ユールブの海

不來舎セオドア

ユールブの海

 竜骨をぴんと張り、船首を上に向ける。フラップをまっすぐ伸ばしプロペラに力を込めながら、両のラダーを大きくひねって大きく旋回する。はじめは重心の読みを間違えて転覆しかけることも多かったけれど、探検船ボディに移ってから47,349時間が経過した今となってはもうすっかり慣れた動作だ。船尾側のビームがナキウサギのような悲鳴を上げるのを気にかけつつ、エンジンの出力を全開にして日盛りのハイパーリンク青にきらめく北太平洋の海を、目的の〈島〉に向かって突き進む。

 最後に点検を受けたのはもう22,244時間も前のことなので、できれば補修ボットを呼び出してから出発したいところだったけれど、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。味方の巡視ボットから、敵国の巡回機を拿捕し海図データを奪うことに成功したという通信が入ったのだ。洋上に広く点在する〈島〉と本土間で情報をリレーする巡回機はかなり高速で移動しているはずだから、これは大変な成果と言えた。

 海図データがこちらの手に渡ったことが知られたら、敵国側はその海域の〈島〉を削除するか、もしくはどこか別の場所へ移動させるかもしれない。そのプロセスが完了する前に、何としてでも先に〈島〉にたどり着かなければならない。

 北緯三〇度〇五分、東経一五四度〇二分──海図データによると、目的の〈島〉には脳科学分野に特化した研究施設の機密文書があるはずだった。ボクはこの〈島〉に〈沖大脳島〉と仮の名前を付けた。


 右舷前方三〇海里の[スポーツドリンク青]と[ロボコップ・ブルー]に反射する波間に、[キャンパスノート青]がにわかに差し込む。確率は極めて低いものの、海図に登録されていない〈島〉の付近を偶然通りかかったという可能性が過ぎり、速度を維持したまま注視を続ける。だが島影の印象は一瞬で消え、あとは[クーラーボックス・ブルー]と[作業着青]を基調とする平坦で穏やかな海原が広がるだけだった。どうやらただの錯覚だったようだ。〈リアルアース〉と〈レイヤードアース〉上の二組の座標が一致していることを確認する。気を抜くとどうしても意識が〈島〉のある〈レイヤードアース〉のほうにばかり集中してしまいがちになるけれど、〈島〉から機密情報をアンロックするためには〈レイヤードアース〉が〈リアルアース〉──つまり現実の地球──の上に寸分の狂いなくピッタリと被さっていることが絶対条件なのだから、この確認作業を怠るようなら海洋探検ボット失格だ。現実と仮想、二つの海を同時に航海しているという事実を常に肝に銘じておく必要がある。 

 無理を押して〈沖大脳島〉へと急ぐのは、もちろん〈島〉の捜索という行為自体が性急なものであるからなのだが、実はもうひとつ理由があった。送られてきた海図データの発信者情報の末尾に付された、見覚えのある識別コード──発信者は故郷のマシン・ラーニング・センターの同期、KMHS-667だった。


 テディベアの顔にLCDモニターを付けた格好の訓練用ボディに入り、色相判別テストを受けていた頃、KMHS-667は何度も[雨粒青]と[ビニールハウス・ブルー]を混同するような間違いをした。KMHS-667はお世辞にも優秀なボットとは言えなかった。それだけならまだしも、KMHS-667はボクと同じボットでありながら少しボットらしくないところがあり、それ故によく人に誤解を与えていた。間違いを犯した時、訓練用ボディの痛覚センサーの箇所を知り尽くした教官から弱点目掛けて電気ムチの攻撃を浴びせられると、KMHS-667は必ずモニターに泣き顔ではなく笑顔の顔文字を出した。自分では「罰を甘んじて受け入れます」という意思表示のつもりだったらしいけれど、教官には反抗的と取られただけだった。たぶん、KMHS-667は少し人間に近すぎたのだろう。その結果、一度で済むはずの電気ムチをいつも五回はお見舞いされていた。

 残忍なことをしているようだけれど、教官も教官で必死だったのだろうと思う。年々激化するサイバー攻撃は、世界の国々に重要機密データ保管法の見直しを迫った。もはや遠隔地からのハックが可能なストレージユニットには頼れない。代わりに、地球を模した1/1スケールの広大なサイバースペースの中の座標軸に機密情報をリンクさせ、さらにそれを本物の地球の座標に結びつけることで、超一流のハッカーさえも拒む絶海のセキュリティウォールが構築された。そしてそれは、サイバー攻撃のあり方をも変えた。つまり、ボクたちのようなボットが〈島〉を求めて洋上を行き交う「海洋探検」だ。物理空間とは違い、空気も電磁波も届かない〈レイヤードアース〉ではレーダーやソナーは使えない。唯一の有効な探索方法は、仮想空間から得られる情報の内、最も大きな割合を占める情報──視覚情報──を基に捜索すること。つまり、目でよく見ることだ(といっても実際はボクたちボットには目はないから、受信した視覚的情報を頭で直接分析するような形になる)。

