第八章〈フランス王の聖別式〉編

29話 朗報と悲報(1)文末でシャルル七世の性格「sensuelle」こぼれ話

 シノンからトゥールに移動した王の宮廷は様変わりしていた。

 華やかな祝祭が、苦悩と放棄から取って代わったのだ。


 神はシャルル七世を守るために「聖なる少女」を送った後、歴代フランス王が数百年休めるほどの奇跡を起こした上に、さらに王を助けるためにジャック・クールという豪商を送り込んだ。

 彼は地中海と大西洋を網羅する船団を所有し、資金を提供することを条件にシャルル七世の金庫番となり、王家の財政はまたたく間に好転した。


 しかし、ラ・トレモイユとその妻——堕落した二つの魂はシャルル七世につきまとって影響力を行使しようとし、マリー・ダンジューとアニエス・ソレル——シャルルを愛する二つの魂はしぶとく戦っていた。

 二種類の影響力はまったく異なる源泉から生まれたが、マリーとアニエスは善を望んだ。一人は愛する夫のために、もう一人は恋する恋人のために、二人は不思議な絆で結びついていた。


 シャルル七世は生まれつきな性分で、物憂げな性質がかえって知的で上品な魅力を作り出していた。風変わりで不器用な王子だったが、神が王族に約束した摂理のために自分の意志に反して王位を継承した。


(※天衣無縫てんいむほう:人柄に飾り気がなく、純真で無邪気なさま。天の羽衣には縫い目がないことから、自然体で美しいことを指す。)


 他にも、シャルル七世は、通常で考えられない「幸福の条件」をすべて揃えることに成功した。


 その条件とは、妻と恋人と息子である。


 アニエス・ソレルはシャルル七世を愛していた。

 彼女の心は、王への愛に満たされ、同時に王妃への敬意に満ちていた。


 マリー・ダンジューは二人を認めながらも、本心では苦しみ、後にルイ十一世となる幼い王子は物陰で静かに泣いている母を何度か目撃していた。


 幼いながらもルイ王子は、優れた知性の芽を持っていた。活力に満ちた繊細さは、君主制時代でもっとも興味深いフランス王のひとりとなった。


 ルイ王子は、母への愛情ゆえにアニエスを深く憎悪した。

 王妃はこのことを知ると、天使のような優しさで反抗的な幼心を何度も諌めようとしたが上手くいかなかった。それどころか、ルイ王子はアニエスへの憎しみを父シャルルへ向けるようになってしまった。


「わたくしが父子不和の原因になってしまった」


 王妃はこの不幸を嘆いたが、王から離れるつもりはなかった。

 マリーはシャルル七世をあまりにも愛していた。それに、このころのシャルル七世は下心のある逆臣に囲まれていたから、見放すことはできなかったのだろう。ジャック・クールは王妃の良き相談相手として助言と慰めを与えた。





 オリヴィエは、城内の奥まった部屋でシャルル七世を見つけた。

 ちょうど狩りに出かける準備をしているところで、アニエス・ソレルも一緒だった。


「ああ、カルナック伯か」


 シャルル七世はすぐにオリヴィエに気づいた。


「ジャンヌの使者として、フランス軍の『知らせ』を伝えるために参りました」


 オリヴィエはひざまずいて言った。


「その知らせとは……?」

「朗報です」


「オルレアンはどうなった?」

「今も前進しています。ジャンヌは陛下をランスへご案内する前に、残された最後の拠点であるジャルジョーとパテーを攻略しています」


「イングランドの指揮官たちはどうしている?」

「グラスデールは戦死し、タルボットとフォルスタッフは逃亡中です。サフォークは捕虜となりました」


 シャルル七世は嬉しそうに「すばらしい成果だ。この見事な獲物を捕まえたのは誰だ?」と尋ねた。


「私です、陛下」


 オリヴィエは誇らしげに答え、「サフォーク伯はその場で私を騎士にしました」と経緯を語った。


「大儀であった」


 シャルル七世は手を差し出し、オリヴィエは王の手に触れてキスをした。


「ジャンヌが私を送ったのは、陛下と合流するためにやってきた多くの仲間とともに一刻も早くランスに向けて出発し、まだ抵抗している地域を奪還する足掛かりとするためです」


