最終章 -ÉPILOGUE-
捕らわれたジャンヌ(1)文末でジャンヌの身代金を円換算したこぼれ話
1431年2月20日、イングランド支配下のフランス王国ノルマンディー地方の首府ルーアンにある大きな塔の周りに大勢の群衆が押し寄せていた。
塔の出入り口はイングランド軍の弓兵によって守られており、朝から晩までイングランド人やフランス人やブルゴーニュから来た多くの訪問者が押し寄せるので、許可なく塔に入れないように厳重に警戒していた。
好奇心旺盛な人たちからすれば、「塔の中」には兵士に邪魔されてでも急いで見に行く価値があった。
塔の中、広い部屋の真ん中に大きな鉄の檻が置かれ、二つの南京錠と錠前で閉じられている。
檻の中に、鎧を着た少女がいた。
下肢を鉄の輪で拘束され、檻の鉄格子に鎖でつながれている。
群衆の侮辱が飛び交う中で、囚われの少女——ジャンヌは身をかがめて祈っていた。
コンピエーニュの戦いでヴァンドンヌの私生児リオネルに捕らわれ、リュクサンブール卿に引き渡された末に、彼はジャンヌを1万リーブル——現在の通貨でいえば7万フランでイングランドに売り渡した。
(※訳註:リーブル(livre)はフランス王国で1795年まで使われていた通貨です。原作Tristan le Rouxは1850年発行につき、作中に出てくる「現在」は19世紀半ばのフランスを指します)
純粋な騎士道がまだ健在で、処女が不可侵の保護対象だった時代である。
金羊毛騎士団の初代団員で、優れた騎士の一人であるジャン・ド・リュクサンブール卿は、どうしてジャンヌのような聖なる少女を売ったのだろうか。
確かに、ブルゴーニュ公の家臣であるリュクサンブール卿がその気になれば、ジャンヌを引き渡すことはしなかっただろう。
特に、彼の妻子は、「魔女」として印象付けられていたにも関わらず、すぐにその認識を改めてジャンヌを評価し、次に友人として親しみを感じていた。実際にジャンヌ本人と接して、少女の中に聖性を見出したのである。
残念ながら、リュクサンブール卿がジャンヌに同情していたとしても、彼の利害はそうではなかった。彼は善人だったかもしれないが、身分の割に貧乏で、多額の金銭を求めていた。
彼は名門リュクサンブール家(ルクセンブルク家)の傍系貴族で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ七世やボヘミア王ヤンと血縁関係にあったが、一族の兄弟の中では末っ子で、将来の財産に対する不安を抱えていた。
しかし、リニー伯領とサンポール伯領を所有する伯母に気に入られていたため、慣例に反してリニー伯領を相続する約束を取り付けていた。
金持ちでお人好しの伯母は長生きだった。
伯母が神のもとへ召されるのを待っている間、金欠のリュクサンブール卿は、ブルゴーニュ公に媚びて服従するしかなかった。ブルゴーニュ公は相続問題を裁く権限を持っているため、もし機嫌を損ねれば相続を白紙にすることも可能だった。
また、ジャンヌに苛立ちを募らせているイングランド陣営と仲違いすることも避けたかった。
ジャンヌの精神が浸透したフランス軍は強力で、イングランド軍はどこで戦っても打ち負かされていた。ジャンヌの身体を捕らえても、精神が戦い続けている。
幼君ヘンリー六世の叔父で護国卿のグロスター公はほとんど権力を失い、イングランドではウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートがすべての仕事の陣頭指揮をとっていた。
ヘンリー六世のもうひとりの叔父、摂政ベッドフォード公はフランスでの活動を縮小せざるを得ず、同盟者ブルゴーニュ公の気まぐれに振り回されていた。侵略に必要な資金や援助と引き換えに、王家の御用商人や使用人までもが摂政の弱みにつけ込んで高値で売りつけた。
イングランドの起死回生の策は、「ジャンヌはサタンの使徒である」と証明し、ヘンリー六世をフランスに連れてきてサン=ドニで戴冠させるしかない。
シャルル七世はサタンの力で王位継承者になったのであり、ヘンリー六世こそが神に選ばれた真の王位継承者であると知らしめるのだ。
そのためには、ジャンヌを裁判にかける必要がある。
イングランドがジャンヌの身柄を手に入れるには、リュクサンブール卿に引き渡してもらうしかない。しかし、リュクサンブール卿の古き良き騎士道精神はこの「取引」をなかなか受け入れなかった。
一計を案じたイングランドは、教会の協力を取り付け、異端審問を担当する司祭がルーアンから催促の手紙を送った。
リュクサンブール卿とブルゴーニュ公を召喚して「魔術を告発された少女を引き渡すように」と命じたのだ。ルーアンはノルマンディーの首府で、当時はイングランドの支配下にあった。
さらに大学が教会に加担し、パリ大学の学長でボーヴェ司教のピエール・コーションは、コンピエーニュで捕獲されたジャンヌを「自分の教区から連れて行かれた」と主張した。
異端審問の手続きは、教会が管轄する通常の裁判手続きと同じではなかったが、司教と大学が同時にジャンヌを裁くことになった。
