第292話 二匹目の蛇


 おぞましい存在の召喚を止める術も無く、ヘルヴィムはフゥドをもう一度殴って壁にめり込ませる。


「フゥドォオオ テメェがあれを追い詰めるからだぁあ!!」

「ぅ……ぁ、アアっ」


 殴り付けられたフゥドは血を吐いたが、まるでヘルヴィムの事など見てなどおらず、黒き魔法陣からい出ようとしている者に恐々としているだけだった。

 ヘルヴィムは、その手元で異常な程の反応を示す聖十字を見下ろして、歯を喰い縛っている。


「この反応を見ろぉ、こんなものは見た事も聞いた事もねぇぇ……なにか凄まじい事が、恐ろしい事が起きようとしているぅぅっ!!」

「ヘ、ヘルヴィム神父……一体何が、何があそこから出て来ると言うのですか!?」


 らしくも無く戦慄した様子のヘルヴィムは、顔に手をやってポツリと漏らした。


だ……二匹目の蛇が現れようとしているぅ……!!」


 鴉紋に並ぶもう一人の“魔”が、今そこに侵入を果たそうとしているとヘルヴィムは言う。

 絶句した信者達はヘルヴィムへと声を投げ掛け始めた。


「二匹目? ……蛇とは、それ程までの者なのですか」

「然り……神罰代行人の伝記にも残されているぅ。園の創世記、ミハイルと蛇の繰り広げた、天地砕き去るかの様な争いの記録をぉ!」

「……!」

「分かるかぁ、たった一匹でも手一杯なのに……だぁ!! 二匹目の豪魔がそこに、今産まれ落ちようとしているのだぁあ!!」


 ヘルヴィムの指さす黒き魔法陣に、紫色の旋風――その存在から漏洩する莫大な魔力が立ち上っていく。

 ヘルヴィムは震える左手をガツンと殴り、恐れおののく彼等の前に立った。


「いいかぁクソガキ共。今我々は、団結はせずとも、少なくとも同じ方角を向いていなければならぬぅ……でなければこの楽園エデンはぁ、我々人類の住まう事の出来ぬ、魔境と化すであろう!」

「人類の……危機!」


 ダルフは重傷を負ったラァムを胸に抱きながら、すぐ目前で巻き起こる、魔力の奔流ほんりゅうから少女を庇う様にしていた。


 ――そして遂に溢れ出す魔力は凝縮し、そこに魔が受肉を果たした。

 目を見張り、全ての者がそのを血眼になって見つめていた。


「やっと出て来られた」


 抑揚の少ない声を落とした彼は、あらゆる万物に飽き果てたかの様な、冷たい目をしていた。

 青い貴族風の服を纏う少年は、まるで生気を感じさせない真っ白な肌に、さらさらとした髪をなびかせる。ダルフの腰程までしかない少年であるのだが――その背には、ひどく禍々しいまでの、巨大な紫色の翼が広がっていた。


「ここは何処だろう。あれからどれだけの月日が経過している?」


 少年は毒液の様でもある流動する翼から、おぞましいオーラを立ち上らせながらダルフを、そして胸に抱いたラァムへと視線を移していった。


「驚いた……“魔族”がもう、まるで人間と変わらないじゃないか。ここまで血が薄れるとなると、あれから大分経っているみたいだね」


 そして少年は胸の宝石を煌めかせ、無表情のまま続ける。


「その状態で僕を召喚するとは、随分な情念だったみたいだ……オモシロイねぇ」


 闇を眺めているかの様な心持ちになる少年の眼に、ダルフはただ肩を震わす事しか出来ないでいた。彼からは、あの時に垣間見た鴉紋の一面を彷彿とさせる様な、陰惨な気配が漂っている。

