第23話 新生活
三ヶ月後、私は鮎香瀬さんが所有するマンションに引っ越しました。約束どおり、前入居者の退居後に壁紙を張替えて、エアコンと給湯器を新品に交換してくれました。部屋に備え付けのインドネシア製エスニック家具も入れ替える予定でしたが、内見の際に現物を見たら、デザインが良くて、仕上げや加工も丁寧だったので、そのまま使うことにしました。
良枝さんは引っ越し初日から来て、荷解きを手伝ってくれて、一週間ほど泊まっていきました。この部屋は鮎香瀬さんが最初に購入した物件で、当時、勤務していた病院に近く、彼女も何度も訪れていたので、周辺のお店に詳しく、贔屓にしていた町中華店や蕎麦屋などを実食しながら教えてくれました。
二日目の夜は、鮎香瀬さんが引越し祝いだからと、お高かそうな個室焼肉店へ招待してくれました。チョゴリ姿の女性スタッフが調理バサミやナイフを使って巧みに肉を切りながら焼き、コチジャンやお好みのタレを付けてサンチュ(サニーレタス)で巻いてくれるので、こちらが話しに夢中になっていてもベストの焼き上がりが食べられます。それまでの人生で食べた焼肉の中で、一番、美味しくて、締めに出た冷麺も絶品でした。
「アイリーン、すごく美味しいお店だけど、
ひょっとして瑛斗の胃袋から掴んでいく作戦なの?」
良枝さんが冗談だか本気だかわからない質問をします。
「島崎くんは、美味いもの程度じゃ、なびかないだろう。
どうせ心は掴めないなら、せめて胃袋くらいは掴ませてくれよ。
雇用主なんだから、ビーノから嫉妬されない程度に仲良くしたいんだよ。
ひょっとしてビーノの手料理で、胃袋も確保済みかな?
それだと私は、もう勝ち目なしだな。はははは」
良枝さんが、ちょくちょく繰り出す言葉のジャブを鮎香瀬さんは、いなしたり、かわしたり、たまに真正面で受けながら上手く返していました。食事時や飲んでいるときなど、二人のやりとりを聞くのが、私にとって結構な楽しみでした。
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翌週から仕事が始まりましたが、いきなり秘書ではなく、鮎香瀬さんの自宅清掃からです。以前、本人が掃除や洗濯が苦手だと言っていましたが、ベイエリアにある高層マンションに初めて呼ばれたときは、玄関のシューズボックスの上にブラジャーが置いてあり、お揃いのショーツはリビングのテーブルの上で、しかも半分だけ食べ残したパスタのすぐ横に脱いだままの状態でした。
汚れた下着をこんな風に置く女性がいるかな? もしかして私を試すためにわざとやったのか? とも疑いましたが、いずれの部屋も脱ぎっぱなし、出しっぱなし、飲みっぱなしの物で溢れていたので、どうやら仕込みではなく、これが平常な様子のようです。酔って帰宅して玄関でブラを外し、コンビニで買ったミートソースを食べていたら飽きて、ショーツを履き替えたんだみたいなことを本人は平然と言ってます。
とりあえず、ランドリーバスケットとゴミ袋を手に、あっちこっちに落ちているブラとショーツ、パンストとコンビニの弁当容器やゴミを拾い集めました。本人は恥ずかしがる様子もなく、「だらしなくて御免よ。下着は結構あったな。洗濯が面倒で、どんどん買っちゃうからね」と笑ってました。
彼女の部屋は、きれいにしても一週間から10日程度で、脱ぎ散らかした服や汚れた食器、ビール缶、ワイン瓶が散らかり始めます。服はランドリーバスケット、ゴミはゴミ箱に入れるよう、いくらお願いしてもダメでした。私を雇う前は、どうしていたのか尋ねたら、見ず知らずの人に脱いだ下着を見られるのは嫌だから、専門の清掃業者ではなく主婦をしている友人に謝礼を払って、ずっと掃除と洗濯を頼んでいたそうです。
今でこそ片付けられない女性や汚部屋は報道番組やバラエティなどでお馴染みですが、当時は、まだ知られておらず、見た目は、すごくきっちりしている人なのに、どうして散らかしっぱなしなんだろうと不思議でした。
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月が明けると、仕事に必要だからと都内にあるビジネススクールの秘書科コースに通わされました。12名いたクラスメイトの中で、男性は二人だけでしたが、もう一人は海外旅行会社を経営する女性社長の新人秘書でした。元劇団員ということで、お互い詳しく話さずとも似たような立場だとわかったので、すぐに仲良くなりました。
さらに鮎香瀬さんは、ビジネスマナーや顧客応対、クレームの処理などを学ぶコースも申し込んでいました。こちらは男性ばかりで、日本企業に就職した外国人や輸入車代理店の新人スタッフ、会社命令で来ていたデパートの中間管理職などがいました。
「島崎くんは話は上手いけど、文章はどうなのかな?
学生時代、作文とか得意だった?
