迂闊に手を出すな、マッチングアプリ

蟻月 一二三

迂闊に手を出すな、マッチングアプリ

 僕が彼女と出会ったのは半年前。きっかけは、最近流行りのマッチングアプリというものだった。


 友人の自称モテ男がこれに手を付けてからというもの、幾多の女性と同衾し、そのたびに僕らを飲みに誘っては自慢するものだから、口では「気持ち悪い」、「どうかしてる」などと言って笑いながら斜に構えた態度をとりつつも、やはりどうしても羨ましいという気持ちが勝り、自分も一度でいいから……などと想像しては、悶々とするという情けない日々を送っていた。


 もう何回目になるのかも覚えていないが、また自称モテ男にいつものように飲みに誘われ、散々自慢話を聞かされた帰り道、とうとう我慢ならなくなり友人御用達のマッチングアプリをインストールしてしまった。


 家に着くとすぐに携帯の画面にかじりついた。顔写真を登録しろとアプリがいうので、写真フォルダを隅から隅まで漁り倒し、自分史上最も優れた奇跡の一枚を見つけ出して自己紹介画像として認識させた。


 名前やら誕生日やら今住んでいる場所やらを言われたとおりに書き込んでいくと、まあそれらしいプロフィールが完成した。


 後はアプリが僕と相性の良さそうな女性を選んで写真を表示してくれる。僕はその写真を見て、マッチングしたいと思えば右へ、しなくていいと思えば左へスライドしていく。当然女性側も同じ操作をしており、お互いに写真を右へスライドすればマッチングは成立。メッセージのやり取りに移ることができる。合理的過ぎて悲しくなるシステムだ。


 僕はあまりの胡散臭さに顔をしかめた。こんなもので女性と知り合うことなんて不可能ではないか?


 僕の通う大学の生徒は、男女比率でみると女性の方が多い。授業に出ても必ず半数以上は女子生徒が占めている。つまり、もともと女性と関わる機会は多いはずなのだ。なのにこのありさまだ。どこかに必ずチャンスがあるのにこの体たらくなのだ。そんな男がアプリ一つで変われるなら苦労しない。


 酔いが醒めていくのと同時に、アプリへの関心も薄れていった。冷静に考えてみれば、自称モテ男はわざわざこんなことをしなくても本当にモテる男だった。自慢話に付き合うときはきまって酒を飲んでいるから、もしかすると自分でも……などという血迷った考えが浮かんでしまったのだろう。


 僕は携帯をベッド脇の小さなテーブルに裏向きに置いた。そしてそのまま泥のように眠った。







 温かい日差しに顔を突かれ、僕は目を覚ました。カーテンを閉めるのを忘れていたらしい。アルコールが抜けきっていない怠くなった手で携帯を持ち上げた。見慣れないアイコンの通知が目について、疑問符が浮かんだ。


 それが何かを瞬時に思い出せるほど思考力はまだ戻ってきていなかったので、何も考えずにその画面をタッチした。




「沙希さんとマッチングしました」




 昨日の出来事が走馬灯のように頭の中で映し出され、僕は携帯を両手で握りしめるように持ち、その詳細を確認するべくゆっくりと画面をスライドさせていく。


 「マッチングした人」という項目をタップすると、「沙希」と表示された。さらにその名前をタップすると、メッセージが届いていた。




「マッチングありがとうございます!!よろしくお願いします!!♡」




 という内容だった。


 昨日の僕は、酔いが醒めて自分の浅はかな行動に空しさを覚えるまでの間、一心不乱にすべての写真を右へとスライドし続けていたため、誰を選んだかなど全く覚えていなかったのだが、この「沙希」という女性、写真を見た感じかなりの美人であった。昨日まで沈み込んでいた気持ちはスキップをするかの如く弾みだした。




「こちらこそありがとうございます!よろしくお願いいたします!」




 何度か書き直した末の返信がこの文章だけとはなんとも情けない話だが、女性とのコミュニケーションが苦手な僕にはこうするほかなかった。今の舞い上がったテンションをそのままこのやり取りに持ち込んでしまった結果、何か強烈に気持ちの悪い発言等をしてしまっては、せっかく巡ってきたチャンスが台無しになってしまう。慎重を期したというわけだ。


 一旦携帯を手放すか、追加で何か送ろうか迷っていると、彼女からの返信がきた。想定よりもはるかに速い返信で驚いたと同時に、僕の気持ちはまたもやスキップし始めた。


 それ以降、まるで対面で話しているかのようなスピード感で会話は進行していった。どこに住んでいるのか、どんなアルバイトをしているのか、アプリを初めてどれくらいなのかなど、ここで出会った男女ならば必ずするであろう会話を交わした。その中で、彼女が同じ大学の一年先輩であることが発覚し、大いに盛り上がった。




