第一章〈カルナックの善良な伯爵〉編

1話 リッシュモンの使者

 1429年の初め頃、フランス王国の西海岸——ブルターニュ地方キブロン半島にあるパンティエーブル砦でボートから降りたばかりの軍馬と騎士が、カルナックに続く道を足早に進んでいた。


 この辺りは春や夏の晴れた日でも難所だというのに、二日間降り続いた雪の下にすっかり道筋ルートが消えていて、午後二時になってもまだ雪は降り続いていた。

 もし、道の両岸に黒くうねる海が打ち寄せていなければ、騎士は正確なルートから外れていただろう。馬上から見下ろすと二つの深淵があり、騎士はそこから落ちてしまわないように慎重に歩みを進めた。


 地平線上には地面と同じ色の空が見える。地平線からブルターニュの海岸まで障害物はひとつも見えず、「次の分かれ道で一休みしよう」と張り切る旅人をうんざりさせる光景だった。


 まるで幻想的な異世界に迷い込んだかと錯覚しそうだが、歩みを進めるにつれて少しずつ現実らしい景色が見えてきた。

 しかし、それは幻想よりもずっと悲惨な現実だった。


 目にしみるような白い雪原のあちこちに、黒っぽい塊がこびりついている。それは枯れて荒廃した「ほうき草」で、絶え間なく吹きすさぶ風がほうき草の上に雪をとどめることを許さなかったのだ。ときどき、数本の忍び木が乾いた枝を打ち、その音でカラスの群れの飛翔を早め、黒い羽で白い大地と大空を引き裂く。

 突然、つんざくような甲高い悲鳴が響いた。


 ——そこにいるのは誰なの!

 ——誰でもいい、私の叫びを聞いて! 

 ——私たちの夫を返して、子供たちを返して!


 海からの不快な息吹は、亡霊の不気味な叫びを思わせる。

 陸に迷い込んだカモメだろうか、悲しげな鳴き声で応えるとすぐに見かけなくなった。


 悲鳴のような風音に惑わされず、秋雨を思わせる細雪の中で、騎士は黙々と進んでいた。目元まで分厚いマントに身を包み、頭に青いフードをかぶり、風を切るように前かがみになって、ときどき馬に話しかけた。おそらく、口の中で舌が凍るのを防ぐために声を出したのだろう。

 しかし、町も家も茅葺き小屋さえ見えない。どこまで行っても同じ白い境界線が、絶望的なほど一様に更新されるばかりだ。分かれ道を確認するたびに、騎士は顔を上げて勇気を奮い立たせ、馬は二度ほど拍車で叩かれた。


 午後三時頃、二十回目くらいに見上げたとき、空と大地——二枚の灰色のキャンバスの間に、村の輪郭が見えたような気がした。

 馬がその目で見たのか、あるいは騎士が見たものを馬が感じ取ったのか。しだいに伸びやかな小走りに変わり、やがて家々の窓が黒く浮かび上がり、煙突の煙が白い雪の中で青みを帯びて立ち昇っているのを見分けることができるようになった。


 ボートを降りた場所から二リーグ(約8キロメートル)を走り、騎士はようやくカルナックの村に到着した。


 騎士は、村の中心にある広場を目指したが、もしプライドの高い男だったなら、村人の反応の薄さで傷ついたに違いない。上は目元まで、下は槍まで届くマントに包まれた見知らぬ男は——たとえ貴族でも悪党でも、船長でも商人でも——ほとんど人目を引かなかった。


 注目されないまま、まっすぐに広場へたどり着き、騎士と軍馬は立ち止まった。


 まず、頭を上げてフードのひだについた雪を振り払った。

 この動作につられて視線を上げた何人かの女性は、唇と顎に少し陰があり、美しい碧眼と、丸みのある若々しい頬——ケルト人の末裔「ブルターニュ人」が同胞と認める独特の金髪を持つ22〜23歳の美青年の横顔を目撃した。


