――
「羽だ……」
男がぽつりとつぶやいた。
「おまえが噂の黒天狗なのか?」
白夜の耳がぴくりと動く。
聞き慣れない言葉に興味をひかれて、思わず後ろを振り返った。
「黒天狗って?」
「う……」
「余計なことを言うでない! 愚か者がっ!」
怒鳴った男は尻餅をついたまま隣の男を睨みつけ、せっかく難を逃れたのに、また気を引いてどうするのだと責め立てた。
それを聞いて、また不貞腐れる。
別に取って食おうなんて思ってないのに。
一瞬声をかけたことを後悔したが、感興に負けて遠慮がちに口を開いた。
「教えて…ください。それってなんなの?」
「お……鬼の一種であろうよ」
「鬼? それって強い?」
「さ……さあ、強いかどうかまでは知らぬ。しかし噂によれば、黒天狗は何匹もの鬼を連れ立っていると聞く。ならばどこぞの筆頭ではないのか」
「黒羽山だ。黒天狗はあそこからやってくると聞いたぞ」
白夜の顔色を窺いながら男たちは答えた。
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