敵はあなた……の性なる衝動

奈古七映

おとなの恋はまだ

 シャワーを借りてリビングに戻ると、大好きな男がソファに座ってうつむいていた。

 かっこいい……やっぱりすごく素敵。

 胸がきゅんと高鳴り、息が苦しくなる。そのまま数秒間、私は立ち尽くし彼の横顔の美しさに見とれた。

「さーちゃん」

 ソファ越しに背後から腕をまわし、うなじにそっと口づける。狙い通り、ビクッと身震いする様子が愛おしい。

「何してるの?」

 ふわっと香る爽やか系の匂いは制汗剤か、もしくはTシャツの柔軟剤のものかな。そんなの使わなくたって、彼の匂いは悪くないのに。

「レポート」

 何事もなかったかのように淡々と答えた彼は、膝に乗せたノートパソコンから目を離さない。

「急ぎ?」

「週明け提出しなきゃだから」

 大学生の彼の言うレポートというものが、どんなものなのか、高校生の私にはいまいちよくわからない。

「ふうん」

 再び彼のうなじに口を寄せ、パクっと甘噛みした。今度は予測していたのか、あまり驚かなかったようで残念。

「邪魔すんなよ」

 彼はやっとふりむき、困ったように笑った。

「週末デート、前から約束してたのに、なんで今そんなことしてるの?」

 両手で顔を挟み、じっと目をのぞき込む。黒目がちって言うのか、彼の瞳は縁どり付きのカラコンなんか必要ないくらい大きい。目を細めると黒目しかないように見えたりもする。

「後ちょっとで終わるから」

「……しょうがないな」

 後ちょっとなら私が帰ってからやればとも思ったけど、それが気になってこっちに集中してくれないのも嫌だ。

「上で待ってるね」

 リビングを出て、二階にある彼の部屋に向かう。この家の人はみんな忙しいみたいで、週末に遊びに来ても、彼の家族と顔を合わせることなんて滅多になかった。

 彼のベッドに座り、長い髪をドライヤーで丁寧に乾かす。冬なのに西陽の射し込む部屋はポカポカと暖かい。ちょっと暑くなって、窓を開けた。ひんやりした空気に乗って、どこかから子供の笑い声が聞こえてくる。平和だなと、ふと思った。

 私がさーちゃんと呼ぶ彼の恋人になったのは二ヶ月前。音楽フェスの会場で友達とはぐれ、携帯電話も電池切れで途方に暮れていた私に声をかけ、助けてくれたのが彼だった。自身もバンドをやっていると言う彼に誘われるまま、また会う約束をして、ライブハウスのステージの上でギターを弾く姿に恋をした。

 彼の体にベタベタ触れてスキンシップをはかるのは、好きでたまらないから。外では手をつないで歩くぐらいでいいけど、二人きりの時はいちゃいちゃとじゃれ合い、会話を楽しむ合い間に適宜キスハグして好き好き言い合いたい。それが、当時の私が理想とする恋人関係だった。

 彼の匂いのする枕に頭を乗せ、早くレポート終われと念じているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。

「お待たせ」

 ものすごく近いところから声がして、驚く暇もなく唇を重ねられた。私が目を開けるまでの間に短いキスを何度も繰り返し、彼は上からのしかかるようにギュッと私を抱きしめた。

「さーちゃん……何か当たってる」

「好きな子に首なんか噛まれたら、たまんなくなっちゃうだろ」

 耳元でそう言うと、彼は私の首筋に舌を這わせながら呼吸を荒くしていく。

「シャワー浴びてベッドで待っててくれるとか、ほんと可愛すぎ」

「ちょ、ちょっと待って」

 シャワーを借りたのは、ここに来る途中の電車が暖房効き過ぎで、ありえないほど汗をかいたからだ。別にそういうつもりで体を洗ったわけじゃない。

「優しくするから」

 黒目がちの目をギラギラと変に光らせて私を見つめる。こうなったら彼は止まらない。まだ明るい昼の光に満ちた部屋の中で、あっという間に裸にむかれ、羞恥でかたくなる体のあちこちにキスされていく。

「ねえ、カーテン閉め……あっ、窓!」

 さっき開けたのを思い出し、慌ててそっちを見た。

「もう閉めたよ」

「じゃあカーテンも……」

「そんなの別に気にしなくていいじゃん」

 彼は私の足首をつかみ、そこにキスを落として意地悪そうに笑った。ゆっくり開かれ露わにされていくその部分に、私は慌てて手を伸ばして隠す。

「やだ、見ないで」

 あんまり抵抗して面倒くさい女と思われたくはない。でも、こんな真昼間の光にさらされるなんて恥ずかし過ぎる。

「えーなんで? 綺麗なのに」

 その言葉を最後に、彼は無口な獣となった。


 女の子のそこがどんなふうなのか。自分ではよく見えない部位だし、ちょっとした好奇心から、手鏡で観察してみたことがある。正直、驚いた。こんなグロテスクなものを隠し持っていたなんて、ショックでもあった。他の女の子も同じなのだろうかと気になるけど、こんなこと誰にも聞けないし、まさか友達に見せてもらうわけにもいかない。