 再びにフラッシュバックする、鴉紋への恐怖――

 しかし少年はダルフ達にさして興味がある訳でも無さそうに、天を仰いでその翼を広げていった。彼の周辺にある敷石や瓦礫が、朽ち果てていくのが見える。

 少年は天に向けて何か意識を集中させると、やがて閉じていた瞼を押し開いて口元を笑わせた。


「居るじゃないか、ルシルも、ミハイルも……っ」


 遠く離れた魔族の存在を感知した少年は、周囲にひしめいた人間達には構おうとせず……否、恐らくは眼中にも無いのであろう。翼を広げて浮き上がっていった。


「となるとまたあの続きだね? 嬉しいなぁ、またルシルと遊べるんだ」


 何やらダルフ達には分からぬ事を呟いて、少年は高き宮殿に向けて方向を転換していく。


「じゃあ僕のすべき事は……あぁ思い出した。天使の真似事をする人間を殺せば良いんだったね」

聖釘せいていぃい――!!」


 呆気に取られた周囲の中で、先ず動いたのはヘルヴィムであった。懐から取り出した釘を空へと投げ放ち、聖十字を手に駆けて来る。


「――なに……俺の聖釘せいていが!?」

「ん、誰?」


 投げ放たれた釘は、少年に接近すると溶けて消えてしまった。そして何やら足下から騒ぎ始めた人間に気付き、少年は中空で静止する。


「神よ、今こそ断罪の時! 我等に力を!!」


 聖十字の大槌で地を殴り込んだヘルヴィムは、その反動で少年の頭上にまで舞い上がって大槌を振り被る。


「『狂怒ディヴァイン・神罰パニッシュメント』ぉおおお!!!」


 ヘルヴィムの放った全力の大振りを、少年は前に突き出した翼でピタリと止めてしまった。


「――――ぬアッ?!!」

「聖遺物……君ってもしかして神罰代行人!? まだ居たんだ! フフ……オモシロイねぇ!」


 正体不明の翼に押し返されたヘルヴィムが地に墜落する。

 すぐに剥き出しの歯を見せて立ち上がったヘルヴィムであったが、少年はやはりこちらに興味が無いらしく、メロニアスの居る宮殿へと向かって行ってしまった。


「オモシロイけど、君に構ってる暇ないんだ。早く天使もどきを消して、ルシルと一緒にミハイルを殺しに行きたいんだぁ……フフフっあの時みたいにねぇ」


 為す術も無く空に立ち去っていく少年へと、ヘルヴィムは思い切り空気を吸い込んだ肺で問い掛けた。


「忌々しいこの悪魔めぇええ!! 貴様の忌み名を残していけぇぇエア!!」


 すると遠く離れていく空から、少年の声が聞こえた。


「ベリアル」


 勢い良く振り返ったヘルヴィムが、苛烈な眼光で信者を見渡していく。


「奴の狙いはメロニアスだ……! いいか貴様等! 今ここで、第1国家憲兵隊は身命を賭して奴に突貫する!!」

「身命を賭して……」

「でなければみんな死ぬ!! 園に残った人類が! 一人残らず全員死ぬ事になるのだぁ!!」


 神罰代行人の雄々しい姿に、信者達は先程までの恐ろしい光景を振り払って剣を握り始めた。


「我等がやらず!! 誰がやるというのかぁあ!! 今こそ奮い立て!! 神の名の元に執行するのだぁあ!!」


 彼の言う人類の危機が、先程目前にした存在を思い返せば、とても現実味のある話として全ての者に飲み下されていく。


「そうだ、ヘルヴィム神父の言う通りだ……」

「やらねば……たとえ恐ろしくとも、民の為に!」

「我等が下さねば……邪に神罰を!!」

「オオォォォ!!」


 高尚なる使命を胸に、彼等は奮い立ってヘルヴィムの背後へと集う。

 ヘルヴィムは冷酷なる瞳で、ラァムを抱いたダルフへと呼び掛ける。


「ダルフ!!」

「……分かってる、悲しむのは後だ。奴を討たねば、もっと多くの人間が、ロチアートが……奴を殺さねば、人類に未来は無い」


 ラァムを置いて立ち上がったダルフ。彼の元にはリオンとピーターの二人が走り寄って来た。


「行ってダルフ。後で追い掛ける」

「リオン……」

「この子、まだ息があるわ……可能性は低いけど、出来るだけの事をしてから行く……だから、ダルフくんは……!」


 だくだくと血を流していくラァムを見下ろして、ダルフは二人に頷いて見せる。


「どうか頼む……その子を救ってやってくれ」


 覚悟を決めたダルフが振り返ると、そこには顎を上げたフゥドが睨みを効かせていた。


「フゥド……!」

「チッ」


 因縁交わらせ、二人は一時肩を揃える。

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