第2章 変貌

 三郎は、勇の言うことはよく聞いた。剣術は上達し、道場の少年たちの中で、三郎に敵う者はいなくなった。だが、勇がやがて試衛館の跡を継ぎ、近藤勇、と名乗るようになった頃から、三郎の様子が変わってきた。原因のひとつは、勇が道場主として忙しくなったのと、嫁をもらい、今までのように気ままに出歩けなくなり、多摩に出稽古に来られなくなったことにあった。


 もうひとつは、姉の嫁入りだった。姉のしづが、奉公していた旅籠の主人の口利きで、商家の後添えに入り、三郎を残して宮村を去ったのだった。商家の後添えといえば聞こえがいいが、相手は二まわりも年上で、亡くなった父親の借金を帳消しにする代償だといわれていた。体裁を繕うためか、三郎には相当の小遣いが与えられていたようである。彦五郎が世話した仕事先もやめ、悪い仲間と遊び歩く三郎は、剣術の稽古にも、身がはいらなくなった。ほとんど道場に来なくなり、半年以上が過ぎた。地方で真面目に奉公を努めている兄や、しっかり者の姉と比べてなのか、いつのまにか大人たちは彼のことを

『尾畑のドラ息子』

と呼んで、蔑むようになった。


 「なんだ、尾畑のドラ息子は、また来ねぇのか。あいつは、俺が来るときはぜってぇいねぇな」

そう言ったのは、今は試衛館で師範代も務める、歳三であった。時々、勇に頼まれ、渋々ながら日野に来ていたのだ。

「土方さん、彼に絶対、嫌われているんですよ。僕は一度会ったことがありますよ。近藤先生が、『真面目に稽古を続けていれば、総司のいい練習相手になる』って言ってたんで、楽しみにしていたんですけど」

歳三の隣で、笑っているのは、惣次郎あらため、総司そうじと名乗るようになった、沖田であった。試衛館の塾頭として、出稽古に来ていたのだ。


 確かに、歳三のいるときには、三郎は決して現れなかった。豪農が嫌いだ、という三郎の意思は、いまだに変わっていなかったのである。


 それからしばらくしたある日、三郎がふらっと佐藤道場に現れた。三郎は、素振りをしている少年たちのなかで、一人の小柄な子供を見ていた。

「あいつか?例のガキは」

すると、道場仲間の少年が答えた。

「そうだよ、三郎さん。一年くらい前に来た、『りょう』ってガキなんだが、クソ生意気で気に食わねぇやつなんだ。遊びにも加わらないし、俺たちなんか相手にしてねぇって感じ。江戸の道場から来ている先生にもひいきにされて、特別に稽古してもらっているんだぜ。なんでも、高幡村の医者の子供らしい」

「ふん!医者のガキなんかに刀が振れるかってんだ。見てろ、あんなガキ、すぐに逃げ帰るようにしてやる」

三郎は、りょうの方を見て、ニヤリと笑った。


 りょうの竹刀や、胴着が隠される、という事件が起き、沖田や彦五郎が探すと、裏の川に捨ててあるのが見つかった。

「悪ガキどもが、りょうが沖田さんと稽古するのをやっかんでいるんだろう。困ったものだ」 

と彦五郎は言ったが、りょうは

「悔しかったら、いつでもかかってくればいいのに」

とあまり気にしなかった。その度胸のよさに、沖田も彦五郎も、苦笑いをした。


 また別の雨の日、りょうの下駄が棚の上におかれていた。この日は沖田は来ず、彦五郎は寄り合いで出掛けていた。りょうはまたか……と思い、背伸びをしたが、小柄なので、棚に届かなかった。それを見ていた三郎はニヤリとして、

「とってやるよ」

と言って、下駄を棚からおろした。りょうが、

「ありがとう」

と言って受け取ろうとすると、三郎はそれを返さず、

「新入り、俺に挨拶もなしに、偉そうなことやってるらしいな。先輩をさしおいて、先生に特別指導されてるんだって?」

と言った。りょうが、

「なんのことだ?総兄そうにぃに教えてもらうのに、あんたの許可は必要ないだろう。それに僕は新入りじゃない。もう一年以上、ここにいるんだ。ほとんど稽古にも来ないから知らないんだろ。みんな言ってるぞ、『ドラ息子』って!」

