第497話 魂の審判


   *


「ぁっ――――!!」


 ミハイルの手に握られた錆びたはかり。そこより伸びた無数の光の腕が、破裂する様に霧散した。

 生と死の狭間であった出来事が体感としては数分間のものであったとしても、それは現実時間にしてミハイルが刻を止めていた数秒程度に起きた事象でしか無かった。

 手放された鴉紋の魂はルシルへと戻り、空より照射された極太の光明より悪魔が這い出して来た――


「刻を止めたなミハイル――」

「くそ……ッ」


 天を漂う二十の光の花……その幾つかを躍動した十二の暗黒に撃ち落とし、鴉紋はミハイルへと肉薄する――

 

「しかし俺を仕留め切れ無かった――!!」


 その身を浄化されゆく“獄魔”が、鬼の気迫でミハイルの腹へ……


「げぇ……ッぶ――!!」


 ――殺人的な肘鉄を叩き込んだ!


「――ぁ――――っ」


 くの字に曲がった天人の体が、その苦痛を物語る……

 鴉紋は鋼鉄の肘に天使を宙釣りにしたまま、瞳を充血させた天魔の耳元へと囁き漏らす……


「お前が止められるのは僅かな時間のみ……そして技の連発は出来ない」

「終夜…………あ、も……」

「つまり俺にとっては、刻の動き出したその瞬間こそが――」

「く……ッ!」

「――好機となるッ!!」


 続け様に放たれた鴉紋のアッパー。それを両腕に受けたミハイルは骨の軋む音を残して空へと吹き飛ばされていった。


「まだまだァ――ッ!!」

「おのれ……!」


 迫り来る漆黒の煌めきを前にしたミハイルは、背の大翼を広げて空を逃げ回り始めた。

 天空をもつれ合う白と黒の閃光……赤黒い陽光と天の祝福の様な薄明が空を満たし合う。


「なんだったのだ……終夜鴉紋、お前の見せたルシルの様な邪悪な気迫は」

「逃げるなミハイル――!!」

「まさかルシルの意志が紛れ込んで……いや違う、あの時お前は『魂の分断ディヴィジョンハート』によって完全にルシルと魂を分断させていた……!」


 天上にて振り返ったミハイルが迫る悪魔へと影を落とす。影となった表情はまるで見えないが、そこに刻まれた面相が恐ろしく冷酷なものである事だけが理解出来る。


「『雷爪らいそう』――!!」


 ゴロゴロと鳴る黒の雷電を纏った鴉紋の腕に、巨大な爪が形成されてミハイルへと突き出された。


「それだけの力を得て尚……未だ覚醒の余地を残すか、終夜鴉紋……」

「ズタズタに引き裂いてやるッ!!」


 鴉紋の内に渦巻いた。そこはかとない脅威を前に、ミハイルは持てる力の全てを持って邪を滅する事を決めた。


業の秤ごうのはかりよ……の魂の罪の重さを量り、ここに顕現けんげんせよ」

「ん……ッ!?」


 ミハイルが下より突き上げて来る鴉紋へと向けた秤……そこに天空からの光が射し込み、莫大なる光明となって一つの閃光が伸びていく。


しなれ……『天剣』」

「な……ンだそりゃ……ッ!!」


 大気を切り裂き闇を払い、そこに濃縮された神の殺意が形となった。余りに巨大で途方も無いだけの神聖のつるぎは、大地をそのまま切り分けてしまいそうな程に漠然としたエネルギーを解き放っていく――


父さんはこれだけお前に怒っているんだよ……ルシル」

「チッ!」


 中断せざるを得なかった突撃、鴉紋の手元で雷火が滾るのを止めた。さしもの彼であっても、これだけ莫大な神聖にあてられては無事でいられる保証など無い。

 そろそろと自らの目元に指先を這わせていったミハイルは、指の隙間より未来を見通す『先見の眼』を灯らせる……


「私の目にも見通せぬ未来……定められた運命を掻き乱すのは、いつもお前だ……」


 そして鴉紋は次の瞬間、翼を閉じて光速度で墜落して来るミハイルを前にする。

 光に照らされる天使の面相に、激憤した様相を認めながら――


「全てお前が元凶だ、終夜鴉紋ッ!!」

「キレてんじゃねぇよミハイル、思い通りにならない事がそんなに恐いかっ!」

「ああ! 恐ろしいうえに不愉快だよ!」


 攻守を逆にした閃光が鴉紋を追い立て始める。途中何度も切り放たれた天剣はしなり、たわみ、時には鋼の様に固く鋭利となりながら、大気を、景色を、その次元さえも切り離して邪悪をつけ狙う――


「私は父さんに世界の管理を任されているッ」

「――ッ」

「人間とは愚かしく、その発想と行動は突拍子もない! 永き歴史に至ってはそのほとんどが負の連鎖。破滅と再生を繰り返す愚かな生命体! 複雑に絡まり合った感情とやらに関しては皆目見当がつかないよ!」

「全てを見通して来たお前には、分からねぇ事が何よりも怖えんだなぁ!」

「あぁそうさ、人類彼等の事は誰にも分からない! だから私は父さんにこの目を授けられたんだ!」


 黄色く発光する眼光が、空を切り裂きながら黒の閃光へと迫る――


「私にとって恐ろしいのは! イレギュラーを巻き起こす、お前だけだ終夜鴉紋――ッ!!」


 ミハイルがそう叫び上げると同時に、燦然さんぜんとした煌めきが天剣へと集まった。そうして拍動する様に瞬き始めた神の威光は、一筋の刃となって鴉紋の頭上に振り下ろされる――!


「…………っ?!」

「分からねぇ事がそんなに怖えかよ」

「なんの……つもりだ!」


 突如と振り返った鴉紋は、やはりルシルの見通した未来には無い光景であった。

 振り下ろされた光明を鼻先スレスレにやり過ごし、漆黒は刃先に沿うようにしてミハイルへと迫って来る――


「テメェはインチキに慣れ過ぎたんだ!」

「そんな捨て身の奇策を――」


 耳元に揺らぐ光の刃に腕を沿わせ、火花を上げながら漆黒を噴き上げてくる鴉紋。しかしミハイルの持つ天剣は……その形は纏わりつく様な液体と変わって鴉紋の身を両断しようとした――

 だがその瞬間――――!!


「『冥府の拳アビス』!!」

「な――――ッ?!」


 冥府より迫り上がって来るかの様な邪悪の波動と共に、打ち出された鴉紋の拳が巨大に過ぎる天剣の刀身をかち上げる――!


「こうは思えねぇのかよ……!」

「成功するかも分からない、そんな賭けを……っ」


 天剣に触れた鴉紋の腕、そして拳が激しく燃え上がるが、それでも彼は怒涛の殺意を込めてミハイルへと振り被った――

 こう、眼下の天使へと叫び付けながら……


「分からねぇ事をッ!! おもしれぇと――ッ!!」


 頭上に舞い上がり影を落とした獄魔……恐ろしく、おぞましく、ただ恐怖の象徴であった筈の暴虐に落ちた微かなに、ミハイルは絶句した。


「おも……しろい……?」


 黒の風巻に呑まれ、その暴力が執行される刹那――



「『刻の分断ディヴィジョン』」



 秤を突き出し、天使は唱える。絶望に染まりし顔を、愛しき筈のルシルへと向けながら。

 無様に……そして無防備に制止した鴉紋。

 ミハイルの操る刻の力は、あらゆる力も想いも、無に返すのだ……

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