「今度よかったら会いませんか?直接会って話してみたいです!」




 断る理由などどこにもない。僕は満面の笑みで「ぜひ会いましょう!僕も会いたいです!」と送った。携帯はしばらく消さずにそのままにした。画面に反射した自分の顔を視界に入れたくなかったからだ。ゴブリンような顔をしていたに違いない。







 基本的にはどの授業も友人たちと受けるのだが、金曜日の三限目だけは全員がバラバラになる。当の僕はというと、この時間は空きコマであるため、来るべき四限目に備えて大学内にある図書館で仮眠をとることにしている。そのことを彼女に話すと、嫌じゃなければそこで会えないかというお誘いがあった。


 マッチングアプリを初めて一週間も経っていなかった。友人の自慢話を聞いては、笑って小ばかにした態度をとっていた過去の自分を叱ってやりたい。これは極めて合理的で、近代的な新しい出会いの形だ。なにもおかしいことではない。むしろ、これからはこの出会い方が主流になっていくと思われる。嘲笑するということはすなわち、自分が浅学であることを大々的に公表しているようなもの。過去の自分よ。くれぐれも気を付けるように。


 図書館の中で待ち合わせということだったが、いてもたってもいられなくなり建屋の外に出てしまった。自動ドアの前でうろちょろしているせいで、扉は開いたり閉じたりを繰り返していた。さぞ鬱陶しかったことだろう。生徒の往来が少ない時間帯であったことが救いだった。


 だがしばらくしてドアの開閉はピタリと止まった。僕はまるで時間が止まったかのように動けなくなった。右からこちらへ歩いてくる一人の女性。腰まで伸びた綺麗な黒髪を靡かせて颯爽と歩くその人は、間違いなく「沙希さん」だった。


 もじもじしている僕のところへ、彼女はつかつかとヒールの音を響かせながらやってきた。初対面だというのに、何の迷いもなく僕に爽やかな挨拶をした。




「こんにちは。私のことわかる?」




 僕は唐突な質問にどもってしまった。




「え、ええ。も、もちろんわかりますよ」




 彼女は大声で笑った。




「ほんとかな?すごく返答に困ったときのリアクションだったよ。プロフィールの写真加工しまくってるからさ。誰だこの人って思われてたらどうしようかと思って。まあ、認知できるくらいの誤差ってことで!」




 謙遜なのか本気で言っているのか分からなかったが、少なくとも僕が見た限り、実物の彼女は写真よりもはるかに綺麗だった。眉間から綺麗に筋の通った鼻に、薄い唇、薄い二重の猫のような目はかっこよさも同時に兼ね備えており、写真では見ることができなかった首から下はモデル顔負けのプロポーションだった。


 僕は気持ち悪い鼻息を漏らさないように性欲を何とか押し殺し、冷静な振る舞いに努めた。




「とんでもない。あまりにも綺麗だったんで驚いたんです。緊張してしまって」




「あら、口が上手いのね。そんなこと言われたらますます調子に乗っちゃうなー」




 彼女は終始冗談を交えながら話し続けた。話がとにかく上手で、極端に女性と話すのが苦手な僕が、隣にいても居心地の悪さを感じないほどだ。ほとんど相槌を打っているだけだったが、とても楽しかった。


 あっという間に一時間が経ち、三限の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。この短い時間で、僕は彼女から目が離せなくなっていた。もっと一緒にいたい。その思いを素直に伝えようと構えた時、彼女はまるで僕の心を読んだかのようなことを言った。




「次は四限か。休んじゃだめだぞ。しっかり勉強してきなさい」




 彼女は僕の肩を軽く叩いた。


 次はいつ会えるのだろう。もしかすると、もう会うことはないかもしれない。それも僕がどう評価されているかで決まってくる。大学受験の合否発表のようなそわそわとした感情を隠し切れずにいると、彼女が思いがけないことを言った。




