虹の下で

第18話 よみがえる記憶

 静かな部屋の空気が、少し変わる気配がする。


「さぁ、ゆっくりと深く呼吸をしましょう。そう、大きく深く。そして心地好いタイミングで目を開けましょう。」

ぼんやりした部屋の様子が、だんだん現実味を帯びて目に写りだす。


「先生、私の前世は人魚・・・でした。こんな事ってあるんでしょうか? 

 ちょっと信じられません。でも、確かに見たし感覚が・・・ 感情とか感触とか・・・ 唄ってる感じとか、あったんです。あれは私でした。

不思議すぎてなんだかまだ・・・」


李音りおんはまだ、驚きと感動に心が揺れていた。


「うーん。どうでしょう。人間の前世は人間だけ。と云う説もありますが、それが100%正しいとも言えないでしょう。私は、李音さんの今の体験を信じますし大事にして欲しいと思います。李音さんにとって意味のある事しか体験する事は出来ませんから。

 それにね。そもそも前世を知りたいと思って、実際にここへ来てくれたことが重要だと思うんです。遺伝子とか細胞とか意識の奥深く遠い所から、李音さんに呼びかける声があったのだと思います。

 これからの為に、過去を見つめる為に、今この時に知っていて欲しい事があったのだと。そういう‘時のご縁’みたいなものが作り出すタイミングで、出逢うべき多くの方が前世療法に出逢うんですよ。」


「そうなんですね。私も、時のご縁に導かれたのかもしれませんね。今見て来た事が全くの作り話しとは思えません。

 とてもこう・・・ リアルだったんです。波のうねりとか脚の痛みも・・・ どこか懐かしいような感覚もあって・・・ 見聞きした何もかもが。」

「えぇ、分かります。紛れもなく全てが、李音さんの前世の体験ですから。今、心や体に感じているもの、残っている感触や感覚がありますよね。この前世を体験した事で得たものとか。そういった事が、今からの李音さんを生きやすく心強くしてくれるはずですよ。そして、本来の道へ戻してくれるはずです。」

先生の微笑みに、李音も安心して微笑み返した。


「先生、ありがとうございます。信じてくれて。私、思い出した事があるんです。

 小さい頃は、歌が大好きだったって。よく唄っていました。それに、海も好き。というよりは、水が好きなのかもしれません。時々一人で、川や海に行きたくなるんです。実際に行って、しばらくぼっーとする事もあります。いつか、海辺に住みたいとも思っているんです。」

「そうでしたか。大切な記憶の現れかもしれませんね。李音さんに届くよう、心の声が欲しいものを呼び掛けているのでしょう。記憶の声・・・ みたいなものですかね。」

その言葉を聞きながら李音は、無意識に左胸の上に手を当てていた。



 先生は不意に立ち上がり、一枚の絵ハガキを手に戻って来ると李音に渡した。


「これ。よかったら行ってみてください。」

「何ですか?」

「私の友人の知り合いらしいのですが、写真展の案内です。

 彼はずっと、海や川・・・ 水の風景の写真を撮り続けているそうなんです。会場もここから近いですし、お時間が許せば帰りに寄ってみてはいかがですか?」


 渡された絵ハガキには、白波が寄せる砂浜の写真があった。


〈恋しい水の唄〉写真展のタイトルに惹かれたのか妙に胸が騒ぐのを感じた李音は、しばらく絵ハガキを見つめている。


「ありがとうございます。本当だ。この近くですね。帰りに寄ってみようと思います。今日は海つながり・・・ ですね。」

と笑った。

 その笑顔に先生も頷いて、李音を送り出した。



 もう一度、絵ハガキの住所を確かめる。

 書かれている住所は、本当に近くだ。先生のサロンから歩いて行ける場所のようだ。まだ李音の胸は騒いでいる。ドキドキしている。自然とハガキを持つ手に力が入ってしまう。


〈このハガキを失くしてはいけない。〉


そんな声が、力のこもる手から聞こえてきそうだった。



 

