ツン甘なお館様のスパルタ教育のおかげで神殺しと呼ばれる鬼となりました。
一色姫凛
第1話 目覚め
鼠色の雲が空を押しつぶしていた。
野に生える草花も音を立てず、ひっそりと佇むそんな夜。
地上の空気は重く澱み、煮こごっている。
しかし天上ではいくぶんか風の流れがあるのだろう。
ときおり雲の隙間から、息を止めた月が呼吸するようにのぞくこともある。
いまもそうだ。
月明かりがぼんやりと床へ伸びて誰かの指先を照らし、またすぐにいなくなる。
再び訪れた闇の中で白夜は土埃で汚れた睫毛を何度かしばたいた。
爪の先まで真っ黒になった五本の指に包丁の柄がわずかに乗りあげ、そこからしなびた大根に似た細い腕が見えた。
ここ最近の大根はみんなこうだ。細くて中途半端に長くて張りがない。最後に濁った瞳が
姉の小春だった。
首から溢れた真っ黒な血は茣蓙に染み渡り、こびりついている。
朦朧とする頭で白夜がとらえたのはそれだけである。
ぴくりと、指先が動いた。目も、動く。
声を出してみようと思ったが、唇がわずかに動いただけであった。
ここ数日、水すら飲んでいなかったから喉がかれてしまっている。
両の手のひらを床に押しつけた。少し力を入れただけで腕が小刻みにふるえる。
小春より幼い白夜の腕はまるで枯れ木のようだった。
同じく細い両の足も膝の骨が節を作って飛びだしていたし、足首は女の手のひらでつかめるほどに細い。
それでも力を振り絞り、なんとか立ち上がってあたりを見渡した。
夜の闇がとぐろを巻いていた。
月明かりがあるならば、まだ外のほうが明るいかもしれない。
しかし光りがないから暗いのではない。
小さな白夜などすっぽりと飲みこめるほどの、太くて黒い何かが不規則に動きまわっていたのだ。
かたちは、あるようでない。柱をすり抜け自由自在に
それが部屋の中でうごめいていたのだ。
常人が見たら悲鳴をあげていたかもしれないが、白夜が恐れを感じることはなかった。
まるで当たり前のように眺めて、それから視線を落とした。
動く闇の下では両親が抱き合うようにして転がっており、互いの胸には錆びた包丁が深く食い込んだままだった。きっと互いに介錯を施したのだろう。
白夜の近くに小春がいたのは、小春が白夜に介錯をしたからである。
最初に死ななければならなかったのは、末の子である白夜だったからだ。
「わたしもすぐ逝くから」
小春は震えながら包丁を握りしめ、目に涙を溜めて笑った。
瞳の奥に恐れが浮かび、こけた頬がわずかにこわばる。
いつもとは違う、ぎこちない笑み。
白夜は小さく頷いて目を閉じた。
小春と一緒なら怖くない。
友達なんかいなくても小春がいればいい。
ここで与えられるものが死であっても、小春と一緒なら満足だ。
バラバラに死んで小春のいない日常を送る方が怖い。
そう思うほど白夜は小春を慕っていた。
朝から晩まで田畑を耕す両親は寝る時にしか家に戻ってこない。
家にいない両親の代わりに白夜の面倒をみていたのは小春である。
たくさん働いているはずなのに、家には食べ物がなにもなかった。
この都を作ったえらい人が高い税金を取るらしい。
お金だけじゃなく、育てた作物まで渡さなきゃいけないんだって。
不思議に思って尋ねたら、小春が教えてくれた。
まだ八歳の白夜に難しい話しはよくわからない。
でも、なんとなく言いたいことはわかった。
作っても作っても取られるから、お金も食べ物もないんだってこと。
常にお腹は空いていたけど、小春としゃべっていれば気が紛れた。
小春の背中に乗って、
目を閉じれば、そんな光景ばかりが浮かんでくる。
激しい痛みと熱さが喉を切り裂いて、夢はそこでぷつりと途切れた。
その後のことはよく覚えていない。
そっと喉に触れてみると、ざらりとした何かがびっしりとこびりついていた。
皮膚がひきつって動かしづらい。不快さに顔を歪めて爪を立てた。
がりがり引っ掻くたびに、真っ黒な塊がぼろぼろと衣に落ちる。
爪の間に挟まっていたのは黒く乾いた血だった。
よくやく不快な感じがしなくなって右や左に首を回し、上を見たり下を見たりする。
満足げに首をさすって、はたと気がついた。
(あれ? 傷がない)
たぶんだけど小春は首を切ったんじゃないのかな。
首にべったりと血がついていたし、あの時の痛みも覚えている。
それなのに何度触ってみても、首は綺麗にくっついていて傷ひとつない。
試しに大きく息を吸ってみたけど、濁った空気で肺が膨らんで苦しくなった。
どういうこと?
白夜は小春と両親の骸を見つめる。
ぴくりともせず横たわる骸は青白い人形のようで、なんの感情もない。
とたんに寂しさがこみ上げた。
早く小春に会いにいかなきゃ。
白夜は小春の手から包丁を抜き取り、迷いなく己の首を掻き切った。
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