「ねえ。もしよかったらなんだけど、今晩飲みに行かない?もちろん、他に予定があるならそっちを優先してほしいんだけど」




 この日は夕方から友人たちとボーリングに行く約束をしていた。大変申し訳ないが天秤にかけるまでもなかった。




「なにもありませんよ。行きたいです」




 僕はできるだけ爽やかな口調でそう言った。彼女はにっこりと笑って、「よし。決まりだね」と僕の肩に手を置いた後、颯爽と去っていった。


 靡く髪、すらっと伸びた健康的な脚、弾む乳房。僕の中に潜む性欲の獣がよだれを垂らしながら彼女の全身を舐めまわすように見ていた。


 気が早すぎる。僕は最低な男だ。


 僕は四限までだが、彼女は五限まで講義を入れているらしく、また図書館で一時間以上時間を潰すことになった。万が一にも友人たちに見られてはならないため、急用ができたと適当な嘘をつき、一足先に早足で正門を出た。両脇に植えられた木の影に身を隠し、友人たちが門を出たことを確認してから図書館へと戻った。


 僕は最低な男だ。


 


 ♤




 彼女はあからさまに疲れたというような表情をしながらふらふらと歩いてきて、「早くビールを流し込みたい」と言った。


 大学通りには居酒屋が乱立しており、講義終わりの生徒たちが次々になだれ込んでいく。僕らも適当に目星を付けて、その流れに身を任せるように店の扉をくぐった。


 右隣に座った女子生徒の集団から漂ってくる香水の匂いと、左隣に座った男子生徒の集団が慣れない煙草をふかせて舞い上げた煙が流れ込むカオスな席へと案内された。


 僕も彼女も一瞬顔を顰めた後、互いに目配せして笑い合った。


 おしぼりを持ってきた店員に、彼女はすぐ「瓶ビール一つ」と言ったので、僕も咄嗟に「もう一つください」と言った。実はビールはあまり好きではないのだが、美人な女子大生と同じ酒を酌み交わすという構図だけで気持ちよく酔えそうだ。


 互いのグラスにビールを注いだ。彼女が「二人の出会いに」と言ってグラスを掲げたので、僕も自分のグラスを掲げた。二つは優しくぶつかり合って、チンとかわいらしい音を立てた。


 勝手に大酒飲みという印象を抱いていたのだが、彼女は思っていたよりも早く顔が赤くなりだした。その表情はなんとも艶めかしく、理性が吹き飛びそうになるのを抑えるのに必死だった。なんとか当たり障りのない会話に持ち込もうとしたのだが、そんな話題すら頭に浮かんでこないほどに僕は口下手なのである。


 もたもたしているうちに、彼女はついに下の話を始めてしまった。




「ねえ、最近いつやったの?」




 僕は返事に困った。女性経験などほとんどない。中学生の時、幼馴染の女の子となんだかいい雰囲気になって胸をチョロっと触ったことがあるくらいだ。それ以来、女性の身体に触れる機会など一度もなかった。


 変に見栄を張る方がかっこ悪いと思い、素直に話した。彼女は充血した目を大きく見開き、一番言ってほしくない言葉を大声で口にした。




「童貞なの?!」




 隣の女子生徒集団が一斉にこちらを見たのが分かり、あまりの恥ずかしさに顔が赤くなっていくのが分かった。




「なんで大声で言うんですか!これでも気にしてるんですよ」




 彼女は悪びれる様子もなく、まじまじと僕の顔を見つめた。




「いや、意外だなと思ってさ。結構経験あるのかと思ってたよ」




 喜ぶべきなのか、それとも否定すべきなのか。


 もやもやしている僕に畳みかけるように、彼女はありとあらゆる質問を投げかけてきた。


 どこを触られると気持ちいいか。どんなプレイをしてみたいか。裸の女の子を前にしたとき、一番最初に触りたいのはどこか。


 僕も相当酔っていたこともあり、人目も憚らず一つ一つ丁寧に答えていった。


 彼女はにやにやしながら、ビールが少しだけ残ったグラスの縁を指でなぞった。




「恥ずかしくて死にそうな顔してるし、次を最後の質問にしてあげよう」




 そういわれると終わってほしくないような気もしたが、「やっとですか」とすました顔で言った。


 彼女は自分の胸を人差し指で押えて、ぷにぷにと弾ませた。




「触ってみたい?」




 視界がぼやけるほど鼓動が早くなり、身体中が熱くなっていく。僕は生唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。




 彼女はさっと伝票を手に取り、立ち上がった。




「行こっか」




 僕は頷いて立ち上がり、もう一度椅子に座った。




「すいません。もうちょっと待ってもらえますか」




 彼女は僕の下半身をまじまじと見つめながら、にやにやと笑った。




「もうちょっと我慢しなさい」




 今日が冬でよかった。そして、ロングコートを着てきた自分に賞賛の言葉を贈りたい。


 テントを張ったチノパンをコートで隠しながらレジで代金を支払い、前かがみの姿勢で外に出た。







 彼女が暮らすのは、僕等がいた居酒屋の裏手にある三階建てのアパートだった。ほとんど敷地内のようなものだ。彼女はたどたどしい足取りでアパートの前まで行き、僕に「ここで待て」と指示した。部屋を片付けたいらしい。