これは非常に巧妙な陰謀計画だった。
しかし、リュクサンブール卿がジャンヌを拘束している状態では、被告人のいない無意味な裁判になってしまう。
ボーヴェ司教のピエール・コーションは、パリ大学で影響力のある学者で誠実な人物だと思われていたが、イングランド方の交渉役を引き受けた。
「ジャンヌの身柄と引き換えに身代金一万リーブルを提供しよう」
ピエール・コーションはリュクサンブール卿に取引を持ちかけた。
「もし無罪ならばジャンヌの身柄を返すが、身代金を返す必要はない。これでどうだ?」
そう保証したが、本心では、イングランドはジャンヌを有罪にすると確信していた。
リュクサンブール卿は、身代金1万リーブルに目がくらんだ。
イングランドとの良好な関係を維持できるし、ブルゴーニュ公との友好関係も問題ない。この条件を飲めば、伯母の死後、相続で便宜を図ってくれるだろうと考えた。
ブルゴーニュ公もジャンヌを引き渡すことに同意した。イングランドは、自国の商人がフランドルで活動することを禁じ、その結果、ブルゴーニュ公は莫大な富を得て安泰となった。
天秤の反対側には、リュクサンブール卿の騎士道精神と、ジャンヌを慕う妻子の祈りと涙が載っていたが、利益の重みに比べればはるかに軽かった。
それでも、リュクサンブール卿はまだためらっていた。
ちょうどその頃、ジャンヌはイングランドに引き渡されることを恐れて、幽閉中のボールヴォワール城の窓から身を投げた。自殺するためではなく、自分自身を救うための行動である。イングランドの手に落ちるよりも死の危険を冒して逃げることを選んだのだ。
結果的に、ジャンヌの逃亡は失敗して死ぬこともなかったが、リュクサンブール卿は迷っている間に1万リーブルを失う可能性があると気づいた。
「ジャンヌは絶対に諦めない。これからも脱走しようとするだろう。次の試みで逃げられるか、死んでしまったら……」
この結論は、リュクサンブール卿の最後の迷いを打ち砕いた。
彼はジャンヌの身柄をブルゴーニュ公に引き渡し、クロトワ城へ連れて行かれた。
それから間もなく、ジャンヌが予言した通り、フランス軍はコンピエーニュを奪還した。この戦いでリュクサンブール卿は重傷を負い、イングランドとブルゴーニュの軍勢はノワイヨンで敗北した。
「ジャンヌ・ラ・ピュセルの力は、牢獄の壁を越えて影響力を持ち始めている……!」
イングランドはますます恐れた。
どんな犠牲を払ってでも、少女を排除しなければならない。
また、ジャンヌを恐れて戦うことを拒み、フランスに駐留することに絶望しているイングランド人に勇気を与える必要もあった。
それに加えて、イングランドのフランス征服事業はますます悪化していた。
シャルル七世の王政復古はさらに拡大し、各都市は守備隊を城門に置きざりにして勝手にシャルル七世に降伏してしまう。フランス軍は大きな障害もなくパリの城壁の近くまで進軍してきた。
それぞれの利害とさまざまな駆け引きの末に、冒頭で述べたとおり、ジャンヌは危険な猛獣のように鉄の檻に幽閉されたのだった。
【※こぼれ話:ジャンヌ・ダルクの身代金を円換算してみた】
リーブル(livre)はフランス王国で1795年まで使われていた通貨です。
この物語の原作『Tristan le Roux』は1850年刊行ですから、作中に出てくる「現在」は19世紀半ばのフランスを指します。
こちらのページ(https://finance.yahoo.co.jp/brokers-hikaku/experts/questions/q10109088130)によれば、現代の円と比較すると次のようになります。
・労賃基準:1フラン=5000円、1スー=250円
・食糧基準:1フラン=2000円、1スー=100円
・物(衣類、生活道具)基準:1フラン= 500円、1スー=25円
ジャンヌの身代金1万リーブルを現代の円で換算すると、3500万〜3億5000万円と推測されます。
なお、王の会計士によると、当時のシャルル七世の個人資産は4エキュ(=8リーブル?)だそうで。フランス王としては破格の貧乏……いや、質素な王様ですね!
以下、ダイマになりますが、『7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】』番外編で、エキュ→リーブル換算したり、兵士の役職ごとの給料について触れています。
▼番外編「没落王太子の新婚生活(1)王太子妃マリー・ダンジュー」
https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614/episodes/16816927859672953178
【追記】
本作を電子書籍/ペーパーバック化するにあたり、規約の都合上、非公開にしました。見本代わりに、本編冒頭〜主人公が登場するまで、各章1話目と登場人物紹介を残しています。
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