 青年の身体検査はさらに押し進められた。

 フードを下ろして頭部を解放するとマント自体を剥ぎ取り、騎士の世話をする名誉を得た村の女性たちの瞳に、衣装の完璧な豪華さを見せつけた。


 青年は紋章官ヘラルド(各地に布告を伝える役職、伝令官、前衛とも)のタバードを身につけていた。羽織っていたマントとフードは青いウールで、下のタバードも同色だったがこちらは鮮やかなベルベットだ。胸の中央にブルターニュの銀色の紋章「ダルジェント・セム・デルミン・セーブル(d’argent semé d’hermines de sable)」が輝いている。


 その他、私物とおぼしき衣装も申し分なく、脚部はオックスブラッド(牛の血色)のブリーチズ(ショース、タイツ状の脚衣)に覆われ、太ももの真ん中まで届く黒革のブーツを履いている。脇にはベルトを巻いた大きな剣を吊り下げ、首には銀色の角笛をかけている。


 騎士は脱いだマントを鞍の前にかけると、角笛を手に取り、口にあてて「コー(呼びかけ)」と呼ばれる音を吹き鳴らした。


 健やかな息吹を吹き込まれて、角笛の音は村中に響き渡った。馬上の騎士から見える範囲の家々のドアが一斉に開き、村人たちが騎士の周りに輪をつくった。

 女性と少女が真っ先に駆けつけ、次に来たのは男性である。


 騎士は「村はずれにいる住民には呼びかけが聞こえなかったかもしれない」と考え、再び角笛を口に当てると、ローラン(訳註:フランスの古叙事詩『ローランの歌』の主人公)が羨むくらい大きな音を鳴らした。

 二度目の呼びかけに、四方八方から男や子供が駆け寄ってきて、騎士の周りに人の壁ができ始めた。


 念には念を入れて、三度目を吹き鳴らした。

 騎士は、村人全員が集まったと判断して、胸から巻物を取り出した。


「カルナックの城館と村の人々、領民たちよ。我が主君の命令で、従者である私ブリタニーが知らせる『布告おふれ』を聞きたまえ。では、聞け!」


 ブリタニーは巻物を広げると、充分な音量の聞き取りやすい声で読み上げた。


「我が主君の名はアルテュール・ド・リッシュモン伯爵。我らがブルターニュ公爵家の高貴な血筋を引くパルトネー領主であり、フランス王国の大元帥コネタブルである。我が国の臣下や領民で、体を張って我々に仕える義務がある者たちに、四十日以内に我が領主の旗のもとに戦列に加わり、我らがフランス国王シャルル七世陛下のために行われる『フルール・ド・リスの敵』との戦いに参戦することを知らしめる布告である」


 村人たちは互いに顔を見合わせた。

 おふれの後、誰が代表者として質問するかが問題だった。


「誰でもいい。聞きたい事があれば何なりと申してみよ」


 ブリタニーと彼の軍馬は、文字通り「蹂躙」されていた。ベルベットの光沢に魅了された子供たちは、ブリタニーの衣装をべたべたと触ったり、剣をぐいぐいと引っぱったり、ついには角笛まで吹いてみせた。


 お仕置きされても仕方がない有様だったが、ブリタニーはこういう素朴な好奇心を向けられることに慣れている好青年で、興味を持たれている印として受け取り、自尊心を満足させた。こういった馴れ馴れしいマナーは彼を不快にするどころか、ほとんど面白がっていた。

 ブリタニーは、子供たちの好奇心が馬を不快にさせないように、絶えず手でおだてながら、村人たちの質問に答えなければならなかった。


 女性と少女たちは、ブリタニーのあどけなさの残る優しい表情に惹きつけられ、頬を染めながら勇気を出して前に出てきた。その中には魅力的な女性もいたので、ブリタニーが自分の脚によじ登って拍車をいじる悪ガキたちに我慢したことも、より容易に説明できるだろう。


