第326話 「そうか、俺はこの世界が気に入らないんだ……」


 片眼鏡モノクルを調整したクリッソンが、無数に湧き上がって来た魔物を眺めてシャルルに語り掛けていく。


たかに豚に猿、馬までもいるでは無いか、見てみろシャルル懐かしき生命だ、なんとか馬だけでも飼い馴らす事が出来ればなぁ」

「やめろ〜畜生は嫌いだ〜何を考えているか分からないのだ〜……何を考えているか分からない、まるで私の様だ……私は畜生なのか〜狂っているのか〜」


 頭を抱え込んでしまったシャルル。嘆息した小柄な老人は、情けの無い大王を見下ろしながら手をひらひらと振る。


「冗談だ冗談、魔物と化した奴等はまるで人間の言う事を効かん、それに肉が腐乱していて臭い! 屠殺してしまおうぞ」

「ああ〜それがいい〜」


 いよいよとロチアートの軍勢がセフトの騎士に迫る。未だ怖じる事の無い八英傑が、魔族を引き連れ、先頭をヨレヨレと歩む敵の総大将に視線を注ぎ始めた。


「ルシル……」


 互いの距離が五十メートル程に肉薄した時、ここまで波風立てずに平静を保ち続けていたミハイルが、玉座を立って彼の名を呼んでいた。


「……」


 伏せた瞼を上げた鴉紋が、熱を持って肩を上下させ始めたミハイルの姿を視認する。


「ミハイル……」


 ――その瞬間に、鴉紋の瞳がカッと見開かれた。


「ミハイル……っ!」


 そしてグツグツと煮え滾る激情が、彼と調和を果たしたが、永く溜め込み続けたエネルギーが間欠泉から噴き出すかの如く暴発を始めた。


「ミハイルゥウ――――ッ!!」


 鴉紋の背よりの翼が天を突き、怒涛の暗黒と共に憤怒が溢れ出す。


「「「――――――っ!!」」」


 その場に居た全ての者は、ミハイルも含め、その灼熱の様なプレッシャーに冷や汗を垂らすより他が無かった。

 時代の英傑達が、神より遣わされたジャンヌが、天人であるミハイルですらが肝を冷やす――それ程に恐ろしくて堪らない邪悪がそこにあった。


「ルールを……っ、守れよ」


 誰よりも早く現実へと立ち返ったミハイルが、垂れる額の汗を拭う事もせず、背の六枚の大翼を空に開いていった。


「翼は六枚までだと、父さんに言われただろう……」


 光を灯し、頭上に浮き上がったミハイルを見上げた鴉紋。

 彼は――終夜鴉紋という個人は、その時始めてミハイルという存在に相対した。


「お前は、あの夢の……」


 ――しかし鴉紋には見覚えがあった。嫌という位に魂に刻まれた記憶、そして夢にまで見た光景に、このミハイルという存在が。

 幾度も見た夢。黒き巨人が憤怒に飲まれて奈落に堕ちる最悪の夢――その時ルシルを堕とした者こそが、いま目前に羽ばたいたミハイルという大天使であると鴉紋は確信する。


「そうか……俺は……」


 そして同時に、激しい因縁と怒り――、ルシルと同化した鴉紋にまで流れ込んで来た。

 そして握られた自らの黒い掌を見つめ下ろし、顔を上げた鴉紋は、


 ――この闘争の果てとなる因縁を睨み上げる。


「俺はこの世界が気に入らないんだ」

「……!」

「こんな世界を創った神が、こんな世界を守護するオマエガ!!」

「ぅ…………っ」


 バチバチと放散する黒き雷の波動を纏い、鴉紋の赤き右目が強烈に発光した――!



