第二話 02 いつだって旅立ちは憂鬱なものだった ⑵

 出発の支度をする。といっても、何か準備をするわけでもない。革靴ブーツを履き、裾が解れてぼろぼろになった灰色のローブを羽織る。刺突細剣レイピアを佩きローブのフードを深く被ったら、レイモンドに続いて部屋を出ていく。

 宿の廊下は狭くて薄暗く、客室以上に古びて汚かった。何の気なしに目を遣り、扉の数を確認する。廊下の片側の壁に四つ。反対側の壁は窓が幾つか開けられ、そこから手入れがされていなさそうな中庭が見えた。

「レイ、追手を見たということ?」

 前を行くレイモンドに問い掛ける。

「はい、恐らくは。市場に見慣れない兵士たちを数名見掛けました。あれは、明らかにこの街の兵ではありません」

 思い過ごしなのではと咄嗟に思ったが、多分そうではないだろう。お互い何年も逃亡生活を続けてきたせいで、そういったことに対してやたらと鼻が利くようになってしまった。

「・・・・・・この街を無事に出られそう?」

「大丈夫です。今回は幾らか長く滞在できましたから、土地勘も多少は付きました。街を出たら、いったん辺境の森に向かいましょう」

 レイモンドの口調には、確信がこもっている。しかしきっと、確信があるわけではないだろう。ジュディを安心させるためにそう言っているのだ。それが何処か焦っているようにも見えたし、彼自身に言い聞かせているようにも思えた。それでもこの殺伐とした生活の中で、そのレイモンドの気遣いは有難かった。

 宿賃は先に払っているので、何も言わず出ていく。周囲に目を配りながら慎重に宿を出たレイモンドに続いて、ジュディも戸の敷居をまたいで店を後にする。

 今回は幾らか長い滞在だった。

 ここが安寧の地だとは勿論思ってはいなかったが、まだもうしばらく居られると思っていた。今まで色んな街に行ってきたが、数日で立ち去ることもあったし、数年にわたって潜伏したこともあった。

 そうしているうちに旅立ちには慣れていったが、いつだって旅立ちは憂鬱なものだった。今回もそうだ。


 朝の路地裏はひっそりとしていて、市場から聞こえるであろう微かな喧騒だけが遠く響いている。通りは真っ直ぐに続いていて、未だ夜の帳を引きずっているかのように家々の陰に沈んでいる。人影はない、と思えた。

「・・・・・・まずい」

 ジュディに聞こえるくらいの小さな声で、レイモンドがそう呟いた。見やった彼の横顔は、今までにないほどに強張っている。

 その瞬間、ざわ、とジュディは自分の肌が粟立つのを感じた。言いようの出来ぬ危機が迫っていると、自分の中の何かが叫んでいる。

「レイ――」ジュディが言葉を投げ掛けるのに被せるように、レイモンドの声が路地に響き渡った。「ジェイド! 走れ!」

 公衆の面前では『姫様』と呼ばず偽名で呼び合う、という二人の間のルールをこの状況で律義に守っていることに場違いながら感心しつつ、レイモンドの大声に身体が強張る。

 レイモンドの左手がジュディの右手首を掴み、彼は咄嗟に駆け出した。ぐい、と引っ張られるようにジュディの身体は前のめりになり、倒れそうになるのを堪えつつ、彼女は足を懸命に前に踏み出した。

「居たぞ!」背後から、そんな声が聞こえた。「追え! あの二人だ!」

 振り返った途端、誰も居ないかに思えた路地の死角から幾人かの兵士が飛び出してきた。

 この街の衛兵とは違う、鎖帷子くさりかたびらではなく軽装の革鎧を着て短剣を帯びた男たちだ。四,五人はいるだろうか。彼等のそれは、明らかに戦闘ではなく追跡と捕縛に重きを置いた装備だった。皆一様に同じ装備を付けていて、それらは赤を基調とした色合いにまとめられていた。

「さあ、早く! 急いで!」

 そう急かすレイモンドの声は必死で、ジュディは足がもたついて転びそうになりながらも懸命に走った。

 路地裏の景色が瞬く間に後ろに流れていく。呼吸が整わない。鼓動が早鐘のように脈打っている。引っ張られる右手が痛い。必死で足を動かすたびに、右に佩いた刺突細剣レイピアが右腿に当たり、ローブは風を受けてたなびく。

 路地の突き当りを左に曲がる。背後からすぐ兵士たちが追いすがってくる感覚がする。革と布の擦れる音と、怒号が路地に響き渡る。

「はぁ、はぁ……!」

 レイモンドと、ジュディの荒い呼吸が重なる。彼は左手でしっかりとジュディの腕を掴みながら、もう片方の手で左に佩いた剣を抜き放った。

「ご辛抱を!」

 そう叫ぶ彼の横顔も厳しさに歪み、額には汗が浮かんでいる。

 狭い路地を走り抜ける。日干し煉瓦で作られた建物の壁と壁の間を、あらん限りの速度で抜けていく。

 数日前の雨のせいで日陰はぬかるんでいて、時折踏み抜く水溜まりのせいでズボンの裾が茶色く濁った水で汚れていく。レイモンドの靴から撥ねた泥が、ジュディの服や顔を斑点のように汚していった。しかし、もう構ってはいられない様子で、ただひたすらレイモンドはジュディの手を引いて走っていく。

