第268話 クソAmen


「は――っ?」


 血の様に赤く染まった聖十字に亀裂が走る。間抜けな声を出したルルードはそれを凝視していた。


「は…………?」


 ――否それは亀裂では無く、変形していく聖十字に現れた

 十字の中心を車軸として回り始めたそれはまるで風車。血の車輪。紅の螺旋!

 分離した四枚のブレードが猛烈に回転していく。受けるインパクトの強さに比例して、回転数を上げていく!


「『威赫流呀イカルガ』――ッッ!!」


 噛み付く様にヘルヴィムが咆哮すると、今やチェーンソーの様に強く振動した十字架から、が溢れ出した。


「まて……ヘルヴィム、なんだ……なんだそれは」

「フガァァァァアアア――!!!」


 十字架そのものが生きているかの様に拍動すると、垂れ流されたヘルヴィムの血液が吸い上げられていった。


「――ナンダそれは!!?」


 聖者の血を糧に、神聖なる十字架から赤い液体が溢れ散る。それは過去、数多吸い上げて来た神罰代行人の血脈。回る車輪から血の奔流が噴出して大河となる!


「わぁぁああ――!!?」


 ルルードの小さな瞳が零れ落ちる位に見開かれた。そして彼が力無く見つめるは、無限の長針の弾丸が、まるで強度を持ったかの様な謎の液体に包み込まれていく光景。


「私の……針、が……復讐が……っ」

「――ルゥァァァァアアッッ!!!」


 その血は、慣性に従って流れる訳でも無く

 重力に落ちる訳でも無く

 液体に固形の様な強度を持って宙を揺蕩たゆたう。

 ――それは正に。神の奇跡の様な物質であった。


「負けるのか、この私が……神に……ニッ!!」


 代行人によって邪と断ぜられた物質はその血に触れて朽ち果てる。激しい車輪の回転に掻き回された血液から、錆びた鉄の残骸が落下して割れていく。


「おのれヘルヴィム……!!」


 『空間収納』によって白の空間へと逃げ込もうとしたルルード。

 ――だがその胸ぐらを、視界を占める赤の血流から這い出して来たヘルヴィムが強引に掴み取った。


「ぅあ……!」

「ジジィ…………」


 驚愕としたルルードは肩を小刻みに震わせながら、ひどく疲弊した様子のヘルヴィムを窺っていく。彼の手元にある十字の車輪が背後の血をかき混ぜると、それは獣の大口となってルルードに覆い被さった。


