COVID-49
藤本かいと
第1話
まるで招き入れるかのようにぴったりのタイミングで開いたドアを、急ぎ足のまま通り抜けると、すぐに、森山(もりやま)は、会議室の中にただならぬ熱気が満ちていることを感じとった。
いつもの702会議室。
一面がガラス張りとなった正面の壁面から、丸の内オフィス街のビル群が見えるのはいつもの通り。だが、何かが違う。
明らかなのは、もうすでに石上(いしがみ)教授が来ていることだ。U字形の長テーブルの一番頂点の席には、すでに石上が座っており、JMEDの事務官と何かを話していた。
他にも顔見知りのJMED担当者は勢ぞろいしていたし、各製薬企業から出向してきているプロジェクトメンバーも、全員がすでに集まっていた。
いや、全員ではない。まだ彼が来ていないか……
森山は、自分が一番最後に来たメンバーではないことを知って少しほっとした。
まだ会議の始まる10分前であり、通常の定例会であれば、ほとんど誰もいないのが当たり前だった。まして、石上センセイが会議の始まる前に来ているなど、前代未聞だ。
40歳になると同時に、東凶(あずきょう)大学の教授、しかもいきなりテニュアポストの教授に就任した石上。まさに東凶大学が誇る若きスター研究者であった。
様々な研究活動に引っ張りだこの石上が、JMEDプロジェクトになかなか時間を割くことができないのは当然のことだ。それが今日は、会議の10分前から来て、なにやらすでに熱心に話をしている。
いかに今回の会議がこれまでの、ここ数年ほどはもはや形骸化していたとも言っても過言ではない、定例会議とは違っているかを物語っていた。
一人だけまだいなかったメンバー、タカダファーマからの出向である仲本が会議室に駆け込んできた。と、そのまままっすぐ石上のもとに近づいていった。
「石上先生、VACの方の情報、すぐにもう一回、詳細を洗いなおすように社内の者に指示出しときましたんで」
どうも、仲本は石上からの指令を受け、会社の部下に何かを調べるように指示を出すべく、会議室の外で電話をしていただけのようだった。
見ると、自動ドアの横のインディケーターが小さく緑色に光っている。予定されていた出席者がすべて会議室に入ったことが認識されているということだ。
ようするに、やっぱり自分がビリだったということか……
と思っていると、JMEDの加藤事務局長が話を始めた。
「それでは、皆さんお集りのようなので、ちょっと早いですが、始めたいと思います」
皆がそれぞれに席に着き始めた。森山も手近の椅子に座った。仲本は話をしていた続きで石上の隣に腰を下ろした。
「えー、ではまず私の方から、本日の会議の趣旨の方、ご説明させていただこうと思います」
加藤が続けた。
「まあ、皆さんもうご推察のこととは思いますが。そうです、例の新型ウイルスのことでございます」
ここ数週間の間に、突然、報道の中心に躍り出た新型ウイルスの感染拡大のニュース。まずニューヨークにおいて、続いてニューデリーで、相次いで新型ウイルスの感染クラスターが見つかった。それが瞬く間にアメリカとインドの各地方に広がり始めていたのだ。昨日は、ロンドンとフランクフルトでもクラスターが見つかったというニュースが流れていた。
ただ、その患者の症状や、感染の広がり方の特徴から言って……
「そうです、当新型ウイルスはベータコロナウイルス属だと予想されていたわけですが、この度、アメリカ疾病対策予防センター、CDCから、解析結果の正式な報告がようやく出ました。予想通り、SARS-CoV-2の新型変異株であるということが確認されたとのことです」
どうしてそんなことを大げさに言うのだろうかと、森山は不思議に思った。
コロナウイルスの新型変異株であるとわかったのであれば、なにも問題がないではないか。
確かに、これまでのワクチン接種による免疫をすり抜けて流行が起こってきているということなのだから、ブーストワクチンが必要となる。しかし、そんなことはこれまでも何回かはあったことだ。
過去のワクチンでは完全に予防されない変異体がたまに出現するのはあり得ることで、それ自体は防ぎようがない。しかし、そのたびに、変異体に合わせて少しだけ構造を変えたブーストワクチンが作成され、迅速に提供されてきた。今回も同じことだろう。またファイジーVAC社がワクチンを開発するに違いない。
そういえばさっき、仲本はVACの情報がどうのこうのと言っていたが、その最新の状況ということだろうか?
加藤が続けた。
「今回の新型ウイルスは、思っていた通り、コロナウイルスの新変異体であることがわかったわけですが、ただ、一つ、これまでとは違う、あの、問題がですね、存在することがわかりました」
問題? なんだろう。
感染力が強いのか、症状がより重くなるのか?
しかし、少なくとも森山が聞いたニュースではそんなことは言われていない。石上が10分前に来ている事態になっているのはその問題のためなのか?
「というのはですね、実はこの変異、なんと申しますか、どうも自然に起こった変異であるとは考えられないということらしいのです」
一瞬、加藤の言葉が理解できなかった。その響きはあまりに唐突だった。
加藤の続く言葉はさらに森山を混乱させた。
「ちょっと正確でなかったですね。すみません。もちろん、最終的には自然界で起こった変異ということになると思われるんですが」
何を言おうとしてるんだ? 最終的には自然界って?
