第一部 群像・ロンデルドにて
第一話 いつだって旅立ちは清々しいものだ クラロス
第一話 01 いつだって旅立ちは清々しいものだ ⑴
フッと、まるで今この瞬間に目が覚めるのが決まっていたかのように、クラロス・ヴァーレンドの瞼は開いた。
辺りはすでに日が昇って久しく、燦燦と降り注ぐ陽光は高く大きく生い茂った木々の葉に遮られて周囲を優しい翠色に包み込んでいた。目覚めは良かった。
クラロスは旅をしていた。
何故、旅をしているのか、本当の理由は本人にも良く分からない。村の親しい者たちや年長者にはそれなりの角の立たない理由を並べ立てて飛び出してきたが、真の理由、なぜ自分はこんな危険を冒してまで当て所もなく旅をしているのか、それは実際のところクラロス自身にも分からなかった。
その理由を探すために旅をしているのだ、などと言うつもりはない。そこまで生易しい旅ではないことは本人にも分かっている。この世界は、そんな生ぬるいことを言えるほど優しい世界ではないのだ。
彼は≪
この世界は≪
そんな、息を吹きかければ消え去ってしまう微かな灯のような存在の一人であるクラロスが単身旅をするというのは、当然の如く危険以外の何物でもない行動であって、村に住む大勢の人たちも必死になって止めたものだった。それでも、彼は村を出た。
「ふああ」
大きく伸びをして、上体を起こす。
周りを見渡して、無くなった荷物がないか確認する。
最も大事な持ち物である一振りの剣の在処を確認したのち、クラロスは立ち上がった。
≪
誰がクラロスのような存在をそう呼び始めたのかは知らない。それはクラロスが知る限り昔からそうだったし、これからもそうだろう。
≪
地図はない。当て所もなく、ひたすら北に向かって歩みを進める。
ここは南部の辺境なので、人間の主権の及ばざる地域だった。その南部辺境の更に深部、深い森の中にクラロスの居た村はあった。
そこは昔、人間の街から逃げ出した≪
しかし、現実はこうだ。
辺境に集落を作り身を潜める彼等は、結局のところいつ人間に見つかって再び奴隷にされるか殺されてしまうかと、怯えている。そして、街から逃げ出してきた同胞の≪
集落の中に漂う空気は、周りの豊かな自然にある澄んだ空気と違って、澱んでいる。
ひどい有様だった。結局彼等は、街に居ようと辺境に居ようと変わらないのだった。どこに居ようと彼等の運命は決まっていたのかもしれない。
なるほど、そういった諦念が澱のように溜まったあの集落の雰囲気も、クラロスに旅立ちを促す理由の一つであったかもしれない。
彼は内心、歓喜していた。閉塞した村を出たこともそうだが、しかしいつだって旅立ちは清々しいものだ。前途に何が待ち受けているのか分からない期待感と、この身一つであるという不安感。それらが入り混じって形容できない高揚感となって胸の内から溢れ、足を前に進ませる。
旅立ちはこれが初めてではなかった。一度だけ、旅をしたことがある。そうして旅路の果てに辿り着いたのが、先日まで暮らしていた村だった。
かつての旅路は一人ではなかったが、今回は一人だ。身体の芯から滲み出してくる焦燥を伴った情動に身を任せて、少しだけ口元を綻ばせながら、歩を進めていく。
そのうちに、周囲の木々が次第にまばらになっていき、ついに開けた場所に出た。クラロスの立っている場所は他よりも少し高いようで、眼前には広大な丘陵地が地平線まで続いているのが一望できる。
「森を抜けたのか」
森を抜けた――すなわち、南部辺境を抜けたということだ。ここから先は一般的に≪南部≫と呼ばれる地方、王都より南方に位置する広大で豊かな丘陵地帯で、王権の及ぶ一帯である。
王権が及ぶということはつまり、人間が住む地域ということになる。そこでは≪
高揚感が少しばかり鳴りを潜め、それに呼応して膨らんだ不安感によってクラロスの歩みは止まった。
これより先に、一歩を踏み出すのか。否か。それを決めるのは誰でもなく、無論、運命などという実体の無いものでもなく、紛れもなくクラロス自身であって、そしてその結果の責任を負い続けるのもクラロス自身だ。
サーッと、視界が狭まるような感覚に襲われる。周りの景色が流れて意識の外に消えていき、己の両脚と、眼下に広がる丘だけが視界一杯に広がっていく――。
今、この瞬間、この世界には、この足を自らの意思で一歩前に踏み出すのか、踏み出さないのか、ただその事象しか存在しないかの如く、クラロスの意識はその一点のみに集中した。
進めば、何かが始まるかもしれない。しかし、大きな代償を払うことになるかもしれない。進まなければ何も始まらず、でも何も失うことは無いかもしれない。この選択は誰にも決められない。自分で決めることだ。
しばしの静寂。
そして、不安感よりも、僅かに期待と高揚感が勝る。
一瞬とも、数刻とも感じた時間ののち、クラロス自身の足は一歩前にゆっくりと踏み出される。
クラロスは自らの意思で、この先の旅路を掴み取ったのだった。
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