「馬鹿な……お前は私の、この毒の様な憎悪をも越えた先にいくと言うのか」


 頬がコケてげっそりとしたヘルヴィムが、貧血に陥った白い顔を上げる。

 だが次に放たれる咆哮は、そんな弱々しいもので無かった。



「――ッぬぅぅウゥゥがァうらァァァァああああああああああああッッッ!!!!」



 振り下ろされた槌と共に、紅い濁流に呑み込まれたルルードが白目を剥いて跳ね上がる。

 全身を包み込んだ血の大河は、鋭利な牙となって老獪ろうかいを切り刻んだ――


「――――ッッ」


 赤い液にずぶ濡れにされたルルードは地に叩き付けられ、そのまま壁に背を打ち付けた格好でへたり込む。


「――ジィェエエイイイイイイイッ!!」

「…………っ」


 ルルードが虚ろげな視界で見上げるは、血に濡れた聖十字架。それを忌々しく思いながら、彼は気に喰わない様に微かに呟き――

 ――瞳を閉じた。


「やっぱり気に入らねぇな……

 ――Fuck you だ。このクソAmen」


 目前にルミナの最期と、あの日タコ殴りにしてやった神罰代行人の姿が見える。


 そして神の雄叫びと共に、その大槌は振り下ろされた――




「……どういうつもりだこのグズが」


 震える瞼を起こしながら、ルルードは傍らに突き落ちた聖十字を見下ろす。そして何か吹っ切れた様な口調で罵倒し始めていた。


「今更善行に目覚めたなら笑えるぜ。貴様の殺した命は幾つだ? とっくにテメェの地獄行きは確定してんだろうが」

「……」

「復讐に取り憑かれた憐れな老人を思うなら、むしろ殺して欲しい所だがな」


 体中に突き刺さった鋭利な針を引き抜くと、ヘルヴィムの足元には血溜まりが形成されていった。

 怒髪天を突く様だった髪も収まり、今はただ冷ややかな視線がルルードを見下ろしていた。


「血迷っているんじゃねぇ……それとも今更人間でも気取るつもりか?」 

「……」

「血も涙もない神罰代行人がッ」

「……」

「何をやる気を無くしている……お前の様な冷血漢がどういうつもりだ!!」

「……」

「殺せ……殺せッ私を殺せッ! いつもの様に押し潰せばいい、これまでそうして来た様に、また神の名を借りてッ私の頭を捻り潰せ!」

「……」

「貴様がルミナにそうした様に――!!」


 苛烈に要求する男に声も返さずに、ヘルヴィムは巨大な聖十字をロザリオに戻して聖骸布も仕舞い込んでいった。


「貴様……!」


 怨毒渦巻く視線を浴びても、彼は静かな物腰で懐をまさぐり始める。


「おい……! 聞いているのか!」


 取り出したのは、穴だらけのマッチ箱と曲がった煙草。それを咥えて火を灯すと、渋い煙を目一杯に取り込む。


「――ふぅうああああぁ堪んねぇぜぇぇ……」

「……!!」


 呑気に鼻から煙を吐き出していく男に呆気にとられながら、ルルードは小鼻をピクつかせて歯噛みする。


「お前、何処まで私を愚弄すれば――」

「そんなんじゃねぇよぉ」


 傷に染みる煙を旨そうに吐き出しながら、神罰代行人はやがて無表情でルルードを見下した。


「だったらとっとと私を――」


 言いかけたルルードは、目前に佇んだ男が次に発した信じられない台詞に、思わず口をつぐむしか無くなっていった。


「もう俺は家族を失いたくねぇんだぁ」

「…………っ!」


 義兄でもある男を見下ろし、ヘルヴィムは口元に煙草を運んで短く吐き出した。

 そして返す言葉も見失ってしまった男に、彼はそっと告げていく。


「お互い歳を取っちまったみてぇだなぁ、ルルードぉ」

「は……とし?」


 気を失ってしまいたい位に驚嘆したルルードが、奇妙な事を口走る男を過激に非難し始める。


「ふざ……けるな、ふざけるなッ何が家族だ! 自惚れるなッ自分自身で、誰でも無い最愛の家族を手に掛けて置いてッお前はぁあ!!」


 激情するルルードに、ヘルヴィムはくるりと背を向けてこう言った。


「ルミナの事は愛している。今も誰よりも彼女を思っている」

「な……!!」

「本当だぁ……もいい」

「……!」


 何千年も以前より神だけを崇拝する神罰代行人の立てる誓いは、常人の使用する意味合いとは全く意味を違える。それを知っていたルルードであったが、未だその男の語る言葉が信じられずに眉を八の字にした。


「俺はルミナを、今でも愛している」

「…………!」


 まつ毛を伏せたルルードは、手元に握ったロケットペンダントを見つめる。

 そして呆れる様に短く嘆息すると、震える瞼を上げて代行人の広い背中を認めた。


「いい加減、あの日に何があったかを話せよヘルヴィム」

「……悪いがそれは墓場まで持って行く。お前が知れるのは、俺がルミナを殺したという、その事実だけだぁ」

「……チッ、可愛くねぇ義弟だ」

 

 背を向けたまま歩き去っていく男を、ルルードは白みかけた意識で呼び止める。


「おい代行人」

「……んん?」

「忘れ物だ――ッ!」


 ――投げ放たれた銀。虚を突かれた満身創痍のヘルヴィムは、そのにまるで反応が出来無かった。

 振り返ったヘルヴィムの左胸に、凄まじい勢いで投げ込まれた物。苦々しい顔をして胸を抑え込むと、そこにはルミナのロケットペンダントがあった。


「笑えるな、現役の騎士隊長様が心臓を撃ち抜かれたぞ」

「……」


 投げ渡された形見を仕舞い込んだヘルヴィムは、表情も無く、意識を朦朧とさせていく老騎士へと何か投げ渡した。


「……こいつは辞めたんだ」


 ルルードの膝元へ投げ込まれた、穴だらけのマッチ箱と一本の煙草。


「騎士を辞めた、二十三年前のあの日によ」


 背を向けてフラつきながら去っていく男は、ルルードに振り返らない。


「お前のせいで、他は穴だらけになっちまったぁ」


 最後にそう言って、神罰代行人は奥の扉へと消えて行った。


「歳を取った、か……」


 霞んだ景色の中で、ルルードは煙草を咥えてマッチを擦る。


「……はァァ」


 二十三年ぶりにくゆらせた紫煙は、驚く程に旨く、そしてすんなりと肺に溶け込んでいった。


「最後に吸ったのは何時だったかな……」


 至福の味覚に僅かに微笑み、香ばしい香りを鼻腔に吸い込みながら――ルルードの手が落ちる。


「あぁそうか……」


 そしてルルードは煙の記憶を呼び覚ます――


「テメェをブチのめした、あの日以来か……」


 胸のすく様な痛快な思い出を前に、微笑んだルルードの意識は途絶した。

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