「全てが悪の…………この世界が……」



 解き放たれた静かなる気迫――――

 如何なる豪傑までもが物怖じしていく最中で、ミハイルは遥かな昔の、あの因縁の闘いの日を思い起こしていた。


「どうなってしまったんだい……傲慢ごうまんつかさどるお前の事だ、てっきり終夜鴉紋という依代よりしろを呑み込むのかと思えば……同化して混じり合う事で、別の存在へと変貌してしまった……先見の眼私の目がお前に裏切られるのは、あれが初めての事だった」


 万物の全てを、そして未来を、その果てまでをも見通す筈のミハイルの瞳が、黄色の色合いを強くしながら憎憎しそうに鴉紋を見下ろし始める。


「あの時、全ての歯車が狂ってしまった……世界の構築が、楽園エデンの循環が」


 そしてミハイルは、鴉紋の背後に集いし強烈なる魔の軍勢に目をやっていく。


「これだけ血を薄めても、お前はあの頃となんら遜色そんしょくないつわものを引き連れて私の前に現れる……全く頭が痛いよ、人類の維持に心労した私の三千年はなんだったんだい?」


 シクスが笑い、セイルが炎を逆巻かせる。クレイスはグラディエーター達と共に地を踏み鳴らし、フロンスは人の死骸を引き連れている。

 全ての魔族の王である男が、漆黒の翼を蠢動しゅんどうし、空にうねらせる――


彼方かなたへ沈められた永き時で……俺はお前に復讐する事だけを考えていた」

「ふふ、そうだろうと思った……お前の事だから、きっとそんな風に私の事ばかり――」

「――だが、

「……?」


 心に宿る情熱と共に、激しく逆巻く憤怒と共に、鴉紋は柔和なを見せた。


「ぁ――――」


 それはミハイルにとって、正に絶句するに値する程の衝撃であった。


「笑う……ルシルが、わら…………」


 長き驚嘆の余韻に呑まれ、天使は黙想する――


 ――優しげに微笑む。誰かの為に尽くす。他者に手を差し伸べる。そんな献身や奉仕からはまるでかけ離れた男であった筈だ。


 ルシルは語る。鴉紋の身を借りて、鴉紋と一体となって……


「アモンと共にこの腐った世界を感じる事で、それは今の俺がするべき事では無いと悟った」

「……ルシルは……そんなっ」


 地上へ舞い戻り、顔に手をやって明らかに狼狽ろうばいを始めたミハイルに、ジャンヌは驚いた様子で振り返る。


「復讐は破壊という結果へ至るだけ……俺はそんな生温いもので無く、もっと多くを……破壊では無く、貴様等の持つ全てを奪い去りたくなった」

「違う……ちが、ルシルはそんな……ソンナっ――!」


 力み上げて顔を真っ赤に変調させたミハイルが、顔を覆った指の隙間から地を見下ろす。

 そして血走った視線を泳がせて、彼をただ想う……


 ――違う、違う違う。

 ――私の知るルシルはそんな顔をしない

 ――私の知るルシルはそんな事言わない

 ――私の知るルシルは笑わない

 ――ルシルは破壊と悪意の権化だ

 ――己が欲望の為、全て燼滅じんめつするそんな

 ――違う……違う、ちがうちがうチガウ


 ――――チガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウ!!!!!


 ――あんなに綺麗だったお前が、

 ――になど……



「そんなのは私の愛したルシルでは無い」



 震えた天使の声音に構わずに、ルシルは語る。


「貴様を、人間共を殺す。やる事は変わらねぇ……だが目的が違う……俺は仲間と共に生きられる、お前等の“世界”の全部が欲しい」


「――――もういい!!!」


 声を荒げたミハイルに、鴉紋は怪訝な瞳を残した。

 そして心砕かれた天人は、未だかつて誰しも見た事も無い程に、怒りに満ち満ちた顔付きに変貌しているのであった。


「変わってしまったのだな……お前は最早――私のルシルでは無い」


 悲壮感に満ち溢れた声と共に、ミハイルは目前の悪魔を完全に殺し切る事を……その時決めた。

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