第15話 明暗を分けた恋伝説

 出産を終え回復した月李は岩場に居た。

 彼女を心配してきた樹令は、

「君の男の子は、元気に育っているよ。とても可愛くて、毎日誰かが見に来ている。いつもたくさんの龍たちに囲まれているよ。」

月李の産んだ子の様子を知らせた。


 すると月李は、

「それはよかったわ。丈夫に育ち、いつか素敵な守り龍になれるといい。そう願うばかりよ。」

と微笑んで胸の珊瑚の痣に手を当てた。


 月李の中に居る陽光と子の知らせを味わっているようだ。月李の中で拍動する心臓は、人間になった陽光の物。海鱗宮で暮らす人魚の体内では、人間の心臓の寿命は数日だろう。海鱗宮の一日は、人間の時間の一年だ。今や人間の心臓で生きる月李に残された時は、そう長くはない。



 月李が心臓を入れ替えてからというもの樹令は、出来る限りたくさんの時間を月李と共に過ごした。共に泳ぎ美しい景色を見て、唄い、笑った。たくさんの言葉を交わし、互いへの理解と信頼を深めていった。だがいつも、そこに物云わぬ陽光の気配を樹令は感じてもいた。


 月李は一人になるといつも、胸の陽光に話しかけた。確かにこの胸に陽光を感じている。それなのに、何も通い合うものがない寂しさが日々募ってゆく。以前のように目の前に、傍にその存在を感じる事は出来ない。


「陽光、あなたはここに居るのに。私と一つになっているのに。もう、何も言ってくれないのね。微笑んでもくれないのね・・・」

月李は語りかける度に涙がこぼれそうになった。




 天鱗宮に戻った樹令は、日々深まってゆく月李との仲に固く結ばれてゆく絆を感じていた。


〈月李。いま君を一番知っているのは僕だ。君を守り側に居ることに幸せを感じ始めている。この一日一日が、とても愛しく感じるよ。いつも君の心に触れている。そんな気がするよ。〉


樹令は守り龍という今の立場に、心地好さを覚え始めている。それと同時に、少しずつ大きくなってゆく寂しさと歯がゆさに目をつぶっている。その想いに気付かぬふりを続けている。

 



 日に日に弱くなる拍動を感じた月李は、妖魚の元へ行く事にした。この心臓の拍動が尽きてしまう前に、少し話しておきたい事があった。


「妖魚のお姉様、ご機嫌いかが?」

何事もない様子で明るく扉を開けると、妖魚が出迎えた。

「あら、月李。すっかり回復したのかしら? 噂で聞いたわ。男の子が産まれたそうね。とても愛らしい子だとか。これから成長が楽しみね。」

「えぇ、とても。ですがお姉様。私は、その成長を見ることが出来ないのです。もうすぐこの心臓の拍動は尽きます。私と陽光の恋が終わるのです。」

胸の痣を見せながら悲し気な顔で月李は言った。


「まさか。自分の心臓を取り出したの? そこに在るのは陽光の心臓だけ・・・ あなたが無茶をするからよ。どうしてそんな事を・・・ 人間の心臓だけで生きるなんて。」

「どうしても、愛しい陽光と完全に一つの体でいたかったの。だけどそれは、思っていたのとは少し違っていたわ。」

「あら、どう違っていたというの?」

妖魚は、嫌悪を滲ませた顔を月李に向けた。


「一つの体で共に過ごしたら、もっと温かく心強く日々が送れると思っていたの。でも違った。余計に寂しくなるばかりだったわ。いつもここに陽光が居て彼を感じてはいるけれど、もう彼は何も答えてはくれない。微笑んでもくれない。見つめてさえくれないわ。

 これなら、二つの体に分かれていたあの頃の方がずっと、近くに彼を感じ心にも触れていたような気がするの。」


うつむき加減の月李が、胸の珊瑚の痣に触れながら話すと、


「昔のように、あなたと陽光の心が通い合わないのは、二人が完全に一つになってしまったからよ。一つの心で生きる事を選んだからよ。

 心は二つあって別々に存在しているからこそ、通い合う事も触れる事も出来るのよ。それなのにあなたは、自分の心臓を取り出しその体に陽光の心臓一つにしてしまった。これを見て。」

妖魚は自分の衣の胸元をめくった。


 するとそこには、月李と同じような紅い珊瑚の痣があった。


「私の珊瑚の痣は、今も拍動しているわ。ここに、愛しい人の心臓がまだ生きているの。私は今でもあの人の心を感じ通い合えている。 

 私の・・・ 人魚の心臓の神力が、彼の心臓を動かしているのよ。ここに、あの人を感じているの。月李、あなたはバカな事をしてしまったわ。完全に一つになってしまった・・・」

月李は妖魚の告白に驚いた。


「あの伝説は、お姉様の恋のお話だったのね。まさか・・・ こんなに身近な人の話だったなんて。

 でもお姉様、私、後悔はしていません。心も体も完全に一つであるという事を、ほんの数日でも味わう事が出来たんですもの。それがどういうものかを身をもって知ったわ。そして今、お姉様と話して大事なことを得た気がするから。二人が別々に存在している事の意味を感じ取れた。一つになりたいと願う心と愛しさを通い合わせたいと思う心は、まったく別に両方あってこそなんだって。その矛盾した美しさを知ったわ。

 お姉様、もうすぐお別れの時が来ます。最後にとっても大事なことを教えてくれて、ありがとう。どうかお元気で。」

月李は美しく人魚の挨拶をした。


 妖魚は月李の手を優しく握る

「もう時が迫っているのね。残念だわ。もっとあなたと話したかった。

 あなた達の恋は、きっと若い人魚たちの伝説になるわ。一つの導きになる。どちらの末路を選ぶかは彼女たち次第ね。月李、あなたは伝説を一つ残して去るのね。気を付けて逝くのよ・・・」

握っていた手がそっと離れると、月李は背中を向け扉を出て行った。


 その背中を見送りながら妖魚は、自分の胸に手を当てて珊瑚の痣の拍動を感じた。



 月李は弱まる心臓で泳ぎ、陽光との想い出の岩場まで来た。腰から下を海に委ね岩場に寄りかかると竪琴を鳴らし唄い始めた。懐かしい日々を想い出しながら。

 いつの間にか瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち美しい真珠の粒は波にさらわれて消えてゆく。月李の声は次第に小さく弱くなり、ついに唄う事が出来ないほど心臓の拍動は弱まった。抱きしめているはずの竪琴が体を支えている様に。


 月李は、ただただ尾ひれを波に委ねながら波音を聴いている。その少しぼんやりした意識の中で気付いた。


〈さっきはお姉様に後悔していないと言ったけれど、真実は違うわ。お姉様の話をもっと早くに聞けていたらよかったと思ったもの。そうしたら、こんなバカな事はしなかったかもしれない。そう思ったもの。

 でも、それも違うわね。お姉様は今でも愛しい人は一人だけ。その方をずっと慕い続けているわ。

 

 私はどう? 陽光だけを想っている? 完全にそうだとは言いきれないわ。

 人間だった樹令に惹かれていたのでしょう? 心の中に樹令の存在を感じていたでしょう? 

 それに今、守り龍になった樹令を信頼し互いに通い合う心に触れ喜びを感じているのでしょう? 


 私は欲張りなのね。だからやっぱり、これでよかったの。私は、これでよかったのよ。お姉様のように純粋にまっすぐに、ただ一人を想い続けられなかったのだもの・・・〉


 月李は、心地好い波音にそっと目を閉じた。波音は少しずつ遠ざかるように小さくなっていった。

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