 オリヴィエは、ジャンヌから託されたメッセージを伝えた。


「やはり、ジャンヌの言葉は正しかったのです」


 アニエスもオリヴィエに同意した。


「ジャンヌの献身に報いるために、陛下はこのメッセージに従う義務がございます」

「そうしたいのは山々だが、評議会で家臣たちに相談しなければ決められない」

「ですが、陛下の評議会は『待つように』と勧めるでしょう」


 オリヴィエは間髪入れず、「どちらが間違っているでしょうか」と告げた。


「陛下が足踏みしている間に、ベッドフォード公はイングランドを有利にするために幼君ヘンリー六世を戴冠させるでしょう。そうなってしまえば、陛下と私たちはさらにどれだけのことをしなければならないか想像できるでしょうか。戴冠式が人々の心にどのような影響を及ぼすか、ご存知でしょうか」


 オリヴィエは話を続けた。


「急いで出発しなさい。そう伝えるために、神は選ばれし者——ジャンヌを遣わしました。陛下の家臣の中でもっとも献身的な者の言葉を、どうかお聞き入れください」


 アニエスは「カルナック伯爵を信じましょう」と言いながら、シャルル七世の首に腕を回した。


「私もそれを望みます。お願いです、陛下の栄光を見たいのです」


 控えめな女性らしく、それでいて要求に答えたくなるような柔らかい抑揚で王に命じた。


「アニエスの願いはすべて叶うよ。では、いつ出発しようか」

「明日にでも」

「私と一緒に来てくれる?」

「陛下が許してくださるならどこへでも」


 シャルル七世は「アニエスを連れて行きたくないと思ったことは一度もない」と言うと、狩りの延期を告げ、ただちにランスへ出発する準備をするよう命じた。


「私たちが戻るまで延期だ。待たされた分、良いことがあるだろう」

「狩りも戴冠も……ですね!」

「私の愛する陛下が、まことのフランス王になる日の夜明けが待ち遠しいです」


 シャルル七世は手元のファルコンを撫でながら、「朗報をありがとう。また会おう(Au revoir)、オリヴィエ」と親しみを込めて言った。







【※こぼれ話:シャルル七世の性格「sensuelle」】


シャルル七世の性格・性質「sensuelle(センシュアル)」について。

仏日・日仏辞書では「官能的、享楽的、色情、好色」となっていて、いかがわしい印象を受けますが、フランス語本来のニュアンスは「知的で上品な艶っぽさ、色っぽさ」、どちらかといえば褒め言葉です。


歴史関係の書籍でシャルル七世が色情や好色と訳されているのを見かけますが、中世〜近世・近代の権力者で「愛妾(側室)がひとり」というのは、むしろ誠実な方では?と感じて、調査した結果です。


例えばこのサイト(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192301981)では、付き合っているフランス人男性に「君は本当にsensuelleだ」と言われ、日本人女性が怒ると、相手は驚いた様子で「sensuelleって言ったんだよ?」と、良い意味で言ったつもりだったのに……と返された経緯が記されています。


仏日・日仏辞書よりも、ファッション用語の方が正確なニュアンスで認知されているようです。下記参照。


センシュアルとは、「官能的」「肉感的」という意味。あからさまな色気ではなく知的さのある色っぽさ、品のある色気、といった意味で使われる言葉で、類義語である「セクシー」とはニュアンスに違いがある。 ファッションでは、異性に媚びないヘルシーな色気のある物・スタイルを指す。そのほかメイク関連や、香水の香りを表現するときにも使われている。(https://www.felissimo.co.jp/niau/words/16810/から引用)



このページの小説本文も意訳ぎみ。あとで書き直すかも。


・nature:生まれつき、生来

・indolente:無頓着、怠惰、気だるい、ものぐさ、面倒くさがり、細かいことにこだわらない

・sensuelle:官能的、知的で上品な艶っぽさ、情緒のある色っぽさ

・gentil:親切、穏やか、優しい







【追記】


本作を電子書籍/ペーパーバック化するにあたり、規約の都合上、非公開にしました。見本代わりに、本編冒頭〜主人公が登場するまで、各章1話目と登場人物紹介を残しています。

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