第8話 再会は水音の誘い
月李は庭に出て、噴水の縁に腰かけて月光を浴びた。美しく光る真珠色の衣から手を伸ばし、噴水の水をそっと揺らす。月李の手から生まれた水音が噴水の水音に交じり調和を乱した。乱れた水音を補うように彼女は小さな声で唄い始める。
〈あっ。あの声は、さっきのキャラバンの・・・〉
青年は部屋を出て辺りを見回す。庭の噴水の陰に白く輝く衣が見えた。彼は静かに近づくと、そっと声をかけた。
「あの・・・ あなたはキャラバンの・・・」
突然目の前に現れた青年の姿に驚いた月李は、立ち上がって後ずさりした。
「あぁ、ごめんなさい。驚かせるつもりはなくて。ただ、あなたの歌声がとても優しく、僕の耳に残っているものとよく似ていたから。どうしても少し、話がしたかったんだ。・・・座って。」
青年は手を伸ばし月李を誘うと、噴水の縁に腰かけ自分の隣の縁を撫でた。
月李は少しずつ歩み寄ると、青年の隣に座った。
少しほっとして青年は
「僕は、ある船に乗っていたんです。ですが先日、船は嵐に遭い難破してしまいました。港はもうすぐだったのに・・・ そのとき僕は海に放り出されて、その僕を誰かが助け浜辺に運んでくれたんです。僕を海から拾い上げてくれた人は、ずっと歌を唄ってくれてた。僕の耳元で繰り返しずっと。とても優しく美しい声でした。
その歌声が、今でも耳に残っているんです。その歌は、今晩あなたが唄った歌と同じで、歌声もそっくりで・・・」
静かに一つずつ思い出すように話した。
じっと黙って聞いていた月李は、まっすぐに青年を見つめて
「覚えていてくれたのですね。私の歌声を。あの夜、海に落ち沈んでゆくあなたを抱き上げ、あなたが怖がらないよう唄い続け浜辺まで運んだのは、私です。」
と真実を告げた。
「やはり。あなただったのですね。ありがとう。僕を助けてくれて。」
青年は、月李の手を握った。
その手は驚くほど冷たく、白く艶やかだった。
「あっ、こんなに冷たい手をして。夜風に冷えたのでは?」
「いいえ。そうではないの。大丈夫。気にしないで。」
「ならいいけど。あの夜、なぜ君はいなくなってしまったの?」
「私一人では、浜からあなたを運ぶのは無理だったから。それに・・・」
月李は少しためらってうつむいた。
「それに?」
青年は、月李の顔を覗き込むようにして言った。
「それに、あのまま浜辺で、あなたに寄り添う訳にはいかなかったの。あなたの事は、とても心配だったわ。でも、あなたが目を覚ました時に、私の本当の姿を見せる訳にはいかなかったのよ。」
月李は、握られている手を払い青年と少し離れた。
「本当の姿ってどういうこと? 一体なんだって言うの?」
青年から目を背けしばらく黙っていた月李は、そっと口を開いた。
「私・・・ 本当は人魚なの。だから、海に沈んでゆくあなたを助けられたの。息の無くなったあなたに人魚の気泡を飲ませ胸を叩き、抱き上げて歌を唄い運んだわ。
そうしたら、あなたの心臓は再び動き息も吹き返した。ほっとしたわ。嬉しかった。
あなたを浜辺に寝かせ、慌てて海鱗宮へ戻ったの。人魚のままでは陸に居続けることも、あなたに会うことも出来ないから。」
「それは本当なの? 本当に君は人魚なの?」
「えぇ。本当よ。海鱗宮に戻った私は、妖魚のお姉様に薬をもらい尾ひれを脚に変え人間の姿にしてもらったの。もう一度、あなたに会いたくて。あなたと話がしたくて。」
人魚の秘密を打ち明けた月李は、うつむいた。
青年はもう一度月李の手を取ると微笑んだ。
「本当だったんだね。人魚が人間を助けるって。商船の兄貴から聞いた事があるよ。人魚は助けた男が心配で美しい人間の姿になってもう一度、男の前に現れるって。
そして一瞬の恋をして、またいつの間にか消え去ってしまうって。」
「そう・・・ そんな噂話が船乗りたちの間で・・・」
「うん。だけど、そんな不思議な話がある訳ないと思ってた。本当だったんだね。しかも僕の身に起こるなんて。」
少し照れたように青年は微笑み、つられた月李も微笑んだ。
「笑ってくれたね。嬉しいよ。僕は
「私は、
「そうか、月李か。そう呼んでも?」
「えぇ、もちろん。私も、樹令と呼んでも?」
樹令は嬉しそうに頷き、二人は打ち解けた気分に包まれた。
だが、樹令は急に顔を曇らせ
「ならば君も、僕と一瞬の恋をして、いつの間にか消えてしまうの?」
「そうかもね。私たちが人間の姿でいられる時は限られているから・・・」
「そうなんだ。月李。君は後どれくらい人間の姿でいられるの?」
「私は、あと三日よ。そうしたらまた、海へ戻らなければいけないわ。」
「三日? それだけ? あと三日しか君と居られないなんて・・・」
「仕方ないわ。そういう決まりなの。でも、もう一度あなたに会え、こうしてお話しが出来て嬉しいわ。今夜はありがとう。もう休むわ。」
月李は立ち上がり自分の部屋へ戻って行った。樹令も慌てて立ち上がり月李の後を追おうとしたが足が動かなかった。
〈まだ三日ある。もう一度あの歌を聞き、話をする事も出来た。今夜のところは、それで善しとしよう。〉
樹令は、胸に広がる温かい想いを抱いて眠りに就くことにした。
庭からの月明かりが届く廊下に大きな影が揺らめき、物陰から何かが動いた。
〈人魚ですって? 本当に? あの女が彼を助けた人魚ですって?〉
月李と樹令の会話を、屋敷の娘が柱の陰で聞いていた。
樹令を部屋まで送った後、一度は自分の部屋へ戻りかけた娘が名残惜しく引き返していた。そして樹令の部屋へ向かう途中で、噴水の縁で話す二人の話を聞いてしまったのだ。
〈本当に人魚なら、町へ売り飛ばそうかしら。それとも、彼を奪われる前に殺してしまう? いいえ、そんな事をしたら樹令さんに嫌われてしまう。それじゃぁ、元も子もないわ。少しでも早く、この屋敷から追い出してしまいましょう。それがいいわ。人魚は海の守り神ですもの。害してお父様の商いに支障があっても困るわ。〉
娘はそっと自分の部屋へ戻り、眠れぬまま月李を追い出す事ばかりを考えた。
部屋に戻った月李は、横になりながら思っていた。
〈このまま樹令との恋を進めてよいのかしら? 恋を進めるべきなのだけど、どうしてかしら? 虹の橋での陽光の姿が浮かんで来るわ。あの伝説も・・・
私はどうしたらいいの? あと三日・・・ あと三日しかないのよ。〉
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