第301話 肉の雫
ベリアルの背後でとぐろを巻いた紫色の大翼が広がっていく。悪意を凝縮した酸の雫が、石の焼ける臭気を残してダルフへと迫って来る。
「ぅ…………っ」
萎縮したダルフは、やはりトラウマに苛まれる。限界を超えて何処までも練り上げた力が、いとも簡単に頭から押し潰された――終夜鴉紋への敗北の記憶を……
――鴉紋と同じ……こいつもまた、人の手の届かぬ魔の極地に居る者だ。
カタカタと揺れ始めた鉄塊に、ベリアルは表情を消す。
「何を脅える? キミは
「同じ……?」
「酷く不完全だけどね……でも――」
毒沼の様相を天井に広げた少年は、逆巻く溶解液の翼に、おそろしい悪魔の形相を浮かべていった。
「キミで試させてもらうよ――“神の殺し方”」
感情の知れぬ眉の下の黒点二つ。得たいの知れぬ、ただひたすらに陰惨なオーラにダルフは立ち尽くす。
「お前達……は、何を……」
妙な浮遊感。虚空の瞳に吸い寄せられて、地獄の底に堕とされていく様な絶望感だけがある。
「僕達は終わらせようとしているだけさ。人間風情が大手を振るう“園”を。奴の創ったこの汚い世界をさ」
ベリアルが語り終えると同時に放散された邪悪の翼は、未だ突っ立ったままのダルフへと流れ込んで体を溶かし始めた。
「ぅ…………」
まるで超自然的な何かに相対しているかの様に、莫大なるエネルギーがダルフを呑み込んでいく。
「ダルフ!」
「ぅぁ……っぁ…………」
メロニアスは、彼の精神までもが
「心も呑まれるぞ、奴の目を見るなダルフ!」
「うわァァああああ!!!」
――虚空の瞳に精神を引き摺り込まれていくダルフ。
闘志を燃え上がらせる事すらが、まるで無意味であると分からされたかの様に、彼はもうその手の鉄塊を振り上げる事さえも思い付かなかった。
――敵わない……この存在には、俺一人では……っ
「おのれ……『炎の柱』!」
ベリアルは足元から突き上げてきた火炎を身軽に飛んで避けていた。
「もう当たってあげないよ。少し動けなくなるのが面倒だ」
「くそっ……しっかりしろダルフ!」
彼にとって最後の希望である男は、無骨な鉄塊を握り込んだまま、瞳にあった煌めきを消して、ベリアルの『邪眼』に釘付けになっていた。
「ぁ…………く……」
全身を溶かし始めた激痛に悶えるのも忘れ、ダルフの背にあった雷火は勢いを消した。
ハッとしたメロニアスがダルフに叫び付ける。
「諦めるなダルフ!!」
しかしダルフの手元から、鉄塊は振るわれる事も無く地に落ちていった。
ベリアルは少年らしく、悪戯っぽい声を出して笑った。
「あーあ、先に心が死んじゃった。でも……体は死なないから良いやぁ」
頭上からの液にずくずくと肌を
「何度も何度も何度も殺して……キミの殺し方を研究するんだぁ」
「だから眠っててよ」
沼の翼がダルフを包む。愛おしそうに、抱擁しているかの様に……
「ふざけるなダルフ! 貴様の野望とやらは、そんな事で砕け去るとでも言うのか!」
「ぅ……ぁが…………」
肉が焼けて音を立てている。肉も骨も一緒くたになってドロドロと足元へ流れる。
メロニアスは剣を打つのを一旦辞めて、熱っぽい声でダルフに呼び掛け続けた。
「ロチアートは、民はどうする! 貴様の心が折れたら、お前に託した者達はどうなるのだ!」
「ウルサイなぁ」
「何時まで寝惚けている、お前はもう戻れぬのだ! お前に縋った者はどうなる! お前の野望に掛けた者の未来は!」
「メロ……ニアス」
「曲がりなりにもエルヘイド家の血を継いだお前が、そんな無様でいる事は……俺が許さんッ!!」
メロニアスは火槌を地に打ち付ける。その瞬間に上った火柱が、ダルフ諸共ベリアルをも呑み込んでいた。
「馬鹿者がぁあ!!」
「ぁぐギィ……!」
「うわー、仲間毎燃やしちゃうんだね」
ベリアルの放つ邪悪を吸い込み、炎が全てを燃やしていく。
燃えて行くダルフを眼下にして、翼の消えたベリアルは尚も形を残してその場に留まっていた。そしてつまらなそうにメロニアスへと告げる。
「魔力が弱まってるよ」
熱に皮膚をペリペリと浮き上がらせたまま、ベリアルは霧散する事も無く炎から這い出して来た。
「――――ん?」
炎の渦中から出歩みたベリアルが見たのは、焼け焦げ、そして肉を溶かして骨をも覗かせたままの男が、地に落ちた鉄塊を両手で握り込んでいる姿であった。
「なーんだ……残念――」
「――ベリアルッ!!!」
ダルフの放った鉄の塊がベリアルの顔面を打ち崩すと、少年は液状となって地に落ちていった。
「ふぅ……ふぅ……!」
そして彼は“刻”を消費して傷付いた体を再生すると、範囲の広がった白髪を揺らしてメロニアスへと振り返っていった。
「すまないメロニアス! そのまま剣を――」
「ダルフ、後ろだ!!」
「ぇ――!?」
振り返ったダルフの目前、その胸の前で、地に落ちた液体からベリアルが再生していた。そして間近から彼を見上げたまま、背の翼に一匹の“蛇”を立ち上らせる。
「じゃあ終わらない苦痛をキミにあげるよ」
言い終えると、蛇は牙を向けてダルフの口元へと飛び込んでいった。
「『
「もが……っ!!?」
「再生しても駄目だよ。体内に潜み続けるから……気が狂っちゃうかもね」
「ぉごぅあ――!!?」
「試してみたかったんだー」
細い蛇に侵入され、みるみると目を真っ赤に充血させたダルフ。ガタガタと痙攣しながら血の涙を流して悶え苦しむが、口元から未だ覗いている蛇の長い尾が、液状となって掴む事が出来ない。
「ォゴ……ぁゴア?!」
「ハハハハハハ!! どうする、入っていっちゃうよ、中に入られちゃうよ! 顔の肉を内側から喰い尽くされていくよ!」
耐え難い苦痛にのたうち回るダルフを見上げ、ベリアルは腹を抱えてケタケタと笑った。
――――その時であった。
「Holy Shitだクソゲボがァァァッッ!!」
黒きレザーに包まれた渾身の聖拳が、少年の頬を打って強烈に吹き飛ばしていた――
「――――ッ?!」
どういう訳だか液状になれなかった体に目を白黒とさせながら、ベリアルは血を吹いていた――
ダルフの体内に植え付け損ねた蛇と共に、ベリアルは壁まで飛ばされて瓦礫に埋もれる。
手元で
「
赤く、涙の跡を残したレンズ越しの瞳。
ゆらゆらと炎の様に揺らぐ紫色の虹彩が、頬を腫れ上がらせた少年を睨め付けた。
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