第517話 求め続けた世界は、そこにあった
*
「おい兄貴、兄貴! いつまで寝てんだよ起きろって、嬢ちゃんにどやされんぞ」
「鴉紋さん、自堕落な生活は体に毒ですよ。規則正しい生活が、心身を健やかに育てるのですから」
「……ぅ……?」
「鴉紋様ぁぁぁあっ!! もう筋肉が産声を上げる時間ですよおぉおっ!!」
「うるさいっすクレイス」
「朝からうるさいのよ! 私が鴉紋を起こすから、みんなテーブルで待ってて、ほらマッシュも早く!」
「セイル……?」
「終夜鴉紋まだ寝てるのか! 寝坊助だ、ギャハハハ、ダラしねぇの!」
自らを取り囲んだ人の気配が、叩き付けるかの様な少女の一声に、スゴスゴと引き下がって階段を降りていったのに気付く。
半覚醒した意識にて、鴉紋は激しき闘争の全てが終わった事を思い起こしていた。今日という日など、ミハイルを倒し、神を退け、ダルフを叩き伏せた後の平穏が、朝日と同居していつもの様に訪れた。ただそれだけの事なのだ。
寝ぼけ眼で起き上がった鴉紋が認めたのは、自らの足下に立ち尽くし、頬を膨らませて腰に手をやっているセイルの姿だった。
「もう、みんな鴉紋を待ってるんだからね! 冷めちゃうんだから早く起きなさい!」
「……セイル」
「んっ?」
何故だか急に彼女が愛おしく思えて、鴉紋はセイルの頭を掻き寄せる様に抱き締めていた。
「ん……んん……っ」
獣の様に獰猛な抱擁にセイルも驚いたが、その目はすぐにとろけて、訳が分からないながらも彼の期待に従った。
「ぁ……すまんセイル」
「…………んー」
「じ、自分でも何でこんな事急にしでかしたのか……その、何だか分からねぇが、お前が急に」
「え」
「なんか分かんねぇけどっ!! お前が何処か、二度と戻って来れない様な、そんな遠くに行っちまう気が……してっ!!」
小首を傾げたセイルは、慌てふためいた鴉紋へと、わざとじっとりとした視線を送って動揺を楽しんだ後……可憐に笑って顎にキスをした。
「……ここに居るよ?」
「……」
「寝惚けてるんだ、可愛いね」
「お、おい!」
「フフっ」
「……っ!」
跳ねた鴉紋の毛髪を
空腹を刺激する香りと、温かな湯気が近付いて来る。
「ほらほら早く席に着いて下さい皆さん、もう出来上がりますよ!」
「フロンス、料理上手いなーすげぇなー!」
「ふふふ、マッシュ。良い大人というのは、料理位卒なくこなすものです」
「フロンスさんっ!! 皿を並べたぞ、うおおお!!」
「おいこの筋肉ダルマ! 皿をテーブルに叩きつけてんじゃねぇ、割れちまったじゃねぇか!」
「もうあんたらは良いから黙って座ってるっすよ〜、俺が運ぶっすから」
セイルに連れられ鴉紋が目にしたのは、質素な居間で、朝食の並ぶテーブルの前に着いた家族達の光景であった。
「早く席に着いて下さいよ鴉紋さん、ほらマッシュも!」
「はーい」
「座ろう鴉紋」
短く息を飲んだ鴉紋を、セイルが見上げる様にしている。
「ああ、座る……座るよ……」
「鴉紋……?」
何気も無い普段の光景を目の当たりにしている筈であるのに、鴉紋は何故か、心が浮き立つ様な高揚感に満たされていきながら、彼等の顔を眺めていった。
「冷めちまうぞ兄貴〜」
頬杖を付きながらパタパタと足を揺らしたシクスが、テーブルのナイフを手元に遊び始めた。
「……っ」
柔らかな木目に満たされた部屋のせいなのか、
「分かってる……」
誰に示されるでも無く、鴉紋はテーブルの一番奥へと歩み、セイルとマッシュを横目に自分の席に座り込んだ。
「それっっジャァァァ!! イタッダキッッマァァアスッッ!!!」
「「「いただきま~す」」」
家屋が震えるクレイス恒例の合図の後に、彼等はテーブルに乗ったパンやスープ、野菜に手を伸ばし始めた。
しばらく呆気に取られていた鴉紋だが、やがて彼等の横顔を見渡しながら、パンに手を伸ばし始めた。
「……ふっ」
「ん? どうしたんすか鴉紋様、ほくそ笑むなんて珍しいっすね」
「本当だー! 終夜鴉紋が優しい顔してる、レアだレア!!」
「どうしたの鴉紋……ふふ」
「雪が降るぞ雪が!」
「おおおー、尊いいいっ!!」
「ええっ、ズルい、何で笑ってるんですか? 私にも見せて下さいよ鴉紋さん」
冷やかす彼等から目を背け、鴉紋はパンを千切って口に運んだ。
「うるせぇな、分かんねぇよ」
ぶっきらぼうにそう答えると、彼等は皆満足そうに微笑み合いながら食事に戻っていった。
「……分かんねぇよ」
