第三話 好奇心の権化たる青い宝石 イヴリン

第三話 01 好奇心の権化たる青い宝石 ⑴

 コーン!

 木と木がぶつかり合う小気味良い音が室内に反響する。開け放たれた窓からは朝の柔らかな陽光が差し込み、向こうに見える中庭の緑と少し蒸し暑い空気が夏を告げていた。

 室内は大きく、家具や調度品の類いは壁際に幾つか置かれているだけで、広々としている。元々は舞踏用の部屋として造られたらしく、壁や天井には華美な装飾や絵画が設えられていた。

 十六歳のイヴリン・レーンは、今しがた手から払い落とされた木剣を素早く拾い上げて構え直した。手が少しばかり痺れているが、このくらいならば問題ない。そうして、目の前にたたずむ男を注視する。

 ダーレン・レディング。深い皺が刻まれた初老の男で、レーン家の食客であり、イヴリンの剣の師でもあった。

 聞けば、彼は遠い東方の生まれで、祖国の戦乱から逃げ延びてくるうちにこの街に流れ着いたらしい。少し色味がかった肌と黒い髪、黒い瞳と、ボタンを使っていないその服装は、確かに異国の情緒をどことなく纏っているように思えた。本人に言わせれば、その名前も偽りだという。

 名も素性も知れない異邦の男をなぜ父が屋敷に置いているのかは疑問だったが、イヴリンはこの剣士を気に入っていた。領主の娘たるイヴリンに対して、他の人がするように気を遣いすぎないし、敬意も払いすぎない。その彼の気さくな距離感が心地良いのだった。

 深く深呼吸をし、木剣を両手で構えて切っ先をダーレンの喉元に向ける。東方ではこうやって剣を両手に持つらしい。

 相手、ダーレンも再び木剣を構え直し、部屋に仕切り直しの空気が満ちる。中庭側の壁に設けられた外へ出る扉の脇には、不安そうな顔をした侍女のベリンダが一挙手一投足を見逃すまいとこちらをじっと見つめていた。

 右足を踏み込む。相手と距離を詰め、互いの木剣の切っ先が触れる。

 次の瞬間、一気にダーレンが踏み込んできた。自分の手の一部であるかのように自在に木剣を操り、次から次へと突きと斬りを繰り出してくる。濁流のような猛攻に、木剣を使って何とか捌いていくが、どんどん後退させられて部屋の端へと追いやられていく。

 勝機が見えないが、じっと我慢して猛攻を受け止め、捌いていく。たまに、一瞬だけ、相手の隙が見えるときがある。そんな時を逃さずに、

「はぁっ!」

 あまり振りかぶり過ぎず、最小限の動きで右から斬り込み、横から相手の首筋に木剣をピタリとつけた。

 静寂。二人の動きが止まる。

「ほう」ダーレンの驚きの混じった声が響く。「上達なさいましたな」

 おどけたように肩をすくめながら、ダーレンは木剣を下ろして一歩下がった。

「あなた、本当に容赦がないのね。全く手加減しないんだもの」

 ふっと緊迫した空気が解け、イヴリンは木剣を左手に持ち替えて、痺れを取るように右手を振る。

「訓練ですから。それに、イヴリン様直々の申し出とあっては、手加減すること自体誠意に欠けるとは思いませんか?」

「そうね。レディには手加減無しで木剣を振り回さないと、誠意の欠けた行為というものだわ」

 皮肉のつもりだったが、イヴリンのにやけ顔を見て取ったのか、彼はおどけたように肩をすくめて見せた。

「最初に、剣の手ほどきをして欲しいと言われたときはどうしたものかと思いましたが……いやはや、なかなか見込みはある。ただ、お父上がお知りになったらどう思われるか。私もお叱りを受けなければ良いのですが」

 そう言いつつも、ダーレンは全く『お叱り』を恐れていないかのように大きく笑った。

「それは大丈夫よ。私が相当にやんちゃなのは父上も理解しているし、仮に止めたって聞かないわ!」

「……もう少しレディらしく可憐に振舞っていただいたほうが、こちらも多少はやりやすいのですがな」

 そう言って、ダーレンは木剣を腰帯に差し込んだ。

「さてお嬢様、今朝の稽古はこれでおしまいです。さあ、貴方の侍女も退屈しておられる頃合いですから、お食事にでも行かれたらどうです?」

「退屈などしておりません! ただ、その、危なっかしいので……」

 そう言ったベリンダはイヴリンの侍女で、栗毛の癖毛にそばかすが似合う、イヴリンよりも少し年上の女性だった。他の侍女たちよりも歳が近いので、何かといつも連れているお気に入りの侍女だ。

