第516話 魔王の追憶


   *


「ルシル……」

「………………」

「ねぇ、ルシル」

「あ…………」


 揺り起こされたルシルが顔を上げると、そこには炎を背景にした赤髪が弧を描いていた。


「グザファン……」

「すっかり眠っていたわ」


 根本からへし折った大木に腰を掛け、項垂れたまま眠っていた事を自覚する刹那。余りにも愛おしく、そして懐かしく狂しい、彼女の顔がルシルを覗き込んでいた。


「グザファ……ぁ、ああ……っ」

「何よルシル」


 赤き双眸を穴が空く程に見つめていると、彼女は恥ずかしがってプイと横を向いてしまった。


「う――っ」

「次はどうしたのよルシル」


 ――次の瞬間、頭に響く鈍い痛み……その奥に、何か屈辱めいたまでの怨念が宿っている様な気配があったが、その答えを思案する間も無く、周囲より口々に彼を呼ぶ声がある。


「どうした大将」

「呆けてるんじゃねぇよルシル、流石にヘバッたのか」

「へっへ、もう何も怖いものなんてねぇだろうよ。俺達は戦争に勝ったんだ」

「そうだ、神すら退けたんだ。世界はもう俺達のものだ」


 夜の闇に焚き火を灯し、その正面に座したルシルを取り囲む様にして、数多の“獄魔”が笑いながら王を見ていた。ルシルを含め、皆全身に深い傷を負っていたが、そこに鬱々とした空気は無い。


「戦争……勝った……?」


 何か重大な問題を忘却した様な思いはあれど、見慣れた彼等の顔が、仕草が、声が、世界が、ルシルにそこが現実であるという事を訴え掛けていた。

 かすんでいく疑念に頭をもたげていると、血濡れたままの右手に、そっと掌を重ねる彼女の温もりを感じた。


「覚えているでしょう、その手に残る栄光の感触を」

「……」

「貴方はミハイルを、そして神を退けたんでしょ」

「……。そうか、俺は確かにこの手で奴を……」


 遅れて知覚し始めた、右の拳に走った鈍痛。しかしその痛みこそ、ほまれの証であるとルシルは思い起こした。あの激闘と、その時の光景さえもが呼び覚まされる……

 毒の様な翼で闇を舞い、ルシルの元にまでやってきた少年は言う。


「ルシル……やったね」

「ベリアル……」

「人間を世界の中心に据えようという神の愚かな目論み、エデンは完全にその形を無くして崩壊した」

「……」

「僕達は勝ったんだ。ミハイルや、あの神に。君が全部やったんだ」


 少年の白肌が炎に照り輝くと、周囲に勝利の雄叫びが響いて闇を切り裂いていった。


「そうか……そうだったな」


 言われてみると、何故そんな決定的な事忘れていたのかさえ分からない位に、ルシルの身と心は歓喜に昂り始めた。

 悪魔の群れは、世界の中心を人類より剥奪し、ギラギラと闇に白い歯を輝かせて笑い始める。


「神も耄碌もうろくしたものだ。まさか“人類”などというあの不完全な猿共に覇権を渡そうとするとは、カッカ」

「何故あの様な不完全で弱き存在に、我等が従事しなければならないのか。奴等は考え方も浅はかで寿命も短い。明らかに欠陥品では無いか」

「愚図で愚鈍で劣悪な生命。欲に溺れる醜き種族を、ルシルは何よりも嫌悪していたもんなぁハッハハ」

「しかしもう悩む事などありはしない。神を退け、人類は駆逐し、世界は我らの手に落ちた」

「人間などという劣性種はこの世に必要無い。生きる価値も無い。世界は我ら魔族の為だけにある……そうだったよなぁルシル」


 羨望の込もる無数の視線が、闇の中よりルシルを見上げる。彼等の支持を一身に受けた魔王は、何よりも誰よりも、自らが前に出てその様な事を叫び回った事実を克明に思い起こした。


「…………」

「ルシル?」

「どうしちまったんだい大将……」


 ――しかし何故なのか、ルシルは前に突き出したその首を、素直に縦に振るう事が出来なかった。

 ……それのみならず


「なに……んだよルシル」

「あ……俺が、怒る?」


 心配そうにルシルを覗く、グザファンの温かな瞳。彼女の手元にある自らの拳が、固く固く、ギリギリと握り込まれていた事にハッと気付く。

 恐ろしそうに顔をしかめた、一人の同族が言った。


「神に一撃見舞った時より……ひっでぇ顔してるぜ、ルシル」

「…………?」


 言いようも無くささくれだっていく魂に苛立ちを感じたが、ルシルにはその理由が皆目分からないでいた。

 動揺する仲間達を苛烈に見渡しながら、今に取って食わんと怒気に溢れ返る……

 だが――――


「きっと、疲れてるのよ」


 ……そんな時、何時だって彼の手を引き、その冷たい心に温かな火をあてるのは――彼女だった。


「大丈夫。一日眠ったら、すぐにまた元気を取り戻す」

「……っ」


 足下にそよぐ焚き火からの火。暗黒に揺れてゆらゆら踊る。

 しかしそれ以上に、赤々と燃えた邪滅の炎――彼女の背より伸びた紅蓮の翼は、鴉紋の荒んだ心を癒やす、唯一の温もりであった。


「眠ればいい。全て忘れて、私の胸で」

「…………」

「そしたら、全部思い通りになるから」

「グザファン……」


 疑いようの無いまでの、彼女の熱と吐息。揺れる炎の瞳に吸い込まれていく様に……溶かされていくかの様に、ルシルは全てを忘れて、柔らかな温もりに包まれながら、まどろみへと飛び立っていった。



『この世界にもマタ実態があり、現実ト相違なイ』



 夢と現実の降り混ざった未知からの声は、もうルシルの知覚する所では無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る