 震えながら待機していると、上から「もういいよー」という声が聞こえた。見上げると、三階から彼女が手を振っているのが見えたので、入口の扉に手をかけた。足が小刻みに震えているのは、寒さのせいではない。自分の指で胸を弾ませる彼女の姿が脳裏に焼き付いている。昂った気持ちをこれ以上理性で押さえつけるのは限界だった。


 階段を上り切り、部屋の前で深呼をしていると扉が開いた。彼女は大きめの白い長袖シャツに着替えており、胸には小さな突起が一つずつ浮かび上がっていた。ズボンもおそらく履いていない。うっすらとパンツの形が透けていた。


 白く滑らかな腕に引かれて、僕は部屋へと吸い込まれた。







 目を覚ますと、彼女はベッドに座ってコーヒーを啜っていて、部屋には暖かな光がカーテンの隙間から差し込んでいた。僕は全裸で、掛布団もはだけており、何もかもをさらけ出していた。


 彼女は目覚めたばかりの僕を見てにやりと笑った。




「おはよう。おかげでよく眠れたわ」




 ふとゴミ箱に目を移すと、丸めたティッシュが山盛りになっていた。昨夜のことを鮮明に思い出した僕は、咄嗟に布団で下半身を隠した。




「もう隠さなくていいでしょ。これでもかってくらい見たわよ」




 昨日ベッドの上で見た光景を思い出し、下半身にかかった布団はこんもりと盛り上がった。


 彼女は目を大きく見開いて、飲みかけのコーヒーが口からこぼれないように手を当てた。




「まだ元気になるの?とてつもない体力ね」




 彼女は呆れたような表情で笑いながらマグカップを机に置き、布団の中に入ってきた。華奢な手が僕の頬に触れた。導かれるようにキスをした後、再び僕らは交わった。






 それ以降、僕らは毎日のように同衾した。授業が終わると一目散に彼女の家へ行き、夕食前と寝る前に一回ずつ。休日は、寝る間も惜しんで意識が飛ぶまで何度も何度も。服を着ている時間も、常にどこかで触れ合っていた。手を繋いだり、座っている僕の膝に彼女が足を乗せてきたり、キスをしたり。枯渇していた性欲という名の入れ物は、摺り切りいっぱいまで満たされた。これが僕の夢見た大学生活。堂々と胸を張れる。マッチングアプリ万歳。







 彼女が僕を部屋に入れるのをなんとなく拒むようになったのは、二週間ほど前からだった。最初は気のせいだと思うように努めたが、精神的にも長くは続かなかった。電話をしても、メッセージを送っても一向に返ってくる気配はなく、不安が募る一方だった。学部も違えば学年も違う。いくら同じ大学の生徒とはいえ、連絡が取れないとどうすることもできない。


 やむを得ず、正門の前で待ってみることにした。金曜日の五限終わり。押し寄せる生徒の波の中に彼女の姿があった。ひときわ目立つ長身の男の腕に寄り添って歩いている。幻でも見ているのかと目を疑ったが、どう見ても隣にいるのは男だ。僕は無意識のうちに二人の後を追っていた。


 アパートの前に着くと、男は彼女の臀部を鷲掴みにした。何故か無性に腹が立って、気付いた時には声をかけていた。




「沙希さん」




 彼女は振り向くと、特に驚いた様子などはなく、「おお。久しぶり」とだけ言った。




「おい、誰だこいつ」




 男は、あからさまに敵意むき出しでこちらを睨みつけていた。




「ああ、後輩君だよ。借りてたものがあって。わざわざ来てくれたんだよね」




 何かを貸した記憶などなく呆気に取られていると、「ちょっと待ってて後輩君」と言い残し、僕を睨み続ける男とアパートの階段を上っていった。


 処理しなければならない情報が多すぎて頭は完全にショートしたが、復旧させたくもなかった。目の前で起こっている現実を受け入れたくなかったからだ。


 彼女が階段を駆け下りてきた。「はい!」という不自然なほどに元気な声と共に右手を前に突き出した。握られていたのは、僕のパンツだった。




「ごめんね。返すの忘れてた。彼には見られてないから安心して」




「……彼?」




 これまでに経験したこともないような怒りが、腹の底から湧き上がってくるのが分かった。気は確かなのか? どうしてこんなにあっけらかんとした態度で僕に話しかけることができるのか、全くもって理解できなかった。


