第二話 いつだって旅立ちは憂鬱なものだった ジュディ
第二話 01 いつだって旅立ちは憂鬱なものだった ⑴
王都は
広大な平野が広がる王都周辺から続く土地で、この辺りまで来ると平野は丘陵地に変わり、河川の数も多くなる。気候もより温暖となって、作物が多く実る肥沃な大地として王都の経済を支える重要な土地だった。
その≪南部≫の西の方にレグルルという大きな都市があって、レグルルからさらに南、辺境にほど近い小高い丘の麓にその街はあった。
その丘の名前を取って、そこは≪
ロンデルドの領主は古くからレグルルを本拠に南部一帯を治めたオードラン家であったが、そのオードラン家が十年ほど前に没落して以降、領地がその直臣たちに再配分されたことで、今そのロンデルドはレーン家という貴族家が治めるに至っていた。
ロンデルドは人里離れた場所にありながらも、城壁を持つ規模の大きな街だった。それは、南部最上位の貴族であったオードラン家の所領であった故であることもそうだが、その主な理由は綿製品の輸出と奴隷貿易による富の蓄積だった。
温暖で湿度も高すぎないロンデルド周辺は、昔から綿の栽培に好都合だった。それに加えて南部辺境の森に近いこともあって、度々街の男たちはこぞって森に≪雑草狩り≫に出掛け、仕入れた≪
そういった所以もあり、この街には一際大きな通商路が繋がっていて、いつでも大勢の行商や旅行者がこの街を訪れる。そのため、門から伸びる大きな通りに幾つかの市場が隣接していて、そこはいつも無数の人でごった返して街に活気を与えていた。
そこから一本路地に入ると、そこには旅行者や商人向けに隊商宿や酒場が軒を連ねている。大通りよりも幾分静かな場所だが、それでもそれなりの人の往来はあった。
そんな街だから、商人や旅行者の他にも様々な境遇の人々が自然と集まり、中には流れ者や素性の知れない者、闇商人なども紛れ込んでいて、そんな人々は宿通りからさらに一本奥に進んだ路地にひっそりと身を潜めているのだった。
路地奥の一角にある見るからに薄汚い外観の宿の一室。ふと、遠くから聞こえる喧騒で目が覚めた。天井は煤だらけで、蜘蛛の巣が掛かっている。部屋は日の入らない北側なので、まだ薄暗い。
自分がいまどこに居るのか、思い出すまでに数刻を要した。部屋の中に満ちる埃っぽい空気と、
その景色は、心の中を映す鏡のように、澱のように奥底に溜まった諦念と絶望を投影しているかに思えた。
ジュディ・マークティスは半身を起こすと、毎朝そうしているように、短く深い溜息をつく。
また、朝が来た。なんの目的も無く、ただ漫然と生きているだけの自分にも、朝はやってくるのだ。それが、本当に嫌だった。
あれから九年、諦念の淵にこの身を沈めながら、生を繋いできた。何か理由があった訳ではない。ただ、この年月の間に死ぬ機会が訪れなかっただけだ。生まれてこのかた何か明確な目的を持って生きていたとは言い難いが、それでもあの日を境にジュディは生きる目的を失ってしまったのだ。ただ、死ぬ意味もないので今まで生きている。
いつもこうだった。朝が来るとまず、否応なしに自分の境遇が真っ先に思い出されて、諦めているはずの自分の心に一滴の波紋を作り出す。諦めているから何も感じないはずなのに、それでもこうやって自分の境遇を嘆いている。なぜ、どうしてこうなったと問い続けている。
考え続けていても栓の無いことだと言い聞かせる。そうやって自分の中で押し問答をして、答えの出ない思考を延々と巡らせている。そう、どうしようもなく、哀しいのだ。
不意に、部屋の戸が開かれる。ジュディは咄嗟に身構えたが、そこに現れたのは見知った顔だった。
「・・・・・・レイ。どこかに行っていたの」
「おはようございます姫様。起きておられましたか。驚かせてしまったようですね」
従者のレイモンド・デューイだった。長身に癖っ毛の黒髪、鳶色の瞳にうっすらと焼けた顔。随分と
「市場に朝飯を買いに行っておりました。ここの飯は不味いので」そういうレイモンドを見るジュディの目線に気が付いたのか、彼は慌てて付け加えた。「大丈夫です。こんな小汚い男、誰の目にも留まりませんから」
齢二十七という人生の盛りであろう男が『小汚い』格好をしている理由の最たるものが自分であることに、ジュディは少し引け目を感じた。しかし、ジュディの格好もレイモンドとそう大差はない。
ふと、部屋の隅に置かれた古びた机の上の鏡に目を遣った。
従者というには不似合いなみすぼらしい風体の男に、主らしくない汚れた身なりの女。かつては美しく艶のある輝きを放っていた
翡翠色の瞳は輝きを失って久しく、生きる希望を無くした虚ろな視線をこちらに投げ掛けている。
「しかし……一つ悪い報告があります」
「どうしたの」
「我々が此処に居ることを気取られたかも知れません」
もう、今更驚きもしなかった。
実の父である王に命を狙われ王都を逃げ出してから九年。レイモンドの助けを得ながら、様々な場所を転々として逃亡生活を送ってきた。
我ながら良くこの年月を生き延びてこられたと思う。追手に捕まりそうになったことも何度かあった。その度にレイモンドの機転と幸運で危機を脱してきた。
しかし、そういった経験を幾度もしていくうちに、心が少しずつ冷えて死んでいくのが分かった。感情が欠落していって、何事にも動じなくなった。生き延びても、ここで死んでもどちらでも構わないという自暴自棄な考えしか最早浮かんでこないのだ。
そんな感情を見透かしてか、寂しそうな微笑みをレイモンドは浮かべた。
「そんな顔をなさらないでください。この剣と兄上にかけて、姫様の御身は必ずやお守り致します」
彼の言葉に嘘はないだろう。レイモンドの瞳の奥にはまだ消えぬ炎が宿っているかのようで、きっと、この立派な騎士は命尽きるまでジュディのことを守ってくれるだろう。
レイモンドは手に持っていた麻袋を
「これを食べたら出発致しましょう。行商に紛れてこの街を出ます」
「それから? 今度は一体どこへ向かえばいいの?」
少し、きつい言い方だったかもしれない。正直、もうこんな事の繰り返しはうんざりだった。この生活は一体いつまで続くのだろうか。心の何処かで、もう終わりにしたいと思っている自分が居ることにジュディは気が付いていた。
「・・・・・・分かりません。しかし、今度こそ、誰も追ってこない場所に向かいましょう」
レイモンドは必死に元気づけ、勇気づけようとしてくれる。気は進まないが、レイモンドのその気持ちに応えるかのように割いたパンを黙って受け取り、頬張る。
確かに、この宿のパンよりも幾分味はましだった。
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