喧騒に呑まれ、スープから上る湯気を追って天井を見上げた鴉紋は、いつかどこかで、自分達が追い求め続けた念願が、ここに叶っているという事実に気付く。
「でも……いいよな、これで」
そう独り言ちた鴉紋は、コップに注がれた水を一気に飲み干した。
「はい出来ましたよ、いつものメインディッシュ!」
「うおほほほ!! やっと来たぁあ、やっと!」
「朝からこんなの胃にもたれるっつうの、なぁポック」
「いつからだったすかねぇ〜、これが食べられるのが嬉しくって嬉しくって、気付けば朝の定番メニュー。フロンスさんのお得意料理になってたっすよね」
「やったー!! 今日もお腹いっぱい食べるぞ!」
「ちゃんとパンも残さず食べるんだよマッシュ」
盛り上がりを見せるテーブルに、にこやかなフロンスが運んで来たのは、大皿に乗った
「今日も残さず食べて下さいよー! 朝から仕込んでるんですからね」
「わぁーははは!! 任せておけフロンスさん!」
「ねぇフロンス、今日のいつもより大きいわ、食べ切れるかしら」
「こういつも喰ってるとよ、あれだけ嬉しかった人間様の肉が、嘘みたいに思えてくるぜ」
「まぁでも、命に感謝して全部食べなきゃいけないっすね、いつも鴉紋様はそう言うっすから」
「終夜鴉紋、今日も大食い見せてくれ!」
「はいはい、いいですから席に着いて。みんなによそいますから」
ピンと張り詰めたのは、おそらく鴉紋の心情だけなのであろう。皆は朗らかな顔をしたまま、フロンスの手によって皿に盛り付けられていく肉を、談笑しながら待っていた。
「はい、鴉紋さんの分」
「あ……」
やがて鴉紋の前にまで運ばれて来た肉の塊。もう原型は無いが、それが人間の肉だという事に、紛れも無い確信がある。
「それじゃあ食べましょうか」
そう席に着いたフロンスが一声すると、彼等はナイフとフォークを手に取って、何の感慨も無さそうにカチャカチャと肉を切り、口に放り込んでいった。
「毎日食べてるけど、やっぱり美味しいね、マッシュ」
「そうだねセイルちゃん! 僕沢山お肉を食べて、終夜鴉紋みたいに強くなるんだ!」
「……ぅ…………」
銅像の様に一人固まった鴉紋は、まるで世界に置き去りにされたかの様であった。
「まぁ、旨いのは旨いんだけどよ。オッサン日に日に料理が上達してんな」
「ふふ、シクスさんの様な下郎にも分かりますか」
「ああっ!? 下郎だとテメェ!」
「フロンスざぁああんッ!! おかわりぃいい!!」
「はいはいクレイスさん」
「おいオッサン! まだ話しは終わってねぇぞ、この変態家庭教師が!」
「ほら、温かいうちに食べなきゃ鴉紋」
放心した気を取り直すと、目前には愛らしく笑うセイルの顔があった。言われた鴉紋は確かに自分は変だと思いながら、いつもそうしている様に、ナイフで切った肉の塊を、迷う素振りもなく口に入れた。
「美味しいでしょ?」
「…………。ああ、旨い」
口の中で軽快に咀嚼していた顎は、何故だが震え、途中で止まった。
「旨い…………よ……っ……」
「鴉紋……?」
音を立ててテーブルに落ちた鴉紋の掌。ナイフが跳ね返り、足下へと転がった。
「どうしたの?」
セイルの問いへの返答を待ち、皆は心配そうに鴉紋を見つめて、食事の手を止めていた。
「ぅ…………ぅう、……ぁ」
どうしたのかと問われても、鴉紋の中にその答えは無かった。
「兄貴……」
「鴉紋様」
ただ理由も無く、体が肉を拒絶し、口の端からこぼれ落ちて、目頭から垂れる液が止まらなかった。
「お前達……も
「……っ」
「鴉紋さん……」
情けの無い程に赤面し、だくだくと涙を流す鴉紋は、揺れる彼等のシルエットへと、力無く、懇願する様な声で言った。
「俺も、お前達も……っ
足に縋り付く様な鴉紋の願いは、もう誰にも聞き届けられる事が無いのであろう。
ロチアートが人を喰い物にする。そんな世界を叶えたのは、誰でも無い彼なのだから。
「鴉紋……っ」
悲しき目をしたセイルが、鴉紋を抱き締めた。強く、強く……親が子へ、どうにもならぬ事もあるのだと諭す様に、何も言わず、優しくその背を撫で続ける。
覇権の魔王が人を喰うなと声を上げても、何処かで誰かが、隠れて肉を喰い始めるだろう。
やがて肉に飢えた者達はそこへと集い、また飽食の世界へと還っていく。
人に渦巻く
「大丈夫だよ、鴉紋……私が居るからね。ずっと側に居る」
苛まれる無力感。
終わりの無い苦しみの螺旋。
優しき声に、鴉紋は溶け落ちる――
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