……そうか。むしろ苦手か。
それなら、今度の仕事は必要最低限の文章力が必要だから、
勉強してもらわないと。いやいや、心配はいらないよ。
いい先生がマンツーマンで指導してくるから」
文章書きの指南役は「ミモザ」と呼ばれる60代半ばの女性で、某新聞社で文芸欄を長年担当し、定年退職後はフリーの編集者とカルチャースクールの講師をやっている方でした。
日暮里駅から徒歩10分ほどの小津安二郎の映画に出てきそうな古い一軒家で一人暮らしをしており、ビジネススクールの授業がない毎週木曜日に、私が御自宅まで行き、午後1時から午後4時まで授業を受けていました。授業が終わるとティータイムで雑談をするのですが、話が弾んで晩御飯を一緒に食べたり、飲みに行くことも、しばしばありました。
ミモザさんも向こう側陣営の方で、良枝さんと鮎香瀬さんのことをビーノ、アイリーンと呼んでいましたが、鮎香瀬さんはアイリーンと呼び捨てなのに、なぜか良枝さんはビーノちゃんと、ちゃん付でした。鮎香瀬さんとは10年ほど前、馴染みのバーのママさんから、同じ作家好きの読書家ということで紹介されて付き合いが始り、その後、良枝さんとも親しくなったそうです。
特定のパートナーはおらず、いつもノンケの同性を好きになるので片思いばかりで、本だけが恋人だそうで自分のことを「私は器量が良くなくて背も低いし、子供の頃から小太りだったから」と卑下していましたが、目がクリクリしてて大きく、まるで漫画の狸やアライグマが人間になったみたいで可愛らしく、私は大好きでした。
小学生の頃から作文が大の苦手だった私が、拙いながら、こうして人様に読んでもらえる文章を書ける程度になったのは、このミモザさんの御陰で、今でも感謝しています。ミモザさんは、文章の練習になるし、人生を振り返るときに必ず役立つからと日記を書くことを強く勧めてくれました。過去のブログ記事や、この原稿を書けた理由は、その日記があったからです。
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鮎香瀬さんは、私に髪を伸ばすことと、下着は女性物を着用し、メイクの練習をするように命じました。下着と化粧品は良枝さんが買い揃えて、引越し初日に持って来てくれました。彼女が一週間も泊まっていったのは、メイクのレクチャーと新しい下着を身に着けた私を味わうという目的もあったからです。
引越す前に鮎香瀬さんには「私が見たいときは女装して欲しい」とか「女装くらいしてくれよ」と言われましたが、スーツやエナメルコスチュームを着る程度で済むのか、それとも、もっと過激な要求があるのかが分からず不安と期待が交差する状況でした。
掃除のため彼女の部屋に初めて呼ばれたとき、きっと抜き打ちで下着を確認するだろうと思い、普段から付けているアピールすべく、敢えて一番地味なものを選んで行きましたが、作業が終わっても「服を脱いで」とか「下着を見せて」とは言われず、「ありがとう。片付けてくれたご褒美に寿司でも食べに行こうか」だけでした。
その後も特に何のリクエストもアクションもないまま、二ヶ月が過ぎたので、これはおかしいと思い良枝さんに相談してみました。
「アイリーンが何もしてこない? あぁ、その件ね。
今まで黙っていたけど、瑛斗が引越してきたら、
最初は独り占めさせて欲しいって、私が彼女に頼んだの。
だって、瑛斗が東京に住んでいるんだよ。
時間が許す限り、いつでも会いたかったんだもん」
三人でホテルで会った後の引越すまでの三ヶ月間、良枝さんとは毎週、都内や千葉市のホテルでデートしていたし、電話は相変わらず、一日、複数回ありました。私としては、十分に相手をしたつもりでしたが、彼女は決して満足していなかったようです。
いつもの良枝さんならば、鮎香瀬さんの部屋掃除に行った後、今日は何もなかったのかを根掘り葉掘り聞いてくるだろうに「彼女の部屋、酷いでしょう?」「お疲れ様でした」程度で終わっていたので不思議でしたが、その理由がようやくわかりました。
翌々日、掃除のため鮎香瀬さんの部屋に行くと会って早々に言われました。
「聞いたよ。私が何も仕掛けてこない理由をビーノに尋ねたんだって?
はははは、期待させといて悪かったね。まあ、そういうわけだから、
しばらくは彼女の相手をして、安心させてやってくれ。
君は心底彼女から愛されてて、羨ましいよ」
事情を聞いてみるとマンションの改装工事が終わった頃、急に良枝さんが「やっぱり、瑛斗の秘書話を白紙に戻したい」と言い始めたそうです。私とデートを重ねているうちに、二人で暮らしたいと考えが変わったので、仕事もマンションも断るとのこと。
鮎香瀬さんにしてみれば、いろいろ準備をした後なので「冗談じゃないぞ」状態で、幾度か話し合って最終的に引越し後、しばらくは良枝さんが私を独占するという条件で、当初の予定どおりに進めることで再合意したそうです。
「まぁビーノのブラフだったような気もするんだけどね。
つくづく我儘な女だよな。はははは」
そう言いながら無茶な要求を聞き入れているのですから、大人物なのか、はたまた単に良枝さんには激甘なのか。
「島崎くんの髪が伸びて、メイクがうまくなったら、
OLスーツを着てもらって、二人での部屋飲みを楽しみにしているから。
君は、どんな表情を見せてくれるかな」
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