 だから、彼に綺麗とか何とか言われたって、こんなものを見て興奮するなんて正直……変態としか思えなかった。


「気持ちいい?」

 鼻息を荒くした彼が尋ねてくる。私は両手で顔を隠したままコクコクうなずくのが精一杯だ。気持ちいいかどうかなんて、本当はわからない。いつだって、ただただ恥ずかしくて死にそうなだけで。

 ふだんの彼は大好きなのに、どっちのものともつかない体液にまみれて悦に入る姿だけは、どうしても直視できない。その大きな黒目にグロテスクなものが映っている気がして怖かった。

「何度もしたのに、まだ恥ずかしいの? 可愛いね」

 彼は整った顔に、いやらしい笑みを浮かべて言った。

「好きだよ」

 私も好き、と答えるべきなのかもしれない。でも、こういう時の彼は別の人みたいで、微かな嫌悪すら覚えてしまう。

 私はぎくしゃくと両手を伸ばし、彼の首に手をまわして抱きつく。早く終わってと願いながら、彼にしがみつき目をかたくかたく閉じる。大好きな彼を支配する性欲お化けの顔は見たくない。

 好きだから触れていたい。いっぱいキスしたい。ぎゅっと抱きしめて欲しい。でも、裸を見たいとも見られたいとも思わない……私が拒めばいいだけの話かもしれないけど、彼がその気になって求めてくるのをどうやって断ったらいいか、不機嫌にさせず済ます方法がわからなかった。


 当時の私は周囲の子より身長や胸がある方で、大人の女性と変わりない体型をしていた。だからといって中身まで大人なわけではなく、男女の駆け引きなどまるで知らず、好きな人相手に何も考えずじゃれつくだけで満足できるお子様だった。その行為が相手の性欲に火をつけるなんて、考えもしなかった。

 初めての時、私は驚きと恐怖でろくに抵抗も拒絶もできなかった。好きな人にいやらしいことをされたというのがショックで、状況を理解して受け入れるのに時間がかかった。成人済の彼とつきあうには精神的に幼過ぎたのだ。


 ことが終わった後、彼はいつも私を浴室に連れていき、シャワーで丁寧に洗ってくれた。身も心もぐったり疲れ、されるがままに惚けている私を見て、彼は満足げにニコニコする。

「愛してるよ」

 性なる衝動から解放された彼は優しく、私を壊れ物のように大切に扱ってくれる。

「お腹空いてない?」

「……ううん、大丈夫」

「じゃあ、こないだのライブ動画でも見よっか」

 さっきまでのいやらしい姿が嘘みたい。その豹変ぶりにも、なかなかついていけなかった。

「さーちゃん」

 おそるおそる手を伸ばし、彼の肩に触れてみる。変な反応が返ってこないか、気にしながら顔を見上げると、黒目がちな目に不安そうな私の顔が映っていた。こんなの、好きな人に触れる時の表情じゃない。

「どうかした?」

 穏やかな笑みを浮かべた彼は、優しく私の髪を撫でる。そんな仕草に胸が苦しくなるほど心臓がどきどきするのに、心のどこかでは、どうかしてるのは彼の方じゃないかと恨んでいる。

「好きなの」

 不意に涙があふれ出した。

「さーちゃんが好き。ほんとだよ」

 涙腺崩壊。どうしようもなく、やるせない気持ちがこみ上げてくる。

「俺も好きだよ」

 困った顔で言う彼に、この気持ちは理解できないだろう。泣いた理由も、たぶんわからない。どう説明したらいいか、私自身がわからないのだから。

「ずっと一緒にいたいよ、さーちゃん」

「うん、そうだね」

 てきとうな相槌は、彼にとっては優しさだったのかもしれない。私が泣き止むまで肩を抱いてなだめてくれた彼は実際、普通よりかなり優しい人ではあったのだ。


 そして結局、ずっと一緒にいたいという願いは叶わなかった。何ヶ月か後、別れを切り出した彼は、申し訳なさそうな顔をして理由を語った。

「もうちょっと大人だと思ってた」

 その日の彼も相変わらずかっこよくて、こんなに好きなのに別れなきゃいけないなんてと絶望したものだが、理由には納得せざるを得なかった。

 彼の立場に立ってみれば、愛し合いたくて抱くのに、彼女は必死な様子で目を閉じ身をかたくするばかり……だんだん虚しくなってくるのも当然だろう。

 拒みたいという本音を隠したことで、逆に彼を傷つけてしまったのだと、私はその時初めてわかった。どうしようもない後悔にさいなまれ、時間を戻せるならやり直したいと思って泣いた。


 別れのつらさを経験して、しばらく誰も好きになれない時期はあったが、それから大人になって何人かと交際してわかったことがある。彼の愛し方はとても丁寧だったということだ。彼の他に、事後に体を洗ってケアしてくれる人などいなかった。最初から最後まで優しさといたわりがあった。

 彼のような人が初めての相手だったのは、女としては幸運だったのかもしれない。ただ、時期が少し早過ぎた。もし私がきちんと説明して、心の準備が整うまで待ってくれるよう頼んでいたら、優しい彼は無理強いなどしなかっただろう。なのに、私には彼氏の性衝動を拒む勇気がなかった。だから別れることになってしまったのだ。

 彼を思い出すたび、甘いときめきと苦い後悔が同時に浮かんでくる。時が流れ記憶は薄れても、忘れることは難しい。うまくつきあえずに終わった恋だが、本当に大好きだった。

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