第296話 夜の始まった空


   *


 ヘルヴィムを先頭にして、宮殿へと迫っていたダルフとフゥド。


「チッ」

「ふん……!」


 互いの態度が鼻持ちならないらしい同い年の若者二人は、荒れ果てた都の惨状を横目にいがみ合っていた。

 するとそこで、先を走っていたヘルヴィムの瞳が上転し掛けて膝を崩した。


「ヘルヴィム神父!?」


 見るまでも無く半死人状態を通り過ぎている彼は、傷だらけの体を震わせながら蒼白い面相を上げる。


「無茶だヘルヴィム。これまで立っていた事も信じ難い位なんだ、休まないと死ぬぞ」


 重度の貧血を起こしている彼を案じて、そう呼び掛けたダルフであったが、ヘルヴィムは舌を噛んで気付けをした。


「ボケがァァ……っこの軟弱な心臓がッ……動け動け動けぇえッ!!」


 そして自らの胸を何度も叩いて立ち上がった神罰代行人だが、その足取りは鈍重で息も荒い。

 走り寄って彼の背に触れるフゥド。


「無茶ですヘルヴィム神父……ここからは俺に任せて下さい」

「んァア!? お前達の様な愚図ガキ二人に蛇を任せられるって言うのかぁぁ! エエッ!?」

「しかし!」


 フゥドの添えた手を勢い良く振り払ったヘルヴィムは、未だ苛烈な心意気のまま二人へと振り返った。


「大体全部テメぇぇらのせいじゃねぇかぁあ! どうしょうもねぇ馬鹿ガキ共がッどうしてくれやがるッ!」


 ヘルヴィムに睨みつけられたフゥドは、困惑したままダルフを一瞥いちべつして神父に向き直っていく。


「Shit……こいつの事を言っているならばいざ知らず、どうして俺もなんですか!」

「バァァカかボケナスぅう! テメェも俺を怒らせたじゃねぇかぁあ! 同罪だぁあ!」


 最後にそう叫び付けてから項垂れてしまったヘルヴィムを見下ろして、フゥドは歯噛みしていった。


「聖水……聖水だぁあ」


 懐から小瓶を取り出したヘルヴィムは、喉を鳴らして一気にそれを飲み干していった。


「足りん……んんん……足りんんんんっ」


 フラフラとした足取りで宮殿へと歩み始めたヘルヴィムは、何処に仕舞い込んでいたのか、何本もの小瓶をスータンの内側より取り出して飲み干し始めた。


「お前等も飲んでおけぇぇ」


 何本もの瓶を投げ捨てている神父の手元から、二本の小瓶がダルフとフゥドへと投げ渡されて来た。


「なんだこれは?」


 正体不明の水を眺めたダルフの横では、その眉唾ものの液体の正体を知るフゥドが、これ以上無い位に顔をしかめ始めた。


「やる……!」

「ん、なんだ強引に!」


 フゥドによって手元に捻り込まれた小瓶と合わせ、二本もの聖水を手にしたダルフは、恐る恐るとヘルヴィムを見やる。


「んぐぁ、んぐぁ、んぐぁ! みなぎるぅぅう!!」

「……!」


 恐らくはそれが回復薬の類であると検討を付けたダルフは、瓶の蓋を二本とも一気に開ける。するとその瞬間に、異様な臭気が立ち上って来て顔をしかめた。


「……く、臭い!」


 あらゆる薬草やらをごッタクソに煮詰めた、苦味と渋みの極みの様な匂いにダルフは眉をしかめるが、


「ふんぐぁ、ふんぐぁ、ふんぐぁ! ……ぉぉぉお、血が戻っていくぅうう」

「なんだって、血が……!?」

「やはりこの水は不可能を可能にするぅぅ……キセキィィァ!! これぞ奇跡の水なのだぁぁ!!」


 みるみると顔色を良くしていくヘルヴィムを認めると、ダルフは意を決して二本の小瓶を一気に飲み干した。


「がっっ……!!!!?」


 味覚の限界を超えた苦汁にもんどり打ったダルフに、ヘルヴィムは嫌味な笑みを向けて微かに笑った。


「がハァ……貴様の様なけがれ人にはぁ、聖なる水は毒としかならん様だぁぁ! 神は見ているのだぁあ!! ガハハハ!」

「――ぇうボゥあ!!?」


 空に謎の液体を噴射したダルフは、しかめ面をして口元を拭った。しかしてヘルヴィムはというと、美味そうにゴクゴクと毒水を飲み干していく。


「んぐんぐ、んぐ……ッ! 堪らねぇぜぇぇ……もう少し飲めば、また動き出せそうだぁぁ」

「クソぅ……なんで俺の体も回復しないんだっ」


 ダルフの体は全く持って回復していない。しかして目前の男は、死に体スレスレであった肉体をみるみると回復させていっている様だ。

 残念そうに思ったダルフであったが、それならば何故フゥドはこの回復薬を飲まなかったのだろうと、ただ疑問を残した。


 酩酊めいていした様な様相で天を向いたヘルヴィムは、深い息を吐いてから二人に口を開いていた。


「先に行けぇクソガキ共……時間がねぇ」


 するとフゥドが、不愉快きわまりない様子でヘルヴィムへと声を返していた。


「なっ……俺とこいつ二人で行けって言うんですか!?」

「……俺だって御免だ」

「バカがぁあ!! こんな時まで喧嘩してんじゃあねぇ! 奴への足止めが成功していれば、ダルフの翼でまだ間に合う……俺が辿り着くまでメロニアスを守護するのだぁあ」


 苦々しい視線が向かい合ったかと思うと、またそっぽを向いてしまった。


「……っ」

「Shit……なんで俺が、侵入者なんかとこんな事に」


 しかし事態は急を要している。それは二人も充分に理解していた。

 あのベリアルという悪魔には、一人では太刀打ち出来ないという事も――


「つべこべ言ってねぇでとっとと行きやがれぇえ!!」


 拳骨を振り上げたヘルヴィムから逃れる様に、ダルフは背に稲光の翼を開いて、フゥドの脇を抱え込んでいた。


「チッ……」


 流石に観念した様子のフゥドは、持ち上がっていく体に抵抗もせずにただ項垂れていた。そして彼は視線を上げると、忌々しそうにしているダルフへとささやいた。


「俺は貴様を認めてねぇぞ……侵入者!」

「それは俺も同じだ、狂信者め!」


 毒づき合った二人。そして宮殿へと目掛けていく背に、ヘルヴィムは叫び付けていた。


「ダルフ! テメェのまなこにはまだ、終夜鴉紋への恐怖が絡み付いているぅ! ベリアルを打倒してぇ、そのくだらねぇ幻影を打ち砕けぇ!!」


 夜の始まった空に、一筋の閃光が走っていく――

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