と言いかえすと、三郎は目をつりあげた。

「何を!!チビのくせに、生意気いうんじゃねぇ!」

とりょうのほほを殴った。りょうはひっくり返った。その格好を見て三郎は笑った。

「チビのくせに、歯向かうからだ!土下座すれば許してやるぞ」

「下駄を返せ!」

りょうが叫ぶと、

「返してやるよ。自分で取ってきな」

と、三郎はその下駄を他の少年に放り投げた。りょうが目で追うと、少年は、少し高い木の枝に、その下駄を引っ掛けた。りょうの届かない高さだ。外は雨が降っている。地面も泥でぬかるんでいた。

「悔しかったら、早くでかくなるんだな、チビ!」

三郎と少年たちは、笑いながら行ってしまった。残されたりょうは、雨が降る中、なんとか下駄を枝からはずしたが、鼻緒を切られていた。びしょ濡れで泥だらけのりょうを見た彦五郎の妻ののぶは、このことを彦五郎に報告した。彦五郎はため息をつき、

「三郎にも困ったものだ……どんどん悪い方に行ってしまうな……なんとか、また稽古に戻すことはできないものか……」

と悩んでいた。


 大人たちの稽古のあと、りょうが道場の床掃除をしていた。そのあと、沖田がりょうの稽古をすることになっていたからだ。すると、三郎がやってきて、水の入った桶を蹴飛ばした。もちろん、道場の床は水浸しになった。

「いててて……!足を痛めちまったじゃないか!」

三郎は、わざと床にうずくまった。仲間の少年たちが近寄り、

「大丈夫ですか、三郎さん!……大変だ、こりゃあ、足を捻挫したかもしれない!おい、チビ!どうしてくれるんだ?この人を怪我させたら、ただじゃすまないぞ!」

とりょうにむかって大きな声を出した。

「そっちが勝手に桶を蹴飛ばしたんじゃないか。床を汚されて迷惑なのはこっちだ!これから稽古だってのに!そっちが謝るのが筋だろう」

りょうは何度もいじめられている目上の少年たちに怯むことなく、正論をぶつけてくる。りょうが三郎をキッと睨んだ。三郎は一瞬、ごくっと唾を飲み込んだ。りょうの放つ何かが、三郎の背に冷たいものを感じさせた。

(こいつ……チビのくせに……)

