第498話 あの日焦がれた君はもう


「なんだ…………その顔は……」


 制止した刻の中で、ミハイルのピクついた鼻頭が赤く染まっていった。


「なんなんだ……その目は……」


 見上げるは、真っ直ぐにと彼を見下ろしながら煌めいた赤目……


「光り輝いた……その顔は……っ」


 誰よりも何よりも大切だった者が、愚物へと成り下がった。その事実に……


「うぁあ……ぅうう……っ!!」


 嗚咽を漏らして天使はむせび泣いた。もうそこに居るが、どれだけ外面を酷似させていようと

 ――という真実に。


「うううぁぁ……ルシルぅうっ……!!」


 胸に風穴の空いた様な寂寥感せきりょうかんと喪失感に満たされながら、ミハイルはその手のつるぎを振り上げた――


がなんだ、そこまで人類に冒されたのか……あれ程失って、絶望してもお前は!」


 轟々と唸る神聖は、止まった刻の中であろうと変わらずに瞬く。そして全てを呑み込み、ソレは行使される……


「せめてこの止まった刻の中で……死んだ事さえ知覚させないで」


 どれだけ足掻こうと、どれ程喚こうと……刻を奪われた世界で人類に出来る事は無い。


「さらばだルシル……愛しき兄よ。ならばせめて人の様に、淡き夢を抱いて……」


 スゥと息を吸い込んだミハイルは、その目を冷酷非情に戻して天剣を振り下ろしていった。

 止まった肺の景色の中で、光輝いた漠然の光が空を割り、景色を両断していく……


 ……紆余曲折はあったが、結末はやはり天使の視た未来へと帰結される。人の持つ想いと力……ルシルを魅了したものがどれ程のものかと、ミハイルは未知なる可能性に身を投じた。


「さようなら…………ルシル」


 しかし結末は破滅。変え難いその運命から逃れる事などやはり出来はしなかった。

 そんな事など分かっていた筈であった。

 ルシルもまた、そう理解していた筈だった。

 それでも彼はと混ざり合い、その意志を共鳴させた。到る結果が敗北でも、こんな顔をして死ねるならば本望だと……


 ……そう思ったとでも言うのだろうか?


 紅蓮の悪意と暴力に全てを掴み取ってきた男が……

 ぐちゃぐちゃの憤怒に溺れた男がひととき、なんの気まぐれなのか甘い夢に傾倒したというのか。

 だとすれば、それは闘争と怨恨の為だけに生きた男の、ささやかなる終の安らぎだったのかも知れない。


 あの日見た羨望のささくれはもう見る影も無く。

 角を刈り取られ、丸みを帯びた……


 苛烈で恐ろしく、何者にも曲げられぬ力と信念に魅せられた。道阻む者全てを叩き殺すだけの、あの灼熱の怨恨が美しいとさえ思った。誰よりも強烈な自己を持ち、あらゆる権威と力にも媚びへつらう事の無い自我に感服した。


 悪意を極めたあの混沌を、底の無いあの怒りを……

 羨望した、焦がれた……恋い焦がれた。心より。


 何よりも力強く、己の覇道を信じて疑わぬ魔王の足取りは……もう遠く……







 骸と化したあの日の男の背中を追い求めながら、ミハイルは憧れを終わらせる――


 白熱する怒涛の閃光が空を突き抜け、大地へと振り落とされる。



 …………その下で

 完全に制止した世界の中で……

 






 事に……




 ミハイルは気付かない。


 明後日の方角を眺めていた悪魔の視線が、刻を剥奪された無慈悲の世界で……


 静かに標的を見据えたその事実に……

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