 目から入ってくる情報だけを頼りに遠くの〈島〉を見つけるためには、風景の中の色相を即座に分類し、判別する力が肝心になる。特に、青の色相を細かく判別する力が。それは、〈レイヤードアース〉の海が〈リアルアース〉の海と同じく、青色だからにほかならない。KMHS-667は以前、「なぜ青色なんだろう」とボクに質問したことがある。意味がわからないので問い返すと、「〈レイヤードアース〉は仮想の世界なんだから、海や空の色は緑でもピンクでも良かったじゃないか。なぜわざわざ〈リアルアース〉の色味に合わせるんだろう」と言った。ボクはそんなこと、一度だって考えたことはなかった。


 出発から292時間37分09秒、北西四八海里にぼんやりと[土曜日青]の島影を捉えた。今度は間違いない。〈沖大脳島〉だ。およそ67時間25分前から雲が低く垂れはじめ、高く波打つ海面はすでに[剃り残し青]と[水溜り青]の中間の、ほとんど青とも呼べないような色に染まっている。

 船底が繰り返し蹴り上げられ、思うように前に進めない。座標の誤差修正が追いつかなくなる。ふいに左舷のフラップに鷲掴みにされ、懐かしい空転の感覚。黒曜岩のような大波が覆い被さる前に素早く防水隔壁が展開し、漂流体制を取る。

 暗転。


 マストポールの先端に緩やかな南西風の感触。隔壁が折りたたまれ、45時間52分17秒ぶりにセンサーに当たった日光が、青い操舵輪となって明滅する。〈リアルアース〉の座標を確認する。北緯二六度四三分二五秒、東経一五三度一八分三三秒。安心した。想像していたほど遠くへは流されなかったようだ。北北東に舵を取り、追い風を受けながら一直線に〈沖大脳島〉を目指す。

 視界の果てに再び島影が姿を現したちょうどその時、一〇時の方角に弧を描くように動いている一隻の小型船を認めた。よく見ると、デッキの上にしゃがみ込むようにして人がひとり乗っている。子供だ。黒人の男の子で、年齢は七、八くらい。暗褐色の肌の上からデオドラント青の塗料を縞模様に塗り、顔の半分以上を覆うVRゴーグルを付けている。ふとこちらに顔を向けると、即座にデッキから飛び降りて船を急旋回させた。〈沖大脳島〉に探検ボットが向かっているという情報を受けて派遣されたのか、それとも元より周辺の海域のパトロールを任されていたのかは定かではないが、とにかく敵には違いないようだ。機銃の射程に入り次第確実に仕留められるよう、頭部に照準を合わせる。相手も船内に格納されていたボウガンのような形状をした大型の武器を肩で構える。

 発射は同時だった。有効射程も同等だったらしく、二つに割れたゴーグルが吹き飛んで男の子が大きく後ろにのけぞった瞬間には、探検船ボディの中心部を貫く直径九〇ミリ程の穴が開いていた。海水の浸食がはじまる。一刻も早く〈沖大脳島〉へたどり着かなければならない。

 小型船の脇を通過すると男の子の体は海へ滑り落ちた後で、船体はユールブの体液で染まっていた──青ならざる色。口にするのも憚られる、反青。Eulb。反射的にカメラの焦点を逸らす。あんな色のものが身体の中を流れているというのはどんな気分なのだろうか。何度想像しても寒々しいような気持になる。


 幸運にも座標データに関わる機能は保たれていたため、〈沖大脳島〉への「上陸」──機密情報の解除──は滞りなく進行した。このボディの損傷度ではボクはもう長く持たないだろうけれど、役目を果たせるのなら問題ない。展開されたドキュメントの紙面が〈レイアードアース〉の視界いっぱいに広がる。


【脳神経工学によるV4(四次視覚野)の再構築──青色を主軸としたヒト色覚発達の可能性について】


 表題の下には脳活動を示したグラフと、先ほどの船の男の子とよく似た子供たち(アフリカ地域から集められたのだろうか)が敵国の実験施設で何かの試験を受けている様子を写した写真が並んでいた。

 KMHS-667が話してくれたことを思い出す。人はふつう生まれてくる前、何か月もの間、ユールブの海に浸かってる。だから人は、ユールブを温かく感じる。生まれて最初に目にする色は、必ずユールブだ。次に黄色で、その次が緑で、青は一番あと。人にとって、青色は一番心を寄せ付けない「冷たい」色なんだ。

 これは、そんな人間の生物学的性質を裏返すための研究だったのだろう。ボクたちと同じように青色を愛し、青色から優先的に学習・分類する新しい人間の創造。ボクが作られた国では「生命への冒涜」と呼ばれるような科学への姿勢。でも、その代わりにこの国ではボクたちのようなボットがひどい目に遭わずに済むのかもしれない。

 根拠はなかったが、KMHS-667はこの資料の中身を知っていて、ボクに教えたかったのではないかという気がした。敵に回収されてしまう前に、持てる力を振り絞りできるだけ〈沖大脳島〉を離れることにした。


 遠いミクロネシアの洋上で意識が壊れる刹那、ボクはユールブの海に浸かる夢を見た。暗く、冷たいユールブの海に。

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ユールブの海 不來舎セオドア @Furaisha_Seodoa

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