三郎はその感情を打ち消そうと立ち上がった。

「なんだ、足なんか痛めてないんじゃないか!うそつきめ」

りょうが言った瞬間、三郎の手がりょうの襟首をつかんで引き寄せた。

「新入りのくせに、先輩にむかって、いい度胸してるじゃねぇか!年上の者に対する態度を教えてやるから、覚悟しな」

と言って、りょうを床に突き飛ばした。水浸しの床に転がされたりょうを、他の少年たちが笑った。二人の少年が、りょうの体を押さえつけた。

「離せ!この野郎!」

りょうは言い返して、手を振りほどこうとしたが、さすがに年上の少年ふたりに押さえつけられては動きがとれない。

「いいか?先輩の言うことには従うんだ。頭を下げろ」

とりょうの頭を、濡れた床に押し付けた。三郎は笑いながら、

「あ〜あ、頭も胴着も濡れちまったなぁ。濡れた胴着は脱がなきゃな。お前ら、こいつを裸にして、外に放り出せ」

その言葉を聞いたとたん、りょうの顔色が変わった。

「や、やめ……!!」


 少年たちがりょうに掴みかかったその時、道場に飛び込んできたのは、彦五郎と沖田だった。

「お前たち、何をしているんだ!?三郎、いい加減にしろ!!」

彦五郎は怒り、少年たちを次々に殴り倒した。

「一人によってたかって、恥ずかしくないのか!?お前たちは当分、道場に出入り禁止だ!さっさと出ていけ!!」

彦五郎に怒鳴られ、三郎以外の少年たちは、すごすごとその場を去っていった。

「りょう、大丈夫か?早く着替えておいで。風邪をひくといけないから」

沖田がりょうをかばい、声をかけた。りょうは真っ青な顔をしていたが、沖田の言葉に頷き、胴着を着替えに行った。道場には、三郎と、彦五郎と沖田が残った。


 「三郎、久しぶりに稽古に来たのかと思っていたら……年下の子供をいじめにきたのか?お前は、どれだけ姉さんに迷惑をかけたら気がすむんだ?」

彦五郎が問いかけた。三郎は、ふん、と横を向いた。

「挨拶を知らない新入りに礼儀を教えていただけだ。試衛館の先生が特別扱いしているって、あいつらが言ってたんでな」

三郎はそう言って沖田をにらんだ。沖田はとぼけて、

「僕が?特別扱いなんてしてないよ。あの子は、みんなと同じように素振りの練習をしている。みんなにも同じように声をかけているよ。残って練習する気のある子はいるか?って聞くけど、あの子以外、残らないだけだ」

と答えた。子供たちがそんなに真剣に練習などするはずがないのだ。

「君は、近藤さんから、直接指導を受けたんだろう?あの子は僕が教えた子だ。どうだ、勝負してみないか?」

沖田が言うと、三郎は、

「勝負だと?」

と沖田を見た。沖田は微笑んで、

「君は武士なんだろう?武士なら武士らしく、正々堂々立ち合いで決めたらどうだ?いつまでもお姉さんの厄介になりたくないならな」

と言った。三郎の悪行は、姉への負い目に原因がある、と彦五郎から聞かされていた沖田だった。

「俺があんなチビに負けるもんか」

と、三郎は言った。りょうが着替えて戻ってくると、沖田はりょうにもその話をした。りょうの顔が明るくなった。りょうが三郎の方を、チラッと見たように、三郎には見えた。

(こいつ、生意気な……打ちのめしてやる!)

ふたりは竹刀を手に、向かい合った。


 「始め!」

と彦五郎の声がした。三郎は攻撃を仕掛けようとするが、りょうは動じない。じっと、三郎を見据えている。三郎は、先程と同じような感覚を覚えた。りょうからは、気迫、というよりも、殺気が強く感じられたのだ。

(下手に打って出たら、逆に殺られる)

と思うと、一歩が出ない。逆に、りょうが自分の間合いの中に三郎を誘い込むことになった。


 自分よりずっと年下の相手に優位に立たれた三郎は苛つき、無造作に竹刀を振りあげた。その隙を、相手は見逃さなかった。三郎が面を打つより早く、りょうが三郎の胴を払った。

「一本!胴あり!」

彦五郎の声が飛んだ。りょうは沖田の方を向いて、

「勝った!勝ったよ、総兄ぃ!僕、初めて年上に勝ったよ!」

と嬉しそうである。三郎は悔しくて、竹刀を叩きつけ、道場の外に出た。後を追うように彦五郎が出てきた。

「この一年、ほとんど稽古をしていないからだ。動きが全くなってなかったぞ。あれでは、師匠の勇さんが泣くぞ。これに懲りて、真面目に稽古に励め」

彦五郎が言うと、三郎は聞いた。

「あいつ、ただのガキじゃねえだろ、先生。俺は、動けなかったんだ。悔しいが、足がすくんだ。あいつ、俺を殺す気だった」

彦五郎は、

「お前にわかるくらい、あの子は殺気が丸見えなんだ。それを直そうと、沖田さんはあの子を鍛えているんだけどな」

と言った。三郎にはその意味がよくわからなかった。だが年下に負けた悔しさだけはわかった。

「やつは何者だ?」

三郎が彦五郎に聞くと、彦五郎は、

「あの子は、真剣に武士になりたいと望み、真剣に稽古に取り組んでいる。武士になって見返してやりたい存在がある。それだけだ」

と言った。

「三郎、お前は、何になりたいんだ?勇さんは、お前に見返してやりたいものがあれば、稽古に来る、と言ったことがある……もう、お前にはそんな志は無くなってしまったのか……?」

彦五郎の問いに、三郎は黙ったままだった。


 

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