 午後の陽気な太陽に照らされ数分歩くと、小さなカフェのような店に着いた。

 ハガキにある名前を確かめる。

 どうやらここが、写真展の会場らしい。木の風合いの優しい造りは、ビルが並ぶ街中に在りながら柔らかさをもたらしている。入口の植物も小洒落ていて、李音にはちょっと敷居が高い感じがした。ほんの少し勇気を出して中に入る。


「いらっしゃいませ。」

明るく柔らかい声がした。


「あっ、あの・・・」

と声を発しながら、写真展のハガキを見せる。


「あぁ、写真展のお客様ですね。どうぞ二階へ上がってください。そちらが会場になっています。」

李音は軽く会釈をして、差し出された手が示す方へ進むと階段があった。


 小さな木造の階段を上がると、たくさんの写真が並ぶ誰もいない空間が広がっていた。椅子はほとんどが隅に積まれ、わずかに並べられた物は一番大きな写真に向かっている。そして、壁の下には小さなテーブルが寄せられている。普段はこの二階もカフェスペースなのだろう。壁に寄せられたテーブルたちが、絶妙に写真の世界との境界を守っているようで可笑しかった。階段を上がってすぐの写真から順番に見て行く。


 きらめく海。眩しい波。遠くに船を抱く海。哀しい海。白く煙る川、清らかな滝・・・ たくさんの水辺の写真がある。そして、窓の前で止まる。


〈雨・・・?〉


写真の間に浮かぶ窓には、雨が降る街が写っている。その現実の風景までもが、〈恋しい水の唄〉の一部のように。


〈えっ? こんなに晴れているのに? 雨?〉


李音は、目の前の光景を疑った。

太陽の光はさっき街を歩いていた時と変わらず陽気に街を照らしている。なのに大粒の雨が降っている。突然の天気雨。狐につままれたように唖然とし窓を眺める。


〈傘・・・ ないな。〉


雨は一気に強くなり、風が巻きスコールのように激しくなった。真っ白な水煙が濃い霧のように覆う。


〈美しい。こんなに晴れているのに、こんなに激しい雨が・・・ なんてキレイなの・・・〉

言葉を失い見とれている。

 李音は窓の向こうの美しい雨と光の光景を前に、さっき見た前世の中で月李が唄っていた歌を口ずさんでいた。



「カシャッ!」


 背後から機械の音がした。

 驚いて振り返ると、カメラを手にした青年が階段近くに立っていた。


「あっ、すみません。驚かせるつもりはなくて・・・ ただ、美しいなぁ。と思ってつい、写真を。ごめんなさい。」

青年は明るく照れ笑いをしながら、挨拶するように謝っている。


「あっ、えっと・・・ いえ・・・」

李音は突然の出来事に上手く言葉が出なかった。


「あっ、写真。撮ってもよかったです? ダメならすぐ消します。」

青年は、今度は少し恐縮しながら聞いて来た。


「あぁ、いえ。後ろ姿ですし、特に問題は・・・」

そう答えた李音に、たたみかけるように青年は、

「素敵な声ですね。いま唄っていましたよね。なんだかとても古く、懐かしいような・・・」

「えっ? そうでした? 恥ずかしい。無意識でした。あの・・ この写真を撮られた方ですか?」

と慌てて李音はごまかした。


「そうです。ここに有るのは全部、僕が撮った写真です。いかがですか?」

「あぁ、やっぱり。写真、どれも素敵です。ずっと水の風景を?」

「えぇ、そうなんです。どうしてか、水が恋しくて。ずっと追いかけているんです。」

青年は、李音に歩み寄って話した。


「そうなんですか。私も海とか水辺が好きなんです。だから、どの写真も惹かれます。私、前世は人魚だったのかもしれません。」

李音は、さっき味わってきたばかりの自分の前世の事を冗談のように笑いながら言葉に交ぜた。


「なるほど。人魚は歌声が美しいと云いますから、そうなのかもしれませんね。僕は逢った事がないので、本当かどうか分かりませんが。外は雨ですし、ゆっくり見て行ってください。」


青年は、李音の前世の話を否定も笑いもしなかった。

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