 追手との距離は変わらないようだ。

 相変わらず、ほぼすぐ後ろから追跡者の足音と「待て!」という怒号が聞こえてくる。そしてどうやら、別の路地にも追手が居るようだった。辻に着くたび、別の路地裏から同じような格好をした追手が躍り出てくる。

 以前にも数度このように追われたことがあったが、それは確か正規兵ではなく賞金稼ぎだった。しかし、今回は恐らく訓練を積んだ兵士たち。

 赤い追跡者たちは、こういった追跡が手馴れているように見えた。徐々に、囲まれているような気がする。息が上がってきた。あまり思考も回らない。足に疲労が溜まってきて、ジュディは自分の奥底から諦念がむくむくと湧き上がってくるのを感じた。

「もう……無理よ」

 限界だった。体力ではない。もう、ジュディには逃げ惑う気力が残っていなかった。

 いいのではないか、もう充分逃げたではないか。そもそも、惰性で生き長らえてきたジュディにとって、もうこれ以上逃げ続ける理由もとうに失われているのではないか。

 ここで逃げ切れても、どうせまた次が来る。永遠に逃げ続けなければいけない。自分の存在意義からも逃げているのに、現実の追手にまで追われるなんてもう真っ平だ。

 そんな感情がどんどん大きくなって遂に爆発しそうになり、ジュディの歩幅は次第に小さくなり、速度は緩んだ。異変に気が付いたレイモンドが振り返る。

「いかがされました! あと少しで城壁です!」

「……もう私には無理よ、レイ。諦めるわ、貴方だけでも逃げて」

 きっと、予想以上に目が死んでいたのだろう。ジュディの顔を見据えたレイモンドは、一瞬ぎょっとした表情を見せた。

「何を――」

 レイモンドがそう言った瞬間、横から追跡者が現れたかと思うと、走ってきた慣性のままレイモンドに体当たりをかました。どん、という鈍い音が響くと、レイモンドの手はジュディを離れ、身体は追跡者と縺れながら吹き飛ばされていく。

 どうやら辻に来ていたらしい。別の路地に居た追跡者が追い付いてきて、路地の曲がり角の向こうからレイモンドに組みかかったのだった。

「レイ!」

 驚いて立ち止まったジュディに、今度は背後から迫っていた赤い追跡者が襲い掛かる。怒号か聞こえ、振り返った刹那。追手の手がジュディの肩に伸びて、彼女は追跡者によって乱暴に組み伏せられる。

「ゔぁっ……」

 自分でも聞いたことのないような呻き声が漏れる。男は膝をジュディの背中に乱暴に押し付けて、左手で彼女の後頭部を押さえつけた。ぬかるんだ泥まみれの地面にジュディの顔が無造作に押し付けられる。

 視界が暗転した。

 数人の足音がする。別の男のものであろう足が、ジュディの左手を思い切り踏み付ける。激痛。

「捕まえたぞ! 報告!」「姫! 貴様らッ!」「こいつも殺すな! 生け捕りにしろ!」「剣を奪え!」

 そんな声がジュディの頭上を飛び交う。顔面を泥の水溜まりに押し付けられ、呼吸が出来ない。

 強い力で押さえつけてくる男の手の荷重を何とかずらし、ジュディは顔を横に向けた。大きく口を開けて、空気を貪る。泥水が幾らか口の中に入ってきて、咽る。

 けたたましい金属音が鳴った。

 次の瞬間、彼女の顔面近くに剣が落ちてくる。この柄の装飾、レイモンドのものだった。視線を上に向けようとするが上手くいかない。何が起こっているのか。

「捕らえろ! 丸腰だぞ」

「くそっ……」

 ジュディからしてみれば、八つ年長で男のレイモンドは壮健そのもので、非の打ち所のない強い騎士だった。しかし、恐らく多勢に無勢のこの状況では、流石のレイモンドでも太刀打ちできないのだろう。

 早く逃げて、ジュディはそう願うことしかできない。

 しばしの間、怒号と剣が虚空を斬る音、掴みかかっては解かれる音、靴底が砂を擦り水溜まりを踏み抜く音が聞こえる。少しずつだが段々と、ジュディの居る場所から音が遠ざかっていくようだった。

 そして、誰かが逡巡しつつもこの場を立ち去ろうとする足音が地面からジュディの耳に響く。それを追いかけようとする複数の足音も。

 レイモンドが逃げるのかもしれない。このままどうか逃げ切ってほしい。

 思いとは裏腹に諦念の中に微かな悔しさと寂しさが滲んできたとき、突如、ジュディの鼓膜を震わせる凛々しい声が聞こえた。


「姫様! エイルマー・デューイの子、ジュディス・マークティスの従者にして騎士、貴方の友、レイモンド・デューイ! 我が命と父の名に懸けて、必ずや、必ずや御身をお助け致します!」


 諦念と悔しさに満ちる心の中に、僅かばかりの熱が灯った。

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