 二日間降り続いた雪が、少し休んだかのように降り止み、よく見ると雲の隙間から不安げな陽光が一筋、角度の鋭い切り妻屋根に射しているのが見えた。


「それでは、騎士さま」


 大柄の農夫が、馬のけぶる首を撫でながら話しかけた。


「我らが敬愛するブルターニュ公ジャン五世の弟であるリッシュモン大元帥は、ブルターニュの勇敢な戦士を集めて『シャルル七世を助けに行く』と言っているのですね」


 農夫の腕に寄りかかった嫁が「助けを必要としているのは誰なのか、あたしにだって分かりますよ」と付け足した。ブリタニーは「そうだ」とうなずいた。


「もし神が我々に力を貸してくださるなら……。特に我々、善良なブルターニュ人の助けを借りて、サタンが我々に送り込んだイナゴのごとき『悪しきイングランド人の群れ』をすべてフランスから追い出せば、おそらく戦争は終わるだろう」


 のちに百年戦争と呼ばれる英仏の長い戦争が始まって以来、シャルル七世は五代目のフランス王である。即位していると見なすならば。

 そして、戦争が始まって以来、もっとも劣勢に追い込まれていた。


「シャルル王はどこで何をしている?」

「今はシノンにいらっしゃる。そこで陛下は、敵が包囲している善良な都市オルレアンを解放するための兵力を待っておられる。オルレアンはまだ持ちこたえている」


「王妃さまは何を?」

「王妃陛下は、まず人々のために神に祈り、次に夫のために祈っておられる」


「デュノワ、ザントライユ、ラ・イルはどこに?」

「デュノワ伯はオルレアンで、後の二人は陛下のそばで戦っている」


 村人の中で一番賢そうな男が「まあ、心配するな。すべてうまくいくさ……」と人々をなだめた。しかし、言葉の語尾に奇妙なためらいを感じた。


「なんだ?」


 ブリタニーは身を乗り出して、言いたいことがあるなら言うように促した。

 男はためらいがちに、小声で質問した。


「あのですね、王の善良なる英才は『ラ・トレモイユを追い払う』考えはないんでしょうか? あいつは明らかに王国に害をおよぼしているのに、なぜ王はあいつを手放さないんですか……?」


 男は恐縮したように黙り込み、ブリタニーは慎重に返答した。


「それは私の主君であるリッシュモン大元帥の仕事である。ラ・トレモイユを陛下に遣わしたのは彼であり、必要ならば排除するのも彼である。ジアック卿を排除したように」


 ブリタニーはそう答えると、この村は任務の終着点ではなかったので出発する準備を始めた。おそらく彼は王国の内情について、群衆の前で話したくないのだろう。

 リッシュモン大元帥は、ジアックをはじめ王の側近を独断で処刑したために、シャルル七世の不興を買っていた。


「もう少し待ってくださいよ、騎士さま」


 あちこちから不満の声が上がった。


「まだ話は終わってないじゃないか」

「友よ、何でも聞け。他に知りたいことは何だ」

「ブルターニュ公はお元気ですか?」

「健やかに暮らしておられる」

「まだレンヌにいるのですか」


 ブリタニーはうなずいた。


「公弟のアルテュール・ド・リッシュモン大元帥はどこに?」

「パルトネーにいらっしゃる。大元帥閣下の『参戦要請』に応じる勇敢な騎士が向かうべき場所だ」


 午後四時の鐘を聞くと、ブリタニーは「それでは善良な村人たちよ、神があなた方を守ってくださいますように。私はあなた方に別れを告げる」と言って、拍車の先で馬の両脇に軽く触れた。


 この機会を待っていたかのように、馬が首を振りながら足を踏み鳴らしていななくと、子供たちは怖がって逃げ出した。村人たちはブリタニーのために通り道を空けた。

 村の男たちに最後の敬礼をし、女性たちに最後の微笑みを送った後、マントを着直したばかりのブリタニーは、集まった群衆の中で事故を起こさないようにできるだけ慎重に素早く立ち去った。

 数人はいくつかの嘆願を訴えながら途中までついていき、広場ではめいめい気の合うグループに分かれて、ブリタニーがもたらした「おふれ」について話し続けた。

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