 彼女は事もなげな様子で話し出した。




「ごめん。彼の態度悪かったよね。私の近くにいる男には常にあんな感じなの。許してあげてね」




 僕はつい苛立ちが表に出てしまって、語気を強めて問いかけた。




「さっきから彼、彼って。付き合ってるんですか?」




 彼女は顔を赤らめ、照れくさそうな顔をした。この表情の意味を、僕は全く理解できなかった。




「うん。半年くらい前に別れたんだけど、やっぱりお前しかいないって。だからよりを戻したの。嬉しいもんだよね。誰かに愛されるっていうのはさ」




 彼女は僕の肩を軽く叩き、ウインクした。




「いい人見つけなよ。君はいい子なんだから絶対素敵な人と一緒になれるよ。私が保証する」




 そう言い残し、彼女はアパートの階段を颯爽と駆け上がっていった。


 発狂したい気持ちを何とか抑え込もうとした。怒りのピークの持続時間は六秒間らしい。なんとか乗り切ろう。


 わなわなと震えながら、彼女と出会ってから今までに起きたことを思い返してはっとした。轟々と燃え盛っていた怒りの炎は鎮火され、残ったのは虚しさという名の灰だった。


 僕は彼女について知らないことが多すぎる。地元の場所、高校生の時はどんな生徒だったか、好きな人のタイプ、最近彼氏がいたのはいつ……。


 どうしてなのか。半年間何をしていたのだろう。あれだけの時間触れ合っていたのに。


 僕は気付いた。手を繋いでいるときも、座っている僕の膝に足を乗せてきたときも、布団に並んで寝そべっていた時も、彼女と目が合ったことがないことに。いつもその視線を独り占めしていたのは、携帯電話という名の手のひらサイズの板だった。


 ここでまた大変なことに気が付いた。気付きというのはどうしていつも、事が起こった後にやってくるのだろう。

 僕は彼女に名前で呼ばれたことすらなかった。







 いつものメンバーで飲みに来た。例のごとく自慢話が繰り広げられていたが、友人の一人が茶化すような口調で核心をついた。




「お前の顔が良いのは分かるが、女の子と会話するのは得意じゃなかったはずだ。俺たちみんな似た者同士だからな。マッチングアプリだけでそんなに都合よくいろんな子と交われるとはどうしても思えん。誰の入れ知恵だ」




 自称モテ男は小さくため息をついて、「ばれてしまったか」と言った。




「今まで自分ひとりで成し遂げた功績かのように話していたことは謝ろう。実は俺には師匠がいるんだ」




「師匠?」




 自称モテ男以外の全員の声が重なった。




「彼だ」




 そう言って携帯の画面をこちらに向けた。そこに写し出されていた人物は、先日僕を般若のお面のような表情で睨んできた彼女の、沙希さんの彼氏だった。




「彼はサークルの先輩なんだが、遊びの達人なんだ。おまけに頭もいいし、運動もできる。超美人な彼女もいる」




 友人の一人が顔を顰めた。




「遊び人のくせに彼女がいるのか。けしからんやつ。俺がその彼女もらってやるから写真を見せろ」




 自称モテ男は「お前には無理だ」と言いながら、師匠の彼女の写真を全員に見せた。僕は顔を見たくなくて、咄嗟に視線をそらした。


 「これは俺には無理だ」「校内で一番といってもいいくらいだ」と友人たちは賞賛の言葉を送った。僕はその人とつい最近まで何度も交わっていたぞと、心の中で胸を張り、すぐに情けなくなって肩を落とした。




「ベリーショートがこんなに似合う人はなかなかいないだろう」




 自称モテ男は、何故か誇らしそうに胸を張った。


 






 ベリーショート? あれから髪を切ったのだろうか。


 見たい気持ちが見たくない気持ちに勝ってしまい、僕は携帯の画面を覗き込んだ。確かにベリーショートがよく似合う絶世の美女が写っていたが、彼女ではなかった。




「師匠は彼女を本当に愛しているらしい。結婚もしたいと言っていた。まさに真実の愛だ。だが遊びに興じることができるのは今しかないというのも事実。師匠は日々悩んでおられる」




 友人の一人が「狂ってる」と言って苦笑いした。







 自称モテ男がトイレで盛大に嘔吐したのがきっかけで店を追い出され、そのまま解散となった。


 一人で寒空の下を、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いた。




「嬉しいもんだよね。誰かに愛されるっていうのはさ」




 彼女の言葉と嬉しそうな顔を思い出して、僕は大きなため息をついた。


 悲しくて情けない思い出は、吐き出された白い息と共に夜空へと消えていった。

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