「ただ、その大元となるウイルスがですね、どうやら、その、人工的に作られたものであるらしいということなのです。いや、らしいというか、そうとしか考えられないというのが、アメリカCDCの結論です」
人工改変ウイルス? それが自然界に漏れて広がった?
まさか!
森山は目の前のポリ乳酸ボトルに手を伸ばし、水を紙コップに注ぎ入れた。
誰かが意思を持ってウイルスを改変したってことなのか? しかし、一体、なんのために?
生物兵器として開発されたとか?
そんなバカげたことはまず考えられない。誰にでも感染するウイルスを兵器にするなんて、そんなまぬけなことを真剣に考える人間がいるはずがない。自分自身が危険にさらされるのだから、兵器としてまったく使いものにならないだろう。
第一、これはコロナウイルスと確認されたということだ。報道されている感染者の症状も、発熱と肺炎がほとんどであり、これまでに死亡例は一件もない。殺戮ウイルスのようなものではないということだ。そういう意味でも、生物兵器などでありようがない。
「皆さん、腑に落ちないようなお顔をされていますが、人工的に改変されているのは明らかなのです。スパイクタンパクの部分が大幅に通常のコロナウイルスのものと違っておりまして、その構造、つまりアミノ酸配列がですね、これが驚いたことに」
驚いたことに?
「明らかな意図をもってデザインされた配列としか思えないんです」
……?
説明が加わるたびに、混乱はさらに深まるだけだった。
加藤が何を言おうとしているのか、まったくつかめないまま、手に持ったコップの水を飲みこんだ。
少しだけ間を開けて、また加藤が続けた。
「論より証拠。配列をご覧に入れましょう。スパイクタンパク部分のアミノ酸配列の図となります」
するとすぐに、入り口横の壁面いっぱいにスライドが映し出された。
いつの間にか、気づかない程度に、ガラス壁面の光透過度が下げられ、部屋が少し暗くなっていた。加藤の話の展開からSeeReeが予測し、スライド投影の準備をしていたのだった。スライドは、加藤が意図していた通りのものが選ばれ、映し出されていた。
「このスパイクタンパクの配列からはですね、これがワクチンによる免疫を避けるようにデザインされていることが明らかです」
スパイクタンパクは、コロナウイルスの上にトゲのように生えたタンパクであり、細胞にウイルスが感染するために必須のものだ。ワクチンを接種すると、この部分に結合する抗体が体内に作り出され、それがウイルスの感染を阻害する。
加藤がスライドの図を説明した。
「まずこの、黄色くマークされている部分ですが、これらは、ワクチンで誘導される抗体の主要なエピトープになります。大事なエピトープはこれら6か所くらいになるということは、皆さんご存じの通りです」
一文字表記のアミノ酸配列の中に、黄色でマーキングされた部分が6か所あった。
「この新型変異ウイルスで変異しているアミノ酸を赤い字で示しました。どうでしょう、間違いないですよね」
黄色のマーキング部分のアミノ酸は、ことごとく赤い字になっていた。ようするに、変異しているのだ。
こうなると、これまでのワクチン接種で体の中で作られた抗体は、この変異ウイルスのスパイクタンパクに結合することができない。抗体が結合する場所であるエピトープの構造が変わってしまっているからだ。
ということは、つまり……
「これまでのワクチン接種は、今回のウイルスにはまったく無効ということですよね」
プロジェクトメンバーの一人が声を出した。森山と同じく、サンテラス製薬から出向している吉田だ。
スライドに答えが表示されているに等しいものの、確認しておきたかったのだ。
「ええ、そうです。残念ながら」
加藤が答えた。
深刻な声色で。
しかし、そのとき森山は、混乱する思考に翻弄されながらも、それに気づいていた。
そう、加藤が慎重に努力しながらその沈んだ声色を作っていることを。
そして、その表情には、声の響きとは相いれない、興奮の色が浮かんでいることも。
それに気づいたのは、まさに、森山自身が同じことに気づきつつあったからだ。
何がどうなっているのか、まだまったく理解が追い付いていない。しかし、ひとつ、それだけははっきりと語られていた。
“これまで世界中の人々に接種されてきたワクチンは、この新型ウイルスには全く効果がない” ということが。
ふと周りを見渡すと、プロジェクトメンバーの多くも、そして、その後ろに座るJMEDの関係者の多くも、同じような目をしていることに気づいた。
皆、同じ考えをいだきつつあるのだ。それが手に取るようにわかった。
そのときが、ついに来たということなのかもしれない。
このプロジェクトを開始してからもう10年以上が過ぎていた。
ついに、自分たちのやってきたことが意味を持つときが来たのかもしれないのだ。
森山の席から、丸の内オフィス街のいくつものビルと、その屋上で日光を反射してキラキラ輝く太陽光パネルがよく見えた。目を移すと、遠くの方に、色合いからしておそらくヤマノ運送のものだろう、貨物用のドローンが、完全な水平を保ちながら、皇居の方に飛んで行くところだった。
良く晴れた、2049年2月の、ある日曜日の午後のことであった。
COVID-49 藤本かいと @kaito_fujimoto
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