第515話 Ain Soph


   *


 ……そこには、全てがあって


 足りないモノなど、何も無かった。


「んん…………」


 寝苦しくなる夏の陽気が、揺れるレースのカーテンからベッドに射し込んで、鴉紋の顔をじりじりと照らしていた。


「暑い……くそ…………」


 ごろりと寝返りを打つと、汗に濡れた枕が冷やりとして、感覚が呼び覚まされて来た……開け放った窓の全てから、アブラゼミのけたたましい鳴き声が覚醒を促して来る。


「……うるせぇな」


 まだ夢見心地の鴉紋は、それでもまだ泥のように眠ろうと、足元に投げ放たれたままのズボンをベッドから蹴り出した。


「ちょっと! なんでいつもこんな時間まで寝てるのよバカ!」

「……あぁ……?」


 激しく網戸を叩く物音に薄目を開ける。開けざるをえない。そこにボヤケて見えて来たのは、屋根伝いに来たいつもの来訪者。もうすっかりと制服に着替えているらしく、半袖のカッターシャツの首元で、赤いリボンが風に揺れている。


「梨理……!」


 その姿を認めると、薄ぼやけていた鴉紋の意識は、まるで青天の霹靂へきれきにでもあったかの様に急速に覚醒した。そうして勢い良く飛び上がったままのボサボサ頭で、ビー玉の様に見開いた視線の先に、幼馴染みの赤い瞳を見上げているのだった。


「うわぁビックリした! なんなのよ」

「なん……で」

「なんでって……何言ってるのよ今更。昨日だって一昨日だってその前だって、もう何年も何年もこうしてるじゃない。いつまで寝ぼけてるのよ」

「ん……あれ……」


 言われてみれば確かにそうだ。しかし、くらくらする意識の何処か深くに、得も言えぬ突っ掛かりがある様な心地がする。

 自分の状況をゆっくりと見回していった鴉紋は、それが何なのかを思い起こせぬままに、壁の隅の一点を凝視してギクリとした。


「うわ! もう8時半じゃねぇか、もっと早く起こしに来れねぇのかよ!」

「なんなのよ、私も少し寝坊したのよ! こうして起こしに来てるだけありがたいと思いなさいよ!」

「おいおいおいおいおい!!」


 軋むスプリングベッドより跳ね起きた鴉紋は、投げ出してある黒いズボンを乱暴に履き始める。


「下で待ってるからね! 五分よ五分!」

「うるせぇ、わかってるよ!」

「全くもう……」


 先程感じた些細な違和感など、起きて数分とせずに夢を忘れるのと同じ様に、鴉紋の胸からはもう消え去っている。あるのは、早くしねぇと学校に遅刻するといった、学生の朝らしい思考の一つである。


 それから鴉紋はドタバタと朝の身支度を済ませ、飛び出した玄関先で待っていた梨理と顔を合わせて、学校まで駆け出した。過ぎ去っていくいつもの光景。背後からは母親の声が聞こえたが、気にしない。ただ振り返りもせず、手を振り上げるだけだ。

 汗だくになって喉がカラカラと乾く。ベタついたシャツが肌に貼り付いて気持ち悪い。近くで学校のチャイムが鳴り始める。

 何とか滑り込んだ校舎の門を抜けて、二人は教室へと飛び込んで息を荒らげた。苦悶する顔を見合わせ、玉のような汗を垂らしたお互いを見やった。


「おーい、お前等……遅刻!」

「マジかよ……ハァ……ハァ」

「も〜アンタのせいでまた遅刻じゃない」

「遅刻魔夫婦、早く座れー」


 ゲラゲラと笑うクラスメイトの声が、夏の蒼穹そうきゅうへと上がる――




 ――……おい…………



 ――――おい鴉紋!!


 ――――起きろ、そいつは現実じゃねぇ!!


 ――――アイツの見せてる夢の一つだ、起きろ!



 過ぎ去る“無限”を見つめたまま、鴉紋は押し固まって放心していた。

 周囲では、明滅する世界が漠々と刻を垂れ流している。


 ――――俺の声が聞こえねぇのか、オイ鴉紋!!


 必死に彼の魂を呼び醒まそうとするルシル……

 だがしかし、鴉紋は夢想の底に沈み込んだまま、パクパクと口を開いたり閉じたりしているだけだった。

 今やその膝も崩れ、背の雷火が消えていく。


 ――何が起きている!

 ――この夢は深過ぎる……それ以上行くな鴉紋、戻れなくなるぞ!

 ――ふざけんな、幻想など振り払え! 何度もやって来ただろう、そいつは現実じゃねぇんだぞ! 俺達の野望は、そんな所にはねぇと分かってるだろうが!!


 ――気付けば、放心する鴉紋の前にコルカノが立ち尽くしていた。


『…………』


 存在と認識を目まぐるしく変える奇怪へと、ルシルは鴉紋の体を精神内部より引き摺って、恐ろしき眼光を神聖へと向けていく。魂の放散しかけたその肉体は、今やルシルの意志のみによって動いている様だ。


「なんなんだテメェ、なんなんだこいつは!」

『“無限”ニハ全てが含マれ、そのスベてはでアる』

「あ……アアッ――――アア!!」

 

 何時しかコルカノの明滅が静止し、となってルシルを見下ろしていた。


「あ……あ……ァ……」


 頭を掻きむしる程に壮絶な欲求に耐え忍ぶルシル……だがしかし、彼にとって余りにも強烈であった誘惑に、やがてその目はを見上げ、そこに確かに宿る熱波の懐かしさに、深みへと沈んで行くしか道は残されていなかった。


…………」


 ルシル最大の愛を注いだ存在が……夢想では無く確かな存在感と感触を残し、彼の手を取った。


「行きましょう、ルシル」

「……っ……」


 深淵へと誘う、甘く柔らかな“無限”に潰される――

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