 朝、太陽と共に目覚め、身支度を整えたら真っ先にここに来て稽古をするのがイヴリンの日課だった。

 父が見たらきっと、レディの嗜みにあるまじきなどと言って渋い顔をするのだろうが、今は父は王都に居るので小言を言われる心配も無い。

 こうして毎朝ベリンダを連れて、堂々とここに通うことができる。

 イヴリンの父アーヴィンは、ここロンデルドの領主だった。イヴリンはその二番目の子で、レーン家唯一の令嬢レディとしてこの屋敷で暮らしている。

 レーン家がこのロンデルドを王から拝領したのは九年前で、それまでレーン家は≪南部≫最上位の貴族だったオードラン家の旗持ちとして仕えていたらしい。

 オードラン家が≪王女逃亡事件≫に連座する形で失脚したのち、その所領がオードラン家の旗持ち貴族たちに再分与され、レーン家はその名声と功績とを以て≪南部≫最大都市レグルルに次ぐ規模を誇るこの誇り高きロンデルドを与えられたと聞く。

 しかし、それはイヴリンが七歳のころで、彼女は物心ついたときからここに暮らしていたので、この街は彼女にとっては故郷そのものといってよかった。

 父アーヴィンは普段は王都に居てイヴリンには分からない難しい務めを果たしているので、この街の統治はイヴリンの兄である十八歳のドミニクが行っている。とは言っても、実際には父が用意した顧問団と、兄の後見役が協力して統治にあたっていた。

 兄ドミニクはお世辞にも立派な男とは呼べず、意志は弱く、優柔不断で、統率力が無い。見ていてとても苛々させられることも多い。それでも男子で跡継ぎなので職務に当たらなければならないのは仕方ないとは言えるが、どうやら、活発なところと、好奇心や探求心が旺盛なところはイヴリンが全て持って行ってしまったらしい。

「そうね、それではもう行くわ。ダーレン、またよろしく頼むわね」

 木剣をダーレンに放り投げて、イヴリンは踵を返した。

 ベリンダの横を通り過ぎて、扉をくぐり中庭を出る。ベリンダはそうあるように、そっと音もなくイヴリンに続いた。

「こちらこそ。マイ・レディ、良き一日を!」

 ダーレンの快活な声が、後ろから聞こえた。


 屋敷暮らしが長く、一人で出歩けるようになってからは一度もこの街を出たことは無いので、珍しいものにはとても興味が引かれる。母は、イヴリンのきらきらと輝く大きな青い瞳を指して『好奇心の権化たる青い宝石』と言ったものだった。

 年頃なのもそうだが、何かに興味が湧くと居てもたっても居られないということがよくある。その度にベリンダを連れて色々な場所に顔を出すために、屋敷や街の市場では、侍女を引っ張り回してあれこれと質問して彼女を困らせる活発な領主の娘として、ある種の名物としてこの街で有名になってしまっていた。

 兄はこのことをあまり快く思っていないようで、顔を合わせるたびに小言を言ってくるが、もともと口達者ではないためにいつもすぐイヴリンに言い負かされてしまう。この事も、兄が周囲からあまり尊敬されない原因の一つとなってしまっていることは薄々感じてはいたが、正直なところ、彼女の飽くなき好奇心と比して、兄の評判などイヴリンにとってはどうでもよいことだった。

 ベリンダを連れて舞踏室を出、朝食を取るために厨房へと向かう。

 厨房へ向かっていることに途中で気が付いたベリンダが、「お嬢様」と呆れた声を出した。

「そちらは厨房です。貴族の令嬢レディたられるイヴリン様は、きちんと食堂で召し上がっていただかないと」

「知っているわ。知っているけれど、厨房から食堂に運ぶうちに食事が冷めてしまうじゃない。だから食事を運ぶのではなくて、私から厨房に向かうのはとても合理的だと思わない?」

「思いません。それに、お嬢様が厨房に出向かれたら、料理人や使用人たちが緊張してしまうでしょう」

 こういうとき、ベリンダはとても困った顔をする。それが面白くて、イヴリンはついつい彼女に意地悪をしてもっと困らせたくなってしまう。

「なら、私と気付かれなければいいのね。使用人の服に着替えましょう。そうすればいつでも厨房で食事ができるわ!」

「お嬢様、あまり私を困らせるのはおやめください……兄上様から仰せつかっております、その……」少し言い淀んだが、ベリンダは言った。「もっと、令嬢レディにふさわしい教育と躾を施すように、と」

「躾ですって! 私を動物のように扱うのね、全く失礼な兄だわ。父上に言いつけてやろうかしら」

「いえ……、むしろ、私が御父上にお嬢様のことをご進言申し上げたいくらいです……」

 ベリンダは呆れたようにそう呟いた。イヴリンは彼女にムッとした顔を向けたが、もう慣れているのか、ベリンダは全く動じていないようだった。

「ふん……まあ、いいわ。今日は食堂で食べましょう。でも、ちょっとだけ厨房を覗くくらいなら良いでしょう?」

 ベリンダが止めるのも聞かず、イヴリンは歩き出して廊下の角を曲がった。

 曲がった先に厨房の入り口があるはずだったが、曲がった途端、ふと、そこに一人、誰かが立っているのが見えた。

 使用人の服を着た女性だった。

 レーン家は裕福だが、使用人の数はそこまで多くはない。毎日屋敷や街を飛び回っているイヴリンにとって、使用人の顔と名前を覚えるのはそう難しいことではなく、廊下に佇んでいるその使用人を一目見てすぐに、知らない人物であることに気が付いた。

「あなたは……」

 イヴリンがそう声を掛けると、その人物は心底驚いた表情でこちらを振り向いた。

 亜麻あま色の髪に、煤竹すすたけ色の瞳、左目尻には大きな泣き黒子ぼくろ。背はイヴリンよりも高く、お手本のような立ち姿をしていて、服の上からでも無駄のない体格をしているのが分かった。

 そして、とても印象的だったのは、彼女から発せられているピンと張り詰めたような威圧感だった。

 言い淀んでいるうちに、その女性使用人は鋭い視線をイヴリンに向け、彼女の顔と服装を一瞥する。続いて素早く視線を半歩後ろにいたベリンダに向けると、何かを察したのか、急に放射していた威圧感を消して、身体をこちらに向けるとさっきまでの鋭い表情が嘘のような柔和な笑みを見せた。

「これは、お嬢様でいらっしゃいますね。初めてお目にかかります。昨日からこちらのお屋敷で働かせていただいております――」一旦言葉を止めると、彼女は恭しくお辞儀をした。「セシリーと申します」

 昨日から。聞いていなかった。確かに昨日は一日じゅう市場で珍しい品物を漁っていたので、昨日付で来た使用人を今まで知らなかったのも無理はない。

「そう、セシリー。良い名前ね。よろしく。それで、ここで何をしているの?」

 単純な好奇心で尋ねたつもりだったが、セシリーは何故か慌てた様子を見せた。

「い、いえ、まだ慣れぬものですから、迷ってしまって。お嬢様、失礼ですが使用人室にはどうやって戻れば……?」

 なんだ、そんなことか。それできっと、自分がどこにいるか分からなくなって緊張して張り詰めていたのかもしれない。

「使用人室? そんなもの、ここからすぐよ」そう言って、案内しようかと思ったが、思いのほか自分が空腹であることに気が付いた。「……でもいけない、私はもうお腹がペコペコなの。今から食堂に行ってお食事をしなくちゃならないから、そうね、ベリンダ、セシリーを使用人室まで案内してあげて」

 ベリンダは少し眉を吊り上げたが、しかし反論はしなかった。

 まるで、ちゃんと食堂に行ってくださいと言わんばかりにこちらをじっと見つめると、セシリーを連れて廊下の奥に消えていった。

 厨房を覗こうかとも思ったが、気が変わった。食堂に行って早く食事を済ませてしまおう。そうしたら、今日はどこへ行こうか。

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